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眠り薬をお持ちの史岐さん

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 坂城清史と廣岡充とは、翌朝八時に朝食会場に集まる約束をして食堂前で別れた。  それまでの間は、各自、自由時間として、屋上の大浴場で疲れを癒やすなり、自室に戻って取材結果をまとめるなり、好きに過ごして良いという事になっている。  しかし、それはあくまで温泉同好会としてのスケジュール、つまり清史と充だけに限った話だ。  利玖はこの後、二十三時五十分に早船鶴真と落ち合って、儀式の場に向かう事になっている。  持ち物の指定は特にない。一体どんな道を通って異界へ踏み込むのかと構えていたが、集合場所に指定されたのは意外にも本館のロビーだった。  虫達が見せる幻に惑わされないように、なるべく高い集中力を保つ事が出来る状態で向かうのが望ましい。そういう理由で、利玖は鶴真から、あらかじめ数時間の仮眠を取っておく事を勧められていた。  しかし、得体の知れない何かが這いずり回る音と雨漏りが絶えない臼内岳の実習小屋で、朝まで熟睡した利玖の胆力をもってしても、今回ばかりはのんきに眠っていられる状況ではない。  体が緊張して冷たくなっているのが良くないのかもしれないと思い、大浴場に行ってたっぷり湯に浸ってきたが、今度は逆に、心拍と体温が高くなりすぎて寝付けなくなってしまった。  いっこうに眠気の訪れない状態で布団の中でひたすらに身を丸めているというのは、なかなかに苦痛である。肌という肌が、声高に寝具の手ざわりを拒絶して喚き立てている気がする。  一時間ほど粘った所で、観念して起き上がった。  暗闇でそれだけ長い時間目をつむっていたのだから、多少は体力も回復しただろう。そう信じる事にする。  部屋を出て、売店まで歩いて行き、甘酒と最中もなかを買って帰ってくると二十二時半を少し過ぎた所だった。  返事が来るかどうか微妙な所だ、と思いながらスマートフォンを取り出して操作する。 〉起きていらっしゃいますか?  メッセージを送ると、電話がかかってきたので、利玖は危うく甘酒を飲み込むのを失敗しそうになった。 「はゃい」 『どうしたの? 風邪?』 「いえ、あの、甘酒でむせました」 『ああ……』納得したように史岐が息をもらす。『ごめんね、急に電話して。なんか、いつもと違う感じがしたから』 「はい。珍しい事に、眠れません」 『まだ時間が早くない?』 「寝ようと思えば眠れます」 『ふうん、眠らなきゃいけない事情があるんだ』  利玖は口をつぐむ。あまり余計な事は喋らない方が良さそうだ。  しかし、これが例えば喫茶店にいて、向かい合わせで座っているのなら、沈黙のやり過ごしようはいくらでも思いつくのだが、声で相手の様子を窺うしかない電話ではどうも勝手がわからない。 「史岐さんは眠れない時、どうしますか?」 『え、別に、無理に寝ようとしないけど。車でその辺の展望台まで行って、朝日が出てくるまでぼーっとしたり、なぐのシアターまでレイトショーを見に行ったり』 「いつか体を壊しますよ」 『あのね……』史岐が喉の奥で笑う。『今、これ、何の話してるの?』 「よく効く眠り薬をお持ちの史岐さんに、いくらか恵んでもらおうかと思いまして」  受話器の向こうで史岐が派手に咳き込んだ。おおかた、吸っていた煙草の煙が変な所に入ったのだろう。 「すみません。冗談です。そもそもわたし、今、潟杜にいませんので」 『あ、そうなの……』ため息に続いて、比較的距離の近い所で雑音が聞こえ、史岐の声が一段遠くなった。『ちょっと待ってね……、両手を使いたいからハンズフリーに切り替えたんだけど、どう? 聞こえる?』 「感度良好です」 『了解ラジャ。良かった』 「史岐さんも甘酒ですか?」 『ううん、蒸留酒。ちょっと血の気が引いたから』 「そんな刺激の強い物を飲まないで、早く休まれた方が良いですよ」 『はい、はい』  声の後ろでカコ、カコッと軽やかな音が響いている。ロックを作るグラスに氷を放り込んでいる史岐の姿が目に浮かんだ。 『実家に帰ってるの?』 「いえ。樺鉢温泉村にいます」 『樺鉢? っていうと、北部の方か……』  呟くと、史岐は明らかに不自然な間を取った。 「何ですか?」 『いや、大丈夫。こっちの話』 「そうですか」潟杜に帰ったら直接問いただしてやろう、と決心する利玖。「史岐さんは、年末年始はどこで過ごされるのですか?」 『いわむら』 「え?」  突然、生家のある村の名前が出てきたので利玖はびっくりした。 「ご親戚でもいらっしゃるのですか?」 『うーん、いや、親戚はたぶん、いないんだけど』 「ええ……、じゃあ、何をしに……」  岩河弥村には観光客を惹きつけられるようなレジャー・スポットはない。温泉が湧いているわけでもないし、大きなスキー場だってない。  根気強く探せば宿泊施設は何軒か見つかるかもしれないが、おそらく家族経営の民宿か、土地代の安さでっている企業の施設がほとんどだろう。  あとは、改装されたばかりの図書館がそこそこの人気を博しているが、何日もかけて見て回るほどの規模ではないし、そもそも母によれば年末年始は閉館している。  利玖が、考えに考えを重ねて、かろうじて史岐が興味を持ちそうな特徴のある場所を挙げていき、それに対して彼が『何、それ?』と興味を示した場合には、簡単な説明、そしてちょっとした思い出話をする。  そんなやり取りをしているうちに、夜は自然な早さでけていった。



