密談

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 部屋の扉がしめやかにノックされ、佐倉川様、と声がかかった。 「はい」利玖は目元を拭って返事をする。「どうぞ、お入りください」  黒子の従者が、裁縫箱のようなものを持って部屋に入ってきた。木製で、厚みがあったので、そんな風に感じたのだが、よく見るとミニチュアみたいな茶碗と、やはり小ぶりの白い急須が乗っている。 「当主からの差し入れでございます」  それだけ言い置いて、従者は部屋を出て行った。  利玖と史岐は顔を見合わせる。  もう、茶も、干菓子も食べた後だったが、こちらが本命だったのだろうか。それとも、備え付けの茶葉などでは到底満足出来まい、という美蕗らしい心遣いか。  急須の蓋を取ると、イチゴに似た甘い香りが広がった。茶葉は取り出されているようだ。同じ盆に乗っている二つの茶碗に注いで、ちょうど空になるくらいの量だった。  利玖も史岐も、特に疑問を抱かずに茶を注いだ。  正直な所、利玖は、史岐を説得する言葉を見つけられずに悩んでいるタイミングでこれが運ばれてきた助かった、と思っていた。もしかしたら、従者は少し前から扉の前で控えていて、自分達の会話が途切れるのを待っていたのかもしれない。  なるべくゆっくりと茶を飲んで、その間に上手い言い方を考えよう、と思っていたが、気がついた時、利玖は近づいた覚えもないベッドの中で仰向けになって天井を見上げていた。  しばらく、ぽかんとしてしまう。  眠っていたらしい。ぽつぽつと熱がこもった指先と、体に残っただるさがそれを告げている。  史岐の姿はなかった。  自分だけが別室に運ばれたのか、それとも史岐が外に連れ出されたのか。とにかく、茶を半分ほど飲んだ所で記憶が途切れている。  ベッドの中で半身を起こした姿勢のまま、辺りを見回したが、そもそも最初に入った時ですら、細部を見ている余裕などなかった部屋だ。調度品や内装が少し変わったくらいでは気づけないだろう。ただ、ベッドの数は二つで、それは変わっていない、という事だけはわかった。  窓がある面を除いた三つの壁に一つずつ扉がついている。だが、そのうちの二つには鍵がかかっていて開かない。  唯一開く扉のノブを回して、そうっと向こう側に押し開けた時、すぐ横に人影が見えて、利玖は息が止まりそうなほど驚いた。 「よう」  扉の脇に立っていた冨田とみたしゅうが唇の端を持ち上げて挨拶をした。史岐の友人で、彼と同じ潟杜大工学部の三年生である。  しかし、昨年の暮れには、なぜか槻本家の使者として利玖の生家を訪れた。彼は霊視の力を持っているので、それを取引の材料にして槻本家と何らかの契約を交わしたのではないか、というのが利玖の推察である。  大学で見かける時にはいつもラフな格好で、髪もぼさぼさなのに、今は前髪を上げて上等な黒いスーツを着ている。一瞬、まったく知らない人物かと見紛うほどだった。 「史岐なら、別の部屋で寝てるよ。違う薬を使ったからな。あと二時間は起きてこない」  利玖は無言で頷いた。  おそらく、後から運ばれてきた茶碗に仕掛けがしてあったのだろう。大きさは同じだったが、片方には青の塗料で幾何学模様が、もう片方には薄紅色で小さな花が描かれていた。すっかり体に染みついた、ごく自然な習慣として、幾何学模様の茶碗を史岐が、花柄の茶碗を利玖が使ったのだ。  自分にだけ、早く目が覚める薬が使われ、史岐と部屋を離された理由の察しはついている 「平気か?」利玖の顔を覗き込んで、柊牙が眉を曇らせた。「お嬢の時間はまだあるから、具合が悪ければもう少し後にしても良いが」 「いいえ」利玖はきっぱりと首を振る。「美蕗さんの所へ。ご相談したい事があります」  一度、意識が途切れているので、利玖はこの広大な敷地内で自分が今どこにいるのかを正確に把握する事を諦めた。とにかく柊牙の後について廊下を進み、角を曲がり、たまに階段のような段差を上ったり下りたりして、古い型版硝子を填め込んだ扉の前に辿り着いた。  柊牙がノックをして扉を開ける。  中は八畳ほどの応接室で、うつむいた花のような造形のシェードライトが天井に一つ灯っていた。そこに使われている硝子がまったくの無色ではない為、壁も床も、テーブルに敷かれた白いクロスも、黄昏時みたいなセピア調に染まっている。  