機関を騙る

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 佐倉川利玖と熊野史岐は、週が明けた金曜日の午後、再び柏名湖を訪れた。太陽はまだ十分に眩しく、久しぶりに高地・潟杜市らしい青空が広がっている。  一度、喫茶ウェスタの前を通り過ぎ、彗星を探した駐車帯に車を入れる。  以前訪れた時よりも確実に雪の量が減っていて、ガードレール下の地面には、いくつかの春草が芽吹いていた。 「チョーカーが良いです」しゃがみ込んで植生の観察をしていた利玖が唐突に言った。「史岐さんから何か贈ってもらうなら、チョーカーが良い気がします」 「……ああ」煙草を咥えて車のボディにもたれていた史岐が、処理落ちしたような沈黙の後、煙草を手に移して煙を吐いた。「りょうらんせきの加工のこと言ってる?」 「もちろんです」利玖は彼を仰いで頷く。「オーダーメイドでチョーカーを作ってくださるお知り合いがいらっしゃるのでしょう? しかも、妖絡みでも実用可能な物を」 「えらく切り込んでくるね」史岐は苦笑した。「びっくりした……。ちょっと今、頭が真っ白になったよ。僕の緊張をほぐそうとしてくれたのなら、効果抜群だね」  そう言って煙草をもみ消す史岐は、式典帰りでもないのにクラシカルなスーツとロングコートを着用している。利玖も、入学式の時に買ってもらったリクルート・スーツと黒のパンプスだった。  示し合わせたように──というよりも、示し合わせたからなのだが──こんな格好をしている事には、もちろん理由がある。非常に刺激の強いスリルが、胡椒みたいにたっぷりと擦り込まれた理由だ。二人がわざわざ遠回りをして駐車帯で時間を潰している事にも、少なからずそれが影響している。 「そろそろ行こうか」史岐が腕時計を見て言った。二本目の煙草に火を点けてしまったらきりがない、と思ったのかもしれない。 「はい。よろしくお願いします」利玖は立ち上がって助手席のドアを開けた。 「蛉籃石って、どんな色をしているんですかね?」  二人は喫茶ウェスタの駐車場に移動し、車を降りて店内に入った。  前回は気づかなかった事だが、外は天気が良いのに、どことなく薄暗い。食事をする気分になれない、という意味では決してない。こういう雰囲気を好む客も確実に存在するだろう。だが、今は槻本邸で得た情報の数々が作用して、それが利玖の心にわずかな恐怖と警戒心を芽生えさせた。  ドアベルの音を聞いてカウンタから出て来た千堂は、二人の姿を見て「あ……」と息を漏らして目を見開いた。 「こんにちは」利玖は微笑んで会釈する。「先日は、美味しいサングリアとクッキーをどうもありがとうございました」 「いえ、そんな」千堂ははにかんで、ほっとしたように片手をエプロンの胸元にやった。左手である。指輪はつけていない。それらを史岐は、無意識のうちに観察していた。 「また足を運んで頂いて、恐れ入ります。どうぞお好きな席へ。今、メニューを──」 「千堂さん」彼の話を遮って、史岐はジャケットの内ポケットから金属の名刺入れを取り出した。 「お店の営業中にこんな事を切り出すのは大変気が引けるのですが、我々は今、とある高名な方からの依頼で貴方の事を調べています」  史岐は名刺を一枚抜いて千堂に渡す。そこに書かれている名前は、史岐の本名だったが、あとは調査機関の名称、ロゴ、連絡先や肩書きに至るまですべてが架空のものだった。  一応、利玖にも同じデザインの名刺が用意されていて、そちらは肩書きの後ろに「助手」の二文字が付いている。旧家・槻本家ともなると、名刺の一つや二つ偽造する事くらい、三日とかからずに出来てしまうらしい。  千堂はさして驚いた風でもなく、名刺を受け取って「へえ……」と眺めた。 「それって、お金になるんですか?」 「我々の仕事は単なる調査です。調べた結果を誰がどのように使うのか、それによってどのような利益が生じるのか、そういった点は仕事をする上で考慮しません」 「なるほど。よくわかりました」千堂は頷いたが、その後、弄ぶように指で名刺を回転させた。「正直な所、そんな依頼をされる心当たりはまったくないのですが……。この近くで事件が起きて、私が容疑者の一人になっている、というような状況でしょうか?」 「お答え出来かねます」史岐は機械的な微笑みを作り、窓の外へ視線を移す。「ですが、あの湖で昔、水難事故が起きたようですね。まだ千堂さんがこちらに越して来られる前の事ですが」  千堂の顔から笑みが消えた。 「その名刺が作りものではない事が、これでご理解頂けたでしょうか?」  史岐が少し首を傾けて訊く。まったく不審さを感じさせない口調だった。元からこれを副業にしていたのではないか、という疑問の方を強く意識してしまうほどである。 「ええ……」千堂は下唇を噛んでうつむいた。「申し訳ございません。大変失礼いたしました。これは、きちんとお話を聞かせて頂いた方が良さそうですね」  千堂は、利玖達の脇を通り抜けて店の入り口まで行き、扉を半分ほど開けて顔と片腕を外に出した。コ、と何かが扉にぶつかる軽い音がする。プレートをひっくり返したのか、と利玖は遅れて気がついた。 「これで、今日は店仕舞いです」  扉を閉めて、再びこちらを振り向いた千堂の顔には、最初に会った時と同じ接客用の笑顔が完璧に再現されていた。 「立ち話もどうかと思いますから、どうぞ、お好きな席へ……」



