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救われたから

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 最近噂になっている店がある。  ほんの1年くらい前に新規オープンした小さな居酒屋。  20代後半くらいの若い女将さん1人で切り盛りしていて、そのせいか店の規模も小さいらしい。  10人も客が入ればもう一杯になるほど。  噂によるとその女将さんは、ゾクッとする色気があるらしいのだけど、店が評判なのはその女将さんの美貌でもなく、料理や酒が特別美味いからと言うわけでもないらしい。  新卒で入社した会社が、よく聞くブラック企業と気がついたのは、入社して半年も経たないうちだった  理不尽に文句を言うだけの上司。  終わらない仕事。  休日出勤も、サービス残業も当たり前の社風。  今時あり得ないくらいの、パワハラやモラハラが横行しており、過去にはそれによって心を病み、自殺した人も居ると聞いた。  心を病んで会社を辞めて、それでも働く気力を取り戻せなくなり、失業保険が切れてしばらくしてから、うちのオフィスの近くの20階建てのオフィスギルから身を投げたらしいと、社内の噂で聞いた。  俺も近いうちにその人みたいになるのだろうか。  漠然とした不安を抱いたまま、無気力にただただ日常の作業をこなす。  自分の中で少しづつ、心がすり減っていくのを感じた。  その人と同じようになる前に、やめるべきかなと何度も考えた。  だけど新卒で入社して3年も務めずに仕事を辞めると、再就職に響くという噂を聞いて、二の足を踏んでしまう。  俺の心がすり切れるのが先か、3年が経過するのが先かなんて、意味の無いチキンレース。  そんなとき、不思議な女将の小さな居酒屋の話を聞いた。  人生に絶望して、もうどうでもいいやと思う人がその店に行くと、何故か気持ちが前向きになり、もう一度頑張れるようになるなんて、本当か嘘かわからないような噂と共に。  会社から出て時計を見る。  23時50分と時計は無情に時間を告げてくる。  終電には間に合わないし、どうしたものかと途方に暮れた俺は、ふとその話を思い出してその居酒屋のあるらしき場所に足を向けた。  その居酒屋は先ほどの噂に出てきていた、20階だてのオフィスビルのすぐ隣に有った。  オフィスビルの隣、駅に向かうには逆方向にある居酒屋。  変わったリッチだなと思いつつ、まだ暖簾のれんが掛かっていることを確認してゆっくりと引き戸を開ける。  カラカラ……と心地よい音を立てて、扉が開く。  俺は暖簾を少し身をかがめて避けながら、中をのぞいてみる。  カウンター席だけの、本当に小さな店だった。  店の内装も装飾も、本当に誰でも思い浮かぶような居酒屋らしい居酒屋。  何故この店がそれほどに評判なんだろうかと、ふと疑問を抱く。 「いらっしゃいませ。初めての方かしらね……」  厨房で何か作業をしていた、着物姿の女性が顔を上げて言う。  白い肌に穏やかそうな目元、すこしぷっくりと下唇。  20代半ばにも見えるが、30代宇前半にも見える。  若さと色気を感じさせる女性だった。  真っ黒な髪を結い上げて後頭部の辺りで纏めている姿は、いかにも和装女子という風情があった。 「あぁ……えっと、初めてです。1名だけど良いですか」  俺は妙な緊張を覚えて、少しばかりうわずった声で返事をする。  女将さんはこちらどうぞと、自分の目の前のカウンター席を手で指し示す。  見てみると客は俺だけのようだった。  時間も遅いしそう言うものなのだろうと納得して、俺は示された席に腰を下ろした。 「お飲み物は何にしましょうか」 「え……あぁ、じゃあビールで」  女将は手慣れた手つきで、冷蔵ショーケースから瓶ビールを取り出し、おなじく冷えたグラスを用意して俺の前に置く。  にっこりと微笑みながら、ビール瓶を手に持って待っていてくれるので、俺は慌ててグラスを手に取る。  傾けた瓶から心地よい音と共に黄金色の液体が流れ出し、グラスをみたしていく。  流石になれているのか泡の比率も完璧だと思った。 