正面にレースのカーテンが掛かった窓があり、その手前に置かれた安楽椅子に美蕗が腰掛けていたとほつみの道で羽織っていた打掛は、椅子の背もたれに掛けられ、代わりに真っ白な毛織物が彼女の腰から爪先を覆っている。 「上手く目覚めてくれて良かったわ」美蕗が微笑む。両手の指を組み合わせて、心から満足しているような表情だった。「勤勉な肝臓をお持ちなのね」 「おかげさまで疲れも癒えました。ありがとうございます」柊牙に勧められて、利玖はテーブル前のソファに腰を下ろし、そこで改めて頭を下げた。 「貴重なお時間を割いて頂いた事、心より感謝を申し上げます。ただ、りょうらんせきという報酬が、美蕗さんに還元できる御礼になり得ない事が残念ですが……」 「何を言っているの、あれは最低保証でしょう。絞れるだけ絞り取ってもらうわよ」  美蕗は椅子の肘掛けを軋ませて立ち上がった。打掛を片手で取って、袖を通しながら利玖の前まで歩いてくる。 「眠っている間に少しは頭が冴えた?」 「はい」利玖は頷き、顔を上げた。 「千堂氏の過去を調べとほつみの道でヌシ達の話を聞いた今、史岐さんはおそらく、このように考えておられると思います。千堂氏は、ヒトのことわりの外にある方法で娘と会わせてもらう事と引き換えに、銀箭と結託している、と……」  美蕗は目を細め、首をかしげるような仕草で先を促す。 「遺体がまだ見つかっていないのに積極的な捜索活動を行っていない事も、わざわざ事故現場に近い柏名湖畔に住まいを移した事も、銀箭の力が及ぶ場所でなければ娘との対面が叶わない為だと考えれば説明がつきます」 「あなたは、違うのね?」  そう問われて、利玖は喉もとを押さえて頷き、目をつぶった。 「彗星の絵……」そう呟き、目を開ける。 「喫茶ウェスタに飾られていた、あの絵は、ものすごい緻密さで描かれていました。比喩ではなく、寿命を削って作り上げられた事が素人しろうとにもわかるくらい……。千堂さんが、今でも娘さんと会えているというのなら、その情熱は一体、どこから来るのでしょうか?」  美蕗は目を伏せて「皮肉なものね」と呟いた。 「芸事に通じている史岐を差し置いて、貴女の方が先に気づいたというのは……。でも、彼の生い立ちを考えれば、そう思い込むしかない、という事なのかしらね」  美蕗は柊牙に向かって片手の指を立て、手前に引くように動かす。すると、扉の脇に立っていた柊牙が江戸の絡繰り人形みたいに紙の挟まったクリアファイルを運んできて、二人の間にあるテーブルに置いた。 「千堂が買った画材の履歴を調べさせたわ」  クリアファイルに入っていた紙を取り出しながら美蕗が言う。そんな事、個人が無許可でやってもいいのか、と思ったが、利玖は口に出さなかった。 「結論を先に言うと、彼は、十枚や二十枚じゃきかない数の油絵を描くのに十分な画材を買い込み、かつ、一枚も外に出していない。どこかに売ったり、コンテストに応募した形跡がまったくない、という意味ね」 「わたしと史岐さんが見た絵以外にも、彗星を描いたものがたくさんあって、それらすべてを手元に残されている、という事ですか?」利玖は紙を引き寄せて、並んでいる数字に目を通す。「自分が描いて満足する為だけに、これだけのお金を使うだなんて、ちょっと、並大抵の思い入れではありませんね」 「もしかしたら、その絵だって史岐が行った日に初めてフロアに出したんじゃないの? 彼の車のエキゾスト・ノートって遠くからでもわかるもの」  美蕗は紙をクリアファイルに戻し、裏返しにしてテーブルに伏せると、脚を組み替えて利玖を見つめた。 「さて……。あなたは、千堂が執着しているのは娘ではなく、彗星の方だと考えている。それはわたしも同じ見解です。しかし、だとすると、困ったわね、彼はもう一度同じ彗星が見られるまで柏名山を離れないかもしれない。銀箭への助力も続けるでしょう。かといって、彗星なんて簡単に呼び出せるものでもないし……」  いかにも途方に暮れたという風に、尻すぼみになって消えていく美蕗の声を聞きながら、利玖は胸の奥で、ドンッ、ドンッと鼓動が強まるのを感じていた。  千堂を止める最も手っ取り早い方法が何なのか、美蕗はわかっている。  言わないだけだ。  利玖が自ら、それを切り出すのを待っている。 「美蕗さん」利玖は膝の上で手を握りしめて、美蕗を睨んだ。 「今少しお力をお借り出来ませんか。史岐さんに気づかれないように進めたい策があります」



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前のエピソード 蛉籃石が呼び寄せるもの

