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第三章 壮年

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 隻眼王アンティゴノスという共通の敵を失った後継者たちは、再び対立を始めた。
セレウコスとリュシマコスは馬が合わず、二人の同盟はすぐに決裂した
トラキア王リュシマコスはプトレマイオスと結んだが、敵対するセレウコスが次にどのような手を打つものかと、苛々してのしのしと自室を意味もなく歩いている。
「陛下、ケルネーソスの港が襲撃されているとの報あり!」
駆け込んできた兵士を見て、リュシマコスは怒鳴る。
「セレウコスか!」
「違います、デメトリオスです」
それは海賊に身を堕としたデメトリオスの仕業だった。
どこの港からも閉め出されるなら合法的な手段で補給する必要はない、とデメトリオスは判断したのである。
突如誕生した大海賊団に後継者たちは頭を悩ませ、ついでこれをどうにか利用できないかと考えるようになった。
はじめに目をつけたのはシリア王、イプソスの戦いでニカトール、勝利王という景気のいいあだ名を手に入れたセレウコスであった。
デメトリオスは勢力を回復することを優先事項と考え、父の仇であるセレウコスの申し出に乗った。
それは、娘のストラトニケーをセレウコスの嫁として差し出し、引き換えに支援をうけるというものであった。
娘を政略結婚に用いてデメトリオスは勢力を盛り返すことに成功した。


 デメトリオスの再浮上と相前後して、マケドニア本国が荒れていた。
陰険で冷酷ながらも確かな政治手腕をもったカッサンドロスが、全身がむくんでしまう恐ろしい奇病によって死去したのである。
カッサンドロスの三人の息子の内、長子フィリッポスが跡をついだ。
しかし、カッサンドロスの三人の息子の中で唯一まともな人格をもったこの長子は、即位して間も無く病死してしまった。
人々は次男と三男のどちらが犯人だろうと噂しあった。
それというのも、カッサンドロスの次男アンディパトロスと三男アレクサンドロスはどちらも父であるカッサンドロスに似て歪んだ性格の持ち主だったからである。
次男と三男はお互いに王位を主張して激しくいがみあったので、母親テッサロニケーが摂政となり、兄弟どちらもが王となってマケドニアを分割することになった。
すると、領土の配分に納得のいかない次男アンティパトロスが、母后テッサロニケーを捕らえ、命乞いをする母親を処刑するというとんでもない暴挙に出た。
単独の王を主張する次男アンディパトロスのもとに急使が告げる。
「弟君が、テッサロニケー様の仇討ちを口実にエピロス王ピュロスと結んだそうです」
エピロス王ピュロスといえば名将との噂が高く、イプソスの戦いでは負けたアンティゴノス陣営にいたにも関わらず何人もの敵将を討ち取って武名を上げた人物である。
「それと、もう一人」
「なんだと、ピュロスだけではないと言うか」
「デメトリオス、攻囲王デメトリオスも招聘した、とのことです」


 こうして、デメトリオスはカッサンドロスの三男アレクサンドロスの招聘を受け、マケドニアにやってくることとなった。
しかし、デメトリオスが来ると状況は変わっていた。
迎えの使者も、道ゆく人々も、そして招いたアレクサンドロス本人まで余所余所しい。
息子アンティゴノスが耳打ちする。
「どうもエピロス王ピュロスのせいらしいです」
エピロス王ピュロスは、アンティパトロスとは戦わずアレクサンドロスの領土を占領してしまった。
ピュロスが危険な隣人となったことで、遅れてやってきたデメトリオスも警戒されるようになったのである。
砂を噛むような感覚を抱えたまま、ぎこちない宴が続く。
「急用が出来ました。私は帰ります。ご縁があれば、また会うこともあるでしょう」
立ち上がったデメトリオスを、アレクサンドロスは睨め付けるように見る。
「それはそれは。残念です。港までお送りしますよ」
「結構です。王に御足労願うまでもない」
デメトリオスは出て行く時にまだ視線を感じたので、扉のところで待っていた護衛の兵に耳元で囁いた。
「後をつけてくる者がいたら、誰であれ殺せ」
果たして、後をつけてくる者はいた。
なんと、アレクサンドロス本人が短剣片手に後をつけてきて、あっさりと護衛兵に殺されてしまった。
王の一人が客将として招いたデメトリオスに殺されてしまったので、マケドニア王国は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
毒を食らわば皿まで、という。
デメトリオスは覚悟を決めた。
「私は、カッサンドロス即位以来のマケドニア王国の混乱をおさめに来た。 私はかのカッサンドロス王家を否定し、亡きアレクサンドロス大王の威徳を継ぐ。 今日より、このデメトリオスがマケドニアの王である」
この宣言にマケドニアの国民は歓呼の声で答えた。
カッサンドロスの息子達が繰り広げる血生臭い政争に、人々はうんざりしていたのである。
また、こんな声もあった。
「今度の王は、もう壮年ではあるけれど、なんだか華やかでいいよな」
「そうだな、カッサンドロス王やその息子達と違って、明るいというか。 あれだ。 どことなくアレクサンドロス大王に似ているよ」
人々の支持を背景に、もう一人の王、カッサンドロスの次男アンティパトロスも追放し、デメトリオスは単独のマケドニア王となった。


