憤怒

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 最も近い建物が喫茶ウェスタで、扉の鍵は開いたままだった。暖房も効いており、中に入ると温かい。  ソファのある席に利玖を運んで、美蕗がそばで様子を見ている間、柊牙はキッチンで湯を沸かしながら史岐に電話をかけた。  電話が切られた数分後には、およそ現代の日本で公道の走行を許可されている車両とは思えないブレーキ音を軋ませて史岐の車が店の前に停まった。  その頃には、利玖も自力で起き上がって白湯を飲めるようになっていたが、エンジン音が聞こえると弾かれたように顔を上げ、外を見た直後、急に立ち上がって戸口に走って行こうとした。だが、まだ平衡感覚に違和感があるのか、途中でふらついて座り込む。 「すみません」駆け寄ってきた柊牙の手を取りながら、利玖は青ざめた顔で首を振った。「わたしは大丈夫です。どうか、史岐さんの方を……」  言い終える前に史岐が店に入ってきた。  留め具が千切れて飛んだのではないか、と疑いたくなるようなけたたましさでドアベルが鳴り響き、利玖も柊牙も、びくっと身をすくませる。  美蕗は一人、ゆっくりとカウンタの中を歩いていて、その破壊的な金属音にもまったく動じなかった。 「ここにあるもので、体が温まる飲みものが作れる?」史岐の方を見もせずに美蕗は訊く。「わたし……、知らないの」  普段の彼女からは想像もつかないほど寂しげで、頼りない口調に、柊牙は一瞬、史岐を止める事を忘れて美蕗の顔を凝視してしまった。  その間に、史岐は車のキーを叩きつけるようにテーブルに置き、カウンタに押し入って美蕗の胸倉を掴んだ。 「利玖を餌に使ったのか」史岐は腕に力を込めて、さらに美蕗を引き寄せる。美蕗は抵抗しなかったが、肘が当たってコーヒーカップが落ち、床で砕けて高い音を立てた。「今度同じ事をしてみろ。お前ら、全員……」 「史岐!」柊牙が叫ぶ。 「怖いわ。史岐」美蕗は優しく微笑んで首を傾げた。「綺麗な顔が台無しよ」  柊牙は、史岐の後を追う形でカウンタに飛び込み、羽交い締めにして美蕗から引き剥がそうとしたが、彼の方が一回り体が大きいにもかかわらず史岐の体はびくともしなかった。諦めて、肩を掴み、揺さぶって名前を呼んで落ち着くように促しても、こちらを振り向きもしない。  自分の知っている男ではないような気がした。  嫌な感触の汗が首筋を伝うのを、柊牙は感じる。  だが、このままでは美蕗に危害が加えられる恐れがある。怪我を負わせてでも、気絶させてでも、彼を止めなければならない。今の自分には、その義務がある。  揺れた柊牙の視線が、カウンタに置かれた金属製のコーヒーポットに定まりかけた時、 「史岐さん」 と小さな声がした。  体温を守る為の毛布で体を包んだまま、カウンタ越しに利玖が史岐を見上げていた。  濡れた服は着替えさせ、いた傷口は洗浄して可能な限りの処置を施したが、まだ楽に動けるような体調ではないはずだ。現に今も、腕が震え、唇には血色が戻っていない。タオルで拭く事しか出来なかった髪からは水がしたたり、肩の上に染みを作っている。 「手を離してください、史岐さん」  もう一度利玖が言うと、史岐はようやく彼女に目を向けた。  その時、柊牙にも彼の顔が半分見えたが、そこには蝋人形のように生気のない笑みが浮かんでいた。 「一発、殴らなきゃ気が済まないんだよ」史岐は、絵本を読んで聞かせるような、はっきりとした穏やかな発音で言った。 「史岐さんは、自分よりもずっと小柄で、年も若い女性に手を上げるような人ですか」 「こいつは見かけどおりのとしじゃない」 「いいえ」利玖は首を振った。「美蕗さんは、まだ、生きていくのに十分な力がありません。わたし達よりもずっと、医療や福祉のサポートを必要としています。火急に保護されるべき対象です」 「何言ってるの?」史岐はせせら笑った。「利玖ちゃん、顔色が悪いよ。まだ横になっていた方が良いんじゃないかな」 「手を離して。美蕗さんをカウンタの外に出してください」  利玖が怒りを押し殺した声で言うと、史岐はようやく美蕗のセーラー服を手放した。  成人男性の力で無理に引っ張り上げられ、爪先立ちになっていた美蕗が、一歩下がって襟元を直すのと同時に、柊牙が二人の間に割って入ってコーヒーポットを掴む。 