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痛みを忘れさせてやる事は出来ても

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「七歳の時に、祖父の家で飼われていた犬が死んだの。名前はブラン。三角の耳をぴんと立てている、真っ白な犬だったわ。彼が死んでから、わたしは、二度泣いた。  一度目は、死によってブランの体が変化していくさまが恐ろしくて。柔らかい毛並みを撫でる時、いつも感じる事の出来た温もりが、あっという間に消えていく。耳の後ろを掻いてあげると、心底気持ちよさそうにうっとりした表情を浮かべてくれた顔が、脱力しきって、ぴくりとも動かない。その変わりようが、七歳の子どもの目にはあまりにも残酷に映った。  二度目は、同じ年、国語の授業で、とある外国の物語が題材になった時。主人公が赤ん坊の頃から、同じ家で兄弟同然に過ごしてきた気のやさしい大型犬が、少しずつ老いに蝕まれ、やがて、自分の足で立つ事も難しくなる。そして冬の朝、主人公とその家族に見守られて虹の橋を渡る……、そういうお話だった。  不思議と、教室で初めて読んだ時には何とも思わなかったの。軽度のフラッシュバックでも起こしていたのかもしれないわね。家に帰って夕食を食べて、音読の宿題が出ていたから、母の前で教科書を開いてそれを読もうとした時、急に涙があふれてきた。  もう二度と大好きなブランを抱きしめられない事。あの時ああしてあげればよかった、こうすればよかったと、後悔ばかりが浮かぶのに、それを詫びる事さえ出来ない事。  たとえ海の向こうに渡っても、その悲しみからは逃れられないと知って、わたしは泣きじゃくりながら『お母様もお父様も、お祖父じい様もいつか死んでしまうの?』と訊ねた。  両親はゆっくりと、優しい言葉で、だけど、決して急ごしらえの嘘などには頼らずに、生きものの定めを教えてくれたわ。その時に胸に宿った悲しみは、わたしの深くまで根を張ったけれど、両親がしっかりと向き合わせてくれたおかげで、嵐のように暴れ狂ってわたしを混乱させる事はもうなかった。まあ、それでもしばらくの間は、夜中に一人で目が覚めた時、両親がちゃんと息をしているか何度も確かめに行ったものだけれど」  頬にかかった髪を払うついでに、梓葉は脚を組みかえた。 「恐怖と折り合いがつくと、今度は、むかむかしてきた。わたしがこんなに怖がっているのに、どうしてお母様もお父様も落ち着いていられるの? いずれ会えなくなる日が来る事を、何とも思わないのかしら、って」  幼い少女を真似て、わざと舌足らずな口調で言った後、梓葉は、ふっと笑みをこぼした。 「そんな訳ないわよね。わたしに付き合って悲しんでいる場合ではなかったのでしょう。ひとつ間違えたら、娘の心に一生残る傷を負わせかねない、難しい質問に答えなければならなかったのだもの。  だけど、両親はきっと、どこかで安堵もしていたのだと思う。死という現象に直面して、生きものは皆、その定めから逃れられないと知り、それでも、避けようのない永別を受け入れられずに泣きわめく……。そんな、ごく当たり前の感性を持った子どもに、わたしが育ってくれた事に」  言葉を切った梓葉は、うつむくと、片手の指を顎に沿わせてゆっくりとひとめぐりさせた。 「史岐はたぶん、御両親と一度もそういう話をしていない」  それは、核となるものが抜け落ちてしまったかのような、およそ生気の感じられない声だった。 「生きものはいつか死んでしまうのかだなんて、訊かなくてもわかる。言葉が通じるようになったその日から、ほんのわずかな間しか現世に留まる事が出来なかった兄の思い出を、刷り込むように聞かされて育ったのだから。  自分もいつか親と死に別れるのかと、怖がる必要もない。そう思ってもらえるだけの愛情を、おじさまもおばさまも、史岐に注いでこなかった。  両親が自分を愛していないのではないかと、むくれる事もない。