「あー……」
薗部が目を覚ましたのは、早朝四時。いつもは五時に起きているのだが、早く寝過ぎたためか、一時間も早く起きてしまっていたのだ。
「うーん、もう少し寝たいけど、寝たら二度寝しそうだな…。仕方ない。少しトレーニングを追加しよう」
薗部は眠気で少し視界が霞みながらも、スウェットからトレーニングウェアに着替えた。
この習慣は中学時代から続いており、今でも辞めずに行っているおかげか、筋肉の減少はそれほど多くはなかった。
「さてと。忘れ物は……ないな」
準備が終った薗部は、建って間もない、真新しいアパートの自室の鍵を締めた。
誰もいない、街灯のみがポツンと照らされている普通の公園から、ブォンブォンと、素早いテンポバでットを振った音が聞こえる。
「九十八! 九十九! 百! ……終ったぁー!」
息を切らしながら、少し、水筒の中のスポーツドリンクを飲んだ。
「久しぶりに、逸樹君のバッティング見たな……」
最後に見たのは八年前のことだ。体格や年齢は変わっている。それでも、ずいぶんといいスイングをするようになっていた。
「逸樹君は、あの約束を守れたのか……」
薗部は約束を守れなかった自分に不甲斐なさを感じていた。途中までは上手くいっていた。ただ、最後は自分が折れてしまった。一体どこで間違えてしまったのだろうか。薗部は上を見ながら振り返っていた。
「おっと、ぼーっとしてたら時間がすぎちゃう。切り替え切り替え!」
再びトレーニングに戻った。
二回戦から翌日の金曜日の放課後。
三回戦の菊洋学園戦へ向け、部員達は円陣を作りながら、各々が感じた課題や菊洋の試合を見た感想を話し合っていた。
そんな中、薗部はある重要な一つのことを、伸哉に告げるべきかどうか悩んでいた。
それは伸哉を逸樹と勝負させるかどうかである。投手の気持ちを尊重するなら絶対に勝負させるべきだ。
しかしこれはトーナメント。負ければ即終了。目標は達成しているものの、秋以降を見据えればもっと上を目指していきたい。
投手のプライドか将来を見据えてか。
性格上、基本迷うことの少ない薗部だが、この時ばかりは迷っていた。それほどこの問題は大きなものだった。
「監督!」
突然の加曽谷の声に、思わずオーバーリアクションを取っていた。
「えっと、なんですか?」
「なんか凄く悩んでたので。力になれることがあれば、俺、相談に乗りますよ!」
薗部は考える。この事を話すべきかどうかを。少し間を置き、薗部は口を開いた。
「加曽谷君。もし、試合で勝てるためのアドバイスが、自分達の自信の根底を大きく覆す。あるいはぶち壊すようなものでも、加曽谷君は聞きたいと、思いますか?」
「多分、聞きますね」
即答だった。
「いや。チームが勝つためならたとえチームの根底にあるものでも覆そうと思います。それにそれが自分の上達に繋がるなら、聞くと思いますよ」
それを聞いた瞬間、薗部から一切の迷いが消えた。
「ありがとう。これでスッキリしたよ」
「役に立てたなら光栄です! それじゃボール処理してきます!」
加曽谷は大量の球の積まれたカゴを運び出した。
「さて、僕も話し合いに参加しましょうか」
薗部は円陣の方へと向かった。
その日の練習終了後。薗部は伸哉と彰久、益川にグラウンドに残るように伝えた。
他の部員が帰った後、まだ照明の点いているグラウンドに、早朝トレーニングで着ているトレーニングウェアに着替えた薗部が現れた。
「監督、一体何のつもりで……」
困惑する彰久を尻目に、薗部は屈伸をしながら準備を進める。
「今日は伸哉君。君に伝えたい事があってね。それを伝えるのには、僕と勝負する方が手っ取り早いかなと思って。それに、伸哉君も今週は投げ足りなさそうだったから。悪くはないでしょ?」
「ええ。では投球練習が終ったら、すぐに始めましょう」
伸哉は投球練習を始めた。十球ほど投げ伸哉の準備が整う。薗部は木製のマイバットを持ち右打席に入る。いよいよ伸哉の勝負が始まる。
「勝負は一打席。それ以上だと伸哉君の心を壊しそうだからね」
ギュッとボールを強く握りしめる。伸哉は少しカチンときたようだった。
やれるものならやってみろ。伸哉が振りかぶって投げた初球。アウトコース低目へのストレート。審判役に入った益川はストライクを宣告する。
「ふーん、ストレートはこんな感じね」
どうやら、タイミングを取るためにあえて見逃したようだ。二球目は、大きく曲がりながらインコースに入ってくるカーブ。際どかったが、益川はストライクのコールをしツーストライク。
薗部は後がなくなった。
「監督。もう、あと一球ですよ」
「わかってますよ。それに僕には見えますよ。あと一球で伸哉君が負けるってね」
その瞬間薗部の顔つきが変わった。ギラギラとした、隙あれば今すぐにでも斬りかかりそうな侍のようなオーラを纏っていた。
伸哉の額から冷や汗が噴き出す。これまでに味わったことのない感覚が、伸哉に襲いかかっているのだ。
並の投手ならば、薗部のような打者と対決する場合はビビって萎縮してしまうだろう。だが伸哉は違った。逆に恐怖を覚える感覚に高揚感を感じていた。
伸哉は三球目の球を決め、いつもより大きく振りかぶる。薗部はギュッとバットを握りしめる。
伸哉の投じた三球目。コースは外角。球速でみれば百三十三キロ程度のストレート。薗部は足を思い切り踏み込みスイングを始める。
タイミングは完全に合っている。だが、伸哉は勝利を確信した笑みを浮かべていた。
ボールが少しづつ変化を始める。スイングの軌道はストレートに合わせているようだ。これならば当たるわけがない。僕の勝ちだ。そう、伸哉は思っていた。だが、結果は違った。
カアァーーーーーン!
