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銀箭から逃げおおせた娘

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「あえて私が申し上げる事でもないでしょうが、利玖さんはかつて、きわめてまれかつ神秘的な要因によって命の危機に晒され、そこから生還されました。その事によって、いくつかの団体から貴重な『被検体』とみなされているのです。  勿論、これはおおやけにされている情報ではありません。ですが、そういう手合いの話は、どれだけかたくなに封じ込めようとしても、いつかは求める者の手の中に落ちるものです。わたしの所にやって来たのも、そういう筋からの依頼だったというわけです」  まるで初めから、頭の中に彼の言葉を記憶する為に作られた専用のメモリがあって、あらかじめ決められたやり方で一言一句が余す所なくそこに刻み込まれていくような、異様な高揚を感じながら、利玖は千堂の話に耳を傾けていた。  銀箭に襲われた時の記憶を、今の利玖は失っている。どこで、どのように出遭ったのか、なぜ瑠璃が身代わりになったのか、それらすべてを思い出す事が出来ない。だが、兄の態度や、ここ数日で見聞きした柏名山の妖達の様子から、それが間違いなく現実に起きた出来事であると確信はしていた。  銀箭に狙われ、実際に襲われたにもかかわらず、五体満足で生き残った自分は、確かに貴重なサンプルなのだろう。だが、利玖は今まで、その記憶に囚われずに生きていく事に必死で、自分の事をそんな風に考えた事がなかった。  千堂の言うように、自分を『被検体』とみなしている勢力が本当に存在しているのかもしれない。  もしも千堂が、そして、彼の後ろにいる組織が、兄ですら知り得ないような情報を持っているのだとしたら……。  いつの間にか、食い入るように千堂の顔を凝視していた事に気づき、利玖は頬を赤らめて視線を逸らした。 「何度か店に足を運んで頂いて、踏み込んだお話が出来るようになってから、こちらの交渉担当とお会いしてもらう予定でいたのですが、それよりも先にばれてしまいましたね」千堂は困ったように微笑んだが、口調は変わらずに紳士的だった。  利玖は呼吸を整えながら、両手で紙コップを包むように持ち、まだほんのりと温かいカモミール・ティーを一口、二口と飲んでテーブルに置いた。 「このお店の飲み物も食事も、心尽くしの逸品ばかりで感動しました。第三者からの情報提供がなければ、たぶん、千堂さんの思い描いておられた通りに事が運んでいたと思います」利玖は素直にそう話した。「今日に至るまで、様々な準備もされてきた事と思います。それを諦めて頂くのは心苦しいのですが、どうか今後の事は、わたし達に任せて頂けませんか?」 「それは構いませんが、具体的に、私は何をすればいいんでしょう?」 「はい」利玖は姿勢を正して、ここに来る前に叩き込んできた台本を頭の中に呼び覚ました。「千堂さんには一旦、柏名湖から離れて頂きたいと考えています。同じ市内で、妖の力が及ばない土地をこちらでピックアップしますので、そこへ移り住んで頂くという形です」 「何か、補助のようなものがあると助かりますね」 「はい、そちらについても、最大限手は尽くしたいと思うのですが、十分な金額をお渡しできる保証は、現時点ではありません」利玖は頭を下げる。そして、前回と同じ位置に掛けられている彗星の絵画を、なるべく丁寧な仕草で手で示した。 「そこで、ご提案なのですが、幾ばくかの補填としてあの絵を買い取らせてもらえないでしょうか。あれほど見事な品であれば、きっと値段がつくと思います。完全に手放す事に抵抗がお有りなら、質に入れるという形で、一旦我々が買い取って然るべき環境に保管しておき、転居先での生活が落ち着いた頃に買い戻して頂くという形にしても構いません」 「なるほど……」  千堂は顎をさすって彗星の絵を見つめ、黙り込んだ。  彼の横顔に、利玖達の権限と申し出をどれほど信用して良いものか、決めかねているような逡巡が浮かんでいる気がして、利玖は思わずテーブルに手をついて身を乗り出した。 「住む場所を移すというのは、大変な労力のいる仕事です。何もかも我々にお任せください、と言い切る事は出来ません。しかし、怪異と関わる生活を続ければ、千堂さんも知らないうちに、精気、寿命、または天運と呼ばれるもの……、そういった、生きていく上で自分の身を守ってくれるエネルギィを搾取されてしまう可能性もあります。そうなれば、怪異の力は増し、千堂さんの予想がつかない所にも影響が及ぶでしょう。コントロールが出来なくなる前に、一刻も早くここを離れる事をおすすめします」  千堂はしばらく、口を閉ざしたまま何か考えていた。  やがて、彼は利玖と史岐の顔を順に見て、おもむろに腰を上げた。 「わかりました。それでは、まず、貴方達に見極めて頂きましょうか。──柏名湖に棲むモノが、私に提供した価値を」