親に疑問を抱く事さえ出来ない幼さで、史岐はすでに、自分は死んだ兄を再現する装置として生かされているに過ぎないのだと気づいていたから」  梓葉はそこで、突然、顔をゆがめたかと思うと、ひゅっと異様な音を立てて息を吸った。  利玖が思わず肩に触れようとすると、梓葉はそれよりも早く、自らの両手で顔を覆ってしまった。  そのまま、しばらく、身の内でごうごうと荒れ狂う波が収まるのを待つように、ただ息を吸っては吐くのをくり返していた。 「梓葉さん……」  声をかけると、梓葉は黙って頷いた。  やがて、手を下ろすと、その頬を涙がひと筋つたい落ちた。 「そう、でも、史岐の感性は、年相応に柔らかかったから、夜中、ふいに恐怖にさいなまれる事もあったでしょう。そんな時は、彼が『五十六番』を継ぐ者として自由に聴く事を許された、ありとあらゆる音楽が彼の心を慰めた。  彼が『五十六番』に適合する素質を備えていた事は、あなたも含めて、様々な場所に波紋を広げてしまったけれど、音楽と接する機会を作ってくれた事だけは、掛け値なしの幸運だと思っているのよ」 「梓葉さんもですよ」 「え?」  梓葉はきょとんとした様子で瞬きをした。 「拒む手段など持ち得ない状況で、多くの事を諦めさせられて、苦しさをやり過ごして生きていくしかなかった二十年弱があっても、今の史岐さんが、一人暮らしをして、友人を作って、たまには夜が明けるまで遊んで……、打ち込める趣味があって……。そんな、ごくありふれた大学生でいられるのは、間違いなく梓葉さんがいたおかげです」  梓葉の目から、また、涙がこぼれた。  恋が何なのかもわからないうちに許嫁に選ばれて、親の事情など知る由もない幼少期も、多感な思春期も、その約束を守り続け、ついには同じ大学に入った。それは到底、幼馴染みのよしみだけで成し遂げられない事だ。  わかっていた。……自分にはわかるはずもない事だと思っていても、さすがにいつからかは、気づいてしまっていた。  それでも、利玖を不安がらせまいと、次から次へとあふれてくる涙を拭って笑おうとしている梓葉を前にすると、言いようのない苦さが胸に広がった。 「うん、おおっぴらに醜聞が立つような夜遊びをしないよう、ストッパ代わりにはなれたかも」梓葉は明るい声で言った。「でも、まあ、上手く隠しているだけで、裏ではきっと、他人ひと様にお話し出来ないような事も色々とやってきたんでしょ」  煙に巻くような口調で締めくくると、梓葉は、とろとろと氷が揺れているグラスを両手で包んだ。 「……わたしは、麻酔だった。あの家で生きるしか道のない間、痛みを忘れさせてやる事は出来ても、病そのものを癒やす事は出来ない。道が分かれてしまった今となっては、なおさらね」 「治療が痛みを伴うものであれば、麻酔は必要です」  梓葉はきっぱりと首を振った。  そして、その続きを口にする事は許さない、という強い諫止を込めた眼差しで利玖を睨んだ。  雪を運んできた風は、夜がもうじき終わろうとする頃、何かを叫ぶように一声高く吹きすさび、ぱたりと止んだ。  混濁した光が、音もなく潮のようにひたひたと満ちてくる。薄暗い庭は、岩も灯籠も、丸く刈られた常緑樹の形も、どこか一様に滲んで見えた。  雪の上で光が乱反射しているのか、窓硝子に水滴でもついているのか。あるいは、自分の視界がぼやけているのか。眠気のせい、いや、もっと別の理由の為かもしれない。  とりとめのない、いくつもの可能性が、泡のように浮きつ沈みつ意識の表層を流れていくのを、利玖は身じろぎもせずにぼんやりと感じていた。 「どうして、こんな事が起きるのかしらね」  空調を効かせ過ぎたのか、少しかすれた声で梓葉が呟いた。 「八つ当たりするほどの憎しみも、別離を悼んで涙するほどの情も抱けない、たった一人が、すべてを背負わなければならないなんて事が……」  利玖も梓葉も、続きを話そうとはしなかった。  自分達が、ここでほんの一晩話しただけで、答えを得られるような話だったなら、ひとりの若者が、生涯、自分と同じ姿をした虚無の手を引いて歩いていく覚悟などしなくて済んだのだ、と思いながら。



