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黒の学生服の少女

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 風とともに、世界に元の速さと音が戻った。  フルフェイス・ヘルメットの女が「うわっ」と叫んでうずくまるのが視界の端に映る。  利玖とて、それを呑気に眺めていられる状況ではない。桟の所に留まっていると、そのうち外へ振り落とされるのではないかと思うほどすさまじい風だった。  柱も梁も、悲鳴のような軋みを上げて震えている。  獲物の喉元に食らいついた獣が、肉を引きちぎろうとして一心不乱に首を振っているみたいだ。ちょっと尋常な揺れ方ではなかった。  まさか壊して入ってくる気じゃないだろうな、と思った矢先、寄りかかっている一枚隣の桟が音を立てて吹っ飛んだ。 「あら。貴女だったの」  邪気をはらうような山吹色のあわせをひるがえらせて、槻本つきもと美蕗みぶきが社の中にすべり込んできた。 「迷い込んだ挙句に救難信号を飛ばしてくる人間がいるようでは、ここも一度、守りの術式を見直した方が良さそうね」 「すみません……、気づいてくださって、ありがとうございます」 「ええ、ちょっとね、わたしを顎で使おうとする人間って一体どんな顔をしているのかしらって、興味が湧いたものだから」  美蕗は無造作に歩を進めて、フルフェイス・ヘルメットの女と距離を詰めた。  彼女は今、体を半分起こして片膝をついている。傷を負っていない左手を銃の方に伸ばしているが、そこで動きを止め、構えようとする素振りは見せなかった。 「どうしたの?」あと一歩で女の間合いに入る位置で、美蕗は足を止めた。「実が欲しいのでしょう。力ずくで奪ってごらんなさい」 「喧嘩を売って無事で済む相手かどうかぐらい、わかるよ」 「あら、そう。若いものね。命乞いをした経験もろくにないのでしょう」 「君、いくつ?」女が唐突に質問をした。 「は?」 「見た目どおりの歳じゃないよね。そんな年季の入った瘴気を抱え込んでいるんだもの。祟ったか、祟られたか、あるいはその両方か……。ま、何でもいいけどさ」女は首を横に倒した。「それならそれで、もっと頑丈な依り代を使えば楽だろうに。自分の苦痛を取る事よりも、その子を安寧に生かす事の方が大事?」  その時、ベア・トラップのが閉じたような衝撃がガチンッと空気を震わせた。  なまぐさい臭いがふうっと顔をさするのを感じて、利玖は身を硬くする。 「ヒトの、舌というものを」  美蕗が口を開いた。  体の脇に右手を斜めに伸ばしている。猟犬に「待て」の指示を出しているような姿勢だった。  しかし、そんな存在はどこにも見当たらない。少なくとも、利玖の目では、影すら捉えられなかった。 「好んで食うた事はないが、一度、試してみるのも悪うない。百日かけて血抜きを行い、千日塩漬けにすれば、かように下卑た物言いしか出来ぬ屑肉とて、空き腹をまぎらす足しにはなろう」 「コンビニでタン塩でも買った方が安上がりだよ」  立ち上がりざま、女が銃を掴むのと同時に、美蕗が後ろに手を振り抜いた。  腥い空気がぐうっとうねった瞬間、出口に向かって駆けていた女が、つっかい棒にぶち当たったように体を二つに折った。彼女の体はそのまま横にはじき飛ばされ、宙を舞い、あっけなく桟を飛び越えた。  風切り音が、ほんの一秒にも満たないほど。  悲鳴は上げなかったようだ。  梢に体を擦る音も、もっとおぞましい、出来ればその場面を想像したくない音も聞こえなかった。 「……大丈夫でしょうか?」  いくら無法者とはいえ、その程度の確認も行わないのは人道にもとる気がして、利玖は小声で訊ねたが、美蕗からの返事はなかった。  燃えるように煌めく深紅の瞳で、じっと女の落ちて行った方を透かし見ていた美蕗は、やがて踵を返すと、碁盤の前にうつ伏せになって倒れているオカバ様の元へ歩み寄った。



