利玖の仮説

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「屋根の上からでは見えませんでしたか」 「はい。空にも、窓硝子にも、何も」利玖は千堂に視線を戻して、くるりと指先で円を描く。「でも、店内からでは見えますね。史岐さんは、窓硝子の中に粒子の細かい蓄光素材が入っていて、それが光っているのではないか、とおっしゃっていました。それならば、窓の外側からでも発光を確認出来るはずですよね。しかし、わたしが屋根に上って間近で見ても、何の変哲もない普通の硝子でした」 「あれが見えるという事は、名刺の肩書きが嘘だったとしても、貴女は怪異とまったく無関係の人間というわけではないようですね」 「銀箭に追われている、と説明しました」利玖は素っ気ない口調で答え、急に歩き始めた。壁際のボックス席、店内に一つだけ掛かっている彗星の絵の前で足を止めて振り返る。 「この絵を見た時、わたしは、所々に描かれている黒い粒は何なのだろう、と思いました。彗星と重なる位置、つまり手前側にも描かれていますから、星ではありません。仮に星だとしても、黒の絵の具で描くとは考えにくい。では、偶然横切った飛行機? いえ、それにしては密度が高過ぎます。これらの疑問は……」利玖はまた指を立てて、それを店の外にある湖の方に向けて倒す。「この絵が柏名湖を描いたものだと考えると説明がつきます。天体現象ではなく、湖の中で起こる爆発的な発光。だから、水中の魚や藻屑が黒い影になって浮かび上がった。湖面を見下ろした時には、確かに彗星のように見えるのでしょう。本当の事を話した所で、誰も信じないでしょうし、貴方はそれを彗星として描き続けた」 「うん……」千堂は満足げに口もとを緩め、天窓を仰いだ。「特に修正が必要な所はないな。満点ですね」 「天窓に映る彗星は、銀箭が用意したものですか?」 「そうです。あれはレプリカなんですよ。本物はもっと大きいし、様々な色の光が入り混じっていて美しい。ただ、銀箭が生きものの魂を喰らって、自らの糧とする為に消化する過程で発生するものだから、いつでも自在に見せられるわけではないのだそうです」 「え?」  天窓に現れた時から一貫して冷静だった利玖の表情に、初めて怪訝な色が浮かんだ。 「え……、何です?」つられて、千堂も少しペースを乱された。「僕、何か、変な事を言いましたかね」そう口にしてから、すぐに、今夜はずっとおかしな話ばかりしているではないか、と思いついて、笑いそうになる。暗さのおかげで利玖は気づかれなかったようだ。 「いえ」彼女は斜めに目を逸らし、唇に指先を当てる。「消化する過程で、発光を? 銀箭がそう言ったのですか?」 「そうです」千堂は頷いた。「あの、どこがおかしいと思われたのか、教えて頂けませんか? 僕は専門家ではありませんから」 「ええ……」利玖はまだ、確信を得られていないような曇った表情だったが、ゆっくりと喋り始めた。 「ものを食べ、分解し、自らの栄養として体内に取り込む行為は、生きる上でなくてはならないものですが、同時に体に大きな負担をかける行為でもあります。外から取り入れた異物をエネルギィに変換するわけですから、複数の臓器で様々な反応が起きますし、それをより安全に、より効率的にコントロールする必要があります。つまり、エネルギィを得る過程そのものにも少なくないエネルギィ消費が伴い、それによって体は酷使され、消耗する。それなのに──」  利玖は、そこで言葉を切ると、ジャケットの内側に手を入れて何かを取り出した。ペンのようだ。それをまっすぐ上に向けた、と思った瞬間、カチッと小さな音がして彼女の手元と顔が眩い光で照らされた。 「発光する。びっくりしますよね?」利玖はライトを消して手を下ろした。「これがいまいち理解出来ません。食い、食われるのが当たり前の環境で、自ら強い光を放つのは、一歩間違えば自殺行為です」 「ああ、なるほど」そこまで聞いて、千堂もようやく、利玖が何を疑問視しているのか掴めてきた。