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3話

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 利玖がメールを送り、三十分後ほどで佐倉川さくらがわたくみがやって来た。  匠は潟杜大学理学部博士課程の学生で、利玖とは五つ歳が離れている。植物生態学の権威・神保じんぼ教授の研究室に籍を置き、利玖にとっては兄であり、同じ学科のOBでもある人物だ。  今は潟杜市で一人暮らしをしているが、将来、県北部の岩河弥いわかみむらに戻り、名門・佐倉川家を継ぐのは彼だろうと言われている。時々、柑乃かのという妖を伴って刃傷沙汰に及ぼうとしている場面を見かけるが、匠自身も剣道の有段者であり、剣道部の臨時コーチとして合宿に呼ばれた事もある。  このように、敵に回したくない理由を列挙するだけで雑誌の創刊号が作れてしまうような男だが、目下のところは彼に敵視される理由ばかりが頭をよぎる史岐である。  玄関先で出迎えて、 「あ、史岐君も来てたんだね」 と何でもない事のように言われた時、かえって恐ろしさを感じたが、それは決して態度に表さず。 「お久しぶりです」と紳士的な微笑みを見せてコーヒー牛乳を差し出した。「これ、良かったらどうぞ」 「え、いいの?」匠は受け取って少し首をひねる。「なんか準備が良いね」 「いえいえ……、あの、どうぞ中へ……」 「自分の部屋みたいな事を言うね」などと言われるのを予想して身構えたが、匠はコーヒー牛乳を飲んでいて無言だった。  リビングに入ると、利玖が歯がよく見えるように卓上ライトを調整していた。兄妹の間に改まった挨拶は必要ないらしく、顔を見合わせて小さく頷く。 「凄いね、これは」匠がデスクの上を見て呟いた。「これで全部? 書置きがあったとは聞いたけど、骨とか肉とか、体の他の部位は?」 「いえ、何も」利玖は指先を顎に当て、一瞬だけ天井を見て目をつむる。「──ええ、間違いありません。昨日、寝る前にお皿を洗って、調理台が濡れたので布巾で拭いたんです。その時には歯も書置きもありませんでした」 「それは何時頃?」匠は椅子に座り、鞄を床に置く。 「零時少し前です。その後、起きてから歯を見つけたのは七時過ぎ。びっくりして、誰かの悪戯かと思ったから、まずドアの鍵とチェーンを確かめて……」  利玖は低い位置で人さし指を伸ばし、玄関の方を示してから反対側へ向ける。 「次に、窓。どちらもきちんと施錠されていました」 「うん」と匠は頷く。「着いた時、ざっと見てみたけど、外からこじ開けようとした跡もなかったね」 「でも、ここってオートロックじゃありませんよね」史岐はアパートの外観を思い浮かべながら話す。「鍵がなくても、ドアの前まで来るだけなら誰にでも出来ます。例えばの話ですけど、マジックハンドみたいな道具があれば、新聞受けから一つずつ歯を中に入れる事が出来ませんか?」 「そうだね。ここ、玄関とキッチンがすぐ隣り合っているから……」匠は左手を持ち上げて天井の近くを指さす。「あとは、換気扇が、やっぱり外の廊下に面しているから、そこから入れる事も出来そうだね。必要な物は釣り竿と釣り糸、それと、ミルクピッチャみたいな小型の容器。糸の先に容器をくくりつけて歯を詰めたら、先端を換気扇の隙間から中に差し入れる。糸を下ろして、調理台に着いたところで軽く揺すって容器を倒せば、中身が出る」 「色々な侵入手段があるんですね」 「利玖ちゃん、そんな、他人事みたいに……」 「しかし、何故ここを選んだのかが気になるね」匠は箱からゴム手袋を引き抜いて手にはめた。「二階だし、角部屋でもない。一階と違って塀の陰にならないし、階段は片側にしかないから、誰かが上がってきたら逃げ場がない。もし、この歯が本物で、何かの事件に関わっているのだとしたら、誰かがおまえに罪を着せようとしたと考える事も出来るけど……」  匠は鞄から銀のルーペを取り出して、歯の表面をつぶさに見た。 「……うん、やっぱり違うな。エナメル質よりも多孔質だし、何より綺麗過ぎる。死んだばかりの子どもから取っても、ここまで仕上げる過程でもう少し汚れると思うよ」  あくまでヒトを除いた野生動物の概論を話しているのだとわかっていても、この男が喋っているだけで三割増しの恐怖を感じてしまう史岐である。 「切歯二本、犬歯一本、小臼歯二本に大臼歯三本。それが二組で計十六本」匠はボールペンの先で歯並びを示す。「犬歯は比較的大きい。臼歯は台形で、上部は平らにすり減っている。