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「七歳の時に、祖父の家で飼われていた犬が死んだの。名前はブラン。三角の耳をぴんと立てている、真っ白な犬だったわ。彼が死んでから、わたしは、二度泣いた。  一度目は、死によってブランの体が変化していくさまが恐ろしくて。柔らかい毛並みを撫でる時、いつも感じる事の出来た温もりが、あっという間に消えていく。耳の後ろを掻いてあげると、心底気持ちよさそうにうっとりした表情を浮かべてくれた顔が、脱力しきって、ぴくりとも動かない。その変わりようが、七歳の子どもの目にはあまりにも残酷に映った。  二度目は、同じ年、国語の授業で、とある外国の物語が題材になった時。主人公が赤ん坊の頃から、同じ家で兄弟同然に過ごしてきた気のやさしい大型犬が、少しずつ老いに蝕まれ、やがて、自分の足で立つ事も難しくなる。そして冬の朝、主人公とその家族に見守られて虹の橋を渡る……、そういうお話だった。  不思議と、教室で初めて読んだ時には何とも思わなかったの。軽度のフラッシュバックでも起こしていたのかもしれないわね。家に帰って夕食を食べて、音読の宿題が出ていたから、母の前で教科書を開いてそれを読もうとした時、急に涙があふれてきた。  もう二度と大好きなブランを抱きしめられない事。あの時ああしてあげればよかった、こうすればよかったと、後悔ばかりが浮かぶのに、それを詫びる事さえ出来ない事。  たとえ海の向こうに渡っても、その悲しみからは逃れられないと知って、わたしは泣きじゃくりながら『お母様もお父様も、お祖父じい様もいつか死んでしまうの?』と訊ねた。  両親はゆっくりと、優しい言葉で、だけど、決して急ごしらえの嘘などには頼らずに、生きものの定めを教えてくれたわ。その時に胸に宿った悲しみは、わたしの深くまで根を張ったけれど、両親がしっかりと向き合わせてくれたおかげで、嵐のように暴れ狂ってわたしを混乱させる事はもうなかった。まあ、それでもしばらくの間は、夜中に一人で目が覚めた時、両親がちゃんと息をしているか何度も確かめに行ったものだけれど」  頬にかかった髪を払うついでに、梓葉は脚を組みかえた。 「恐怖と折り合いがつくと、今度は、むかむかしてきた。わたしがこんなに怖がっているのに、どうしてお母様もお父様も落ち着いていられるの? いずれ会えなくなる日が来る事を、何とも思わないのかしら、って」  幼い少女を真似て、わざと舌足らずな口調で言った後、梓葉は、ふっと笑みをこぼした。 「そんな訳ないわよね。わたしに付き合って悲しんでいる場合ではなかったのでしょう。ひとつ間違えたら、娘の心に一生残る傷を負わせかねない、難しい質問に答えなければならなかったのだもの。  だけど、両親はきっと、どこかで安堵もしていたのだと思う。死という現象に直面して、生きものは皆、その定めから逃れられないと知り、それでも、避けようのない永別を受け入れられずに泣きわめく……。そんな、ごく当たり前の感性を持った子どもに、わたしが育ってくれた事に」  言葉を切った梓葉は、うつむくと、片手の指を顎に沿わせてゆっくりとひとめぐりさせた。 「史岐はたぶん、御両親と一度もそういう話をしていない」  それは、核となるものが抜け落ちてしまったかのような、およそ生気の感じられない声だった。 「生きものはいつか死んでしまうのかだなんて、訊かなくてもわかる。言葉が通じるようになったその日から、ほんのわずかな間しか現世に留まる事が出来なかった兄の思い出を、刷り込むように聞かされて育ったのだから。  自分もいつか親と死に別れるのかと、怖がる必要もない。そう思ってもらえるだけの愛情を、おじさまもおばさまも、史岐に注いでこなかった。  両親が自分を愛していないのではないかと、むくれる事もない。親に疑問を抱く事さえ出来ない幼さで、史岐はすでに、自分は死んだ兄を再現する装置として生かされているに過ぎないのだと気づいていたから」  梓葉はそこで、突然、顔をゆがめたかと思うと、ひゅっと異様な音を立てて息を吸った。  