再訪

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 それから数日が経った夜、史岐は利玖を連れて再び喫茶ウェスタを訪れた。課題が一段落したので先日の埋め合わせをしたい、と利玖の方から申し出があったのだ。  予想はしていたが、元々入っていた史岐との約束をこちらの都合でキャンセルしてしまったので、喫茶ウェスタでの食事代はすべて自分が払う、と主張する利玖と、車中で少々押し問答になったが、最終的には利玖が飲み物と食事代を、史岐がデザートの代金を負担する事で合意した。  前回とは違い、雨が降っていたので、入り口に一番近い区画に車を停めて軒先に駆け込んだ。駐車場に他の車は停まっていない。頭上に枝垂しだれている木々の枝葉や、背後にある湖の水面を、細かな雨粒が叩く音が、ずっとひそやかに流れている。  店の中に入ると、前と同じ店員が一人でカウンタに立っていた。  客の姿は見当たらない。だが、入れ違いになったのか、かすかに煙草の匂いが漂っていた。 「いらっしゃいませ」  そう言った後、店員は史岐に向かって、かすかな微笑みとともに目礼を送った。貴方の顔は記憶している、というサインだろうか。今日は、史岐も落ち着いて彼を観察する余裕があった。  エプロンの胸元に「千堂峰一」と書かれた名札がついている。その下にはアルファベットでSENDO HOICHIという読み仮名が振られていた。みねかず、ではなく、ほういち、と読むらしい。  お好きな席へ、と言われたので、二人は彗星の絵に一番近いボックス席へと歩いて行く。 「あ、これですね」利玖が気づいて、絵に顔を寄せた。「彗星ですか……。すごいですよね。こんなに大きな光が、突然、夜空に現れて、当時の人はびっくりしたでしょうね」  しばらく絵を眺めた後、二人はテーブルに着いてメニュー・ブックを広げる。  いつの間にか、離れた所にあるスピーカーからジャズが流れ始めていた。初めて来た時には、確か、流れていなかったはず。今よりも遅い時間帯だったせいか、それとも、今日は利玖がいるので千堂が気を利かせたのか。いずれにしろ、まったく不快ではない。 「がつんと甘いものが良いです」利玖が断固とした口調で言う。 「僕はサンドイッチにしようかな」史岐は、利玖が読んでいるメニュー・ブックを、テーブルの反対側から逆に読んでいる。「あとね、デザートなら、そのレモン・タルトが美味しかった」 「レモン・タルトですか?」利玖は瞬きをする。そのまま、しばらく何か考えていたが、やがて首をひねった。「いえ、でも、やっぱり今日は甘いものにしておきましょう」 「がつんと」史岐は数秒前の彼女の言葉をくり返す。 「ええ。がつんと」利玖は至極真面目な表情だった。 「この『本日のケーキ・セット』って何でしょうか」  利玖がメニューの隅を指さして、そう訊いたので、史岐はカウンタに向かって片手を挙げた。  千堂がカウンタを出てこちらへ歩いて来る。史岐が『本日のケーキ・セット』について尋ねると、千堂は、少々お待ちください、と言ってカウンタに戻り、アルバムのような冊子を携えて戻ってきた。  その冊子には、定番のショート・ケーキやタルトの他、フルーツを使ったロールケーキ、さっぱりとした口当たりのレア・チーズケーキなど、幾つかのケーキが写真付きで載っている。その中から、さらに、当日に提供可能な物を千堂が客に伝え、好きなものを選んでもらう、という仕組みになっているらしい。  利玖は、すぐにロールケーキとホットの紅茶の組み合わせに決めた。  史岐はパストラミ・ビーフのサンドイッチと、最初に訪れた時と同じオリジナル・ブレンドのコーヒー、そしてレモン・タルトを注文する。 「ずいぶんと美味しそうなものを頼まれますね……」千堂が厨房に入っていくのを見送って、利玖が呟いた。 「僕が出すから、利玖ちゃんもあと一つか二つ頼みなよ」史岐は煙草を取り出してライターで火をつける。「試験勉強で余裕がなくて、外食頼みになるから、財布もかつかつなんじゃないの?」 「それはそうなのですが……」利玖は両手で水の入ったグラスを持って口に近づける。そのまま一口飲んだようだ。「今、ちょっと、外ではあまり食べられないんですよ。胃が縮んでしまっているようで。いまいち食欲も湧きづらい実習内容ですから、ゼリー飲料にばかり頼っていますが、たまには出来立ての熱々ごはんが恋しくなるわけですね」 「ハーフ・サイズのドリアとかないかな」史岐は再びメニュー・ブックを開く。「あ、これは? ハニーチーズ・トースト。そんなに大きくなさそうだよ」  写真を見た利玖の目が、ちらっと揺れた。  食事に誘ってくれたくらいだから、ちゃんと食欲はあったのだろうが、一度約束をふいにした上に、自分で払い切れない食事代まで史岐に負担させるのはどうしても気が引けたのだろう。 「僕としても、利玖ちゃんには温かいものを食べて力をつけてほしい」史岐はメニュー・ブックを閉じてテーブル脇のスタンドに戻す。「頼んで良いね?」   二人の飲み物だけが先に運ばれてきて、史岐は追加でハニーチーズ・トーストを注文した。



