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悲しみの降り積もる夜

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「アキヒロォォォ!」  俺は自分がここまで人を憎むことが出来るとは思っていなかった。  俺は案外臆病な人間だった。  人を傷つけたくなくて八方美人的な振る舞いをしていたことも有る。  人から嫌われたくなくて、嫌なことも笑顔で受け流してもいた。  俺のことを優しいと評価する人間も居るが、優しいわけじゃない。  ただ臆病なだけだと俺は自分で思っている。  だけど、今だけは、今目の前にいるこの男だけは絶対に許すことは出来ない。  後でどの様な刑罰に処されようと。  どれだけの批難を受けることになろうと。  こいつだけは、生かしておくことは出来ない。 「また馬鹿の一つ覚えかよ。」  リズミカルにステップを切って、俺の拳を躱しながら明博があざ笑う。  ヒュッっと風を切るような音が聞こえ、俺の右頬に痛みが走る。 「おいおい、威勢のいいこと言っておきながらジャブだけで沈むなよ?」  人の神経を逆なでするような笑みを浮かべて明博が挑発してくる。 「そんな軽いパンチで、俺を沈められると思うなよ…。」  そんな挑発に乗せられるわけがない。もう俺は十分に挑発されているのだから。  殺してやりたいと思うくらいには…。  明博は、俺をなめきっている。自分のボクシングのテクニックにうぬぼれている。  先程から、わざと最小限の動きでしか躱していない。勝機はそこだと思う。  俺はわざと、大ぶりの右拳を明博に向かって振り下ろした。  やはり明博は身体を半身にしてその拳を避けようとした。  明博の身体が、俺の右側で左半身を前に立っている。  俺は振り下ろした右拳の勢いを利用して、体をひねる。捻りながらその力を左足へと伝えていく。左後ろ回し蹴り…いや上段から振り下ろす形になったので浴びせ蹴りか。  蹴りの概念のないボクシング。そして攻撃を回避した後の隙。  完全に意表を突かれた明博は、それでも辛うじて腕で顔をガードしていた。  だがこらえきれずに、後ろに倒れ込む。 「明博ぉぉぉぉ!」  倒れた明博が起き上がろうともがく、だが俺は素早く明博に馬乗りになると左手でやつの胸ぐらをつかんだ。 「お前は…お前は…お前は…。」  二度、三度と拳を振り下ろす。明博の顔が鼻血まみれになる。 「好きなら…本当に好きなら…朋美を何故傷つけた!好きなら…守れよ…。」  俺は泣きながら拳を振り下ろしていた。 「なんで、朋美を壊した…お前が望んだのは、愛したのは…あんな傷だらけの朋美なのか…お前の愛は、朋美を壊すことなのか…答えろよぉぉ!」  大きく振りかぶった拳を力いっぱい叩きつける。  殴った衝撃が強すぎて、明博の服の襟元が裂け、胸ぐらをつかんでいたはずの俺の手は自由になった。  俺の拘束から逃れた明博の上半身が、地面に叩きつけられた。  だが、俺はもう明博を殴る気にはなれなかった。  そんな事をしても、朋美がもとに戻るわけじゃないと知ったから。  そして、今、明博が自分の罪をようやく理解したことを知ったから。  明博の血まみれの顔面に、幾筋もの涙が流れていた。  ジャリッっという音が背後から聞こえた。  俺たち以外の誰かがそこにいると、その音は伝えてきた。  砂を踏みしめるその音は、断続的に続く。 「慶介くん‥そこにいるのかね…。」  朋実の父親の声だった。 「あ…ハイ…。」 「…私は間に合った…のかな。」 「え…それはどういう意味で…。」 「君が私に、朋美を託した…あの言葉は、不必要かと聞いたんだ。」 (万一の時は…朋美をお願いします)  俺がおじさんに告げた言葉を今思い出した。  俺は、明博を許せず、殺すつもりでいたんだと。  そしてそうなったら俺は朋美の傍にいられなくなるから、おじさんに後を頼んだのだと。そう思い出していた。 「朋美から全てを聞いた。君がいなくなった後、朋美は状況を理解したのだろう‥覚えている限るのすべてを話してくれた…。そして君を止めてくれと泣いた。だから私がここに来たんだよ…。」  明博の上に馬乗りになったままでいた俺の肩にそっと手を置くとおじさんは言った。 「君が‥その男のせいで、罪を犯す事だけは避けて欲しいとあの子は言っていた。」 「……はい…。」 「後のことは…私に任せてくれないか…。」  理性で感情を押し殺した声で、おじさんは言った。  本当なら、俺以上に明博に対しての怒りや憎しみが有るだろうに。  こんな立派な人に育てられたから、朋美はアレほどにいい人間になったのか。  ふとそう思った。嬉しかった。そしてそんな朋美の今に悲しくなった。 「家内も娘も、君のことを心配している…先に戻ってくれないか。私はこの件のけじめをつける…。」 「解り・・ました。お願いします…。」  明博の上から立ち上がり、おじさんを見ると、俺は静かにそう答えた。  おじさんの登場もあってか、明博はもう未動き1つしようとしなかった。  全ての断罪を、受け止めるつもりなのだろう。  俺は長年の友の、最後の良心を信じたかった。



