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悔やむには遅すぎて(前編)

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「アイツさ……この間、総務のあの子とホテルから出てくるの見つけてさ」  広いはずの喫茶店。  それなりに客が入っていて、ザワザワとしている店内で、何故かその声だけははっきりと耳に届いて、結城裕香ゆうきひろかはビクッと体を震わせた。  大学時代の友人と、久々にあった嬉しさから立ち寄った喫茶店。    小一時間ほど談笑したあと、用事があるといって友達が帰っていったあとも、なんとなく店内に残っていた裕香だったが、そこでまさかそんな言葉を耳にすることになるとはと、裕香は己の不運を呪った。  アイツという単語の前に、アイツを示す人物の名はすでに告げられていた。  結城拓人ゆうきたくと……裕香と2年前に結婚をした伴侶の名前。  結城拓人というだけなら、他にもたくさんいるであろう名前の一つと自分に言い訳もできたかもしれない。  だがその会話の声の主が、夫と同じ会社に務める同僚なのだから、夫が浮気をしていると認識せざるを得ないことを彼女は理解していた。 「へぇ……でも拓人って結婚してなかったか? 結構美人な嫁さんもらってたよな」 「そうそう、奥さん美人だしスタイルもいいし、ましてや結婚してまだ2年だぜ。倦怠期とかになるようなタイミングでもないしさ、あんな綺麗な奥さん居るのになんで浮気するかねぇって不思議なんだよな」 「そうだな……美人でスタイルのいい奥さんがいるのに……か。案外奥さんがマグロとか? 夫婦生活が物足りなくて外で発散してるとかだったりしてな」  勝手な憶測で盛り上がる男たちの会話は、否応なく裕香の耳に入ってくる。  その言葉が彼女の心を何度も何度も切りつけていく。  確かに自分は奥手な方かもしれないと裕香は思う。  結婚するまでに交際した男性は2人しかいなかったし、そのうちの1人は高校生の時。  プラトニックな交際で、キスすらしないまま終わった。  その後に大学で拓人と出会い交際を始め、そして結婚した。  だから男性経験もなくて、拓人から要求される夫婦の行為に戸惑うことも多かったし、中にはその要求を受け入れられずに拒んだことも有る。  【案外、奥さんがマグロとか?】  夫の同僚たちが何気なく発した言葉が耳朶に蘇る。  付き合い始めた頃から関係が深くなるほどに、拓人は色々な愛し方を裕香に求めてきていた。  裕香も拓人を愛していたから、可能な範囲で必死にそれに応えてきた。  一度もしたことがない、男性のものを口に含むという、彼女にとってはおぞましい行為でさえ、彼に求められたから必死になって覚えた。  (でも……それでも彼は、満足できなかったというの)  絶望という言葉が裕香の心に広がっていく。  浮気されたかもしれないという事実に、裕香は怒りよりも先に絶望を感じていた。  あれ程愛して、必死に応えようとしたのに、それを裏切られた。  それは彼女にとって、女としての価値にダメ出しをされたように感じられてしまう。  その苦しさに、その場に居続けることに限界を感じてしまい、裕香はそっと席を立った。  手早く会計を済ませて店の外にでる。    外に出た途端に不意に涙が溢れてきた。  拓人が私を裏切った……他の女と……離婚されてしまうのだろうか。  浮気の事実を知った上で、それでもまだ裕香は拓人を愛していた。  だからこそ酷くショックを受けてしまった。  それと同時に、その事実と詳細を知りたいと思ってしまっても居た。 (相手の人がどんな人なのか知りたい……)  強くそう思った。  もう一度自分に振り向いて欲しいと思う。  そのためにもその女のなにを気に入って、拓人は浮気をしたのかを知りたいとそう思った。  ●〇●〇●〇●〇●  喫茶店の出来事から数日が経過した。  裕香はちらりと時計を見てあの喫茶店へと入る。  待ち合わせの時間にはまだ少し余裕があることを確認し、席につくとアメリカンを注文して、一つ息を吐く。  しばらくして、ウエイトレスが注文品を席に持ってきた時、ドアベルの音が店内に響いた。  裕香が入り口の方を見ると、そこには裕香が待ち合わせの約束を取り付けた相手、拓人と同じ会社の同じ部署で働く同僚でも有り、拓人が何度か家に連れてきたことが有るほどの付き合いがある男。  そしてあの日、この喫茶店で拓人の浮気の話をしていた男でも有る。  