たぶん、サルじゃないかな」 「そんな事までわかるんですか?」史岐は驚く。 「その動物が何を主食としているか、どうやってそれを手に入れるのか。歯には、それが顕著に表れる」匠はボールペンを持った手でもう片方の手のひらを叩く。 「こんな風にすべての歯がバランス良く揃っているのは、雑食動物に多い特徴だよ。何かに特化していない代わりに、肉も植物もそれなりに効率良く食べられるというコンセプトだね。  肉食動物の場合、獲物に致命傷を与える役割が必要になるから犬歯がナイフみたいに発達する。ただ、肉はほとんど噛まずに丸飲みするから、臼歯は尖っていて厚みも少ない。  逆に草食動物は、細胞壁を持つ植物の茎や葉を食べるから、よく噛んですり潰す為に臼歯の上部は平らになっていて、名前の通り臼みたいに厚みがある。反すうを行う種もいるしね。犬歯は退化して、欠落する種もいるし、ウシなんて上の歯が全部ないんだよ。  僕らは文明の中で生きていて、実感する機会がないけれど、動物というのは本来、自分の力で食べられなくなったら生きていけないんだ。同種か否かにかかわらず、最も効率良く食事にありつける個体の遺伝子が残って、次の代へと受け継がれていくんだよ」  隣で紙が擦れる音がして、何かと思ったら、利玖がノートにメモを取っていた。さすがの彼女でも守備範囲外の話だったらしい。  彼女ほど真面目ではない史岐は、こんな風にして法医学者の意見を聞きに来る刑事二人の組み合わせをドラマでよく見るな、などと考える。 「ちなみにさっき、歯の種類と数をカウントしたのは、歯式ししきという指標と照らし合わせる為で、これを使うとある程度──」  匠の声が途切れた。  デスクに並んだ歯を見て、固まっている。利玖と史岐も、自然と彼の視線を追った。  歯の一つが割れている。  小臼歯、と説明された歯だった。  中心にひびが入り、その中からつややかな萌黄色が覗いている。 「何ですか……?」利玖がノートを胸に抱いてこわごわと顔を近づける。「え、これ、芽?」 「駄目だ」匠が立ち上がった。「これはちょっと僕らの手には負えない」  匠は片手で鞄を取り上げ、険しい表情で利玖と史岐を見た。 「荷物をまとめておきなさい。アパートに戻って車を持ってくる」



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 利玖がメールを送り、三十分後ほどで佐倉川さくらがわたくみがやって来た。  匠は潟杜大学理学部博士課程の学生で、利玖とは五つ歳が離れている。植物生態学の権威・神保じんぼ教授の研究室に籍を置き、利玖にとっては兄であり、同じ学科のOBでもある人物だ。  今は潟杜市で一人暮らしをしているが、将来、県北部の岩河弥いわかみむらに戻り、名門・佐倉川家を継ぐのは彼だろうと言われている。時々、柑乃かのという妖を伴って刃傷沙汰に及ぼうとしている場面を見かけるが、匠自身も剣道の有段者であり、剣道部の臨時コーチとして合宿に呼ばれた事もある。  このように、敵に回したくない理由を列挙するだけで雑誌の創刊号が作れてしまうような男だが、目下のところは彼に敵視される理由ばかりが頭をよぎる史岐である。  玄関先で出迎えて、 「あ、史岐君も来てたんだね」 と何でもない事のように言われた時、かえって恐ろしさを感じたが、それは決して態度に表さず。 「お久しぶりです」と紳士的な微笑みを見せてコーヒー牛乳を差し出した。「これ、良かったらどうぞ」 「え、いいの?」匠は受け取って少し首をひねる。「なんか準備が良いね」 「いえいえ……、あの、どうぞ中へ……」 「自分の部屋みたいな事を言うね」などと言われるのを予想して身構えたが、匠はコーヒー牛乳を飲んでいて無言だった。  リビングに入ると、利玖が歯がよく見えるように卓上ライトを調整していた。兄妹の間に改まった挨拶は必要ないらしく、顔を見合わせて小さく頷く。 「凄いね、これは」匠がデスクの上を見て呟いた。「これで全部? 書置きがあったとは聞いたけど、骨とか肉とか、体の他の部位は?」 「いえ、何も」利玖は指先を顎に当て、一瞬だけ天井を見て目をつむる。「──ええ、間違いありません。昨日、寝る前にお皿を洗って、調理台が濡れたので布巾で拭いたんです。その時には歯も書置きもありませんでした」 「それは何時頃?」匠は椅子に座り、鞄を床に置く。 「零時少し前です。その後、起きてから歯を見つけたのは七時過ぎ。びっくりして、誰かの悪戯かと思ったから、まずドアの鍵とチェーンを確かめて……」  利玖は低い位置で人さし指を伸ばし、玄関の方を示してから反対側へ向ける。 