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六話 小耳に挟むレベルでは納められない機微情報を勝手に漏らすわけにはいきません。

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「お疲れ様。聞き役、見事だったよ」  逸郎は、やってきた由香里にねぎらいの言葉をかけた。テーブルに手を付きがっくりと息を吐きだす由香里。心底疲労した様子だ。弥生強襲の翌日、ランチタイムも終わり人気も少なくなった学食の奥の島である。 「ホント疲れましたよ。スマホのバッテリーは途中で切れるし。結局寝たのは午前四時ですよ。思いつきで乙女に夜更かしさせて。これで肌アレとかになったらどう責任取ってもらえるんですか」  ホントにもう、と悪態をつきながら、由香里はビニール張りの椅子に傘を引っ掛け、どっかと座った。 「それにしても、原町田があれほど俺を持ち上げてくれるとは思わなかったよ」 「はぁ? あたしはちーっとも先輩のことなんか褒めてませんですけど」  以前想像してたより遥かにいい奴だな、こいつは。逸郎は由香里の頭を撫でてやりたい衝動にかられた。そんなことをしようものなら、パワハラ・セクハラ・モラハラの三拍子揃えて大学総務課に提訴されること間違いなしだから、実行に移したりはしないが。  昨晩、出陣する由香梨を見送ったあと、逸郎も日付が変わるまで河畔のベンチに座り、イヤホンでふたりの対話を聴きながら弥生の部屋の窓の灯りを見上げていた。  口開けの一時間は由香梨の独壇場だった。よくもこれほどまでにどうでもいい話題を持ち合わせていると感心するくらい、由香梨の弁舌は滑らかだった。弥生の方は、時折ツッコミを入れてみる他のほとんどの時間は笑い声だった。四月の部室でのやり取りそのままだ、と逸郎は思った。一か月余りの不在が嘘のような変わりなさ。  話の中で、由香里はときおり逸郎の名を混ぜてきた。モブのひとりとしてだったり例え話の見立てだったり。たぶんアクティブソナーなんだろうな。反射音を聞き取るための。反応が悪くなかったのだろうか。由香里は調子に乗った感じで逸郎をけなしはじめていた。気が利かない、面倒見がうざい、コーヒー飲むとき小指を立てる等々、本質とは程遠いものばかりをさも大層なことのように。誘いに乗せられた弥生が逸郎の援護に回る声が聴こえてくる。胸の裡でニンマリ笑いかけてくる由香里の自慢気な顔が浮かんだ。  空気が変わったのは十一時半を少し過ぎたころ。由香里が訪れてから二時間半。よく頑張った原町田、そう呟きつつ逸郎は静寂となったイヤホンに耳を凝らす。五分ほどの沈黙を乗り越え、懐かしい声が聴こえた。 「ゆかりん、ありがとう。……心配かけさせて、ごめんね。うまくは言えないけど、私ね、変わったよ。前よりもずっと正直になった。嫌なことをいやっていうのはまだ少し苦手なままだけど、やりたいことをやりたいってちゃんと言えるようになったの。何かを決めなきゃいけない場面になったとき、今までなら、誰かが決めてくれないかなって思ってた。お母さんとか先生とか先輩とかゆかりんとか。そんで自分は黙り込んでた。決める行き先が自分にとって悪いことでも良いことでも。そんなことをずうっと続けてたから、私の物差しはそのひとたちの判断で出来上がってたんだ。私自身が作ったんじゃなくてね。みんなちゃんとした良い人たちだったから、出来上がった物差しもお行儀よくて、だから普通に過ごしていくのにはなんの不都合もなかったんだよ」  弥生の声は一旦途切れた。由香里は何も言わずに接ぎ穂を待ってくれている。再び、弥生が語りはじめた。 「でもね、あの一か月と少しの間はそんな物差しは何の役にも立たなかった。全部。全部ね、自分で新しく自分の物差しをつくらなきゃいけないってわかったんだ。だから今までしたことないくらいじっくりと、自分の声を聴いたよ。そしたら……」  音声が途絶えた。動転した逸郎は、アプリをリロードしイヤホンを繋ぎ直し、果てはスマホの再起動まで行った。だが音声は復帰しない。それどころか原町田のアカウント自体が消えている。と、スマホの画面にふいに四角い表示が現れた。