「つまり、体に高い負担がかかっている状態で、強い光を放って目立つ事は、無防備な自分の存在を周りに知らせる事に繋がり、弱肉強食の世界では不利に働くはず、と」 「その通りです」利玖は頷いた。「勿論、銀箭は普通の動物ではありませんから、食物連鎖に囚われない存在である可能性も排除出来ません。しかし、神と呼ばれていても、食事をし、同族と戦いもする。生存の為に闘争するという点では共通していると思います」 「すると、彼は僕に嘘を教えたんですね」千堂は首をひねった。「うーん、どうしてだろう……。正直、僕は発光のタイミングがいつかなんてどうでもよくて、彼もその事はわかっていると思うんですけどね」 「おそらく、千堂さんを介して、わたしにその話が伝わるのを狙ったのではないでしょうか。『獲物を消化する過程で光が発生する』と思い込んでいる限り、彼の腹に収まるような事態になるまでは、光の事を警戒しなくてもいいと考える。だから、本当のタイミングはもっと前なのかもしれません。単なるくらましではなく、その光には、獲物を無力化させる何らかの力があって、弱った所をぱくっといくのかも」 「ぱくっと、って……」千堂は我慢できずに顔をしかめてしまった。 「竜ですからね。たぶん、顎の力は相当強いでしょう」  一瞬、他人事のように話すな、と思ったが、すぐにそうではないとわかった。  自分の命がレイズされた賭けに挑もうとしている事を正しく認識した上で、彼女はそれ以上に、もっと強い、何か他の意志を持っているのだ。 「ですが、のこのこと喰われてやるつもりはありません。むしろ、彼がわたしの目の前で大きく口を開くかもしれないという状況を、またとない好機と捉えています。活きの良い細胞を取るのに、口腔内はうってつけの環境ですから」  それを聞いて、千堂は、昔、生物の授業で頬の内側を綿棒でこすり取ったものを顕微鏡で観察した事を思い出した。  しかし、その後すぐに、今回綿棒の代わりに使われるであろうトリガー付きの注射針を思い出し、すっと背筋が寒くなる。いくら竜神とはいえ、あんなもので口の中を刺されたら堪ったものではないのでは、と心配してしまった。 「それは、また、繊細な技量が求められそうな仕事ですね」 「はい。それに、成功しても、一度に採取出来る量はたかが知れていますから、早い段階で培養して数を増やし、多方面の分析に検体を回したい所です。……そして」  利玖の声がわずかに緊張を帯び、真剣な視線が千堂に固定された。 「千堂さんにも、お願いがあります。わたしがその目的を果たし、生還した暁には、今後一切、銀箭との関わりを断って頂けませんか」 「いいですよ」千堂は軽く頷いた。「利玖さんが無事に戻られたら、嫌でもそうなるでしょうからね。僕は、貴女を食べさせる約束と引き換えに彗星を見せてもらっています。失敗したら、たぶん、生きていられない。保身の為に寝返って、銀箭に不利な情報を貴女達に流す可能性がありますからね。彼も僕の始末の仕方くらい、考えているでしょう」 「千堂さんの事は、わたし達が責任をもってお守りします」  利玖はひたむきな目で千堂を見た。  嘘を言っているようには、見えなかった。 「千堂さんからの接触がなければ、わたし達は銀箭の尻尾を掴む事すら出来ませんでした。神と呼ばれる存在を相手取る以上、油断は禁物。ですが、これは得難い好機でもあるのです。上手くいけば、科学技術によって彼の体を構成する物質を特定し、細胞の設計図を読み解く事で、ごく一部の人間にしか扱えない特殊な力に頼らなくても彼に対抗する手段を見つけられるかもしれない」 「だから守ってくださると言うんですか?」千堂は唇を歪めた。「それは随分、僕にとって都合の良過ぎる話ですよ」 「わたしは本心からお話しています。避難をサポートしてくれる支援者もいます」利玖は一歩、こちらに詰め寄る。「信じられないというのなら、もう一つお願いをしてもいいですか。わたしはこの後、柏名湖に向かい、銀箭に対峙しますが、その際、千堂さんは『何もしないで』ください。