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9話

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 佐倉川邸のどこに行けば煙草が吸えるか、すっかり覚えてしまった。  史岐は暗い縁側でゆっくりと煙を吸い込む。種にどんな影響があるかわからないから、離れでは吸わないつもりだった。たとえ、同じ喫煙者である匠が許しても、史岐が吸っているのは普通の煙草ではない。彼が喉に飼っている妖の機嫌を取る為に作られた極めて特殊な代物だ。特注品なだけあって味は上等だが、あまり長い間吸わずにいると、立っていられなくなるほどの頭痛を起こす。だが、種の観察は三時間ごとの交代制で行うと決まったので、休憩中にここへ来て一、二本吸っていけば問題にはならないだろう。  真波と匠が最初の三時間を担当する事になり、史岐と利玖は母屋に戻って夕食を取った。メニューはカレーライス。利玖が台所でルウの入った鍋を見つけて、温め直してくれたのだ。  量の少なさから、史岐よりも先に食べ終えた彼女は、 『さっぱりした物がほしいですね』 と台所に向かい、しばらくして、キウイ・ソースがかかったヨーグルトのボウルを抱えて戻ってきた。彼女は二人分の器とスプーンも一緒に持ってきてくれたので、史岐も食後に同じデザートを味わう事が出来た。  食器の片付けを終えた所で利玖とは別れた。  自室に戻って仮眠を取るらしい。  片手を振り、角を曲がって、すぐに足音も気配も消えた。  プライベートな空間で発生する生活音を客に聞かせないように、屋敷の造りが工夫されているのだろうが、あまりにも鮮やかな消えっぷりに、史岐は思わず、彼女が忍者屋敷のどんでん返しのようなカラクリで隠し通路に入っていく場面を想像して吹き出してしまった。  皆、優しい、と感じる。  匠でさえ例外ではない。  史岐が行く事の出来る縁側に、綺麗に磨いた灰皿を一つ出しておいてくれる。  何日かに分けて食べるつもりだったルウを惜しみもせずに分けてくれる。  自分が利玖のそばにいる事を許してくれる。  彼らに呼ばれる度に、史岐、という名も存外悪くない物のように思える。  不思議だ。  去年の五月、初めてこの地を訪れた時には、こんな未来をどうして予想出来ただろうか?  あの時は母屋に上がる事すら許されなかった。母屋が建つ山の麓にある客殿に通され、そこで自分と父と、利玖を除いた佐倉川家の人間を交えての話し合いが行われたのだ。  誰かの顔を見ていた時間よりも、畳を間近で見ていた時間の方が長かったように思う。だが、そういう扱いをされて当たり前の立場だった。  そういえば……。  史岐、という名をつけたのも父だった。  初めは母が別の名を考えていたのを、父が説得して変えさせたのだと、昔、人づてに聞いた事がある。詳しい事はわからないが、最初に生んだ子どもを亡くし、正常な精神状態ではなかった母がどんな名をつけようとしていたのか、想像には難くない。  明言されるはずもないが、  本当は、式、だったのではないだろうか。  数式や式神、儀式といった言葉にニュアンスは近い。  既に形の定まったもの。変わる事が許されないもの。代入し、望む値を導く為に、仮にそこにあるだけのもの。  理解出来ない、と思った。  自分には、拒絶する権利がある、とも。  だが、ここ二か月ほどの間に──利玖が「両親を恨む」と言った、あの朝を境に──彼女の言葉が、まるで錨のように感情を係留して、冷たく濁った波に頭を抑え付けられるような絶望が始終自分に付きまとっているのを意識する事はほとんどなくなった。  名前など、記号に過ぎない。  少なくとも自分にとっては、利玖に、そして彼女の周りにいる人々に、親しみを込めて呼んでもらえる物ならば何だって良い。  ただ……。 「たくみ、と読むのは、少し困るな」  そう呟き、くすっと一人で笑った時、左の方から足音がした。 「何を思いついたんですか?」