利玖が思わず肩に触れようとすると、梓葉はそれよりも早く、自らの両手で顔を覆ってしまった。  そのまま、しばらく、身の内でごうごうと荒れ狂う波が収まるのを待つように、ただ息を吸っては吐くのをくり返していた。 「梓葉さん……」  声をかけると、梓葉は黙って頷いた。  やがて、手を下ろすと、その頬を涙がひと筋つたい落ちた。 「そう、でも、史岐の感性は、年相応に柔らかかったから、夜中、ふいに恐怖にさいなまれる事もあったでしょう。そんな時は、彼が『五十六番』を継ぐ者として自由に聴く事を許された、ありとあらゆる音楽が彼の心を慰めた。  彼が『五十六番』に適合する素質を備えていた事は、あなたも含めて、様々な場所に波紋を広げてしまったけれど、音楽と接する機会を作ってくれた事だけは、掛け値なしの幸運だと思っているのよ」 「梓葉さんもですよ」 「え?」  梓葉はきょとんとした様子で瞬きをした。 「拒む手段など持ち得ない状況で、多くの事を諦めさせられて、苦しさをやり過ごして生きていくしかなかった二十年弱があっても、今の史岐さんが、一人暮らしをして、友人を作って、たまには夜が明けるまで遊んで……、打ち込める趣味があって……。そんな、ごくありふれた大学生でいられるのは、間違いなく梓葉さんがいたおかげです」  梓葉の目から、また、涙がこぼれた。  恋が何なのかもわからないうちに許嫁に選ばれて、親の事情など知る由もない幼少期も、多感な思春期も、その約束を守り続け、ついには同じ大学に入った。それは到底、幼馴染みのよしみだけで成し遂げられない事だ。  わかっていた。……自分にはわかるはずもない事だと思っていても、さすがにいつからかは、気づいてしまっていた。  それでも、利玖を不安がらせまいと、次から次へとあふれてくる涙を拭って笑おうとしている梓葉を前にすると、言いようのない苦さが胸に広がった。 「うん、おおっぴらに醜聞が立つような夜遊びをしないよう、ストッパ代わりにはなれたかも」梓葉は明るい声で言った。「でも、まあ、上手く隠しているだけで、裏ではきっと、他人ひと様にお話し出来ないような事も色々とやってきたんでしょ」  煙に巻くような口調で締めくくると、梓葉は、とろとろと氷が揺れているグラスを両手で包んだ。 「……わたしは、麻酔だった。あの家で生きるしか道のない間、痛みを忘れさせてやる事は出来ても、病そのものを癒やす事は出来ない。道が分かれてしまった今となっては、なおさらね」 「治療が痛みを伴うものであれば、麻酔は必要です」  梓葉はきっぱりと首を振った。  そして、その続きを口にする事は許さない、という強い諫止を込めた眼差しで利玖を睨んだ。  雪を運んできた風は、夜がもうじき終わろうとする頃、何かを叫ぶように一声高く吹きすさび、ぱたりと止んだ。  混濁した光が、音もなく潮のようにひたひたと満ちてくる。薄暗い庭は、岩も灯籠も、丸く刈られた常緑樹の形も、どこか一様に滲んで見えた。  雪の上で光が乱反射しているのか、窓硝子に水滴でもついているのか。あるいは、自分の視界がぼやけているのか。眠気のせい、いや、もっと別の理由の為かもしれない。  とりとめのない、いくつもの可能性が、泡のように浮きつ沈みつ意識の表層を流れていくのを、利玖は身じろぎもせずにぼんやりと感じていた。 「どうして、こんな事が起きるのかしらね」  空調を効かせ過ぎたのか、少しかすれた声で梓葉が呟いた。 「八つ当たりするほどの憎しみも、別離を悼んで涙するほどの情も抱けない、たった一人が、すべてを背負わなければならないなんて事が……」  利玖も梓葉も、続きを話そうとはしなかった。  自分達が、ここでほんの一晩話しただけで、答えを得られるような話だったなら、ひとりの若者が、生涯、自分と同じ姿をした虚無の手を引いて歩いていく覚悟などしなくて済んだのだ、と思いながら。



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