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 佐倉川利玖と熊野史岐は、週が明けた金曜日の午後、再び柏名湖を訪れた。太陽はまだ十分に眩しく、久しぶりに高地・潟杜市らしい青空が広がっている。  一度、喫茶ウェスタの前を通り過ぎ、彗星を探した駐車帯に車を入れる。  以前訪れた時よりも確実に雪の量が減っていて、ガードレール下の地面には、いくつかの春草が芽吹いていた。 「チョーカーが良いです」しゃがみ込んで植生の観察をしていた利玖が唐突に言った。「史岐さんから何か贈ってもらうなら、チョーカーが良い気がします」 「……ああ」煙草を咥えて車のボディにもたれていた史岐が、処理落ちしたような沈黙の後、煙草を手に移して煙を吐いた。「りょうらんせきの加工のこと言ってる?」 「もちろんです」利玖は彼を仰いで頷く。「オーダーメイドでチョーカーを作ってくださるお知り合いがいらっしゃるのでしょう? しかも、妖絡みでも実用可能な物を」 「えらく切り込んでくるね」史岐は苦笑した。「びっくりした……。ちょっと今、頭が真っ白になったよ。僕の緊張をほぐそうとしてくれたのなら、効果抜群だね」  そう言って煙草をもみ消す史岐は、式典帰りでもないのにクラシカルなスーツとロングコートを着用している。利玖も、入学式の時に買ってもらったリクルート・スーツと黒のパンプスだった。  示し合わせたように──というよりも、示し合わせたからなのだが──こんな格好をしている事には、もちろん理由がある。非常に刺激の強いスリルが、胡椒みたいにたっぷりと擦り込まれた理由だ。二人がわざわざ遠回りをして駐車帯で時間を潰している事にも、少なからずそれが影響している。 「そろそろ行こうか」史岐が腕時計を見て言った。二本目の煙草に火を点けてしまったらきりがない、と思ったのかもしれない。 「はい。よろしくお願いします」利玖は立ち上がって助手席のドアを開けた。 「蛉籃石って、どんな色をしているんですかね?」  二人は喫茶ウェスタの駐車場に移動し、車を降りて店内に入った。  前回は気づかなかった事だが、外は天気が良いのに、どことなく薄暗い。食事をする気分になれない、という意味では決してない。こういう雰囲気を好む客も確実に存在するだろう。だが、今は槻本邸で得た情報の数々が作用して、それが利玖の心にわずかな恐怖と警戒心を芽生えさせた。  ドアベルの音を聞いてカウンタから出て来た千堂は、二人の姿を見て「あ……」と息を漏らして目を見開いた。 「こんにちは」利玖は微笑んで会釈する。「先日は、美味しいサングリアとクッキーをどうもありがとうございました」 「いえ、そんな」千堂ははにかんで、ほっとしたように片手をエプロンの胸元にやった。左手である。指輪はつけていない。それらを史岐は、無意識のうちに観察していた。 「また足を運んで頂いて、恐れ入ります。どうぞお好きな席へ。今、メニューを──」 「千堂さん」彼の話を遮って、史岐はジャケットの内ポケットから金属の名刺入れを取り出した。 「お店の営業中にこんな事を切り出すのは大変気が引けるのですが、我々は今、とある高名な方からの依頼で貴方の事を調べています」  史岐は名刺を一枚抜いて千堂に渡す。そこに書かれている名前は、史岐の本名だったが、あとは調査機関の名称、ロゴ、連絡先や肩書きに至るまですべてが架空のものだった。  一応、利玖にも同じデザインの名刺が用意されていて、そちらは肩書きの後ろに「助手」の二文字が付いている。旧家・槻本家ともなると、名刺の一つや二つ偽造する事くらい、三日とかからずに出来てしまうらしい。  千堂はさして驚いた風でもなく、名刺を受け取って「へえ……」と眺めた。 「それって、お金になるんですか?」 「我々の仕事は単なる調査です。調べた結果を誰がどのように使うのか、それによってどのような利益が生じるのか、そういった点は仕事をする上で考慮しません」 「なるほど。よくわかりました」千堂は頷いたが、その後、弄ぶように指で名刺を回転させた。「正直な所、そんな依頼をされる心当たりはまったくないのですが……。この近くで事件が起きて、私が容疑者の一人になっている、というような状況でしょうか?」 「お答え出来かねます」史岐は機械的な微笑みを作り、窓の外へ視線を移す。「ですが、あの湖で昔、水難事故が起きたようですね。まだ千堂さんがこちらに越して来られる前の事ですが」  千堂の顔から笑みが消えた。 「その名刺が作りものではない事が、これでご理解頂けたでしょうか?」  史岐が少し首を傾けて訊く。まったく不審さを感じさせない口調だった。元からこれを副業にしていたのではないか、という疑問の方を強く意識してしまうほどである。 「ええ……」千堂は下唇を噛んでうつむいた。「申し訳ございません。大変失礼いたしました。これは、きちんとお話を聞かせて頂いた方が良さそうですね」  千堂は、利玖達の脇を通り抜けて店の入り口まで行き、扉を半分ほど開けて顔と片腕を外に出した。コ、と何かが扉にぶつかる軽い音がする。プレートをひっくり返したのか、と利玖は遅れて気がついた。 「これで、今日は店仕舞いです」  扉を閉めて、再びこちらを振り向いた千堂の顔には、最初に会った時と同じ接客用の笑顔が完璧に再現されていた。 「立ち話もどうかと思いますから、どうぞ、お好きな席へ……」



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