品の良い角度で、利玖が首を傾けている。 「いや、ひとり言」史岐は灰皿を掴んで、自分と彼女の間にあったそれを反対側へ移動させた。「仮眠は終わり?」  利玖は頷き、灰皿のあった場所に膝を抱えるような格好で座った。  しかし、神妙な面持ちで前を向いたまま、じっと動かない。 「どうしたの?」 「冷静になって、巻き込んでしまったな、と……」 「それくらいの方が利玖ちゃんらしい」史岐は手を伸ばして、灰皿の縁で煙草を叩く。「正直、僕もちょっと楽しくなってきている。やばいかもとは、お母さんから聞かされているし」 「ああ……」利玖はため息をついて片手で顔を覆った。「まったく恐怖を感じなかった自分にびっくりです。見つけた時、一番に、美しい、と思いました。気持ち悪くも、怖くもなかった。驚きはしましたが……。芸術品のように惹かれてしまったんです」 「良く出来ていたよね。何で歯の形をしているのかは、まだわからないけど」 「史岐さんは、どうお考えですか?」 「僕?」  史岐は数秒だけ頭を回転させる。 「そう……、外国には、トゥース・フェアリーっていう妖精がいるんだね。僕らも乳歯が抜けた時、永久歯がまっすぐ生えてきますように、って屋根の上に投げたりするだろう? トゥース・フェアリーは、抜けた乳歯を枕の下に入れておくと、夜の間にコインと交換してくれるんだ。お小遣いをもらっている子どもなら、この方がありがたいかな……、まあ、それは置いておいて……、昨日の夜、潟杜に一匹のトゥース・フェアリーがやって来た」 「海を越えて?」 「旅行客の荷物に紛れ込んだ」史岐は笑みを隠すように煙草を口に運ぶ。「柔らかくて触り心地の良い、ブランケットか何か、入っていたのかな、うたた寝をして、気づいた時には飛行機を降りた後だった。元いた国ではトゥース・フェアリーの存在が知られているから、楽に乳歯が手に入るけど、こっちではそういう風習がない。食べ物が見つからなくて、あちこち彷徨って……」  利玖は食い入るように史岐の顔を見つめている。 「ふらふらになって、とあるアパートの一室に忍び込んだ。するとそこには、なんと、たくさんの歯が転がっていたんだ。トゥース・フェアリーは大喜びして、持ち主に見つからないように、こっそり別の部屋に運んで食べようとしたんだけど、そこで本物の歯じゃない事に気がついた」 「たまたま同じアパートに、歯の模型をコレクションしている方がいらっしゃったと?」  利玖は笑いを堪えているようだ。両手を口に当て、少し目を丸くして自分を見つめる仕草が可愛らしい。 「トゥース・フェアリーは乳歯を食べるけど、それがどうやって生まれてくるかは知らないんだね。木で出来た作り物でも、栄養を与えて時間を置けば、エナメル質が育って食べ頃になると思った。でも、自分ではやり方がわからない。だから、ドアを一枚隔てた所で眠っている人間に、これを育てて、あなたが持っているような立派な歯にしてください、というメッセージを残して去って行ったんだね」 「すごい。即興ですね?」利玖は音を立てずに拍手のジェスチャをする。「トゥース・フェアリー仮説と呼びましょう」 「帰ったら、冷蔵庫の牛乳が少し減っているかもしれないね」 「史岐さんのおっしゃった通りなのだとしたら、喜んで差し上げます」利玖は両手の指先を合わせたまま視線を上に向ける。「もし、本当に歯が生えてきたら、そっと元の場所に返しておきましょう。トゥース・フェアリーがくれるコインがどんなものか、わたしも見てみたいです」 「図柄を見たら、どの国から来たかわかるかもしれないね」史岐は煙草の火を揉み消した。「もしかしたら、ものすごい年代物だったりして……」  スマートフォンが鳴動した。  着信音は利玖のものだ。 「あ、すみません」利玖はポケットに片手を入れ、ディスプレイを見て眉をひそめる。「お母さん?」怪訝そうに呟いて電話に出た。「はい、利玖です。……ええ、はい、ご一緒です。……え?」



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