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樺鉢神社

10/34





〈湯元もちづき〉の向かいにはこんもりと緑の生い茂った小山がある。  麓には『樺鉢神社』の文字が刻まれた石碑。そこから朱塗りの鳥居をくぐって、まっすぐ上に石段が続いている。  温泉街の中では、通行人の目を楽しませる目的も兼ねてそこかしこに温泉が湧いていて、その熱気のおかげで日暮れ時の肌寒さも気にならなかったが、参道を覆う木立に入っていくと、枝葉が抱え込んだ冷気が降りかかってくるように寒かった。  一人ずつ拝殿の前でほんつぼすずを鳴らし、賽銭箱に硬貨を投げ入れて神社の主に挨拶をする。  清史に続いて参拝を終えると、利玖は本坪鈴をごろごろと鳴らしている充を横目に境内の隅に寄って、神社全体を見回した。  御神体が祀られている本殿は、拝殿とは別の場所に建てられている。拝殿の背後、斜面を五メートルほど上った先だ。  拝殿の裏側から登って行く事も不可能ではないが、獣道すら存在しない急勾配のやぶをかき分けていかなければならない為、拝殿の右後方から斜面を回り込んで、やや遠回りだが、その分なだらかな参道が作られている。  もっとよく本殿が見える位置を探そうと歩き出しかけた利玖は、ふと誰かが石段を上がってくる足音を耳にして、そちらを振り向いた。  暗色のフィルムをかけたような木陰の中を、若い男が一人、こちらに向かって登ってくる。  彼の目鼻立ちがはっきりとわかる距離にまで近づいた時、背後にいた能見正二郎が、あっと声を上げた。 「──ありゃ、お坊ちゃん! こんな所まで来なすって、どうしたんです?」  言ってから能見は、自分がうっかり鶴真を昔の呼び名で呼んでしまった事に気づいて、気まずそうに手で口を隠した。  早船鶴真は、大型の懐中電灯を二本携えて神社の石段を上ってきた。  右手に持っている懐中電灯だけが点いていて、彼のなめらかな足取りに合わせてすい、すいっとランダムに藪のあちこちを照らす。その懐中電灯を、息ひとつ乱さずに拝殿の前まで持ってきて能見正二郎に手渡しながら、鶴真は、 「皆さんがこちらに向かわれるのが、旅館の中から見えたものですから」 と話した。 「足元を照らす物があった方が良いと思ったんです。この辺りは、日暮れ時に差しかかるとあっという間に真っ暗になりますからね」 「ああ、こりゃどうも。気が回らんで……」 「どうして来たの?」  突然、梓葉の声が割って入った。  鶴真が現れたのがまったくの予想外であったかのような──あるいは、そんな真似はしないと固く約束していたのを裏切られたかのような、きつい非難のまじった口調に、利玖は驚く。  しかし、鶴真は意に介する風もなく、真正面から梓葉を見すえた。 「冬至という節目に、ほんの少しだけ仕事を抜け出してオカバ様にご挨拶を申し上げても、ばちは当たらないでしょう」 「ちょっと、鶴真……」  梓葉はなおも言いつのろうとしたが、鶴真が氷のような表情になって片手を上げてそれを遮ると、すっと息を吸って口をつぐんだ。  鶴真は手元に残していたもう一本の懐中電灯を点ける。  その光で地面を照らしながら、集まっている面々の顔を見回して微笑んだ。 「よろしければ、本殿を見に行ってみませんか? ちょうど梢が切れて温泉街を一望出来ます。この時間帯なら、夕暮れに夜景がまじって、カメラで撮っても良いになると思いますよ」



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〈湯元もちづき〉の向かいにはこんもりと緑の生い茂った小山がある。  麓には『樺鉢神社』の文字が刻まれた石碑。そこから朱塗りの鳥居をくぐって、まっすぐ上に石段が続いている。  温泉街の中では、通行人の目を楽しませる目的も兼ねてそこかしこに温泉が湧いていて、その熱気のおかげで日暮れ時の肌寒さも気にならなかったが、参道を覆う木立に入っていくと、枝葉が抱え込んだ冷気が降りかかってくるように寒かった。  一人ずつ拝殿の前でほんつぼすずを鳴らし、賽銭箱に硬貨を投げ入れて神社の主に挨拶をする。  清史に続いて参拝を終えると、利玖は本坪鈴をごろごろと鳴らしている充を横目に境内の隅に寄って、神社全体を見回した。  御神体が祀られている本殿は、拝殿とは別の場所に建てられている。拝殿の背後、斜面を五メートルほど上った先だ。  拝殿の裏側から登って行く事も不可能ではないが、獣道すら存在しない急勾配のやぶをかき分けていかなければならない為、拝殿の右後方から斜面を回り込んで、やや遠回りだが、その分なだらかな参道が作られている。  もっとよく本殿が見える位置を探そうと歩き出しかけた利玖は、ふと誰かが石段を上がってくる足音を耳にして、そちらを振り向いた。  暗色のフィルムをかけたような木陰の中を、若い男が一人、こちらに向かって登ってくる。  彼の目鼻立ちがはっきりとわかる距離にまで近づいた時、背後にいた能見正二郎が、あっと声を上げた。 「──ありゃ、お坊ちゃん! こんな所まで来なすって、どうしたんです?」  言ってから能見は、自分がうっかり鶴真を昔の呼び名で呼んでしまった事に気づいて、気まずそうに手で口を隠した。  早船鶴真は、大型の懐中電灯を二本携えて神社の石段を上ってきた。  右手に持っている懐中電灯だけが点いていて、彼のなめらかな足取りに合わせてすい、すいっとランダムに藪のあちこちを照らす。その懐中電灯を、息ひとつ乱さずに拝殿の前まで持ってきて能見正二郎に手渡しながら、鶴真は、 「皆さんがこちらに向かわれるのが、旅館の中から見えたものですから」 と話した。 「足元を照らす物があった方が良いと思ったんです。この辺りは、日暮れ時に差しかかるとあっという間に真っ暗になりますからね」 「ああ、こりゃどうも。気が回らんで……」 「どうして来たの?」  突然、梓葉の声が割って入った。  鶴真が現れたのがまったくの予想外であったかのような──あるいは、そんな真似はしないと固く約束していたのを裏切られたかのような、きつい非難のまじった口調に、利玖は驚く。  しかし、鶴真は意に介する風もなく、真正面から梓葉を見すえた。 「冬至という節目に、ほんの少しだけ仕事を抜け出してオカバ様にご挨拶を申し上げても、ばちは当たらないでしょう」 「ちょっと、鶴真……」  梓葉はなおも言いつのろうとしたが、鶴真が氷のような表情になって片手を上げてそれを遮ると、すっと息を吸って口をつぐんだ。  鶴真は手元に残していたもう一本の懐中電灯を点ける。  その光で地面を照らしながら、集まっている面々の顔を見回して微笑んだ。 「よろしければ、本殿を見に行ってみませんか? ちょうど梢が切れて温泉街を一望出来ます。この時間帯なら、夕暮れに夜景がまじって、カメラで撮っても良いになると思いますよ」



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