「次に、窓。どちらもきちんと施錠されていました」 「うん」と匠は頷く。「着いた時、ざっと見てみたけど、外からこじ開けようとした跡もなかったね」 「でも、ここってオートロックじゃありませんよね」史岐はアパートの外観を思い浮かべながら話す。「鍵がなくても、ドアの前まで来るだけなら誰にでも出来ます。例えばの話ですけど、マジックハンドみたいな道具があれば、新聞受けから一つずつ歯を中に入れる事が出来ませんか?」 「そうだね。ここ、玄関とキッチンがすぐ隣り合っているから……」匠は左手を持ち上げて天井の近くを指さす。「あとは、換気扇が、やっぱり外の廊下に面しているから、そこから入れる事も出来そうだね。必要な物は釣り竿と釣り糸、それと、ミルクピッチャみたいな小型の容器。糸の先に容器をくくりつけて歯を詰めたら、先端を換気扇の隙間から中に差し入れる。糸を下ろして、調理台に着いたところで軽く揺すって容器を倒せば、中身が出る」 「色々な侵入手段があるんですね」 「利玖ちゃん、そんな、他人事みたいに……」 「しかし、何故ここを選んだのかが気になるね」匠は箱からゴム手袋を引き抜いて手にはめた。「二階だし、角部屋でもない。一階と違って塀の陰にならないし、階段は片側にしかないから、誰かが上がってきたら逃げ場がない。もし、この歯が本物で、何かの事件に関わっているのだとしたら、誰かがおまえに罪を着せようとしたと考える事も出来るけど……」  匠は鞄から銀のルーペを取り出して、歯の表面をつぶさに見た。 「……うん、やっぱり違うな。エナメル質よりも多孔質だし、何より綺麗過ぎる。死んだばかりの子どもから取っても、ここまで仕上げる過程でもう少し汚れると思うよ」  あくまでヒトを除いた野生動物の概論を話しているのだとわかっていても、この男が喋っているだけで三割増しの恐怖を感じてしまう史岐である。 「切歯二本、犬歯一本、小臼歯二本に大臼歯三本。それが二組で計十六本」匠はボールペンの先で歯並びを示す。「犬歯は比較的大きい。臼歯は台形で、上部は平らにすり減っている。たぶん、サルじゃないかな」 「そんな事までわかるんですか?」史岐は驚く。 「その動物が何を主食としているか、どうやってそれを手に入れるのか。歯には、それが顕著に表れる」匠はボールペンを持った手でもう片方の手のひらを叩く。 「こんな風にすべての歯がバランス良く揃っているのは、雑食動物に多い特徴だよ。何かに特化していない代わりに、肉も植物もそれなりに効率良く食べられるというコンセプトだね。  肉食動物の場合、獲物に致命傷を与える役割が必要になるから犬歯がナイフみたいに発達する。ただ、肉はほとんど噛まずに丸飲みするから、臼歯は尖っていて厚みも少ない。  逆に草食動物は、細胞壁を持つ植物の茎や葉を食べるから、よく噛んですり潰す為に臼歯の上部は平らになっていて、名前の通り臼みたいに厚みがある。反すうを行う種もいるしね。犬歯は退化して、欠落する種もいるし、ウシなんて上の歯が全部ないんだよ。  僕らは文明の中で生きていて、実感する機会がないけれど、動物というのは本来、自分の力で食べられなくなったら生きていけないんだ。同種か否かにかかわらず、最も効率良く食事にありつける個体の遺伝子が残って、次の代へと受け継がれていくんだよ」  隣で紙が擦れる音がして、何かと思ったら、利玖がノートにメモを取っていた。さすがの彼女でも守備範囲外の話だったらしい。  彼女ほど真面目ではない史岐は、こんな風にして法医学者の意見を聞きに来る刑事二人の組み合わせをドラマでよく見るな、などと考える。 「ちなみにさっき、歯の種類と数をカウントしたのは、歯式ししきという指標と照らし合わせる為で、これを使うとある程度──」  匠の声が途切れた。  デスクに並んだ歯を見て、固まっている。利玖と史岐も、自然と彼の視線を追った。  歯の一つが割れている。  小臼歯、と説明された歯だった。  中心にひびが入り、その中からつややかな萌黄色が覗いている。 「何ですか……?」利玖がノートを胸に抱いてこわごわと顔を近づける。「え、これ、芽?」 「駄目だ」匠が立ち上がった。「これはちょっと僕らの手には負えない」  匠は片手で鞄を取り上げ、険しい表情で利玖と史岐を見た。 「荷物をまとめておきなさい。アパートに戻って車を持ってくる」



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