「何もしないで頂戴」  その一言で、柊牙はすんでの所で史岐の頭にコーヒーポットを振り下ろそうとしていた手を止めた。 「柊牙さんは、美蕗さんの身を守る為に、槻本家の警護を代表してここにいるのです」再び利玖が話し始めたが、先ほどよりも明らかに声に力が籠もっていなかった。「目の前で、害意を顕わに口にする人間がいれば、いくらそれが親しい友人であっても見逃すわけにいきません。その立場の事を、少しでも考えましたか?」  そこまで話すのが限界だったのだろう。利玖は、元いた席まで戻る事も出来ず、カウンタの縁を掴んでふらふらとしゃがみ込んだ。  それを見るや、史岐は踵を返し、柊牙を押しのけてカウンタから出て利玖のからだを抱きとめた。そのまま、しばらく、じっと床を見つめていたが、やがて呻きとも嗚咽ともつかない声を喉の奥で立てて、利玖のうなじに顔を押しつけた。 「髪が濡れているのが、回復の妨げになっていると思うの」美蕗が柊牙に手を引かれ、カウンタから出てくる。「彼女、髪が長いから、ドライヤが必要ね。喫茶店にあるかしら?」 「いや……」史岐は首を振って、黙り込んだ後、天井を仰いで大きく息を吸った。「ここには、あまり長居しない方が良い。千堂が最後に誰と接触したのか、警察が調べるかもしれない。僕らは客として来た事があるから、痕跡が残っていても怪しまれないと思うけど」  気を失った利玖の躰を、史岐は抱え上げ、美蕗達に向き直った。 「ここからだと、利玖のアパートの方が近い。何かあった時に匠さんも呼べる。彼女を運んだら、もう一度、車で迎えに来るから、それまで外で待っていてもらえるか?」 「お気遣い頂いてどうも有り難う」美蕗はスカートの裾を持ち、片足を軽く後ろに引いて、王族が交わす挨拶のような仕草をした。「でも、そんな面倒な事をしなくても結構よ。わたしと柊牙は別の乗りもので向かいますから、アパートの場所と外観を教えてくれるかしら」



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憤怒

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 最も近い建物が喫茶ウェスタで、扉の鍵は開いたままだった。暖房も効いており、中に入ると温かい。  ソファのある席に利玖を運んで、美蕗がそばで様子を見ている間、柊牙はキッチンで湯を沸かしながら史岐に電話をかけた。  電話が切られた数分後には、およそ現代の日本で公道の走行を許可されている車両とは思えないブレーキ音を軋ませて史岐の車が店の前に停まった。  その頃には、利玖も自力で起き上がって白湯を飲めるようになっていたが、エンジン音が聞こえると弾かれたように顔を上げ、外を見た直後、急に立ち上がって戸口に走って行こうとした。だが、まだ平衡感覚に違和感があるのか、途中でふらついて座り込む。 「すみません」駆け寄ってきた柊牙の手を取りながら、利玖は青ざめた顔で首を振った。「わたしは大丈夫です。どうか、史岐さんの方を……」  言い終える前に史岐が店に入ってきた。  留め具が千切れて飛んだのではないか、と疑いたくなるようなけたたましさでドアベルが鳴り響き、利玖も柊牙も、びくっと身をすくませる。  美蕗は一人、ゆっくりとカウンタの中を歩いていて、その破壊的な金属音にもまったく動じなかった。 「ここにあるもので、体が温まる飲みものが作れる?」史岐の方を見もせずに美蕗は訊く。「わたし……、知らないの」  普段の彼女からは想像もつかないほど寂しげで、頼りない口調に、柊牙は一瞬、史岐を止める事を忘れて美蕗の顔を凝視してしまった。  その間に、史岐は車のキーを叩きつけるようにテーブルに置き、カウンタに押し入って美蕗の胸倉を掴んだ。 「利玖を餌に使ったのか」史岐は腕に力を込めて、さらに美蕗を引き寄せる。美蕗は抵抗しなかったが、肘が当たってコーヒーカップが落ち、床で砕けて高い音を立てた。「今度同じ事をしてみろ。お前ら、全員……」 「史岐!」柊牙が叫ぶ。 「怖いわ。史岐」美蕗は優しく微笑んで首を傾げた。