8話

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「だからね、タツキが嫌なんじゃないの。タツキとキスしたくないわけじゃないの……ううん、タツキとだったらキスしたい。でもね、全く身構えていなくて……心の準備も出来てなくて、本当に不意に……だったから、あの日のこと思い出しちゃって」  今もあの日の光景を思い出しているのだろうか、トウカは体を丸めて、自分の手で肩を抱きながら、涙声でそう教えてくれた。 「ゴメン……知らなくて……僕は……トウカに触れるための勇気が無かったから、それでトウカに失望されてるんじゃないかと思って……だから、今日こそって……本当にゴメン……」  なんと答えたら良い?何と言えば良い?その時の光景を、その時のトウカの心を知ることが出来ない僕が、トウカに何を言えば良い?何を言えるんだろう……。 「あの……ね。こういう事言うの、恥ずかしいんだけど……急にだとやっぱりまだ怖い。だからね、そっと肩を抱いて、少し時間をかけてから抱き寄せて、キスしてほしい……その合図で私、ちゃんと理解するから。ちゃんと分かるから……。ね、だめかな……」  トウカは僕を見ない。ただ地面を見つめながら、何かをしっかりと噛み締めながら僕にお願いをする。 「ウン、分かった……それがトウカの願いなら、それでトウカが安心するなら……。」  僕は感情が乗らないように気をつけながら、ゆっくりとそう答えた。 「ありがとう……優しいね……タツキ……。」  トウカの声は完全に泣いていた。その時トウカが何を考え、何を思っていたかはわからないけど、トウカが泣いていることだけは、間違いなくわかってしまった。  それからひとしきり泣いた後、トウカは立ち上がり、そして曖昧な笑みを浮かべてもう一度だけ、ごめんねと言い駅へと歩き出した。  もちろん、もうキスを求めることも、求められることもなく、僕とトウカの間に何とも言えない、距離と空気を残したまま、久しぶりのデートは幕を下ろした。  そして僕の胸の中に、また一滴……異物が紛れ込んでしまったことを、またしても僕は気がつくことが出来なかった。  夏も終わりを迎えようとしていた。  僕とトウカの間に、小さな違和感が生まれてしまっていた。  デートをしていても、楽しげな笑顔を浮かべているトウカだったけれど、時折その表情に微妙に影が差す様になった。  そして僕も、あのキスを拒絶されたことが、どれだけ説明を聞いても、どこか小さな棘が刺さってしまったかのように、トウカが示してくれたやり方を実践する勇気も持てずいつも僕たちのデートは『楽しかった、それじゃ、またね』で終わる。  そんな関係性にモヤモヤとした気持ちを持っていたのは、僕だけじゃなくトウカも同じだったと後で知ったけれど、この時の僕はそれに気付ける程、余裕もなかったし自信もなかった。  元々、僕には一生、縁のない高嶺の花と思っていたトウカ。彼女と恋人同士だという事実を未だに完全には受け止めきれていなかったし、それをハッキリと言いきれるだけの自信も僕にはまだなかった。  そして、あの時に聞かされたトウカの傷。それを僕が癒せる自信も、やはり無かった。  そういった意気地のなさが、一度出来てしまった溝を、距離を少しずつ広げてしまっていたことに、やはり気がつけなかったのは僕の失策だと思う。  トウカからデートに誘われる頻度が減った。僕からトウカへ送るメッセージの頻度も減った。  トウカと歩くデートでは、考え込む時間が増えた。会話と会話の間の微妙な沈黙が増えた。  快晴続きだった関係に、薄雲が立ち込み始めていた。  トウカに突然、晩ごはんを食べようと呼び出された。  その日のトウカは少し変だった。いつも以上に笑い、いつも以上に大きな声で明らかに無理をしていた。  沈黙を嫌い、空回りの会話を続けていた。  食事を終えても、なかなか席を立とうとしなかった。  そして何故か時計を気にしている。しかし早く帰りたいのかと思えば、席をたとうとはしない。  そんな不自然なトウカの様子は僕の心をざわつかせた。  別れ話なのだろうか……言い出しにくくて、こんな不自然な行動を取っているのだろうか。  