常磐貴郁ときわたかふみは拓人と同い年でもあり、プライベートでも趣味が合うためよく行動をともにしている。  アウトドア好きという拓人と共通の趣味があるため、何度かBBQをしていたし2ヶ月に一度くらいのペースで拓人の家にも来ていたため、裕香ともそれなりに親しい関係でも有る。 「裕香さんから呼び出されるなんて珍しいね、何かあったのかな? 拓人のことで相談とか」  屈託のない笑顔を裕香に向けたまま、彼女の対面の席に腰を下ろし、ウエイトレスにブレンドコーヒーを注文して、顔を裕香の方に向ける。  裕香は貴郁を呼び出したものの、なんと話を切り出せばよいかは考えていなかったため、口を開いては閉じてを繰り返して、なかなか言葉を紡ぎ出せずに居る。 「あー……もしかして、拓人の浮気に気づいた……とか」  コーヒーが届けられ、それをブラックのまま一口のんで、裕香の居心地悪そうな態度を見て貴郁が切り出す。 「えっと……この前、ここで友達とあってたんだけど、その時常磐さんと他に数人の男性がいて……会話が聞こえてきちゃったんです。詳しい話が聞きたくて」 「これ……俺が言ってもいいのかな、告げ口するみたいな後ろめたさがあるというか……それに俺の発言が原因で離婚とかになってしまっても後味悪いしね……」  苦笑交じりに貴郁が答える。 「離婚する気は有りません……私は……彼の気持ちを取り戻したいんです。だから相手の人がどんな人なのか、主人が何処に惹かれたのか……知りたい」  貴郁の言葉にすがりつくような視線を向けて、裕香が言う。  なんとしても情報がほしいと必死の眼差しで貴郁を見つめている。  その裕香の行動に、貴郁は複雑そうな表情を浮かべるが、すぐに表情を引き締める。 「離婚はしないと……、念のためだけど俺の発言を聞いたあと心変わりしたとしても、俺は無関係って約束してくれる? じゃないと俺は何も言えない。俺の発言で友人夫婦が壊れてしまうとか……嫌だからね」  貴郁はそう念を押した。  裕香は覚悟を決めてはっきりと頷いた。 「それじゃあ……俺の知ってる範囲で話すよ」  貴郁はそう前をして、もう一口だけコーヒーを飲むと、一度目を閉じて深く息を吐く。  そしてゆっくりと口を開いた。      



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「アイツさ……この間、総務のあの子とホテルから出てくるの見つけてさ」  広いはずの喫茶店。  それなりに客が入っていて、ザワザワとしている店内で、何故かその声だけははっきりと耳に届いて、結城裕香ゆうきひろかはビクッと体を震わせた。  大学時代の友人と、久々にあった嬉しさから立ち寄った喫茶店。    小一時間ほど談笑したあと、用事があるといって友達が帰っていったあとも、なんとなく店内に残っていた裕香だったが、そこでまさかそんな言葉を耳にすることになるとはと、裕香は己の不運を呪った。  アイツという単語の前に、アイツを示す人物の名はすでに告げられていた。  結城拓人ゆうきたくと……裕香と2年前に結婚をした伴侶の名前。  結城拓人というだけなら、他にもたくさんいるであろう名前の一つと自分に言い訳もできたかもしれない。  だがその会話の声の主が、夫と同じ会社に務める同僚なのだから、夫が浮気をしていると認識せざるを得ないことを彼女は理解していた。 「へぇ……でも拓人って結婚してなかったか? 結構美人な嫁さんもらってたよな」 「そうそう、奥さん美人だしスタイルもいいし、ましてや結婚してまだ2年だぜ。倦怠期とかになるようなタイミングでもないしさ、あんな綺麗な奥さん居るのになんで浮気するかねぇって不思議なんだよな」 「そうだな……美人でスタイルのいい奥さんがいるのに……か。案外奥さんがマグロとか? 夫婦生活が物足りなくて外で発散してるとかだったりしてな」  勝手な憶測で盛り上がる男たちの会話は、否応なく裕香の耳に入ってくる。  その言葉が彼女の心を何度も何度も切りつけていく。  確かに自分は奥手な方かもしれないと裕香は思う。  結婚するまでに交際した男性は2人しかいなかったし、そのうちの1人は高校生の時。  プラトニックな交際で、キスすらしないまま終わった。  その後に大学で拓人と出会い交際を始め、そして結婚した。  だから男性経験もなくて、拓人から要求される夫婦の行為に戸惑うことも多かったし、中にはその要求を受け入れられずに拒んだことも有る。  【案外、奥さんがマグロとか?】  