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オカバ様

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〈湯元もちづき〉は元々、裏庭に露天風呂が一つあるだけの素朴な民宿だった。宿舎は二階建てで、客室の数もごく限られたものだったが、村全体の発展に尽力する経営思想と心のこもった接客が実を結び、平成初期には新たに建設した本館にほぼ全ての機能の移植する大規模なリニューアルが行われた。  それに伴い、温泉はパイプを引いて本館屋上の大浴場に汲み上げられ、裏庭の露天風呂は埋められたが、かつての宿舎は幾度かの改築を経て現在でも旧館の一つとして使われている。 「そちらもお見せしたかったんですがねえ」  植え込みを透かして遠くにくだんの元宿舎を見ながら、能見は頭をかいた。 「ありがたい事に、ずいぶん前からご予約で埋まっておりまして……。今日もお客様がいらっしゃいますから、あまり大勢で押しかけるのはやめておきましょうか」  利玖達は頷いた。  人目を遮ってくれる庭木の囲いの中で、一戸建てを貸し切ってゆるやかに時の流れを感じられる旧館は、宿泊料金こそ驚異的であれ、特定の層には根強い需要があるのだろう。  本館に戻った一行は、能見から説明を受けながら実際にいくつかの施設を見て回り、最後に売店に立ち寄った。  焼き印をつけた饅頭のパッケージ、手拭い、地酒のラベルなど〈湯元もちづき〉のオリジナル・グッズには、昔話に出てくるようなふくふくとした体型の翁が柚子の実を抱えたイラストが描かれている。  利玖が、しげしげと地酒を眺めていると、能見が気づいて声をかけてきた。 「そちらは『オカバ様』ですな」 「オカバ様?」利玖は訊き返す。 「ええ。元はただの農村だった樺鉢の地に、滋養豊かなお湯をもたらしてくださったのがオカバ様だと伝わっております」  能見は、イラストの翁が抱えた柚子の実を指さした。 「先ほどお話ししました、命を養う果実を分け与えてくださる神様というのもオカバ様の事です。  我々の間では、冬至の日に柚子湯に入る事で邪気を払い、風邪を引かずに次の一年を過ごす事が出来るという考えがありますね。その風習を知ったオカバ様がいたく興味を抱かれて、冬至の夜になると、神々のおわす世界の木々に実った果実をもいで樺鉢の地を訪れ、村人達に分け与えた。その実を浮かべた湯に浸かると、この世のものとは思えぬかぐわしい香りに包まれ、老いも若きも、病んだ者でさえも、たちまちのうちに活力を取り戻した……、という逸話がございます」  いつの間にか清史と充も近くにやって来て、熱心に能見の話を聞いている。  それに気づいた能見は、彼らを振り返って微笑んだ。 「せっかくですから、オカバ様を祀った神社もご覧になって行かれますか? この旅館のすぐ向かいにございますよ」  能見がそう発言した途端、少し離れた所でポストカードの什器を回していた梓葉が、驚いたようにこちらを振り向いた。 「神社って……、能見さん、そちらを案内するのは明日のはずじゃ……」 「ええ、まあ、そうなんですけれども、今夜の予報が雪に変わりましたでしょう。明日になって石段に積もっておりましたら、雪かきが終わるまで皆さんに待っていただかなくちゃなりませんから」 「それは、そうだけど」  梓葉は口元に指を当てる。  そのままわずかに目をすがめて、何か思案するように黙ってしまった。 「差し支えなければ、僕は是非行ってみたいですね。今夜、部屋で過ごす時の印象も変わりそうだ」  梓葉が続きを話すのを待っていた能見も、坂城清史がそう答え、続いて利玖と充も頷くと、「じゃあ、参りましょうか」と一行を外に導いた。  梓葉も、無言のまま最後尾についてきたが、その顔には雨を抱いた雲のように不透明な暗さが残っていた。



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〈湯元もちづき〉は元々、裏庭に露天風呂が一つあるだけの素朴な民宿だった。宿舎は二階建てで、客室の数もごく限られたものだったが、村全体の発展に尽力する経営思想と心のこもった接客が実を結び、平成初期には新たに建設した本館にほぼ全ての機能の移植する大規模なリニューアルが行われた。  それに伴い、温泉はパイプを引いて本館屋上の大浴場に汲み上げられ、裏庭の露天風呂は埋められたが、かつての宿舎は幾度かの改築を経て現在でも旧館の一つとして使われている。 「そちらもお見せしたかったんですがねえ」  植え込みを透かして遠くにくだんの元宿舎を見ながら、能見は頭をかいた。 「ありがたい事に、ずいぶん前からご予約で埋まっておりまして……。今日もお客様がいらっしゃいますから、あまり大勢で押しかけるのはやめておきましょうか」  利玖達は頷いた。  人目を遮ってくれる庭木の囲いの中で、一戸建てを貸し切ってゆるやかに時の流れを感じられる旧館は、宿泊料金こそ驚異的であれ、特定の層には根強い需要があるのだろう。  本館に戻った一行は、能見から説明を受けながら実際にいくつかの施設を見て回り、最後に売店に立ち寄った。  焼き印をつけた饅頭のパッケージ、手拭い、地酒のラベルなど〈湯元もちづき〉のオリジナル・グッズには、昔話に出てくるようなふくふくとした体型の翁が柚子の実を抱えたイラストが描かれている。  利玖が、しげしげと地酒を眺めていると、能見が気づいて声をかけてきた。 「そちらは『オカバ様』ですな」 「オカバ様?」利玖は訊き返す。 「ええ。元はただの農村だった樺鉢の地に、滋養豊かなお湯をもたらしてくださったのがオカバ様だと伝わっております」  能見は、イラストの翁が抱えた柚子の実を指さした。 「先ほどお話ししました、命を養う果実を分け与えてくださる神様というのもオカバ様の事です。  我々の間では、冬至の日に柚子湯に入る事で邪気を払い、風邪を引かずに次の一年を過ごす事が出来るという考えがありますね。その風習を知ったオカバ様がいたく興味を抱かれて、冬至の夜になると、神々のおわす世界の木々に実った果実をもいで樺鉢の地を訪れ、村人達に分け与えた。その実を浮かべた湯に浸かると、この世のものとは思えぬかぐわしい香りに包まれ、老いも若きも、病んだ者でさえも、たちまちのうちに活力を取り戻した……、という逸話がございます」  いつの間にか清史と充も近くにやって来て、熱心に能見の話を聞いている。  それに気づいた能見は、彼らを振り返って微笑んだ。 「せっかくですから、オカバ様を祀った神社もご覧になって行かれますか? この旅館のすぐ向かいにございますよ」  能見がそう発言した途端、少し離れた所でポストカードの什器を回していた梓葉が、驚いたようにこちらを振り向いた。 「神社って……、能見さん、そちらを案内するのは明日のはずじゃ……」 「ええ、まあ、そうなんですけれども、今夜の予報が雪に変わりましたでしょう。明日になって石段に積もっておりましたら、雪かきが終わるまで皆さんに待っていただかなくちゃなりませんから」 「それは、そうだけど」  梓葉は口元に指を当てる。  そのままわずかに目をすがめて、何か思案するように黙ってしまった。 「差し支えなければ、僕は是非行ってみたいですね。今夜、部屋で過ごす時の印象も変わりそうだ」  梓葉が続きを話すのを待っていた能見も、坂城清史がそう答え、続いて利玖と充も頷くと、「じゃあ、参りましょうか」と一行を外に導いた。  梓葉も、無言のまま最後尾についてきたが、その顔には雨を抱いた雲のように不透明な暗さが残っていた。



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