わたしがどんなに悲惨な目に遭っても、土壇場で冷静さを失って貴方に助けを求めても、何もしなくていい。ご自身の安全が確保出来る場所で、一部始終を見ていてください」 「あんな物騒なものを持って突撃する事を知っていて、黙っているというのは、ちょっと利玖さんを贔屓しているような気がしますね」 「いえ、そのくらいの事は、向こうも予想していると思います。こと切れる寸前まで暴れて、抵抗する獲物の方が楽しめるでしょう? 千堂さんにも、極力わたしを弱らせないように言いつけてあるはずです」  千堂は息をのんだ。 「……見てきたように言いますね」この少女は、もしかしたら既に、魂の深い所で銀箭と結び付いてしまっているのではないか、という予感に鼓動が早まるのを感じながら、千堂は出入り口のドアに向かって歩き始めた。 「ただ、まあ、僕にとってもありがたい話なんですよ。貴女が一人で湖畔に向かうように仕向けたら、それでお終い。あとは見晴らしのいい所で、思う存分『彗星』を眺める作業に没頭して良いのですから」 「ありがとうございます」利玖は安堵したように息をついた。「それを確かめたかった」 「思い残す事は?」千堂はドアの取っ手を掴んで利玖の方を振り返る。  利玖は、店の内装を目で走査して、些細な記憶を取り出す為のキーを探しているような、ゆっくりとした足取りで千堂の方へ歩いてきて、横に並ぶと微笑んで彼を見上げた。 「最初にこのお店に来た時、わたしはロールケーキを注文しました。ですが、本当はレモン・タルトも気になっていたんです。いつか食べさせてもらえますか?」 「僕と貴女の両方が揃っていれば、そのうちに」  千堂はお辞儀をしてからドアを開けた。  世闇の底でうずくまって、待ちかねていた竜神が嘆息したように、湖の方から吹いてきた湿度の高い風がふうっと二人の頬を撫でた。



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利玖の仮説

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「屋根の上からでは見えませんでしたか」 「はい。空にも、窓硝子にも、何も」利玖は千堂に視線を戻して、くるりと指先で円を描く。「でも、店内からでは見えますね。史岐さんは、窓硝子の中に粒子の細かい蓄光素材が入っていて、それが光っているのではないか、とおっしゃっていました。それならば、窓の外側からでも発光を確認出来るはずですよね。しかし、わたしが屋根に上って間近で見ても、何の変哲もない普通の硝子でした」 「あれが見えるという事は、名刺の肩書きが嘘だったとしても、貴女は怪異とまったく無関係の人間というわけではないようですね」 「銀箭に追われている、と説明しました」利玖は素っ気ない口調で答え、急に歩き始めた。壁際のボックス席、店内に一つだけ掛かっている彗星の絵の前で足を止めて振り返る。 「この絵を見た時、わたしは、所々に描かれている黒い粒は何なのだろう、と思いました。彗星と重なる位置、つまり手前側にも描かれていますから、星ではありません。仮に星だとしても、黒の絵の具で描くとは考えにくい。では、偶然横切った飛行機? いえ、それにしては密度が高過ぎます。これらの疑問は……」利玖はまた指を立てて、それを店の外にある湖の方に向けて倒す。「この絵が柏名湖を描いたものだと考えると説明がつきます。天体現象ではなく、湖の中で起こる爆発的な発光。だから、水中の魚や藻屑が黒い影になって浮かび上がった。湖面を見下ろした時には、確かに彗星のように見えるのでしょう。本当の事を話した所で、誰も信じないでしょうし、貴方はそれを彗星として描き続けた」 「うん……」千堂は満足げに口もとを緩め、天窓を仰いだ。「特に修正が必要な所はないな。満点ですね」 「天窓に映る彗星は、銀箭が用意したものですか?」 「そうです。あれはレプリカなんですよ。本物はもっと大きいし、様々な色の光が入り混じっていて美しい。