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瘢痕~空白を埋める時間

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 あの時に、私が彼に想いを伝えなければ…  今は違うものになっていたのだろうか。  私の隣で、静かに寝息を立てている彼の姿をちらりと見る。  あの人の想いを受け入れることは私には出来なかった。  好きだけれど、愛していなかったから。  大切な関係を持っていたけれど、大切な人ではなかったから。  だけれど、私が彼に想いを告げなければ、今も彼とあの人と一緒に、笑い合っていられたのだろうか…  あの人が「罪」を犯すことはなかったのだろうか。  私たちが苦しむこともなかったのだろうか…。  そんな仮定が無意味であることは、私にもわかっている。  だけれど、どうしてもそこに思考が戻ってしまう。  あの日…私たちが二度と共に歩めないと思い知らされたあの日。  私の心はずっとそこに囚われているのかもしれない。  あの人を大切に思っていた。  あの人と居ることは楽しかった。  彼とあの人がはしゃぐ姿が好きだった。  でも今は、あの人を憎んでいる私が居る。  あの人を嫌悪し、恨み、消し去りたいと思う私が居る。 「う…うう…ううう……。」  良かった思い出、最悪の記憶…その二つが私の胸を締め付ける。  私はいつの間にか泣いていた。心が痛くて涙が流れた。  優しい衣擦れの音がして、ベッドがかすかに振動する。  私が視線を横に向けると、彼が起きていた。不安そうな顔で私を見ている。 「泣いてるの…か?どうした。」  そっと手を伸ばし、優しく私を抱きしめてくれる。  片方の手で、私の髪を優しくなでてくれる。  今宵、初めて結ばれた彼の温かい心が嬉しい。 「怖かったか…やっぱり無理をさせてしまったのか…。」  恐る恐る…と言った感じで彼が私に問いかける。  私はゆっくりと頭を振った。ちがうと小さな声で付け足す。 「幸せすぎてね…泣けてきちゃった。ごめんね、心配させてしまって。」  彼の優しさが痛すぎて、私は嘘をついた。 「2年…かかった。貴方はずっと待っていてくれて、今日ようやく…貴方にすべてを捧げられたから…本当に、嬉しいの…愛しています…ずっと愛している…。」  これは本当。  私たちはあの人が起こしてしまった事件で、ずっと回り道をしていた。  彼は私に触れることを望みながらも、どこかで恐れていた。  私は彼に自分のすべてを捧げたいと願いつつ、男を恐ろしく感じ拒んでしまった。  私たちが、この夜にたどり着くまでに、幾つものトライアンドエラーがあった。  有る時は、彼が遠慮をしすぎて、私を抱くことが出来なかった。  別の時は、私がフラッシュバックを起こして、彼を突き飛ばしてひどい言葉を投げかけてしまった。  また別のときには、彼が私の中に入ろうとする寸前に、私が泣き出してしまった。  そんな出来事の連続の末、ようやく結ばれることが出来たからこそ、あの出来事がなければもっと早く…そして本当の純潔を、彼に捧げることが出来たのにとどうしても思ってしまうのだ。  彼は優しいから…心の純潔を捧げてくれることが嬉しいと言うけれど。  本当は身体の純潔も、彼に捧げたかった。私の全てを捧げたかった。  だからこそ、どうしてもあの日、あの時、彼に想いを伝えたこと、それが切掛で完全に壊れてしまった3人の関係に思いが囚われてしまう。 「なぁ…俺もさ、お前とは長い付き合いなんだ。何となくだけど、お前が今考えていることが分かる気がする。」  彼は優しく私に話しかける。そしてそっと唇に触れる。  ようやく去ったはずの余韻が、再び私の身体に熱を点す。  その熱にとかされて、ぼんやりとした目で彼を見る。 「あの日のこと、無かった事に出来るはずない。あの日お前が俺に気持ちを伝えてくれていなければ…俺は一生、お前とこうして触れ合えていないんだから。」 「……。」 「あの頃の俺は、あの関係を壊したくなくて、自分でも本当の気持を忘れるくらいに、心に蓋をしていたんだ。お前があの言葉をくれなかったら一生開くことがないくらいの蓋を。」 「………。」 「だからな、こんな事を言うと、酷いやつなのかもしれないけど‥。良かったんだよ。全部良かったことなんだ。辛くて、悲しくて、生まれて初めて人を憎んで、泣いて…それでも、良かったんだ。…こうしてお前と結ばれて、お前と過ごせて、お前と生きていける…この結果は、あの日の先にあるんだから。」  飾らない言葉だからこそ、胸に響いた。  再び私の目から涙が溢れた。  でもそれは、先程とは違う理由で流れた涙。  私は彼を選んでよかった。私は間違っていなかった。  私以上に苦しみ、なのに私の苦しみを分け合おうとしてくれた彼。  私以上につらい思いをして、私を見る度に傷つき、それでもそばに居てくれた。  そして、今。  私が絶対に考えることが出来なかった答えをあっさりと導き出してくれた彼。  私は彼を愛するために生まれてきたんだ…  だから彼を選んだあの日は間違いじゃない…  彼に想いを告げない未来なんて、必要ないんだ…  愛しています…この身も、心も、人生も。全て…受け止めてください…



