黒い私
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「……またせたか? すまなかったな」 あの後に感情に任せてひとしきり泣いた私は、近くのコンビニに立ち寄り、化粧室で手早くメイクを直して、涙の後を隠すと、待ち合わせ場所へと向かった。 約束の時間から5分ほど遅れて昭博はやってきた。 一見しただけでは何を考えているのかわからないけれど、車の中で私を無理やりに汚した時と少し違って見えたのは、私の見間違いなのだろうか。 「別に……5分くらい構わない」 恋人との待ち合わせというわけでもないし、会いたくて来たわけではない。 そういう気持ちが冷たい口調になって私の口から洩れる。 自分でも記憶にないほど、感情のこもっていない冷たい声。 そんな声が出せるのだと、少し驚く。 私の声を聴いて私の気持ちを察したのか、なぜか昭博は痛みに耐えるような表情をする。 わからない。 私を脅すことで縛り付け、自分の望みを果たそうとするような、もはや幼馴染とさえ思いたくない下劣な男が、なぜそんな顔をするのか。 私は冷たい視線を昭博に向けて、口を開く。 「今日は何の要件かしら。わざわざ学校をさぼらせてまで呼び出すほどの要件……まさか、私を自分の欲望のままに好き勝手するために呼び出したのかしら」 言葉を重ねるごとに口を開くたびに、どんどんと言葉の温度が、そして感情が冷え込んでいくのが解る。 そんな私の言葉を聞くと、また昭博は先ほどのような痛みに耐えるような表情を浮かべる。 以前の私ならそんな彼の様子に、心が動いたのかもしれない。 でも今の私には彼を気遣う気持ちは微塵も残っていなかった。 今の彼は……私の中ではもう敵になってしまっているのだから。 私と慶介の幸せな時間を脅かす敵。 私が慶介にささげるはずだった、一生に一度の大切なものを、無理矢理に奪い取った敵。 私を脅しつけ自分の自由にしようとする卑劣な男。 もう……私の中で昭博はそういう存在にまで堕ちてしまっていた。 たらればの話は好きではないけれど、もし今目の前で彼が車にひかれたとしても、私の心は動かないかもしれない。 それくらいに私の気持ちは彼から離れていた。 そしてやはり、そんなことを考えてしまう自分自身が怖くなる。 私は自分が気づいていないだけで、これほどまでに黒い感情を持っていたのだと愕然とする。 でも……。 と思う。 でもいいじゃない。だって彼は私たちの敵なのだから。 大好きで仲のいい幼馴染ではなく、卑劣で強欲で自己都合でしか動かない、私を傷つける敵なのだから。 だからそんな風に思っても仕方ないじゃない。 何度も心の中で自分自身に言い訳を与える。 「今日は……少し話したい。ついてこいよ」 弱弱しく言いかけて、脅すものという立場を認識させるためか後半はやや語気を強めた口調で彼は言う。 そもそも私には拒否権がないのだから、私は何も答えずにだまって彼に向かい歩き始める。 昭博は一瞬だけ手を伸ばしかけてきたが、私がにらみつけると微妙な笑みを浮かべてその腕をひっこめた。 そしてもう一度だけついてこいと言い、私に背を向けて歩き始めた。 ●〇●〇●〇●〇● 5分ほど歩いただろうか、彼は雑居ビルの1Fにあるカラオケ店の前で足を止める。 「誰にも聞かれずに話をするにはうってつけだろう。密室でもいいが……さすがにそれじゃ会話をすることもできないだろうしな」 こちらを振り向くことなく昭博が言う。 どちらにしても同じことだ、この狡猾な男はどんな罠を用意してくるかわからない。 私は一瞬たりとも警戒を緩めることなく、彼をにらみつけたまま黙っていた。 そんな私の反応を感じたのだろうか、彼はそれ以上何も言わず、やはりついてこいとだけいいカラオケ店の中に入っていく。 