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 部屋の扉がしめやかにノックされ、佐倉川様、と声がかかった。 「はい」利玖は目元を拭って返事をする。「どうぞ、お入りください」  黒子の従者が、裁縫箱のようなものを持って部屋に入ってきた。木製で、厚みがあったので、そんな風に感じたのだが、よく見るとミニチュアみたいな茶碗と、やはり小ぶりの白い急須が乗っている。 「当主からの差し入れでございます」  それだけ言い置いて、従者は部屋を出て行った。  利玖と史岐は顔を見合わせる。  もう、茶も、干菓子も食べた後だったが、こちらが本命だったのだろうか。それとも、備え付けの茶葉などでは到底満足出来まい、という美蕗らしい心遣いか。  急須の蓋を取ると、イチゴに似た甘い香りが広がった。茶葉は取り出されているようだ。同じ盆に乗っている二つの茶碗に注いで、ちょうど空になるくらいの量だった。  利玖も史岐も、特に疑問を抱かずに茶を注いだ。  正直な所、利玖は、史岐を説得する言葉を見つけられずに悩んでいるタイミングでこれが運ばれてきた助かった、と思っていた。もしかしたら、従者は少し前から扉の前で控えていて、自分達の会話が途切れるのを待っていたのかもしれない。  なるべくゆっくりと茶を飲んで、その間に上手い言い方を考えよう、と思っていたが、気がついた時、利玖は近づいた覚えもないベッドの中で仰向けになって天井を見上げていた。  しばらく、ぽかんとしてしまう。  眠っていたらしい。ぽつぽつと熱がこもった指先と、体に残っただるさがそれを告げている。  史岐の姿はなかった。  自分だけが別室に運ばれたのか、それとも史岐が外に連れ出されたのか。とにかく、茶を半分ほど飲んだ所で記憶が途切れている。  ベッドの中で半身を起こした姿勢のまま、辺りを見回したが、そもそも最初に入った時ですら、細部を見ている余裕などなかった部屋だ。調度品や内装が少し変わったくらいでは気づけないだろう。ただ、ベッドの数は二つで、それは変わっていない、という事だけはわかった。  窓がある面を除いた三つの壁に一つずつ扉がついている。だが、そのうちの二つには鍵がかかっていて開かない。  唯一開く扉のノブを回して、そうっと向こう側に押し開けた時、すぐ横に人影が見えて、利玖は息が止まりそうなほど驚いた。 「よう」  扉の脇に立っていた冨田とみたしゅうが唇の端を持ち上げて挨拶をした。史岐の友人で、彼と同じ潟杜大工学部の三年生である。  しかし、昨年の暮れには、なぜか槻本家の使者として利玖の生家を訪れた。彼は霊視の力を持っているので、それを取引の材料にして槻本家と何らかの契約を交わしたのではないか、というのが利玖の推察である。  大学で見かける時にはいつもラフな格好で、髪もぼさぼさなのに、今は前髪を上げて上等な黒いスーツを着ている。一瞬、まったく知らない人物かと見紛うほどだった。 「史岐なら、別の部屋で寝てるよ。違う薬を使ったからな。あと二時間は起きてこない」  利玖は無言で頷いた。  おそらく、後から運ばれてきた茶碗に仕掛けがしてあったのだろう。大きさは同じだったが、片方には青の塗料で幾何学模様が、もう片方には薄紅色で小さな花が描かれていた。すっかり体に染みついた、ごく自然な習慣として、幾何学模様の茶碗を史岐が、花柄の茶碗を利玖が使ったのだ。  自分にだけ、早く目が覚める薬が使われ、史岐と部屋を離された理由の察しはついている 「平気か?」利玖の顔を覗き込んで、柊牙が眉を曇らせた。「お嬢の時間はまだあるから、具合が悪ければもう少し後にしても良いが」 「いいえ」利玖はきっぱりと首を振る。「美蕗さんの所へ。ご相談したい事があります」  一度、意識が途切れているので、利玖はこの広大な敷地内で自分が今どこにいるのかを正確に把握する事を諦めた。とにかく柊牙の後について廊下を進み、角を曲がり、たまに階段のような段差を上ったり下りたりして、古い型版硝子を填め込んだ扉の前に辿り着いた。  柊牙がノックをして扉を開ける。  中は八畳ほどの応接室で、うつむいた花のような造形のシェードライトが天井に一つ灯っていた。そこに使われている硝子がまったくの無色ではない為、壁も床も、テーブルに敷かれた白いクロスも、黄昏時みたいなセピア調に染まっている。  