「綺麗な顔が台無しよ」  柊牙は、史岐の後を追う形でカウンタに飛び込み、羽交い締めにして美蕗から引き剥がそうとしたが、彼の方が一回り体が大きいにもかかわらず史岐の体はびくともしなかった。諦めて、肩を掴み、揺さぶって名前を呼んで落ち着くように促しても、こちらを振り向きもしない。  自分の知っている男ではないような気がした。  嫌な感触の汗が首筋を伝うのを、柊牙は感じる。  だが、このままでは美蕗に危害が加えられる恐れがある。怪我を負わせてでも、気絶させてでも、彼を止めなければならない。今の自分には、その義務がある。  揺れた柊牙の視線が、カウンタに置かれた金属製のコーヒーポットに定まりかけた時、 「史岐さん」 と小さな声がした。  体温を守る為の毛布で体を包んだまま、カウンタ越しに利玖が史岐を見上げていた。  濡れた服は着替えさせ、いた傷口は洗浄して可能な限りの処置を施したが、まだ楽に動けるような体調ではないはずだ。現に今も、腕が震え、唇には血色が戻っていない。タオルで拭く事しか出来なかった髪からは水がしたたり、肩の上に染みを作っている。 「手を離してください、史岐さん」  もう一度利玖が言うと、史岐はようやく彼女に目を向けた。  その時、柊牙にも彼の顔が半分見えたが、そこには蝋人形のように生気のない笑みが浮かんでいた。 「一発、殴らなきゃ気が済まないんだよ」史岐は、絵本を読んで聞かせるような、はっきりとした穏やかな発音で言った。 「史岐さんは、自分よりもずっと小柄で、年も若い女性に手を上げるような人ですか」 「こいつは見かけどおりのとしじゃない」 「いいえ」利玖は首を振った。「美蕗さんは、まだ、生きていくのに十分な力がありません。わたし達よりもずっと、医療や福祉のサポートを必要としています。火急に保護されるべき対象です」 「何言ってるの?」史岐はせせら笑った。「利玖ちゃん、顔色が悪いよ。まだ横になっていた方が良いんじゃないかな」 「手を離して。美蕗さんをカウンタの外に出してください」  利玖が怒りを押し殺した声で言うと、史岐はようやく美蕗のセーラー服を手放した。  成人男性の力で無理に引っ張り上げられ、爪先立ちになっていた美蕗が、一歩下がって襟元を直すのと同時に、柊牙が二人の間に割って入ってコーヒーポットを掴む。 「何もしないで頂戴」  その一言で、柊牙はすんでの所で史岐の頭にコーヒーポットを振り下ろそうとしていた手を止めた。 「柊牙さんは、美蕗さんの身を守る為に、槻本家の警護を代表してここにいるのです」再び利玖が話し始めたが、先ほどよりも明らかに声に力が籠もっていなかった。「目の前で、害意を顕わに口にする人間がいれば、いくらそれが親しい友人であっても見逃すわけにいきません。その立場の事を、少しでも考えましたか?」  そこまで話すのが限界だったのだろう。利玖は、元いた席まで戻る事も出来ず、カウンタの縁を掴んでふらふらとしゃがみ込んだ。  それを見るや、史岐は踵を返し、柊牙を押しのけてカウンタから出て利玖のからだを抱きとめた。そのまま、しばらく、じっと床を見つめていたが、やがて呻きとも嗚咽ともつかない声を喉の奥で立てて、利玖のうなじに顔を押しつけた。 「髪が濡れているのが、回復の妨げになっていると思うの」美蕗が柊牙に手を引かれ、カウンタから出てくる。「彼女、髪が長いから、ドライヤが必要ね。喫茶店にあるかしら?」 「いや……」史岐は首を振って、黙り込んだ後、天井を仰いで大きく息を吸った。「ここには、あまり長居しない方が良い。千堂が最後に誰と接触したのか、警察が調べるかもしれない。僕らは客として来た事があるから、痕跡が残っていても怪しまれないと思うけど」  気を失った利玖の躰を、史岐は抱え上げ、美蕗達に向き直った。 「ここからだと、利玖のアパートの方が近い。何かあった時に匠さんも呼べる。彼女を運んだら、もう一度、車で迎えに来るから、それまで外で待っていてもらえるか?」 「お気遣い頂いてどうも有り難う」美蕗はスカートの裾を持ち、片足を軽く後ろに引いて、王族が交わす挨拶のような仕草をした。「でも、そんな面倒な事をしなくても結構よ。わたしと柊牙は別の乗りもので向かいますから、アパートの場所と外観を教えてくれるかしら」



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