ただ、銀箭が生きものの魂を喰らって、自らの糧とする為に消化する過程で発生するものだから、いつでも自在に見せられるわけではないのだそうです」 「え?」  天窓に現れた時から一貫して冷静だった利玖の表情に、初めて怪訝な色が浮かんだ。 「え……、何です?」つられて、千堂も少しペースを乱された。「僕、何か、変な事を言いましたかね」そう口にしてから、すぐに、今夜はずっとおかしな話ばかりしているではないか、と思いついて、笑いそうになる。暗さのおかげで利玖は気づかれなかったようだ。 「いえ」彼女は斜めに目を逸らし、唇に指先を当てる。「消化する過程で、発光を? 銀箭がそう言ったのですか?」 「そうです」千堂は頷いた。「あの、どこがおかしいと思われたのか、教えて頂けませんか? 僕は専門家ではありませんから」 「ええ……」利玖はまだ、確信を得られていないような曇った表情だったが、ゆっくりと喋り始めた。 「ものを食べ、分解し、自らの栄養として体内に取り込む行為は、生きる上でなくてはならないものですが、同時に体に大きな負担をかける行為でもあります。外から取り入れた異物をエネルギィに変換するわけですから、複数の臓器で様々な反応が起きますし、それをより安全に、より効率的にコントロールする必要があります。つまり、エネルギィを得る過程そのものにも少なくないエネルギィ消費が伴い、それによって体は酷使され、消耗する。それなのに──」  利玖は、そこで言葉を切ると、ジャケットの内側に手を入れて何かを取り出した。ペンのようだ。それをまっすぐ上に向けた、と思った瞬間、カチッと小さな音がして彼女の手元と顔が眩い光で照らされた。 「発光する。びっくりしますよね?」利玖はライトを消して手を下ろした。「これがいまいち理解出来ません。食い、食われるのが当たり前の環境で、自ら強い光を放つのは、一歩間違えば自殺行為です」 「ああ、なるほど」そこまで聞いて、千堂もようやく、利玖が何を疑問視しているのか掴めてきた。「つまり、体に高い負担がかかっている状態で、強い光を放って目立つ事は、無防備な自分の存在を周りに知らせる事に繋がり、弱肉強食の世界では不利に働くはず、と」 「その通りです」利玖は頷いた。「勿論、銀箭は普通の動物ではありませんから、食物連鎖に囚われない存在である可能性も排除出来ません。しかし、神と呼ばれていても、食事をし、同族と戦いもする。生存の為に闘争するという点では共通していると思います」 「すると、彼は僕に嘘を教えたんですね」千堂は首をひねった。「うーん、どうしてだろう……。正直、僕は発光のタイミングがいつかなんてどうでもよくて、彼もその事はわかっていると思うんですけどね」 「おそらく、千堂さんを介して、わたしにその話が伝わるのを狙ったのではないでしょうか。『獲物を消化する過程で光が発生する』と思い込んでいる限り、彼の腹に収まるような事態になるまでは、光の事を警戒しなくてもいいと考える。だから、本当のタイミングはもっと前なのかもしれません。単なるくらましではなく、その光には、獲物を無力化させる何らかの力があって、弱った所をぱくっといくのかも」 「ぱくっと、って……」千堂は我慢できずに顔をしかめてしまった。 「竜ですからね。たぶん、顎の力は相当強いでしょう」  一瞬、他人事のように話すな、と思ったが、すぐにそうではないとわかった。  自分の命がレイズされた賭けに挑もうとしている事を正しく認識した上で、彼女はそれ以上に、もっと強い、何か他の意志を持っているのだ。 「ですが、のこのこと喰われてやるつもりはありません。むしろ、彼がわたしの目の前で大きく口を開くかもしれないという状況を、またとない好機と捉えています。活きの良い細胞を取るのに、口腔内はうってつけの環境ですから」  それを聞いて、千堂は、昔、生物の授業で頬の内側を綿棒でこすり取ったものを顕微鏡で観察した事を思い出した。  しかし、その後すぐに、今回綿棒の代わりに使われるであろうトリガー付きの注射針を思い出し、すっと背筋が寒くなる。