バッテリーの残量アラート。そうか、と逸郎も気が付いた。 「原町田スマホの電源が空っぽになったのか」  逸郎は夜空を仰いだ。星は見えない。川の流れる音が聞こえてきた。弥生の部屋の窓からは、さっきまでと同様に灯りを放っている。  自力で変わった。そう弥生は言っていた。何があって変わったのか、どのように変わったのか、それらを聞くことはできなかったけど…。 「いいんじゃないのかな」  逸郎は顔を上げ、声に出してみた。 「そういう大事なことは、こんな盗み聞きで知っちゃあいかんよ。うん。ちゃんと本人の口から聞けるように俺が頑張って……」  いや、そうじゃないな。逸郎は思い直す。  弥生が俺に知ってもらいたいって思って伝えてくることを、俺が自然に受け入れればいい。それだけの話だな。とにかく今日は、話したいと思った分だけを精一杯、原町田に話してやってくれ。あいつは本当におまえのことを大切に思ってるから。  首筋になにか落ちてきたのに気づき、逸郎はもう一度窓を見上げた。本降りになるかもしれない。そうして逸郎は河原を跡にして家路についた。  座り込んでしまったからもう一歩も動かない。そんな由香里を見かね、逸郎は給湯器にお茶を注ぎにいった。目の前に置かれた湯呑碗を、このくらいは当然という態度でひと口あおる由香里。向かいの席に戻った逸郎は、無事帰還した偵察兵に詳しい説明を求めなかった。今の逸郎が聞くべき話の取捨は由香里に任せればいい。そう思ったのだ。  由香里の目的はシンプルだ。急激な変化(成長?)の波をひとまず越えた弥生が、しばらくの間ゆっくりと安らげる時空間の確保。逸郎がそのミッション遂行の一助になる、適合する、と判定すれば、由香里の方から教えてくるだろう。昨夜の弥生が何を語ったのかを。 「あたしが思うに、先輩はもうしばらくまーやを放し飼いにしてる方がよろしいのではないかと」  さすがに疲れたのでそろそろ帰りますが、と前置きしたうえで由香里は話し始めた。 「先輩がどこまで聞いたのかは知りませんけど、充電後に届いたメールのタイムスタンプから類推するに、バッテリーが召されたのは二十三時四十分から二十三時四十七分の間。てことは、まーやの独白の触りに入ったか入らなかったかくらいでしょう。ちょうどいいところだと思いますね。計ったように、もしくは謀ったようにと言ってもいいかもしれません」  謀ったのか?わざとなのか?  いや、こいつならやりかねんな。 「小耳に挟むレベルでは納められない機微情報を勝手に漏らすわけにはいきませんが、ざっくりと言って、まーやには骨休めをする時間が必要と結論しました。先輩がおそらく悪人ではないことは、昨日から今に至る観察でほぼ確証できます。ですが、悪人でなければいいというものではありません。もっと言うとまーやにとって本来有益と言っても過言ではないひとたち、例えば家族とかからも距離を置くべきではないかと。なぁに、そう長い時間ではないとあたしは予想しています。ひと月かもう少しか。あ、ひと月後だと夏休みに入ってますね。ということは、秋から通常運航、が目安ではないでしょうか。昨夜の様子から考えるに、そのくらいの間はまーやも無茶をすることは無いかと」  逸郎は黙って頷いた。ファインも凄かったが、こいつも凄いな。この安心感はいったい何なんだろうな。 「あー、もう眠いから帰るんですけど、最後にあたしからの一言を伝えておきます」  身構える逸郎。緊張が走る。 「ごゆうるりと。そんな緊張する話じゃないですから」  掌をひらひらさせて話の軽さをアピールしてくる。が、こいつは油断ならんからなぁ。 「昨日マイナス12000ポイントから始まった先輩の評価ですが、この二十四時間で龍も裸足で逃げ出す急上昇をみせましてですね。現在は七十点となっております。百点満点で。いきなり及第点ですね」  由香里先生は講評を続ける。 「百回放校してもおつりがくるような超問題児がひと晩で進級できたのには、もちろんですが理由があります。最も評価したポイントは、想定外の柔軟性です。先輩は人の話を聞くとき、場合によっては相手のポリシーやイズムが自分のそれを侵食するという可能性を認めてますよね。