正面にレースのカーテンが掛かった窓があり、その手前に置かれた安楽椅子に美蕗が腰掛けていたとほつみの道で羽織っていた打掛は、椅子の背もたれに掛けられ、代わりに真っ白な毛織物が彼女の腰から爪先を覆っている。 「上手く目覚めてくれて良かったわ」美蕗が微笑む。両手の指を組み合わせて、心から満足しているような表情だった。「勤勉な肝臓をお持ちなのね」 「おかげさまで疲れも癒えました。ありがとうございます」柊牙に勧められて、利玖はテーブル前のソファに腰を下ろし、そこで改めて頭を下げた。 「貴重なお時間を割いて頂いた事、心より感謝を申し上げます。ただ、りょうらんせきという報酬が、美蕗さんに還元できる御礼になり得ない事が残念ですが……」 「何を言っているの、あれは最低保証でしょう。絞れるだけ絞り取ってもらうわよ」  美蕗は椅子の肘掛けを軋ませて立ち上がった。打掛を片手で取って、袖を通しながら利玖の前まで歩いてくる。 「眠っている間に少しは頭が冴えた?」 「はい」利玖は頷き、顔を上げた。 「千堂氏の過去を調べとほつみの道でヌシ達の話を聞いた今、史岐さんはおそらく、このように考えておられると思います。千堂氏は、ヒトのことわりの外にある方法で娘と会わせてもらう事と引き換えに、銀箭と結託している、と……」  美蕗は目を細め、首をかしげるような仕草で先を促す。 「遺体がまだ見つかっていないのに積極的な捜索活動を行っていない事も、わざわざ事故現場に近い柏名湖畔に住まいを移した事も、銀箭の力が及ぶ場所でなければ娘との対面が叶わない為だと考えれば説明がつきます」 「あなたは、違うのね?」  そう問われて、利玖は喉もとを押さえて頷き、目をつぶった。 「彗星の絵……」そう呟き、目を開ける。 「喫茶ウェスタに飾られていた、あの絵は、ものすごい緻密さで描かれていました。比喩ではなく、寿命を削って作り上げられた事が素人しろうとにもわかるくらい……。千堂さんが、今でも娘さんと会えているというのなら、その情熱は一体、どこから来るのでしょうか?」  美蕗は目を伏せて「皮肉なものね」と呟いた。 「芸事に通じている史岐を差し置いて、貴女の方が先に気づいたというのは……。でも、彼の生い立ちを考えれば、そう思い込むしかない、という事なのかしらね」  美蕗は柊牙に向かって片手の指を立て、手前に引くように動かす。すると、扉の脇に立っていた柊牙が江戸の絡繰り人形みたいに紙の挟まったクリアファイルを運んできて、二人の間にあるテーブルに置いた。 「千堂が買った画材の履歴を調べさせたわ」  クリアファイルに入っていた紙を取り出しながら美蕗が言う。そんな事、個人が無許可でやってもいいのか、と思ったが、利玖は口に出さなかった。 「結論を先に言うと、彼は、十枚や二十枚じゃきかない数の油絵を描くのに十分な画材を買い込み、かつ、一枚も外に出していない。どこかに売ったり、コンテストに応募した形跡がまったくない、という意味ね」 「わたしと史岐さんが見た絵以外にも、彗星を描いたものがたくさんあって、それらすべてを手元に残されている、という事ですか?」利玖は紙を引き寄せて、並んでいる数字に目を通す。「自分が描いて満足する為だけに、これだけのお金を使うだなんて、ちょっと、並大抵の思い入れではありませんね」 「もしかしたら、その絵だって史岐が行った日に初めてフロアに出したんじゃないの? 彼の車のエキゾスト・ノートって遠くからでもわかるもの」  美蕗は紙をクリアファイルに戻し、裏返しにしてテーブルに伏せると、脚を組み替えて利玖を見つめた。 「さて……。あなたは、千堂が執着しているのは娘ではなく、彗星の方だと考えている。それはわたしも同じ見解です。しかし、だとすると、困ったわね、彼はもう一度同じ彗星が見られるまで柏名山を離れないかもしれない。銀箭への助力も続けるでしょう。かといって、彗星なんて簡単に呼び出せるものでもないし……」  いかにも途方に暮れたという風に、尻すぼみになって消えていく美蕗の声を聞きながら、利玖は胸の奥で、ドンッ、ドンッと鼓動が強まるのを感じていた。  千堂を止める最も手っ取り早い方法が何なのか、美蕗はわかっている。  言わないだけだ。  利玖が自ら、それを切り出すのを待っている。 「美蕗さん」利玖は膝の上で手を握りしめて、美蕗を睨んだ。 「今少しお力をお借り出来ませんか。史岐さんに気づかれないように進めたい策があります」



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