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 それから数日が経った夜、史岐は利玖を連れて再び喫茶ウェスタを訪れた。課題が一段落したので先日の埋め合わせをしたい、と利玖の方から申し出があったのだ。  予想はしていたが、元々入っていた史岐との約束をこちらの都合でキャンセルしてしまったので、喫茶ウェスタでの食事代はすべて自分が払う、と主張する利玖と、車中で少々押し問答になったが、最終的には利玖が飲み物と食事代を、史岐がデザートの代金を負担する事で合意した。  前回とは違い、雨が降っていたので、入り口に一番近い区画に車を停めて軒先に駆け込んだ。駐車場に他の車は停まっていない。頭上に枝垂しだれている木々の枝葉や、背後にある湖の水面を、細かな雨粒が叩く音が、ずっとひそやかに流れている。  店の中に入ると、前と同じ店員が一人でカウンタに立っていた。  客の姿は見当たらない。だが、入れ違いになったのか、かすかに煙草の匂いが漂っていた。 「いらっしゃいませ」  そう言った後、店員は史岐に向かって、かすかな微笑みとともに目礼を送った。貴方の顔は記憶している、というサインだろうか。今日は、史岐も落ち着いて彼を観察する余裕があった。  エプロンの胸元に「千堂峰一」と書かれた名札がついている。その下にはアルファベットでSENDO HOICHIという読み仮名が振られていた。みねかず、ではなく、ほういち、と読むらしい。  お好きな席へ、と言われたので、二人は彗星の絵に一番近いボックス席へと歩いて行く。 「あ、これですね」利玖が気づいて、絵に顔を寄せた。「彗星ですか……。すごいですよね。こんなに大きな光が、突然、夜空に現れて、当時の人はびっくりしたでしょうね」  しばらく絵を眺めた後、二人はテーブルに着いてメニュー・ブックを広げる。  いつの間にか、離れた所にあるスピーカーからジャズが流れ始めていた。初めて来た時には、確か、流れていなかったはず。今よりも遅い時間帯だったせいか、それとも、今日は利玖がいるので千堂が気を利かせたのか。いずれにしろ、まったく不快ではない。 「がつんと甘いものが良いです」利玖が断固とした口調で言う。 「僕はサンドイッチにしようかな」史岐は、利玖が読んでいるメニュー・ブックを、テーブルの反対側から逆に読んでいる。「あとね、デザートなら、そのレモン・タルトが美味しかった」 「レモン・タルトですか?」利玖は瞬きをする。そのまま、しばらく何か考えていたが、やがて首をひねった。「いえ、でも、やっぱり今日は甘いものにしておきましょう」 「がつんと」史岐は数秒前の彼女の言葉をくり返す。 「ええ。がつんと」利玖は至極真面目な表情だった。 「この『本日のケーキ・セット』って何でしょうか」  利玖がメニューの隅を指さして、そう訊いたので、史岐はカウンタに向かって片手を挙げた。  千堂がカウンタを出てこちらへ歩いて来る。史岐が『本日のケーキ・セット』について尋ねると、千堂は、少々お待ちください、と言ってカウンタに戻り、アルバムのような冊子を携えて戻ってきた。  その冊子には、定番のショート・ケーキやタルトの他、フルーツを使ったロールケーキ、さっぱりとした口当たりのレア・チーズケーキなど、幾つかのケーキが写真付きで載っている。その中から、さらに、当日に提供可能な物を千堂が客に伝え、好きなものを選んでもらう、という仕組みになっているらしい。  利玖は、すぐにロールケーキとホットの紅茶の組み合わせに決めた。  史岐はパストラミ・ビーフのサンドイッチと、最初に訪れた時と同じオリジナル・ブレンドのコーヒー、そしてレモン・タルトを注文する。 「ずいぶんと美味しそうなものを頼まれますね……」千堂が厨房に入っていくのを見送って、利玖が呟いた。 「僕が出すから、利玖ちゃんもあと一つか二つ頼みなよ」史岐は煙草を取り出してライターで火をつける。「試験勉強で余裕がなくて、外食頼みになるから、財布もかつかつなんじゃないの?」 「それはそうなのですが……」利玖は両手で水の入ったグラスを持って口に近づける。そのまま一口飲んだようだ。「今、ちょっと、外ではあまり食べられないんですよ。胃が縮んでしまっているようで。いまいち食欲も湧きづらい実習内容ですから、ゼリー飲料にばかり頼っていますが、たまには出来立ての熱々ごはんが恋しくなるわけですね」 「ハーフ・サイズのドリアとかないかな」史岐は再びメニュー・ブックを開く。「あ、これは? ハニーチーズ・トースト。そんなに大きくなさそうだよ」  写真を見た利玖の目が、ちらっと揺れた。  食事に誘ってくれたくらいだから、ちゃんと食欲はあったのだろうが、一度約束をふいにした上に、自分で払い切れない食事代まで史岐に負担させるのはどうしても気が引けたのだろう。 「僕としても、利玖ちゃんには温かいものを食べて力をつけてほしい」史岐はメニュー・ブックを閉じてテーブル脇のスタンドに戻す。「頼んで良いね?」   二人の飲み物だけが先に運ばれてきて、史岐は追加でハニーチーズ・トーストを注文した。



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