先輩にとってはもしかしたら普通のことなのかもしれないけど、ある程度以上成長したオトナにとって、それはけっこう大変なことなんです。ATフィールドがありますから。破られたら、極端な話、自分の行動原理すら変わってしまうかもしれない。でも先輩は、それを恐れてないですよね」  そりゃ買い被りだ、俺だって無闇に自分が変わるのは恐いよ。そう言う逸郎に向かって由香里は、そんなことはありません、と大きくかぶりを振った。 「今だって、昨日あたしが言ったあたしのポリシーを、先輩なりのやり方で取り込んでるじゃないですか。たったひと晩で。しかも無理やりではなく、自然に」  息継ぎに合わせ、由香里はテーブルの上の湯吞を口にした。空っぽだった。顔をしかめて見せたが、それは一瞬のこと。 「先輩のそういうとこ、あたしはかなり気に入ったんです」  さて、とテーブルの荷物を背負い上げた由香里は、それじゃあまた部室で、と言い残してあっさり立ち去った。椅子の背に何か引っ掛かっている。逸郎は席を立ち、今しがたまで由香里が座っていた側に回り込んだ。白いビニール傘。そういや昨日こんなの持ってたっけ? 逸郎は掛かっていた傘の柄を手にし、振り返って背後の窓を見やった。激しく、ではないがしとしとくらいは降っている。  食堂の出入り口から由香梨がバタバタと駆けて戻ってきた。 「先輩酷いじゃないですか。わかってたんならちゃんと声掛けしてくださいよ。傘忘れてるぞとか雨じゃねとか。もぉ、ぷんすか」 「いや、俺もいま気づいたとこだから」  なんかこれ、言い訳じみててやだな。そんなことを感じながら傘を手渡す。 「これ、今朝まーやから貰ったばかりの傘なんですから。宝物なんですから」 「宝物を簡単に忘れるな」  いーっ、と顔を突き出す由香里。か、可愛いじゃねぇか。虚を突かれ立ち尽くす逸郎の側に由香里は一歩踏み込み、逸郎の目を見てこう言った。 「そうだ。先輩、あたしのことこれから『ゆかりん』って呼んでいいですよ」  微量の悪戯っぽさを含んだ柔らかめの笑顔を残し、ゆかりんは梅雨空のキャンパスへ駆け出していった。



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前のエピソード 五話 こちらエレベーター前です。先輩、聞こえてますか?

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「お疲れ様。聞き役、見事だったよ」  逸郎は、やってきた由香里にねぎらいの言葉をかけた。テーブルに手を付きがっくりと息を吐きだす由香里。心底疲労した様子だ。弥生強襲の翌日、ランチタイムも終わり人気も少なくなった学食の奥の島である。 「ホント疲れましたよ。スマホのバッテリーは途中で切れるし。結局寝たのは午前四時ですよ。思いつきで乙女に夜更かしさせて。これで肌アレとかになったらどう責任取ってもらえるんですか」  ホントにもう、と悪態をつきながら、由香里はビニール張りの椅子に傘を引っ掛け、どっかと座った。 「それにしても、原町田があれほど俺を持ち上げてくれるとは思わなかったよ」 「はぁ? あたしはちーっとも先輩のことなんか褒めてませんですけど」  以前想像してたより遥かにいい奴だな、こいつは。逸郎は由香里の頭を撫でてやりたい衝動にかられた。そんなことをしようものなら、パワハラ・セクハラ・モラハラの三拍子揃えて大学総務課に提訴されること間違いなしだから、実行に移したりはしないが。  昨晩、出陣する由香梨を見送ったあと、逸郎も日付が変わるまで河畔のベンチに座り、イヤホンでふたりの対話を聴きながら弥生の部屋の窓の灯りを見上げていた。  口開けの一時間は由香梨の独壇場だった。よくもこれほどまでにどうでもいい話題を持ち合わせていると感心するくらい、由香梨の弁舌は滑らかだった。弥生の方は、時折ツッコミを入れてみる他のほとんどの時間は笑い声だった。四月の部室でのやり取りそのままだ、と逸郎は思った。一か月余りの不在が嘘のような変わりなさ。  話の中で、由香里はときおり逸郎の名を混ぜてきた。モブのひとりとしてだったり例え話の見立てだったり。たぶんアクティブソナーなんだろうな。反射音を聞き取るための。反応が悪くなかったのだろうか。