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「だからね、タツキが嫌なんじゃないの。タツキとキスしたくないわけじゃないの……ううん、タツキとだったらキスしたい。でもね、全く身構えていなくて……心の準備も出来てなくて、本当に不意に……だったから、あの日のこと思い出しちゃって」  今もあの日の光景を思い出しているのだろうか、トウカは体を丸めて、自分の手で肩を抱きながら、涙声でそう教えてくれた。 「ゴメン……知らなくて……僕は……トウカに触れるための勇気が無かったから、それでトウカに失望されてるんじゃないかと思って……だから、今日こそって……本当にゴメン……」  なんと答えたら良い?何と言えば良い?その時の光景を、その時のトウカの心を知ることが出来ない僕が、トウカに何を言えば良い?何を言えるんだろう……。 「あの……ね。こういう事言うの、恥ずかしいんだけど……急にだとやっぱりまだ怖い。だからね、そっと肩を抱いて、少し時間をかけてから抱き寄せて、キスしてほしい……その合図で私、ちゃんと理解するから。ちゃんと分かるから……。ね、だめかな……」  トウカは僕を見ない。ただ地面を見つめながら、何かをしっかりと噛み締めながら僕にお願いをする。 「ウン、分かった……それがトウカの願いなら、それでトウカが安心するなら……。」  僕は感情が乗らないように気をつけながら、ゆっくりとそう答えた。 「ありがとう……優しいね……タツキ……。」  トウカの声は完全に泣いていた。その時トウカが何を考え、何を思っていたかはわからないけど、トウカが泣いていることだけは、間違いなくわかってしまった。  それからひとしきり泣いた後、トウカは立ち上がり、そして曖昧な笑みを浮かべてもう一度だけ、ごめんねと言い駅へと歩き出した。  もちろん、もうキスを求めることも、求められることもなく、僕とトウカの間に何とも言えない、距離と空気を残したまま、久しぶりのデートは幕を下ろした。  そして僕の胸の中に、また一滴……異物が紛れ込んでしまったことを、またしても僕は気がつくことが出来なかった。  夏も終わりを迎えようとしていた。  僕とトウカの間に、小さな違和感が生まれてしまっていた。  デートをしていても、楽しげな笑顔を浮かべているトウカだったけれど、時折その表情に微妙に影が差す様になった。  そして僕も、あのキスを拒絶されたことが、どれだけ説明を聞いても、どこか小さな棘が刺さってしまったかのように、トウカが示してくれたやり方を実践する勇気も持てずいつも僕たちのデートは『楽しかった、それじゃ、またね』で終わる。  そんな関係性にモヤモヤとした気持ちを持っていたのは、僕だけじゃなくトウカも同じだったと後で知ったけれど、この時の僕はそれに気付ける程、余裕もなかったし自信もなかった。  元々、僕には一生、縁のない高嶺の花と思っていたトウカ。彼女と恋人同士だという事実を未だに完全には受け止めきれていなかったし、それをハッキリと言いきれるだけの自信も僕にはまだなかった。  そして、あの時に聞かされたトウカの傷。それを僕が癒せる自信も、やはり無かった。  そういった意気地のなさが、一度出来てしまった溝を、距離を少しずつ広げてしまっていたことに、やはり気がつけなかったのは僕の失策だと思う。  トウカからデートに誘われる頻度が減った。僕からトウカへ送るメッセージの頻度も減った。  トウカと歩くデートでは、考え込む時間が増えた。会話と会話の間の微妙な沈黙が増えた。  快晴続きだった関係に、薄雲が立ち込み始めていた。  トウカに突然、晩ごはんを食べようと呼び出された。  その日のトウカは少し変だった。いつも以上に笑い、いつも以上に大きな声で明らかに無理をしていた。  沈黙を嫌い、空回りの会話を続けていた。  食事を終えても、なかなか席を立とうとしなかった。  そして何故か時計を気にしている。しかし早く帰りたいのかと思えば、席をたとうとはしない。  そんな不自然なトウカの様子は僕の心をざわつかせた。  別れ話なのだろうか……言い出しにくくて、こんな不自然な行動を取っているのだろうか。  



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