受付をして指示された部屋へ移動すると、そこは想像していたより広い部屋だった。 「朋美、お前はそこに座れ」 そういうと昭博は自分が座ったシートの向い側を指で指し示す。 横並びに座ってまたふしだらなことを仕掛けてくるのではないかと警戒していた私は、少し面喰うがそれを悟られないように努めて平静に彼の向かいに腰を下ろした。 ワンドリンク制の店なので飲み物は受付ですでに注文している。 だから店員が来るまでは話を切り出すつもりはないのだろう。 昭博はカラオケの機器をあれこれと操作して、かろうじて会話が聞き取れるくらいの音量に調整すると、適当に何曲か局の予約を入れたようだった。 「声が漏れることはないと思うが……念のためな」 何のための説明なのか、昭博は私に顔を向けることなくはっきりとそういう。 「別に……どうでもいい。気にしていないし。むしろあなたとこうして二人きりで部屋にいることのほうが私には苦痛だわ」 皮肉交じりに言い返してみる。 そうすると彼はまた、複雑そうな表情を浮かべる。 どうしたというのだろう、あれほど酷い事をしたくせに、こんなささやかな嫌味で傷ついたとでもいうのだろうか。 私の態度に彼は何かを言いかけて、そしてしばらくして口を閉じて再びリモコンを操作し始めた。 いつの間にか予約枠いっぱいになるまで曲が入っていたようで、聞きなじみのあるイントロが流れ始める。 「あ……インフィニット……」 聞覚えのある柔らかなピアノの旋律に、無意識に声を漏らす。 そして曲名とともによみがえる記憶に、一瞬浸りかけてそしてすぐに我に返る。 インフィニット。 私と慶介が好きだったシェルブールというバンドの代表曲。 ピアノとギターとベースとドラムという最小編成で構成されていたバンドで、優しいメロディラインや詩的で情緒がある歌詞のバラードをよく作っていた。 このインフィニットは、活動期間わずか3年というシェルブールが、解散前に発売したラストアルバムのタイトル曲でもあり、未来への希望や夢そして不安を儚いボーカルの旋律で歌い上げた曲で。 私はこの曲が大好きだった。 そしてわたしから熱弁を聞かせれていた慶介も、気に入ってくれた曲だった。 そんな曲を……私を汚して傷つけた昭博が入れたと思った瞬間に、ふいに怒りが沸き上がってきた。 体を汚すだけでなく、思い出まで汚された……そんな感覚だった。 いや……私がインフィニットの良さについて熱弁していた時、慶介と一緒に昭博もいたはずだった。 しかし今はもう、彼は私の思い出の中から消去されてしまっていたため、慶介と私の思い出という感覚を持ってしまっていたのだ。 そしてその事実にまた、私は愕然としてしまった。 15年の長い友情。 15年間積み重ねてきた時間。 そのすべてを私は、昨夜の出来事のせいでなかったことにしてしまっているという事実に。 慶介は私を優しいと言ってくれる。 優しすぎて無理をしないか心配になるから、俺が見張っていないとな……そう言って笑う慶介の顔が脳裏に浮かぶ。 でもね……慶介。 私は敵だと思った相手にはここまで残酷になるんだよ。 優しいだけの人間じゃないし、あなたが思うほどきれいな人間でもないんだよ。 昨夜の出来事からこっち、私は自分の中の黒さと酷薄さを見せつけられることが増えた気がする。 それは私自身へ強烈な自己嫌悪を与えてくる。 (なんで……汚されたのは、傷つけられたのは私なのに、それなのになぜ私は自分で自分が嫌になるの) 自問自答してみるが、答えなどでない。 ただ今までいい人たちに囲まれて、幸せに暮らしていたからこそ知ることのなかった自分の嫌な部分をまざまざと見せつけられてしまい、それは私自身知らなかったものでもあり、私はひどく動揺してしまうのだった。
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