由香里は調子に乗った感じで逸郎をけなしはじめていた。気が利かない、面倒見がうざい、コーヒー飲むとき小指を立てる等々、本質とは程遠いものばかりをさも大層なことのように。誘いに乗せられた弥生が逸郎の援護に回る声が聴こえてくる。胸の裡でニンマリ笑いかけてくる由香里の自慢気な顔が浮かんだ。  空気が変わったのは十一時半を少し過ぎたころ。由香里が訪れてから二時間半。よく頑張った原町田、そう呟きつつ逸郎は静寂となったイヤホンに耳を凝らす。五分ほどの沈黙を乗り越え、懐かしい声が聴こえた。 「ゆかりん、ありがとう。……心配かけさせて、ごめんね。うまくは言えないけど、私ね、変わったよ。前よりもずっと正直になった。嫌なことをいやっていうのはまだ少し苦手なままだけど、やりたいことをやりたいってちゃんと言えるようになったの。何かを決めなきゃいけない場面になったとき、今までなら、誰かが決めてくれないかなって思ってた。お母さんとか先生とか先輩とかゆかりんとか。そんで自分は黙り込んでた。決める行き先が自分にとって悪いことでも良いことでも。そんなことをずうっと続けてたから、私の物差しはそのひとたちの判断で出来上がってたんだ。私自身が作ったんじゃなくてね。みんなちゃんとした良い人たちだったから、出来上がった物差しもお行儀よくて、だから普通に過ごしていくのにはなんの不都合もなかったんだよ」  弥生の声は一旦途切れた。由香里は何も言わずに接ぎ穂を待ってくれている。再び、弥生が語りはじめた。 「でもね、あの一か月と少しの間はそんな物差しは何の役にも立たなかった。全部。全部ね、自分で新しく自分の物差しをつくらなきゃいけないってわかったんだ。だから今までしたことないくらいじっくりと、自分の声を聴いたよ。そしたら……」  音声が途絶えた。動転した逸郎は、アプリをリロードしイヤホンを繋ぎ直し、果てはスマホの再起動まで行った。だが音声は復帰しない。それどころか原町田のアカウント自体が消えている。と、スマホの画面にふいに四角い表示が現れた。バッテリーの残量アラート。そうか、と逸郎も気が付いた。 「原町田スマホの電源が空っぽになったのか」  逸郎は夜空を仰いだ。星は見えない。川の流れる音が聞こえてきた。弥生の部屋の窓からは、さっきまでと同様に灯りを放っている。  自力で変わった。そう弥生は言っていた。何があって変わったのか、どのように変わったのか、それらを聞くことはできなかったけど…。 「いいんじゃないのかな」  逸郎は顔を上げ、声に出してみた。 「そういう大事なことは、こんな盗み聞きで知っちゃあいかんよ。うん。ちゃんと本人の口から聞けるように俺が頑張って……」  いや、そうじゃないな。逸郎は思い直す。  弥生が俺に知ってもらいたいって思って伝えてくることを、俺が自然に受け入れればいい。それだけの話だな。とにかく今日は、話したいと思った分だけを精一杯、原町田に話してやってくれ。あいつは本当におまえのことを大切に思ってるから。  首筋になにか落ちてきたのに気づき、逸郎はもう一度窓を見上げた。本降りになるかもしれない。そうして逸郎は河原を跡にして家路についた。  座り込んでしまったからもう一歩も動かない。そんな由香里を見かね、逸郎は給湯器にお茶を注ぎにいった。目の前に置かれた湯呑碗を、このくらいは当然という態度でひと口あおる由香里。向かいの席に戻った逸郎は、無事帰還した偵察兵に詳しい説明を求めなかった。今の逸郎が聞くべき話の取捨は由香里に任せればいい。そう思ったのだ。  由香里の目的はシンプルだ。急激な変化(成長?)の波をひとまず越えた弥生が、しばらくの間ゆっくりと安らげる時空間の確保。逸郎がそのミッション遂行の一助になる、適合する、と判定すれば、由香里の方から教えてくるだろう。昨夜の弥生が何を語ったのかを。 「あたしが思うに、先輩はもうしばらくまーやを放し飼いにしてる方がよろしいのではないかと」  さすがに疲れたのでそろそろ帰りますが、と前置きしたうえで由香里は話し始めた。 「先輩がどこまで聞いたのかは知りませんけど、充電後に届いたメールのタイムスタンプから類推するに、バッテリーが召されたのは二十三時四十分から二十三時四十七分の間。