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「アキヒロォォォ!」  俺は自分がここまで人を憎むことが出来るとは思っていなかった。  俺は案外臆病な人間だった。  人を傷つけたくなくて八方美人的な振る舞いをしていたことも有る。  人から嫌われたくなくて、嫌なことも笑顔で受け流してもいた。  俺のことを優しいと評価する人間も居るが、優しいわけじゃない。  ただ臆病なだけだと俺は自分で思っている。  だけど、今だけは、今目の前にいるこの男だけは絶対に許すことは出来ない。  後でどの様な刑罰に処されようと。  どれだけの批難を受けることになろうと。  こいつだけは、生かしておくことは出来ない。 「また馬鹿の一つ覚えかよ。」  リズミカルにステップを切って、俺の拳を躱しながら明博があざ笑う。  ヒュッっと風を切るような音が聞こえ、俺の右頬に痛みが走る。 「おいおい、威勢のいいこと言っておきながらジャブだけで沈むなよ?」  人の神経を逆なでするような笑みを浮かべて明博が挑発してくる。 「そんな軽いパンチで、俺を沈められると思うなよ…。」  そんな挑発に乗せられるわけがない。もう俺は十分に挑発されているのだから。  殺してやりたいと思うくらいには…。  明博は、俺をなめきっている。自分のボクシングのテクニックにうぬぼれている。  先程から、わざと最小限の動きでしか躱していない。勝機はそこだと思う。  俺はわざと、大ぶりの右拳を明博に向かって振り下ろした。  やはり明博は身体を半身にしてその拳を避けようとした。  明博の身体が、俺の右側で左半身を前に立っている。  俺は振り下ろした右拳の勢いを利用して、体をひねる。捻りながらその力を左足へと伝えていく。左後ろ回し蹴り…いや上段から振り下ろす形になったので浴びせ蹴りか。  蹴りの概念のないボクシング。そして攻撃を回避した後の隙。  完全に意表を突かれた明博は、それでも辛うじて腕で顔をガードしていた。  だがこらえきれずに、後ろに倒れ込む。 「明博ぉぉぉぉ!」  倒れた明博が起き上がろうともがく、だが俺は素早く明博に馬乗りになると左手でやつの胸ぐらをつかんだ。 「お前は…お前は…お前は…。」  二度、三度と拳を振り下ろす。明博の顔が鼻血まみれになる。 「好きなら…本当に好きなら…朋美を何故傷つけた!好きなら…守れよ…。」  俺は泣きながら拳を振り下ろしていた。 「なんで、朋美を壊した…お前が望んだのは、愛したのは…あんな傷だらけの朋美なのか…お前の愛は、朋美を壊すことなのか…答えろよぉぉ!」  大きく振りかぶった拳を力いっぱい叩きつける。  殴った衝撃が強すぎて、明博の服の襟元が裂け、胸ぐらをつかんでいたはずの俺の手は自由になった。  俺の拘束から逃れた明博の上半身が、地面に叩きつけられた。  だが、俺はもう明博を殴る気にはなれなかった。  そんな事をしても、朋美がもとに戻るわけじゃないと知ったから。  そして、今、明博が自分の罪をようやく理解したことを知ったから。  明博の血まみれの顔面に、幾筋もの涙が流れていた。  ジャリッっという音が背後から聞こえた。  俺たち以外の誰かがそこにいると、その音は伝えてきた。  砂を踏みしめるその音は、断続的に続く。 「慶介くん‥そこにいるのかね…。」  朋実の父親の声だった。 「あ…ハイ…。」 「…私は間に合った…のかな。」 「え…それはどういう意味で…。」 「君が私に、朋美を託した…あの言葉は、不必要かと聞いたんだ。」 (万一の時は…朋美をお願いします)  俺がおじさんに告げた言葉を今思い出した。  俺は、明博を許せず、殺すつもりでいたんだと。  そしてそうなったら俺は朋美の傍にいられなくなるから、おじさんに後を頼んだのだと。そう思い出していた。 「朋美から全てを聞いた。君がいなくなった後、朋美は状況を理解したのだろう‥覚えている限るのすべてを話してくれた…。そして君を止めてくれと泣いた。だから私がここに来たんだよ…。」  明博の上に馬乗りになったままでいた俺の肩にそっと手を置くとおじさんは言った。 「君が‥その男のせいで、罪を犯す事だけは避けて欲しいとあの子は言っていた。」 「……はい…。」 「後のことは…私に任せてくれないか…。」  理性で感情を押し殺した声で、おじさんは言った。  本当なら、俺以上に明博に対しての怒りや憎しみが有るだろうに。  こんな立派な人に育てられたから、朋美はアレほどにいい人間になったのか。  ふとそう思った。嬉しかった。そしてそんな朋美の今に悲しくなった。 「家内も娘も、君のことを心配している…先に戻ってくれないか。私はこの件のけじめをつける…。」 「解り・・ました。お願いします…。」  明博の上から立ち上がり、おじさんを見ると、俺は静かにそう答えた。  おじさんの登場もあってか、明博はもう未動き1つしようとしなかった。  全ての断罪を、受け止めるつもりなのだろう。  俺は長年の友の、最後の良心を信じたかった。



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