「このお店、長いんですか」 「いえ……今年の6月からですからまだ4ヶ月くらいですよ」 「でも、ちょっと変わったところにオープンしたんですね。飲み屋街は駅前に集中しているのに」  何の気なしに口にした俺の疑問に、女将は少し複雑な表情を浮かべるが、すぐにそれを微笑みで上書きした。 「どうしてもね……ここに開きたかったんです。そうね、贅沢を言うなら本当は隣のビルの中に出したかった」 「隣って……普通のオフィスビルですよ。あそこに飲食店のテナントを出すのは」 「ええ、わかってる。本当に私の理想を言うならって言うだけですよ。今はこの場所でも満足してますから」  そう言った女将の顔は、不思議と凄く安らかで、そして夢見るような視線をしていた。 「私ね……本当にどん底な人生を送ってきたんです。だけどこの場所で私を救ってくれた人が居た。だから私はここにどうしてもお店を出したかったんです……、あの人みたいに疲れ切ってしまった人を癒やせるようなお店を」  ぽつりと零す女将の言葉は、だけどとても色々な気持ちが乗っかっていて、だけどもそれでもとても幸せそうな声音。 「お客さんは……少しだけあの人に似ている。今は辛くて、だけど色々な条件があるから逃げ出せなくて。でも不器用なほどに真面目だから無理をして。ね……逃げることも大切なのよ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。貴方自身を守るために必要なら……逃げてね」  こちらが怖いと感じるくらいのまっすぐな目で、女将さんは俺を見てそう言った。    俺はなんとなく居心地の悪い感覚を覚えて、ビール一本注文しただけで店を出た。  女将さんの言葉が、酷くまっすぐに心を刺してきて、怖くなってしまったのだ。  お代を支払い店を出る。    その時誰かとすれ違った気がして、ふと振り返るが店の中には女将さん以外の誰も居なかった。  でも俺はたしかに見たんだ。  女将さんが俺ではない誰かに、心の底からの笑顔を見せていたのを……。  



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救われたから

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 最近噂になっている店がある。  ほんの1年くらい前に新規オープンした小さな居酒屋。  20代後半くらいの若い女将さん1人で切り盛りしていて、そのせいか店の規模も小さいらしい。  10人も客が入ればもう一杯になるほど。  噂によるとその女将さんは、ゾクッとする色気があるらしいのだけど、店が評判なのはその女将さんの美貌でもなく、料理や酒が特別美味いからと言うわけでもないらしい。  新卒で入社した会社が、よく聞くブラック企業と気がついたのは、入社して半年も経たないうちだった  理不尽に文句を言うだけの上司。  終わらない仕事。  休日出勤も、サービス残業も当たり前の社風。  今時あり得ないくらいの、パワハラやモラハラが横行しており、過去にはそれによって心を病み、自殺した人も居ると聞いた。  心を病んで会社を辞めて、それでも働く気力を取り戻せなくなり、失業保険が切れてしばらくしてから、うちのオフィスの近くの20階建てのオフィスギルから身を投げたらしいと、社内の噂で聞いた。  俺も近いうちにその人みたいになるのだろうか。  漠然とした不安を抱いたまま、無気力にただただ日常の作業をこなす。  自分の中で少しづつ、心がすり減っていくのを感じた。  その人と同じようになる前に、やめるべきかなと何度も考えた。  だけど新卒で入社して3年も務めずに仕事を辞めると、再就職に響くという噂を聞いて、二の足を踏んでしまう。  俺の心がすり切れるのが先か、3年が経過するのが先かなんて、意味の無いチキンレース。  そんなとき、不思議な女将の小さな居酒屋の話を聞いた。  人生に絶望して、もうどうでもいいやと思う人がその店に行くと、何故か気持ちが前向きになり、もう一度頑張れるようになるなんて、本当か嘘かわからないような噂と共に。  会社から出て時計を見る。  23時50分と時計は無情に時間を告げてくる。  