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「あえて私が申し上げる事でもないでしょうが、利玖さんはかつて、きわめてまれかつ神秘的な要因によって命の危機に晒され、そこから生還されました。その事によって、いくつかの団体から貴重な『被検体』とみなされているのです。  勿論、これはおおやけにされている情報ではありません。ですが、そういう手合いの話は、どれだけかたくなに封じ込めようとしても、いつかは求める者の手の中に落ちるものです。わたしの所にやって来たのも、そういう筋からの依頼だったというわけです」  まるで初めから、頭の中に彼の言葉を記憶する為に作られた専用のメモリがあって、あらかじめ決められたやり方で一言一句が余す所なくそこに刻み込まれていくような、異様な高揚を感じながら、利玖は千堂の話に耳を傾けていた。  銀箭に襲われた時の記憶を、今の利玖は失っている。どこで、どのように出遭ったのか、なぜ瑠璃が身代わりになったのか、それらすべてを思い出す事が出来ない。だが、兄の態度や、ここ数日で見聞きした柏名山の妖達の様子から、それが間違いなく現実に起きた出来事であると確信はしていた。  銀箭に狙われ、実際に襲われたにもかかわらず、五体満足で生き残った自分は、確かに貴重なサンプルなのだろう。だが、利玖は今まで、その記憶に囚われずに生きていく事に必死で、自分の事をそんな風に考えた事がなかった。  千堂の言うように、自分を『被検体』とみなしている勢力が本当に存在しているのかもしれない。  もしも千堂が、そして、彼の後ろにいる組織が、兄ですら知り得ないような情報を持っているのだとしたら……。  いつの間にか、食い入るように千堂の顔を凝視していた事に気づき、利玖は頬を赤らめて視線を逸らした。 「何度か店に足を運んで頂いて、踏み込んだお話が出来るようになってから、こちらの交渉担当とお会いしてもらう予定でいたのですが、それよりも先にばれてしまいましたね」千堂は困ったように微笑んだが、口調は変わらずに紳士的だった。  利玖は呼吸を整えながら、両手で紙コップを包むように持ち、まだほんのりと温かいカモミール・ティーを一口、二口と飲んでテーブルに置いた。 「このお店の飲み物も食事も、心尽くしの逸品ばかりで感動しました。第三者からの情報提供がなければ、たぶん、千堂さんの思い描いておられた通りに事が運んでいたと思います」利玖は素直にそう話した。「今日に至るまで、様々な準備もされてきた事と思います。それを諦めて頂くのは心苦しいのですが、どうか今後の事は、わたし達に任せて頂けませんか?」 「それは構いませんが、具体的に、私は何をすればいいんでしょう?」 「はい」利玖は姿勢を正して、ここに来る前に叩き込んできた台本を頭の中に呼び覚ました。「千堂さんには一旦、柏名湖から離れて頂きたいと考えています。同じ市内で、妖の力が及ばない土地をこちらでピックアップしますので、そこへ移り住んで頂くという形です」 「何か、補助のようなものがあると助かりますね」 「はい、そちらについても、最大限手は尽くしたいと思うのですが、十分な金額をお渡しできる保証は、現時点ではありません」利玖は頭を下げる。そして、前回と同じ位置に掛けられている彗星の絵画を、なるべく丁寧な仕草で手で示した。 「そこで、ご提案なのですが、幾ばくかの補填としてあの絵を買い取らせてもらえないでしょうか。あれほど見事な品であれば、きっと値段がつくと思います。完全に手放す事に抵抗がお有りなら、質に入れるという形で、一旦我々が買い取って然るべき環境に保管しておき、転居先での生活が落ち着いた頃に買い戻して頂くという形にしても構いません」 「なるほど……」  千堂は顎をさすって彗星の絵を見つめ、黙り込んだ。  彼の横顔に、利玖達の権限と申し出をどれほど信用して良いものか、決めかねているような逡巡が浮かんでいる気がして、利玖は思わずテーブルに手をついて身を乗り出した。 「住む場所を移すというのは、大変な労力のいる仕事です。何もかも我々にお任せください、と言い切る事は出来ません。しかし、怪異と関わる生活を続ければ、千堂さんも知らないうちに、精気、寿命、または天運と呼ばれるもの……、そういった、生きていく上で自分の身を守ってくれるエネルギィを搾取されてしまう可能性もあります。そうなれば、怪異の力は増し、千堂さんの予想がつかない所にも影響が及ぶでしょう。コントロールが出来なくなる前に、一刻も早くここを離れる事をおすすめします」  千堂はしばらく、口を閉ざしたまま何か考えていた。  やがて、彼は利玖と史岐の顔を順に見て、おもむろに腰を上げた。 「わかりました。それでは、まず、貴方達に見極めて頂きましょうか。──柏名湖に棲むモノが、私に提供した価値を」



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