絶望の後先
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暗い…暗い…寒い…誰か…誰か居ないの…声が…出ない…助けて… ぬるりとした感触が首筋を襲った。 私は恐怖から、身をすくめる。嫌だと叫びたいのに声が出ない。 そのヌルッとした感触の何かは、執拗に私の首筋をなぞり、私の身体はその度に恐怖と不快感から震えてしまう。 突如そのぬるっとした感覚が唇をおそう。恐怖のあまり硬く閉じた唇を強引に押し開こうとする。 (やめて、やめて、やめて…) 恐怖と気持ち悪さで何度も叫ぶが、やはり声は出ない。 無理やり唇をこじ開けようとするそれを噛みちぎってやろうとした時、そのヌルヌルは、私の口の中に滑り込んだ。私の舌を、歯の裏を、歯茎を執拗に舐め回す。 気持ち悪い…吐きそう…やめて… パニックになった私は半狂乱で、手足を振り回そうとする。 その時パシンという乾いた音と、頬がジンジンする痛みを感じた。 「静かにしろ…ころすぞ。」 低い声が聞こえた。本気だ…と思った。それほどに低く暗い声音だった。 身体から力が抜けた。 ヌルヌルはもう離れていた。 次に私を襲ってきたのは、胸部への感触だった。 私の胸を執拗に触ってくる感触。 押し込み、引っ張り、握り…時折先端を指で触る おぞましさしか感じない。 私だって大学生だ、愛し合う男女の間でそういう行為があることは知っている。 だが話に聞いていたような、満たされたような幸せなような感覚など無い。 ただ恐怖と嫌悪感だけしか湧き上がってこない。 私があまりにも無反応なためか、飽きたのだろうか、いつの間にか胸部の感触も消えていた。 私がほっと安堵のため息をついた時、次の刺激は下腹部からきた。 一気に恐怖が最高潮に達する。いや、いや、いや、そこだけは絶対に嫌! 感情に歯止めが効かず、私は全身を使って抵抗を試みる。 次の瞬間、私の顔に猛烈な痛みと衝撃、ゴッという鈍い音が与えられた。 衝撃と痛みで頭がクラクラとし、抵抗が弱まった。 「もういい、時間もないからな…。」 何を言っているのだろうか…ぼんやりとした頭で考えた瞬間、私の身体のお腹の下…女のいちばん大切な部分に妙な感触を感じた。 (嫌だ、待って、待って、待って、待って…) 私の願いも虚しく、次の瞬間には私の身体を引き裂かんばかりの痛みがそこから伝わってきた。ブツッという肉が切れるような鈍い音が聞こえた気がした。 「イヤァァァァァァァアァ!!!!!!!」 自分の叫び声で目が覚めた。夢だったのかと安堵しかけ、覚醒した脳がそれは実際に起ったことだと、無慈悲に私に伝えてくる。 「と……とも…み…。」 半狂乱になりかけた私に、一番聞きたくて、そして一番聞きたくない声が届く。 なんで、彼がここに居るの…何故、これはまた夢の途中なの…。 覚醒しかけた脳が再び混乱する。 声のした方に視線を向ける。 ぎこちなく、心配そうな顔をしながら、無理やり微笑む、大好きな彼の顔があった。 今の私が、一番会いたくない人の顔がそこにあった。 「なん…で…。」 声がかすれる…叫んだからではない。感情が追いついてきていないからだ。 「とも…み…」 泣きそうな顔をして、彼が手を伸ばしてくる。私を抱きしめようと。 「さ、触らないで!!!!」 強い拒絶の声。喉が避けるかと思うほどの大きな声。自分が出したと思えない声。 その声に、すこしずつ近づいていた彼の手が止まり、ゆっくりと元の位置に戻っていく。私はそれを安堵と悲しい気持ちとで見ていた。 「俺は…何があってもお前のことが好きなんだ…だから、朋美が俺のことを心底嫌いになって、憎んで、開放して欲しいと…本心でそう思うまでは、そばにいたい。」 ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。 それ故に真剣さが伝わってきた。 すがりつきたいという衝動が身体をおそう。 一瞬、彼の胸に飛び込みたいと思ってしまった。 でもできなかった。 残酷な現実を思い出したから。私は純潔をあっさりと散らされて、彼に捧げることは出来ないという現実を。 汚れてしまった私を、彼に受け止めてもらうことは、私が許さなかった。 「私が…可愛そうだから…来てくれたの?」 そんなセリフを言うつもりはなかった。でも私の中の黒い感情が勝手に口からこぼれ落ちていく。 「こんな事したから、かわいそうに思った?」 わざと見せつけるように手首の包帯を彼の方に向ける。 彼の目に、深い悲しみの色が宿った。そんな彼を見るのが辛かった。 だが黒い私は言葉を止めることが出来なかった。 「あはは…こんなので心配して会いに来てくれるなら。もっと切ろうか?次は何処が良い?何処を着れば慶介は本気で哀しんでくれる?あはは…そうだ、この顔を切っちゃおうか?そうしたらさすがの慶介も私のこと嫌いになっちゃうかなぁ、あは。」 「やめろ!」 狂ったように笑う私を、慶介の強い言葉が止める。 「そんなんで嫌いになれるなら…こんなに苦しくない…。だから、やめろ…。」 「ふふ…あはは…あはははは…。じゃあじゃあ、慶介が私のこと嫌いになっちゃうこといっちゃおうっかぁ?あはは…これ聞いたら慶介は私のことどうでも良くなっちゃうよ…あははは。」 慶介が私のことを本気で心配してくれればくれるほど、暗い感情が止まらなくなる。 こんな私なんか捨ててくれと叫んでしまう。だから私は残酷な事実を告げる。 「私ねぇ…こんなだから…何処の誰かもわからない男に犯されちゃったんだぁ、あははは。好きな人に捧げようって大事にしてた初めて、あっさり奪われちゃったんだよぉ、あはは。ね、ね、こんな尻軽の女なんて嫌いになったでしょ?うんうん、仕方ないよねぇ…くすくすくす。」 私は泣いていた。自覚していなかったけれど、ありとあらゆる液体を流していた。 涙も、鼻水も…後で聞いたら恥ずかしさで死にそうになるくらい、ボロボロで泣いていた。 慶介の顔が、最初怒りを含み、次に深い悲しみに、そして何か決意する顔に変わっていくのをぼんやりと眺めていたことだけは覚えている。 「一度だけ…一度だけ…俺の人生で一度だけ…お前を殴るからな。」 真剣な顔で慶介が言った。 そっか、殴られても仕方ないよね。恋人がいるのに他の男に抱かれてしまうような、そんなだらしない、ふしだらな女、殴られても仕方ないよね…と諦めにも似た気持ちになり、私は黙って目を閉じた。 ペチ…と情けない音が頬から聞こえたのはしばらくしてからだった。 驚いて目を開けると、すぐ目の前に慶介の顔があった。 「良いか、二度とそんな事を言うな…お前が俺と付き合いながら、自分の意志で他の男とそういう事したなら…許せないかもしれないけど…そうじゃないなら、お前は…朋美は、何も悪くない。だから…頼むからそんな悲しいこと言わないでくれ…。」 慶介の目から涙が流れ落ちていた。 傷ついたのは私だけじゃないんだ…慶介も傷ついていたんだ…なのに私は酷いことを言ってしまったんだ…。 私は無意識に慶介に抱きつき、子供のように声を上げて泣いた。
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