終電には間に合わないし、どうしたものかと途方に暮れた俺は、ふとその話を思い出してその居酒屋のあるらしき場所に足を向けた。  その居酒屋は先ほどの噂に出てきていた、20階だてのオフィスビルのすぐ隣に有った。  オフィスビルの隣、駅に向かうには逆方向にある居酒屋。  変わったリッチだなと思いつつ、まだ暖簾のれんが掛かっていることを確認してゆっくりと引き戸を開ける。  カラカラ……と心地よい音を立てて、扉が開く。  俺は暖簾を少し身をかがめて避けながら、中をのぞいてみる。  カウンター席だけの、本当に小さな店だった。  店の内装も装飾も、本当に誰でも思い浮かぶような居酒屋らしい居酒屋。  何故この店がそれほどに評判なんだろうかと、ふと疑問を抱く。 「いらっしゃいませ。初めての方かしらね……」  厨房で何か作業をしていた、着物姿の女性が顔を上げて言う。  白い肌に穏やかそうな目元、すこしぷっくりと下唇。  20代半ばにも見えるが、30代宇前半にも見える。  若さと色気を感じさせる女性だった。  真っ黒な髪を結い上げて後頭部の辺りで纏めている姿は、いかにも和装女子という風情があった。 「あぁ……えっと、初めてです。1名だけど良いですか」  俺は妙な緊張を覚えて、少しばかりうわずった声で返事をする。  女将さんはこちらどうぞと、自分の目の前のカウンター席を手で指し示す。  見てみると客は俺だけのようだった。  時間も遅いしそう言うものなのだろうと納得して、俺は示された席に腰を下ろした。 「お飲み物は何にしましょうか」 「え……あぁ、じゃあビールで」  女将は手慣れた手つきで、冷蔵ショーケースから瓶ビールを取り出し、おなじく冷えたグラスを用意して俺の前に置く。  にっこりと微笑みながら、ビール瓶を手に持って待っていてくれるので、俺は慌ててグラスを手に取る。  傾けた瓶から心地よい音と共に黄金色の液体が流れ出し、グラスをみたしていく。  流石になれているのか泡の比率も完璧だと思った。 「このお店、長いんですか」 「いえ……今年の6月からですからまだ4ヶ月くらいですよ」 「でも、ちょっと変わったところにオープンしたんですね。飲み屋街は駅前に集中しているのに」  何の気なしに口にした俺の疑問に、女将は少し複雑な表情を浮かべるが、すぐにそれを微笑みで上書きした。 「どうしてもね……ここに開きたかったんです。そうね、贅沢を言うなら本当は隣のビルの中に出したかった」 「隣って……普通のオフィスビルですよ。あそこに飲食店のテナントを出すのは」 「ええ、わかってる。本当に私の理想を言うならって言うだけですよ。今はこの場所でも満足してますから」  そう言った女将の顔は、不思議と凄く安らかで、そして夢見るような視線をしていた。 「私ね……本当にどん底な人生を送ってきたんです。だけどこの場所で私を救ってくれた人が居た。だから私はここにどうしてもお店を出したかったんです……、あの人みたいに疲れ切ってしまった人を癒やせるようなお店を」  ぽつりと零す女将の言葉は、だけどとても色々な気持ちが乗っかっていて、だけどもそれでもとても幸せそうな声音。 「お客さんは……少しだけあの人に似ている。今は辛くて、だけど色々な条件があるから逃げ出せなくて。でも不器用なほどに真面目だから無理をして。ね……逃げることも大切なのよ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。貴方自身を守るために必要なら……逃げてね」  こちらが怖いと感じるくらいのまっすぐな目で、女将さんは俺を見てそう言った。    俺はなんとなく居心地の悪い感覚を覚えて、ビール一本注文しただけで店を出た。  女将さんの言葉が、酷くまっすぐに心を刺してきて、怖くなってしまったのだ。  お代を支払い店を出る。    その時誰かとすれ違った気がして、ふと振り返るが店の中には女将さん以外の誰も居なかった。  でも俺はたしかに見たんだ。  女将さんが俺ではない誰かに、心の底からの笑顔を見せていたのを……。  



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