狂ったのは何か
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ピピピ…… 薄暗い部屋の中で、聞きなれた電子音が鳴り響く。 それは人を目覚めさせるための音なのだが、今日はいつも以上にその音が耳障りに感じる。 普段感じないその神経を逆なでするような感覚に、私は理不尽にも目覚まし時計を掴み、勢いに任せて投げつけそうになり、寸前でかろうじて残っていた理性で自分の腕を止めた。 寝起きも夢見も最悪だった。 私は夢の中でも、昭博に襲われ蹂躙され、そして汚されてしまった。 彼の言葉を信じて、必要以上に慶介にも嘘をついてしまった自分のお人よし加減に苛立ちを覚える。 彼なんかの言葉に耳を貸さず、最愛の人に嘘などつかなければ、この出来事を訴えて対応してもらえたかもしれないなんて、虫のいいことを考える自分に吐き気がした。 そうすることが最善だと判断して、実行したのは自分なのだ。 それだけは誰のせいでもなく、自分自身のせいなのだと自覚している。 誰の言葉を信じて、誰のために動くか。 その判断を誤ったのは私であり、そしてこれは私の罪なのだ。 幼なじみ3人でいる事を、最初に拒絶したのは昭博だ。 それもまた間違いのないこと。 だけどそれでも3人で……と言いながら、昭博の行動が引き金になって、気持ちを抑えきれなくて、結果として幼なじみ3人の関係を完全に破壊してしまったのは私。 私が慶介に告白しなければ、自分の気持ちを押し殺していれば、無理やりにでも昭博を説き伏せて3人に戻れたかもしれないのに、それを完全に戻れなくしてしまったのは私。 なのに私は甘い夢を見て、昭博が理解して譲歩してくれたと信じて、彼の慶介と仲直りしたいという言葉を信じて、サプライズでプレゼントして、それをきっかけに彼に謝りたい仲直りしたいという言葉を信じてしまった。 よく考えたらわかるのに、本当はどこかで解っていたのに、私の中の甘い心がどこかで夢見ていたのだ。 その結果が……最愛の人に捧げるはずのものをあっさり奪われて、恋人すら触れたことのない自分の奥の奥まで蹂躙されて、そしてあまつさえ妊娠するかもしれない行為をされてしまった。 物思いにふけっていると、机の上に置きっぱなしになっていたiphoneが小刻みに振動する。 ぼんやりと視線を向けるとディスプレイには見慣れたメッセンジャーアプリの通知が表示されていた。 一瞬慶介? なんて都合のいい想像をしてみたけれど、本当は誰からのメッセージなのか見当はついていた。 昨晩……15年つきあってきて初めて見た獰猛な、獣のような彼の姿を脳裏に思い出して、無意識に肩を抱く。 『誰にもこのことは言うな。そして俺が呼び出したら必ず出てこい』 別れ際に彼の残した言葉がよみがえる。 今のメッセージが昭博からのもので、それが呼び出しの用件を伝えるものだったら……。 ちゃんと対応をしないと更なる泥沼にはまってしまう。 そう考えて身震いする。 (慶介……慶介……どうしたらいい……お願い、助けて) 無理なことと知りながら、それでも心の中で最愛の人に救いを求めてしまう。 そんなことをしても、何も変わらないのにと、冷静な自分が告げてくる。 わかっている……わかっているけれど、何かにすがらなければ今すぐにでも壊れてしまいそうなのだ。 たとえ意味のないことでも、それでも恋人の名を呼びすがらなければ立ち上がることさえできないのだから。 ●〇●〇●〇●〇●〇● やはりメッセージは昭博からだった。 【今日は大学をさぼって出かける。12時に駅前に来てくれ】 用件だけの簡潔な文章。 私は今のところこれを拒むことはできない。 気持ちも体もボロボロだけど、今は彼からの呼び出しに答えるしかないので、私は引きずるようにしてベッドから出て、ノロノロとクローゼットを開ける。 慶介からの呼び出しだったら、クローゼットの中を引っ掻き回しながら、そのあとの時間の事を想像してこれじゃないとか独り言を言いながら、服の組み合わせを選ぶ時間を楽しんだりするのだけれど、今はそんな気分でもない。 ささやかな抵抗の意味も込めて、スカートは選ばずにぴっちりとしたスキニーパンツを選択する。 上は無地の面白味もない淡いブルーのボタンシャツ。 可愛らしさなんて必要がない、ただ彼が私に手を出すのをためらう位に脱がせずらい服装ということしか頭にない。 わざと地味目の黒のショルダーバッグに、必要かどうかわからないけれど化粧ポーチや小物を詰め替える。 (別にそれを望んでいるわけでも、期待しているわけでもないけれど、アレを用意しておくべきなのか) ふと手を止めて考える。 私が拒もうと、彼が望めば私を再び蹂躙することはできるだろう。 それができるだけのカードを彼は持っているのだから。 ならせめて、避妊具だけは着用してもらえるようにもっていかないとと思う。 彼の子供を身ごもるなんて、絶対にごめんだ。 それだけは何があっても回避しなければならないことだと強く思う。 なら……不快だし、納得は出来ないけれど、私が用意して着用させなければならないかもしれない。 そう決意しながら、手早く荷物をまとめ、髪は面倒なので雑に一つに束ねる。 恋人とのデートではないのだから、気分が乗らない状態そのままで自宅で私は部屋を出る。 「あら……朋美、おはよう。今日は……いつになく地味な格好なのね」 自分の部屋から出て階段を降りると、リビングの入り口で母と鉢合わせる。 何となく顔を合わせたくないなと思っていたのに、最悪だと思ってしまう。 「どうしたの?服装もそうだけど……なんだか顔色が悪いわよ。……慶介君と何かあった?」 母親の鋭い指摘にドキリとする。 でもごめんなさい、何かあったのは事実だけど慶介と……ではない。 そしてそれは決して口に出すことはできない。 絶対に隠しておきたい秘密を守るためもあるけれど、幼なじみ三人をやさしく見守ってくれていた母に、慶介と付き合うことを報告した時、あれほど喜んでくれた母に、その幼なじみの一人の昭博があんなひどいことを私にしたなんて、そんなことは絶対に言えない。 言ってしまったら、このお人好しで優しくて明るい母をどれだけ傷つけることになるかなんて想像しなくても分かるから。 だから私は曖昧な笑みを浮かべて、そんなとこ……と苦笑を浮かべることしかできなかった。 「付き合い始めなんて、色々あるんだから……あんまり理想を押し付けたりしちゃだめよ」 私の心の中を知るはずもない母は、いつも通りの朗らかな笑顔でそういうと、ご飯できてるわよと言う。 本当は何も食べたいと思わないし、今何かを口にしたら吐いてしまいそうな気持悪さがあったけど、朝食を断ったら母に要らぬ心配をかけてしまうかもしれない。 だから私はあまりおなかすいていないんだけど……を言い訳をして、出されていたスクランブルエッグに一口だけ口をつけて、そして席を立った。 そして偽りまみれの笑顔を浮かべて、いつもと同じようにと意識をしながらいってきますと言って家を出た。 この先ずっとこんなことを続けるのだろうか。 不意にそんな思いが頭をよぎり、先ほど口にしたスクランブルエッグを吐いてしまいそうになる。 かろうじて口に手を当てて、それをこらえる。 気持ち悪さとみじめさで、目に涙が浮かぶ。 どうしてこんなことになってしまったのだろうか……。 考えても意味のないことばかり頭に浮かぶ。 本当にどうすればいいのだろう。 答えなんてわかるはずもないのに、私はそればかりを考えてしまうのだった。
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