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気分転換の投球練習

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外に出ると少し日が傾いている。  玄関から庭の少し奥に進むと、光に照らされ橙色に染まる芝生の中に不相応に作られた小高いマウンドがある。そこからおおよそ十八メートルほど離れた所に防球ネットが設置されている。  伸哉は軽く二十球ほど投げて肩が温まってきたところで、ネットに向かって本格的な投げ込みを始めた。 「ふぅ、いい感じだな。」  伸哉は野球を辞めた後でも野球が、投げることが好きという気持ちには変わりなかった。そして、投げているとどんなことも忘れて楽しむことができた。  だから、イライラしたりモヤモヤしたりした時には、いつもこのマウンドの上で投げていた。  ちなみに、このマウンドとネットは元々伸哉の父親が使っていたものだった。  ネット自体は野球を始めた小学校二年生から、マウンドは、中学時代から使い始めた。  使い始めた当初はとにかく投げ込むためだけに使っていたが、今ではコースの確認や変化球の確認のために使っている。 「四日ぶりくらいだけど、リリースの感覚もしっかりしてる。維持、出来てる」  久しぶりのピッチングでもある程度の感覚は掴んでいた。だが、 「うーん。でも全然だな。コントロールもだけど、キレがない分球に迫力が感じられない。もっと練習しておかないとな」 伸哉は全く満足出来ていなかった。もっと、もっと良い球を投げる。投げないといけない。  そうやって、伸哉は常に自分にかけるものを大きくしてきた。それが伸哉自身を大きく成長させてきた正体だ。 「こっちの方も、もう少し力を入れよう」  そう心に決め、マウンドから降りようとした時だった。 「伸哉が投げる時見るのは久しぶりだな。何かイライラすることでもあったのか?」 「うわっ、お父さん!」  伸哉の背後に、父親である隆哉りゅうやが立っていた。 「別に何も。ただ、投げたくなったから投げてただけ」 「ふーんそうか。まあ投げ始めた時は珍しくカッカしていたが?」  どうやら、投げ始めていた時からずっといたようだ。  隆哉は二十五年前に無名校のエース投手として活躍し、甲子園優勝まであと一歩というところまで導いた、高校野球史に残る名投手だった。  武器は百八十を優に超える高身長から放たれるストレート。それからフォーク、チェンジアップなど縦に曲がる変化球を得意としていた。  その活躍とポテンシャルはプロのスカウトの目にも留まっていた。しかし、隆也はなんとそれを断り東京の超有名大学に進学したのだった。  大学野球でもストレートとフォーク、チェンジアップを武器に、リーグ記録を次々と打ち立てていった。  プロという選択肢も当然あったが、ここでもプロ入りを断り、大手鉄道会社に就職した。その後、十三年間社会人野球で第一線を張り続けた。  引退後は転職し、現在は大手総合商社の課長である。 「まあそれはいいか。しかし、ずいぶんといい球を投げていたぞ」 「それは無いって」 「まあ確かにな。球速だけなら成長してるけど、中学二年の冬の頃の球質と比べたらまだまださ。けど、野球部じゃないのにそこまで投げれたら大したもんだ」 「そ、そう?」  伸哉は素直に嬉しかった。父親に、と言うよりアマ野球界を代表するような名投手に褒めてもらえたという事が、たまらなく嬉しかったのだ。 「ところで伸哉。野球部に入らなくてよかったのか?」  しばらく間が開いたところで、隆哉が話を切り出した。 「……うん」  俯きながら小声でつぶやくように答えた。 「先生も凄く熱心に誘っていたじゃないか。あの先生なら大丈夫だと思うし、お金の心配とかを心配することはない」  隆哉は真剣に伸哉を説得しようとしているが、伸哉はただ黙り込むだけで何も言わない。しばらく二人の間に沈黙が続いたところで、根負けしたのか隆哉はため息を吐いた。 「始めてみないことには分からないんじゃないか? 勝負にしてもなんにしても。案ずるより産むが易し。考えるよりやってみたらいいと思うけどな。伸哉の考えてることも分かる。でも、やらずに後悔するよりは、悔いは残らないんじゃないのか?まあ、ゆっくり考えておきなさい」  隆也はそれ以上何も言わず、黙って家に戻っていった。 「戻りたいけど、さ」  彰久のいる野球部なら入りたいと、あの日から心の片隅ではずっと思っていた。  彰久のような人間がいる野球部ならば、再スタートを切ることも出来るし、こんな自分でもきっと入部を歓迎してくれるだろうと思えていた。 しかし、人間関係は複雑で、汚く、恐ろしいものだ。  伸哉は怖かった。どんなに親しい、裏切ることなんてないと思っていた親友でも、周りの環境や待遇によって豹変する。そして、濡れ衣着せ野球部から自分を追い出した。  伸哉はその親友をもう恨んだり憎んだりしていない。濡れ衣を着せられたことすらも、伸哉は許している。もし、今すぐにでも会えるのならば、その親友と話して仲直りをしてもう一度やり直したいと思っているくらいだ。  しかし、その友人との関係は事件後から今現在まで修復せぬまま、連絡すら取れない状況になっている。  伸哉はもう一度そうやって野球を辞めるのが、そして、大切な人との関係を失うのが嫌で、怖くてたまらなかった。 「もう決めたじゃないか。もうやらないって……」  伸哉は後片付けをして、家の中に入った。