甲高い打撃音が四人以外誰もいないグラウンドに響く。
嘘だろと伸哉は後ろ振り向く。打球は、野球部のグラウンドを超え、隣にあるサッカーコートまで飛ぶ。推定百四十メートルの超特大ホームランだった。
「言ったでしょ。僕の勝ちだって。それにこの結果を見れば、断言出来る。今の君では、町田逸樹には勝てない。おそらく、今と同じように打たれるだろうね」
薗部は誇らしげに言った。伸哉は某然とサッカーコートを見ていた。
彰久は気が気ではなかった。目標の三回戦が二日後に迫っているなか、伸哉の自信を打ち砕くようなことをする意味がわからなかった。
「凄いですね、監督。まだいけますよね?」
そんな彰久の想いとは裏腹に、伸哉の気持ちはむしろ昂っていた。
「折角なら、もっと勝負しませんか。僕の気が収まるまで」
「ちょ、伸哉! やめておけ‼︎ 今日のお前はおかしいぞ! 監督も止めて下さいよ‼︎」
彰久は全力で止めようとした。今まで、一度も見たことない伸哉の表情を見たからだ。こうなってしまうと、伸哉は何を仕出かすかわからないからだ。
だが、薗部は止めようとしている彰久を無視した。
「いいでしょう。やってあげましょう」
薗部のオーラも並々ならぬものだった。気圧された彰久は黙ってマスクを被って、キャッチャーとしての仕事を果たすしかなかった。
三十分後。
また、サッカーコートにボールが飛ぶ。
「まだだ……。まだ、僕は勝っていな……」
伸哉はふらつきながら、ボールを取りに、おぼつかない足取りで三塁側においてあるカゴに向かう。
これ以上は危険だと判断した彰久が止めに行こうとしたが、薗部の方が早かった。倒れこみそうになる伸哉を抱きかかえた。
「ここまでだ。伸哉君の体に負担をかけて申し訳なかった」
薗部はそのまま、伸哉を三塁側ベンチに連れて行き、座らせた。それを見て、彰久と益川も三塁側ベンチへと向かった。
サッカーコートに転がったボールの処理をしている内に、伸哉が落ち着いた。それを見て、薗部は話始めた。
「僕が伸哉君に伝えたかったことは、わかったかい?」
伸哉は首を横に振った。
「敬遠しろ、でしょ? 監督といえど、お断りですね。自分の気持ちを押さえ込んでまでも、逃げるなんて、僕は出来ません」
伸哉はきっぱりと、答えた。
「残念です。もっと物分かりがいいと思ったのですが。まあいいでしょう。本人がそうするというなら構いません。ですが、そうする以上、勝てるのでしょうね。抑えられる見込みが無ければ嫌でも、従ってもらいますから。それでは、お疲れ様でした」
いつものような笑顔を振りまくことなく、薗部はグラウンドを去った。
「全く酷いよな。監督も。伸哉を信じればいいのに……。けど、言ってることも間違ってはないし……。一体どうすれば……」
「伸哉。勝てる算段はあんのか?」
落ち着かない彰久を余所目に、益川は冷静に伸哉を見ながら言った。
「あります」
静かに、伸哉は答えた。
「やっぱり、お前は根っからのエースらしいな。おい、彰久! うろたえるな! エースがやれる言ってるんだから、お前はドッシリと構えとけ!」
先輩らしく、彰久に喝をいれる。
「けど、そうは言っても今投げた球種じゃどうにも……」
彰久の言うことも間違ってはいない。武器である球種が打たれては、勝負しようが無いのだ。
「今投げた? なるほど。それ以外に投げれる球種はあるか?」
益川は伸哉の肩を揺さぶりながら言った。
「ええ。実戦では試してない球種がいくつかありますけど……」
伸哉は少し困惑しながら答えると、ニヤリ、と益川は笑った。
「彰久、明日一日投球練習でいくぞ! それ以外の球種を完成させるぞ!」
「それ以外ってどういう事ですか?」
イマイチ掴めていない彰久に対して益川は懇切丁寧に説明した。作戦は今投げている以外の球種を投げる事だ。
「なるほど。確かに球種を増やせば、打ち取れる率は上がりますね」
「問題は、俺が取れるかだ……」
「取れるかじゃなくて、取るに決まってるだろうが!」
益川は右手で、彰久の脳天にチョップを食らわせた。彰久はその場で|蹲《うずくま》る。かなり痛かったようだ。
「よし、じゃあ町田に勝つぞ!」
「はい!先輩!」
二人は硬い握手を交わした。