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 あの時に、私が彼に想いを伝えなければ…  今は違うものになっていたのだろうか。  私の隣で、静かに寝息を立てている彼の姿をちらりと見る。  あの人の想いを受け入れることは私には出来なかった。  好きだけれど、愛していなかったから。  大切な関係を持っていたけれど、大切な人ではなかったから。  だけれど、私が彼に想いを告げなければ、今も彼とあの人と一緒に、笑い合っていられたのだろうか…  あの人が「罪」を犯すことはなかったのだろうか。  私たちが苦しむこともなかったのだろうか…。  そんな仮定が無意味であることは、私にもわかっている。  だけれど、どうしてもそこに思考が戻ってしまう。  あの日…私たちが二度と共に歩めないと思い知らされたあの日。  私の心はずっとそこに囚われているのかもしれない。  あの人を大切に思っていた。  あの人と居ることは楽しかった。  彼とあの人がはしゃぐ姿が好きだった。  でも今は、あの人を憎んでいる私が居る。  あの人を嫌悪し、恨み、消し去りたいと思う私が居る。 「う…うう…ううう……。」  良かった思い出、最悪の記憶…その二つが私の胸を締め付ける。  私はいつの間にか泣いていた。心が痛くて涙が流れた。  優しい衣擦れの音がして、ベッドがかすかに振動する。  私が視線を横に向けると、彼が起きていた。不安そうな顔で私を見ている。 「泣いてるの…か?どうした。」  そっと手を伸ばし、優しく私を抱きしめてくれる。  片方の手で、私の髪を優しくなでてくれる。  今宵、初めて結ばれた彼の温かい心が嬉しい。 「怖かったか…やっぱり無理をさせてしまったのか…。」  恐る恐る…と言った感じで彼が私に問いかける。  私はゆっくりと頭を振った。ちがうと小さな声で付け足す。 「幸せすぎてね…泣けてきちゃった。ごめんね、心配させてしまって。」  彼の優しさが痛すぎて、私は嘘をついた。 「2年…かかった。貴方はずっと待っていてくれて、今日ようやく…貴方にすべてを捧げられたから…本当に、嬉しいの…愛しています…ずっと愛している…。」  これは本当。  私たちはあの人が起こしてしまった事件で、ずっと回り道をしていた。  彼は私に触れることを望みながらも、どこかで恐れていた。  私は彼に自分のすべてを捧げたいと願いつつ、男を恐ろしく感じ拒んでしまった。  私たちが、この夜にたどり着くまでに、幾つものトライアンドエラーがあった。  有る時は、彼が遠慮をしすぎて、私を抱くことが出来なかった。  別の時は、私がフラッシュバックを起こして、彼を突き飛ばしてひどい言葉を投げかけてしまった。  また別のときには、彼が私の中に入ろうとする寸前に、私が泣き出してしまった。  そんな出来事の連続の末、ようやく結ばれることが出来たからこそ、あの出来事がなければもっと早く…そして本当の純潔を、彼に捧げることが出来たのにとどうしても思ってしまうのだ。  彼は優しいから…心の純潔を捧げてくれることが嬉しいと言うけれど。  本当は身体の純潔も、彼に捧げたかった。私の全てを捧げたかった。  だからこそ、どうしてもあの日、あの時、彼に想いを伝えたこと、それが切掛で完全に壊れてしまった3人の関係に思いが囚われてしまう。 「なぁ…俺もさ、お前とは長い付き合いなんだ。何となくだけど、お前が今考えていることが分かる気がする。」  彼は優しく私に話しかける。そしてそっと唇に触れる。  ようやく去ったはずの余韻が、再び私の身体に熱を点す。  その熱にとかされて、ぼんやりとした目で彼を見る。 「あの日のこと、無かった事に出来るはずない。あの日お前が俺に気持ちを伝えてくれていなければ…俺は一生、お前とこうして触れ合えていないんだから。」 「……。」 「あの頃の俺は、あの関係を壊したくなくて、自分でも本当の気持を忘れるくらいに、心に蓋をしていたんだ。お前があの言葉をくれなかったら一生開くことがないくらいの蓋を。」 「………。」 「だからな、こんな事を言うと、酷いやつなのかもしれないけど‥。良かったんだよ。全部良かったことなんだ。辛くて、悲しくて、生まれて初めて人を憎んで、泣いて…それでも、良かったんだ。…こうしてお前と結ばれて、お前と過ごせて、お前と生きていける…この結果は、あの日の先にあるんだから。」  飾らない言葉だからこそ、胸に響いた。  再び私の目から涙が溢れた。  でもそれは、先程とは違う理由で流れた涙。  私は彼を選んでよかった。私は間違っていなかった。  私以上に苦しみ、なのに私の苦しみを分け合おうとしてくれた彼。  私以上につらい思いをして、私を見る度に傷つき、それでもそばに居てくれた。  そして、今。  私が絶対に考えることが出来なかった答えをあっさりと導き出してくれた彼。  私は彼を愛するために生まれてきたんだ…  だから彼を選んだあの日は間違いじゃない…  彼に想いを告げない未来なんて、必要ないんだ…  愛しています…この身も、心も、人生も。全て…受け止めてください…



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