いくら竜神とはいえ、あんなもので口の中を刺されたら堪ったものではないのでは、と心配してしまった。 「それは、また、繊細な技量が求められそうな仕事ですね」 「はい。それに、成功しても、一度に採取出来る量はたかが知れていますから、早い段階で培養して数を増やし、多方面の分析に検体を回したい所です。……そして」  利玖の声がわずかに緊張を帯び、真剣な視線が千堂に固定された。 「千堂さんにも、お願いがあります。わたしがその目的を果たし、生還した暁には、今後一切、銀箭との関わりを断って頂けませんか」 「いいですよ」千堂は軽く頷いた。「利玖さんが無事に戻られたら、嫌でもそうなるでしょうからね。僕は、貴女を食べさせる約束と引き換えに彗星を見せてもらっています。失敗したら、たぶん、生きていられない。保身の為に寝返って、銀箭に不利な情報を貴女達に流す可能性がありますからね。彼も僕の始末の仕方くらい、考えているでしょう」 「千堂さんの事は、わたし達が責任をもってお守りします」  利玖はひたむきな目で千堂を見た。  嘘を言っているようには、見えなかった。 「千堂さんからの接触がなければ、わたし達は銀箭の尻尾を掴む事すら出来ませんでした。神と呼ばれる存在を相手取る以上、油断は禁物。ですが、これは得難い好機でもあるのです。上手くいけば、科学技術によって彼の体を構成する物質を特定し、細胞の設計図を読み解く事で、ごく一部の人間にしか扱えない特殊な力に頼らなくても彼に対抗する手段を見つけられるかもしれない」 「だから守ってくださると言うんですか?」千堂は唇を歪めた。「それは随分、僕にとって都合の良過ぎる話ですよ」 「わたしは本心からお話しています。避難をサポートしてくれる支援者もいます」利玖は一歩、こちらに詰め寄る。「信じられないというのなら、もう一つお願いをしてもいいですか。わたしはこの後、柏名湖に向かい、銀箭に対峙しますが、その際、千堂さんは『何もしないで』ください。わたしがどんなに悲惨な目に遭っても、土壇場で冷静さを失って貴方に助けを求めても、何もしなくていい。ご自身の安全が確保出来る場所で、一部始終を見ていてください」 「あんな物騒なものを持って突撃する事を知っていて、黙っているというのは、ちょっと利玖さんを贔屓しているような気がしますね」 「いえ、そのくらいの事は、向こうも予想していると思います。こと切れる寸前まで暴れて、抵抗する獲物の方が楽しめるでしょう? 千堂さんにも、極力わたしを弱らせないように言いつけてあるはずです」  千堂は息をのんだ。 「……見てきたように言いますね」この少女は、もしかしたら既に、魂の深い所で銀箭と結び付いてしまっているのではないか、という予感に鼓動が早まるのを感じながら、千堂は出入り口のドアに向かって歩き始めた。 「ただ、まあ、僕にとってもありがたい話なんですよ。貴女が一人で湖畔に向かうように仕向けたら、それでお終い。あとは見晴らしのいい所で、思う存分『彗星』を眺める作業に没頭して良いのですから」 「ありがとうございます」利玖は安堵したように息をついた。「それを確かめたかった」 「思い残す事は?」千堂はドアの取っ手を掴んで利玖の方を振り返る。  利玖は、店の内装を目で走査して、些細な記憶を取り出す為のキーを探しているような、ゆっくりとした足取りで千堂の方へ歩いてきて、横に並ぶと微笑んで彼を見上げた。 「最初にこのお店に来た時、わたしはロールケーキを注文しました。ですが、本当はレモン・タルトも気になっていたんです。いつか食べさせてもらえますか?」 「僕と貴女の両方が揃っていれば、そのうちに」  千堂はお辞儀をしてからドアを開けた。  世闇の底でうずくまって、待ちかねていた竜神が嘆息したように、湖の方から吹いてきた湿度の高い風がふうっと二人の頬を撫でた。



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