てことは、まーやの独白の触りに入ったか入らなかったかくらいでしょう。ちょうどいいところだと思いますね。計ったように、もしくは謀ったようにと言ってもいいかもしれません」  謀ったのか?わざとなのか?  いや、こいつならやりかねんな。 「小耳に挟むレベルでは納められない機微情報を勝手に漏らすわけにはいきませんが、ざっくりと言って、まーやには骨休めをする時間が必要と結論しました。先輩がおそらく悪人ではないことは、昨日から今に至る観察でほぼ確証できます。ですが、悪人でなければいいというものではありません。もっと言うとまーやにとって本来有益と言っても過言ではないひとたち、例えば家族とかからも距離を置くべきではないかと。なぁに、そう長い時間ではないとあたしは予想しています。ひと月かもう少しか。あ、ひと月後だと夏休みに入ってますね。ということは、秋から通常運航、が目安ではないでしょうか。昨夜の様子から考えるに、そのくらいの間はまーやも無茶をすることは無いかと」  逸郎は黙って頷いた。ファインも凄かったが、こいつも凄いな。この安心感はいったい何なんだろうな。 「あー、もう眠いから帰るんですけど、最後にあたしからの一言を伝えておきます」  身構える逸郎。緊張が走る。 「ごゆうるりと。そんな緊張する話じゃないですから」  掌をひらひらさせて話の軽さをアピールしてくる。が、こいつは油断ならんからなぁ。 「昨日マイナス12000ポイントから始まった先輩の評価ですが、この二十四時間で龍も裸足で逃げ出す急上昇をみせましてですね。現在は七十点となっております。百点満点で。いきなり及第点ですね」  由香里先生は講評を続ける。 「百回放校してもおつりがくるような超問題児がひと晩で進級できたのには、もちろんですが理由があります。最も評価したポイントは、想定外の柔軟性です。先輩は人の話を聞くとき、場合によっては相手のポリシーやイズムが自分のそれを侵食するという可能性を認めてますよね。先輩にとってはもしかしたら普通のことなのかもしれないけど、ある程度以上成長したオトナにとって、それはけっこう大変なことなんです。ATフィールドがありますから。破られたら、極端な話、自分の行動原理すら変わってしまうかもしれない。でも先輩は、それを恐れてないですよね」  そりゃ買い被りだ、俺だって無闇に自分が変わるのは恐いよ。そう言う逸郎に向かって由香里は、そんなことはありません、と大きくかぶりを振った。 「今だって、昨日あたしが言ったあたしのポリシーを、先輩なりのやり方で取り込んでるじゃないですか。たったひと晩で。しかも無理やりではなく、自然に」  息継ぎに合わせ、由香里はテーブルの上の湯吞を口にした。空っぽだった。顔をしかめて見せたが、それは一瞬のこと。 「先輩のそういうとこ、あたしはかなり気に入ったんです」  さて、とテーブルの荷物を背負い上げた由香里は、それじゃあまた部室で、と言い残してあっさり立ち去った。椅子の背に何か引っ掛かっている。逸郎は席を立ち、今しがたまで由香里が座っていた側に回り込んだ。白いビニール傘。そういや昨日こんなの持ってたっけ? 逸郎は掛かっていた傘の柄を手にし、振り返って背後の窓を見やった。激しく、ではないがしとしとくらいは降っている。  食堂の出入り口から由香梨がバタバタと駆けて戻ってきた。 「先輩酷いじゃないですか。わかってたんならちゃんと声掛けしてくださいよ。傘忘れてるぞとか雨じゃねとか。もぉ、ぷんすか」 「いや、俺もいま気づいたとこだから」  なんかこれ、言い訳じみててやだな。そんなことを感じながら傘を手渡す。 「これ、今朝まーやから貰ったばかりの傘なんですから。宝物なんですから」 「宝物を簡単に忘れるな」  いーっ、と顔を突き出す由香里。か、可愛いじゃねぇか。虚を突かれ立ち尽くす逸郎の側に由香里は一歩踏み込み、逸郎の目を見てこう言った。 「そうだ。先輩、あたしのことこれから『ゆかりん』って呼んでいいですよ」  微量の悪戯っぽさを含んだ柔らかめの笑顔を残し、ゆかりんは梅雨空のキャンパスへ駆け出していった。



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