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気分転換の投球練習

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外に出ると少し日が傾いている。  玄関から庭の少し奥に進むと、光に照らされ橙色に染まる芝生の中に不相応に作られた小高いマウンドがある。そこからおおよそ十八メートルほど離れた所に防球ネットが設置されている。  伸哉は軽く二十球ほど投げて肩が温まってきたところで、ネットに向かって本格的な投げ込みを始めた。 「ふぅ、いい感じだな。」  伸哉は野球を辞めた後でも野球が、投げることが好きという気持ちには変わりなかった。そして、投げているとどんなことも忘れて楽しむことができた。  だから、イライラしたりモヤモヤしたりした時には、いつもこのマウンドの上で投げていた。  ちなみに、このマウンドとネットは元々伸哉の父親が使っていたものだった。  ネット自体は野球を始めた小学校二年生から、マウンドは、中学時代から使い始めた。  使い始めた当初はとにかく投げ込むためだけに使っていたが、今ではコースの確認や変化球の確認のために使っている。 「四日ぶりくらいだけど、リリースの感覚もしっかりしてる。維持、出来てる」  久しぶりのピッチングでもある程度の感覚は掴んでいた。だが、 「うーん。でも全然だな。コントロールもだけど、キレがない分球に迫力が感じられない。もっと練習しておかないとな」 伸哉は全く満足出来ていなかった。もっと、もっと良い球を投げる。投げないといけない。  そうやって、伸哉は常に自分にかけるものを大きくしてきた。それが伸哉自身を大きく成長させてきた正体だ。 「こっちの方も、もう少し力を入れよう」  そう心に決め、マウンドから降りようとした時だった。 「伸哉が投げる時見るのは久しぶりだな。何かイライラすることでもあったのか?」 「うわっ、お父さん!」  伸哉の背後に、父親である隆哉りゅうやが立っていた。 「別に何も。ただ、投げたくなったから投げてただけ」 「ふーんそうか。まあ投げ始めた時は珍しくカッカしていたが?」  どうやら、投げ始めていた時からずっといたようだ。  隆哉は二十五年前に無名校のエース投手として活躍し、甲子園優勝まであと一歩というところまで導いた、高校野球史に残る名投手だった。  武器は百八十を優に超える高身長から放たれるストレート。それからフォーク、チェンジアップなど縦に曲がる変化球を得意としていた。  その活躍とポテンシャルはプロのスカウトの目にも留まっていた。しかし、隆也はなんとそれを断り東京の超有名大学に進学したのだった。  大学野球でもストレートとフォーク、チェンジアップを武器に、リーグ記録を次々と打ち立てていった。  プロという選択肢も当然あったが、ここでもプロ入りを断り、大手鉄道会社に就職した。その後、十三年間社会人野球で第一線を張り続けた。  引退後は転職し、現在は大手総合商社の課長である。 「まあそれはいいか。しかし、ずいぶんといい球を投げていたぞ」 「それは無いって」 「まあ確かにな。球速だけなら成長してるけど、中学二年の冬の頃の球質と比べたらまだまださ。けど、野球部じゃないのにそこまで投げれたら大したもんだ」 「そ、そう?」  伸哉は素直に嬉しかった。父親に、と言うよりアマ野球界を代表するような名投手に褒めてもらえたという事が、たまらなく嬉しかったのだ。 「ところで伸哉。野球部に入らなくてよかったのか?」  しばらく間が開いたところで、隆哉が話を切り出した。 「……うん」  俯きながら小声でつぶやくように答えた。 「先生も凄く熱心に誘っていたじゃないか。あの先生なら大丈夫だと思うし、お金の心配とかを心配することはない」  隆哉は真剣に伸哉を説得しようとしているが、伸哉はただ黙り込むだけで何も言わない。しばらく二人の間に沈黙が続いたところで、根負けしたのか隆哉はため息を吐いた。 「始めてみないことには分からないんじゃないか? 勝負にしてもなんにしても。案ずるより産むが易し。考えるよりやってみたらいいと思うけどな。伸哉の考えてることも分かる。でも、やらずに後悔するよりは、悔いは残らないんじゃないのか?まあ、ゆっくり考えておきなさい」  隆也はそれ以上何も言わず、黙って家に戻っていった。 「戻りたいけど、さ」  彰久のいる野球部なら入りたいと、あの日から心の片隅ではずっと思っていた。  彰久のような人間がいる野球部ならば、再スタートを切ることも出来るし、こんな自分でもきっと入部を歓迎してくれるだろうと思えていた。 しかし、人間関係は複雑で、汚く、恐ろしいものだ。  伸哉は怖かった。どんなに親しい、裏切ることなんてないと思っていた親友でも、周りの環境や待遇によって豹変する。そして、濡れ衣着せ野球部から自分を追い出した。  伸哉はその親友をもう恨んだり憎んだりしていない。濡れ衣を着せられたことすらも、伸哉は許している。もし、今すぐにでも会えるのならば、その親友と話して仲直りをしてもう一度やり直したいと思っているくらいだ。  しかし、その友人との関係は事件後から今現在まで修復せぬまま、連絡すら取れない状況になっている。  伸哉はもう一度そうやって野球を辞めるのが、そして、大切な人との関係を失うのが嫌で、怖くてたまらなかった。 「もう決めたじゃないか。もうやらないって……」  伸哉は後片付けをして、家の中に入った。



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