夫の同僚たちが何気なく発した言葉が耳朶に蘇る。  付き合い始めた頃から関係が深くなるほどに、拓人は色々な愛し方を裕香に求めてきていた。  裕香も拓人を愛していたから、可能な範囲で必死にそれに応えてきた。  一度もしたことがない、男性のものを口に含むという、彼女にとってはおぞましい行為でさえ、彼に求められたから必死になって覚えた。  (でも……それでも彼は、満足できなかったというの)  絶望という言葉が裕香の心に広がっていく。  浮気されたかもしれないという事実に、裕香は怒りよりも先に絶望を感じていた。  あれ程愛して、必死に応えようとしたのに、それを裏切られた。  それは彼女にとって、女としての価値にダメ出しをされたように感じられてしまう。  その苦しさに、その場に居続けることに限界を感じてしまい、裕香はそっと席を立った。  手早く会計を済ませて店の外にでる。    外に出た途端に不意に涙が溢れてきた。  拓人が私を裏切った……他の女と……離婚されてしまうのだろうか。  浮気の事実を知った上で、それでもまだ裕香は拓人を愛していた。  だからこそ酷くショックを受けてしまった。  それと同時に、その事実と詳細を知りたいと思ってしまっても居た。 (相手の人がどんな人なのか知りたい……)  強くそう思った。  もう一度自分に振り向いて欲しいと思う。  そのためにもその女のなにを気に入って、拓人は浮気をしたのかを知りたいとそう思った。  ●〇●〇●〇●〇●  喫茶店の出来事から数日が経過した。  裕香はちらりと時計を見てあの喫茶店へと入る。  待ち合わせの時間にはまだ少し余裕があることを確認し、席につくとアメリカンを注文して、一つ息を吐く。  しばらくして、ウエイトレスが注文品を席に持ってきた時、ドアベルの音が店内に響いた。  裕香が入り口の方を見ると、そこには裕香が待ち合わせの約束を取り付けた相手、拓人と同じ会社の同じ部署で働く同僚でも有り、拓人が何度か家に連れてきたことが有るほどの付き合いがある男。  そしてあの日、この喫茶店で拓人の浮気の話をしていた男でも有る。  常磐貴郁ときわたかふみは拓人と同い年でもあり、プライベートでも趣味が合うためよく行動をともにしている。  アウトドア好きという拓人と共通の趣味があるため、何度かBBQをしていたし2ヶ月に一度くらいのペースで拓人の家にも来ていたため、裕香ともそれなりに親しい関係でも有る。 「裕香さんから呼び出されるなんて珍しいね、何かあったのかな? 拓人のことで相談とか」  屈託のない笑顔を裕香に向けたまま、彼女の対面の席に腰を下ろし、ウエイトレスにブレンドコーヒーを注文して、顔を裕香の方に向ける。  裕香は貴郁を呼び出したものの、なんと話を切り出せばよいかは考えていなかったため、口を開いては閉じてを繰り返して、なかなか言葉を紡ぎ出せずに居る。 「あー……もしかして、拓人の浮気に気づいた……とか」  コーヒーが届けられ、それをブラックのまま一口のんで、裕香の居心地悪そうな態度を見て貴郁が切り出す。 「えっと……この前、ここで友達とあってたんだけど、その時常磐さんと他に数人の男性がいて……会話が聞こえてきちゃったんです。詳しい話が聞きたくて」 「これ……俺が言ってもいいのかな、告げ口するみたいな後ろめたさがあるというか……それに俺の発言が原因で離婚とかになってしまっても後味悪いしね……」  苦笑交じりに貴郁が答える。 「離婚する気は有りません……私は……彼の気持ちを取り戻したいんです。だから相手の人がどんな人なのか、主人が何処に惹かれたのか……知りたい」  貴郁の言葉にすがりつくような視線を向けて、裕香が言う。  なんとしても情報がほしいと必死の眼差しで貴郁を見つめている。  その裕香の行動に、貴郁は複雑そうな表情を浮かべるが、すぐに表情を引き締める。 「離婚はしないと……、念のためだけど俺の発言を聞いたあと心変わりしたとしても、俺は無関係って約束してくれる? じゃないと俺は何も言えない。俺の発言で友人夫婦が壊れてしまうとか……嫌だからね」  貴郁はそう念を押した。  裕香は覚悟を決めてはっきりと頷いた。 「それじゃあ……俺の知ってる範囲で話すよ」  貴郁はそう前をして、もう一口だけコーヒーを飲むと、一度目を閉じて深く息を吐く。  そしてゆっくりと口を開いた。      



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