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充が見たもの

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 三十分ほど話して、史岐との通話を終了した。  結局、儀式の事はひと言も話せないままだったが、気心の知れた人物を相手に故郷の話が出来た事で、部屋を出る頃には、胸の中にこんこんとんだ水が湧き出てくるような心地よい緊張と自信が満ちていた。  エレベータに乗って、一階に下りると、開いた扉の先で見知った顔が搭乗待ちをしていた。 「廣岡さん」  名を呼ばれて、廣岡充が片手を広げて答える。  浴衣姿がすっかり板に付いていた。  充はエレベータを見送って、利玖と共に壁際に移動した。  鶴真との待ち合わせの時間までは、まだもう少しある。背の高い観葉植物の陰で、並んで壁にもたれた。  ロビーは息を止めたような静けさに包まれている。受付も空っぽだ。この時間帯、ベルで呼び出しがあった時以外は奥の事務所で待機しているのかもしれない。  和紙で覆いを付けた巨大な照明が、場違いにも思える光量でフロアを照らしている。 「外に行くの?」充が訊いた。 「あ、いえ」まさか知り合いに出くわすとは思っていなかったので、利玖は必死で怪しまれないような返答を考えた。「こう……、がらんとした館内を散策するのも、おつかと思いまして」 「ああ」 「廣岡さんは、なぜロビーに?」  充はロビーの右手奥を指さした。背の低い本棚に囲まれて、一人掛けのソファが並んだ場所がある。 「郷土史が揃ってるから。宿泊客は自由に読んでいいって」 「ほう、それは太っ腹な。どうです? 記事を書くのに役立ちそうな物はありましたか?」  充は答えなかった。  数秒、間を置いて、唐突に体ごと利玖の方を向いた。 「何か、頼まれたの」  滅多に人と視線を合わせる事のない充が、今は体まで少しかがめて、間近で利玖の目を覗き込んでいた。 「え……」 「屋上にあったでしょ。よくはわからないけど、ものすごい力を持った、たぶん、普通の人には見えない物が」  利玖は息をのんだ。 「──見えたのですか」 「はっきりとは、わからない。蜃気楼みたいに空気が揺らいでいるのが見えるだけ。でも、そこに何かがあるっていうのは、何となくわかる。佐倉川さんは、はっきり見えた?」  利玖は頷いた。  誤魔化す手が、とても思いつかなかった。 「いいな」充は微笑む。「入部し立ての頃、佐倉川さんがしてくれた話。花の中には、受粉を媒介してくれる虫の眼に合わせて、目立つような波長の色や模様を持っているものがある、っていう。……あれが、今でも忘れられない。  世界は、自分が主体となって観測できる物がすべてだとは限らない。ある生物にとって、決まった像として見えるように、誰かが意図して組み上げた造形を、その通りに受け取って、行動を決めている。──自分で決めているつもりが、決めさせられている、という可能性だってある」  利玖は、黙って瞬きをしていた。  そんなに前の出来事を、充がここまで詳細に覚えている事にも驚いたし、その理屈で言うなら自分も「虫」と大して変わらない存在なのだと気づく。  味わい深い皮肉だ。  しかし、嫌な気分ではない。 「戻ったら、体験記をまとめてお持ちしましょうか?」  利玖は、体を起こして訊ねた。 「いらない」充は首を振る。「それを想像するのが、仕事だから」  充も観葉植物の陰から出て、エレベータ・ホールに戻る。ボタンを押してエレベータを呼び出すと、このフロアで停まっていた一機の扉がすぐに開いた。 「健闘を」  会った時と同じように利玖に向かって片手を広げたまま、エレベータに格納されて上昇していく充を、ちょうど背後の従業員通用口のドアを開けて出てきた鶴真が不思議そうな顔で見送った。



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前のエピソード 眠り薬をお持ちの史岐さん

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 三十分ほど話して、史岐との通話を終了した。  結局、儀式の事はひと言も話せないままだったが、気心の知れた人物を相手に故郷の話が出来た事で、部屋を出る頃には、胸の中にこんこんとんだ水が湧き出てくるような心地よい緊張と自信が満ちていた。  エレベータに乗って、一階に下りると、開いた扉の先で見知った顔が搭乗待ちをしていた。 「廣岡さん」  名を呼ばれて、廣岡充が片手を広げて答える。  浴衣姿がすっかり板に付いていた。  充はエレベータを見送って、利玖と共に壁際に移動した。  鶴真との待ち合わせの時間までは、まだもう少しある。背の高い観葉植物の陰で、並んで壁にもたれた。  ロビーは息を止めたような静けさに包まれている。受付も空っぽだ。この時間帯、ベルで呼び出しがあった時以外は奥の事務所で待機しているのかもしれない。  和紙で覆いを付けた巨大な照明が、場違いにも思える光量でフロアを照らしている。 「外に行くの?」充が訊いた。 「あ、いえ」まさか知り合いに出くわすとは思っていなかったので、利玖は必死で怪しまれないような返答を考えた。「こう……、がらんとした館内を散策するのも、おつかと思いまして」 「ああ」 「廣岡さんは、なぜロビーに?」  充はロビーの右手奥を指さした。背の低い本棚に囲まれて、一人掛けのソファが並んだ場所がある。 「郷土史が揃ってるから。宿泊客は自由に読んでいいって」 「ほう、それは太っ腹な。どうです? 記事を書くのに役立ちそうな物はありましたか?」  充は答えなかった。  数秒、間を置いて、唐突に体ごと利玖の方を向いた。 「何か、頼まれたの」  滅多に人と視線を合わせる事のない充が、今は体まで少しかがめて、間近で利玖の目を覗き込んでいた。 「え……」 「屋上にあったでしょ。よくはわからないけど、ものすごい力を持った、たぶん、普通の人には見えない物が」  利玖は息をのんだ。 「──見えたのですか」 「はっきりとは、わからない。蜃気楼みたいに空気が揺らいでいるのが見えるだけ。でも、そこに何かがあるっていうのは、何となくわかる。佐倉川さんは、はっきり見えた?」  利玖は頷いた。  誤魔化す手が、とても思いつかなかった。 「いいな」充は微笑む。「入部し立ての頃、佐倉川さんがしてくれた話。花の中には、受粉を媒介してくれる虫の眼に合わせて、目立つような波長の色や模様を持っているものがある、っていう。……あれが、今でも忘れられない。  世界は、自分が主体となって観測できる物がすべてだとは限らない。ある生物にとって、決まった像として見えるように、誰かが意図して組み上げた造形を、その通りに受け取って、行動を決めている。──自分で決めているつもりが、決めさせられている、という可能性だってある」  利玖は、黙って瞬きをしていた。  そんなに前の出来事を、充がここまで詳細に覚えている事にも驚いたし、その理屈で言うなら自分も「虫」と大して変わらない存在なのだと気づく。  味わい深い皮肉だ。  しかし、嫌な気分ではない。 「戻ったら、体験記をまとめてお持ちしましょうか?」  利玖は、体を起こして訊ねた。 「いらない」充は首を振る。「それを想像するのが、仕事だから」  充も観葉植物の陰から出て、エレベータ・ホールに戻る。ボタンを押してエレベータを呼び出すと、このフロアで停まっていた一機の扉がすぐに開いた。 「健闘を」  会った時と同じように利玖に向かって片手を広げたまま、エレベータに格納されて上昇していく充を、ちょうど背後の従業員通用口のドアを開けて出てきた鶴真が不思議そうな顔で見送った。



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