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 風とともに、世界に元の速さと音が戻った。  フルフェイス・ヘルメットの女が「うわっ」と叫んでうずくまるのが視界の端に映る。  利玖とて、それを呑気に眺めていられる状況ではない。桟の所に留まっていると、そのうち外へ振り落とされるのではないかと思うほどすさまじい風だった。  柱も梁も、悲鳴のような軋みを上げて震えている。  獲物の喉元に食らいついた獣が、肉を引きちぎろうとして一心不乱に首を振っているみたいだ。ちょっと尋常な揺れ方ではなかった。  まさか壊して入ってくる気じゃないだろうな、と思った矢先、寄りかかっている一枚隣の桟が音を立てて吹っ飛んだ。 「あら。貴女だったの」  邪気をはらうような山吹色のあわせをひるがえらせて、槻本つきもと美蕗みぶきが社の中にすべり込んできた。 「迷い込んだ挙句に救難信号を飛ばしてくる人間がいるようでは、ここも一度、守りの術式を見直した方が良さそうね」 「すみません……、気づいてくださって、ありがとうございます」 「ええ、ちょっとね、わたしを顎で使おうとする人間って一体どんな顔をしているのかしらって、興味が湧いたものだから」  美蕗は無造作に歩を進めて、フルフェイス・ヘルメットの女と距離を詰めた。  彼女は今、体を半分起こして片膝をついている。傷を負っていない左手を銃の方に伸ばしているが、そこで動きを止め、構えようとする素振りは見せなかった。 「どうしたの?」あと一歩で女の間合いに入る位置で、美蕗は足を止めた。「実が欲しいのでしょう。力ずくで奪ってごらんなさい」 「喧嘩を売って無事で済む相手かどうかぐらい、わかるよ」 「あら、そう。若いものね。命乞いをした経験もろくにないのでしょう」 「君、いくつ?」女が唐突に質問をした。 「は?」 「見た目どおりの歳じゃないよね。そんな年季の入った瘴気を抱え込んでいるんだもの。祟ったか、祟られたか、あるいはその両方か……。ま、何でもいいけどさ」女は首を横に倒した。「それならそれで、もっと頑丈な依り代を使えば楽だろうに。自分の苦痛を取る事よりも、その子を安寧に生かす事の方が大事?」  その時、ベア・トラップのが閉じたような衝撃がガチンッと空気を震わせた。  なまぐさい臭いがふうっと顔をさするのを感じて、利玖は身を硬くする。 「ヒトの、舌というものを」  美蕗が口を開いた。  体の脇に右手を斜めに伸ばしている。猟犬に「待て」の指示を出しているような姿勢だった。  しかし、そんな存在はどこにも見当たらない。少なくとも、利玖の目では、影すら捉えられなかった。 「好んで食うた事はないが、一度、試してみるのも悪うない。百日かけて血抜きを行い、千日塩漬けにすれば、かように下卑た物言いしか出来ぬ屑肉とて、空き腹をまぎらす足しにはなろう」 「コンビニでタン塩でも買った方が安上がりだよ」  立ち上がりざま、女が銃を掴むのと同時に、美蕗が後ろに手を振り抜いた。  腥い空気がぐうっとうねった瞬間、出口に向かって駆けていた女が、つっかい棒にぶち当たったように体を二つに折った。彼女の体はそのまま横にはじき飛ばされ、宙を舞い、あっけなく桟を飛び越えた。  風切り音が、ほんの一秒にも満たないほど。  悲鳴は上げなかったようだ。  梢に体を擦る音も、もっとおぞましい、出来ればその場面を想像したくない音も聞こえなかった。 「……大丈夫でしょうか?」  いくら無法者とはいえ、その程度の確認も行わないのは人道にもとる気がして、利玖は小声で訊ねたが、美蕗からの返事はなかった。  燃えるように煌めく深紅の瞳で、じっと女の落ちて行った方を透かし見ていた美蕗は、やがて踵を返すと、碁盤の前にうつ伏せになって倒れているオカバ様の元へ歩み寄った。



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