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 坂城清史と廣岡充とは、翌朝八時に朝食会場に集まる約束をして食堂前で別れた。  それまでの間は、各自、自由時間として、屋上の大浴場で疲れを癒やすなり、自室に戻って取材結果をまとめるなり、好きに過ごして良いという事になっている。  しかし、それはあくまで温泉同好会としてのスケジュール、つまり清史と充だけに限った話だ。  利玖はこの後、二十三時五十分に早船鶴真と落ち合って、儀式の場に向かう事になっている。  持ち物の指定は特にない。一体どんな道を通って異界へ踏み込むのかと構えていたが、集合場所に指定されたのは意外にも本館のロビーだった。  虫達が見せる幻に惑わされないように、なるべく高い集中力を保つ事が出来る状態で向かうのが望ましい。そういう理由で、利玖は鶴真から、あらかじめ数時間の仮眠を取っておく事を勧められていた。  しかし、得体の知れない何かが這いずり回る音と雨漏りが絶えない臼内岳の実習小屋で、朝まで熟睡した利玖の胆力をもってしても、今回ばかりはのんきに眠っていられる状況ではない。  体が緊張して冷たくなっているのが良くないのかもしれないと思い、大浴場に行ってたっぷり湯に浸ってきたが、今度は逆に、心拍と体温が高くなりすぎて寝付けなくなってしまった。  いっこうに眠気の訪れない状態で布団の中でひたすらに身を丸めているというのは、なかなかに苦痛である。肌という肌が、声高に寝具の手ざわりを拒絶して喚き立てている気がする。  一時間ほど粘った所で、観念して起き上がった。  暗闇でそれだけ長い時間目をつむっていたのだから、多少は体力も回復しただろう。そう信じる事にする。  部屋を出て、売店まで歩いて行き、甘酒と最中もなかを買って帰ってくると二十二時半を少し過ぎた所だった。  返事が来るかどうか微妙な所だ、と思いながらスマートフォンを取り出して操作する。 〉起きていらっしゃいますか?  メッセージを送ると、電話がかかってきたので、利玖は危うく甘酒を飲み込むのを失敗しそうになった。 「はゃい」 『どうしたの? 風邪?』 「いえ、あの、甘酒でむせました」 『ああ……』納得したように史岐が息をもらす。『ごめんね、急に電話して。なんか、いつもと違う感じがしたから』 「はい。珍しい事に、眠れません」 『まだ時間が早くない?』 「寝ようと思えば眠れます」 『ふうん、眠らなきゃいけない事情があるんだ』  利玖は口をつぐむ。あまり余計な事は喋らない方が良さそうだ。  しかし、これが例えば喫茶店にいて、向かい合わせで座っているのなら、沈黙のやり過ごしようはいくらでも思いつくのだが、声で相手の様子を窺うしかない電話ではどうも勝手がわからない。 「史岐さんは眠れない時、どうしますか?」 『え、別に、無理に寝ようとしないけど。車でその辺の展望台まで行って、朝日が出てくるまでぼーっとしたり、なぐのシアターまでレイトショーを見に行ったり』 「いつか体を壊しますよ」 『あのね……』史岐が喉の奥で笑う。『今、これ、何の話してるの?』 「よく効く眠り薬をお持ちの史岐さんに、いくらか恵んでもらおうかと思いまして」  受話器の向こうで史岐が派手に咳き込んだ。おおかた、吸っていた煙草の煙が変な所に入ったのだろう。 「すみません。冗談です。そもそもわたし、今、潟杜にいませんので」 『あ、そうなの……』ため息に続いて、比較的距離の近い所で雑音が聞こえ、史岐の声が一段遠くなった。『ちょっと待ってね……、両手を使いたいからハンズフリーに切り替えたんだけど、どう? 聞こえる?』 「感度良好です」 『了解ラジャ。良かった』 「史岐さんも甘酒ですか?」 『ううん、蒸留酒。ちょっと血の気が引いたから』 「そんな刺激の強い物を飲まないで、早く休まれた方が良いですよ」 『はい、はい』  声の後ろでカコ、カコッと軽やかな音が響いている。ロックを作るグラスに氷を放り込んでいる史岐の姿が目に浮かんだ。 『実家に帰ってるの?』 「いえ。樺鉢温泉村にいます」 『樺鉢? っていうと、北部の方か……』  呟くと、史岐は明らかに不自然な間を取った。 「何ですか?」 『いや、大丈夫。こっちの話』 「そうですか」潟杜に帰ったら直接問いただしてやろう、と決心する利玖。「史岐さんは、年末年始はどこで過ごされるのですか?」 『いわむら』 「え?」  突然、生家のある村の名前が出てきたので利玖はびっくりした。 「ご親戚でもいらっしゃるのですか?」 『うーん、いや、親戚はたぶん、いないんだけど』 「ええ……、じゃあ、何をしに……」  岩河弥村には観光客を惹きつけられるようなレジャー・スポットはない。温泉が湧いているわけでもないし、大きなスキー場だってない。  根気強く探せば宿泊施設は何軒か見つかるかもしれないが、おそらく家族経営の民宿か、土地代の安さでっている企業の施設がほとんどだろう。  あとは、改装されたばかりの図書館がそこそこの人気を博しているが、何日もかけて見て回るほどの規模ではないし、そもそも母によれば年末年始は閉館している。  利玖が、考えに考えを重ねて、かろうじて史岐が興味を持ちそうな特徴のある場所を挙げていき、それに対して彼が『何、それ?』と興味を示した場合には、簡単な説明、そしてちょっとした思い出話をする。  そんなやり取りをしているうちに、夜は自然な早さでけていった。



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