 ヘレポリスが軋み、遂に横倒しになった。
多くの兵士がその重さに潰され、踏まれた蛙のように無惨に死んだ。
かつての盟友ピュロスとの戦いは、まるで上手くいかなかった。
ピュロスは常にデメトリオスの軍略の上を行き、若さも勇気も優っていた。
まるで戦場を見通しているかのように全体を総覧しながら、時には自ら敵陣に突入し、一騎打ちまでやってのけるのである。
「何をやっているか、早く立て直せ」
倒れたヘレポリスを前にデメトリオスは言い放つ。
「父上、どうして必要もないのに、この人々の命をむざむざと費やすのです」
デメトリオスは息子アンティゴノスの諫言に、怒声で返した。
「戦いに犠牲はつきものだ。
戦死者の定員を決めろとでも言うのか」
拳を振り上げてわめくデメトリオスの首を、弩の矢が貫いた。
重傷だった。
デメトリオスはやむを得ずピュロスとの講和を結んだ。


 幸いにもデメトリオスの首の傷は癒えたが、威信の傷は癒えなかった。
宿敵ピュロスが武名を上げる一方で、デメトリオスは虚名を飾り立てた。
宝玉の環を二線めぐらせた縁の広い帽子やら、黄金の縁取りをした紅の衣やらを派手に着込み、足さえもけばけばしく金の刺繍が入った赤いフェルトの逸品で飾っていた。
長い間かけて織らせた外套などは実際大した品で、世界地図と様々な天体の模様が描かれていた。
この外套は、その後に王位についたものは誰も着用しなかった。
それは謙遜によるというよりも、奢侈により民心を失ったデメトリオスと同じ轍を踏むまいと人々が考えたからである。
また、デメトリオスは使者が来るたびにピュロスに送った使者より数が少ないだの贈り物が少ないなどと騒ぎ、人々に失笑された。
巡幸の際になにか陳情をしようとした老婆を「こっちは暇じゃないんだ」と冷たくあしらったこともあった。
「では、王様をやめてしまいなさい。
暇が出来ますよ」
怒った老婆の叫びに、デメトリオスはしばらく行いを改めたが、長続きしなかった。


 デメトリオスは息子アンティゴノスが止めるのも聞かず、民に重税をかけて再び大軍団を編成した。
九万八千の歩兵、一万二千の騎兵、五百隻の艦隊、これらがマケドニアの人々の血と汗を結集して作られた。
セレウコスは怒ってデメトリオスとの同盟を破棄し、リュシマコスとプトレマイオスの二人と結んだ。
それでも、デメトリオスはこの三人を向こうに回しても勝算がある、と信じていた。
しかし、戦場で会敵したのは、なんと講和条約を結んだはずのエピロス王ピュロスであった。
デメトリオスの陣を急襲したピュロスを前に、デメトリオスは狼狽えるばかりであった。
デメトリオスの護衛兵達は盾を投げ捨てた。
降伏の印であった。
「待て、何をやっているお前らッ。 武器を取れ。 私を守らんか」
一人の護衛兵が言った。
「我々は偽りのアレクサンドロス大王に仕えていた。 ピュロス王こそアレクサンドロス大王の再来だ。 アレクサンドロス万歳」
「アレクサンドロス万歳ッ、アレクサンドロス万歳ッ」
護衛兵の反乱の中、デメトリオスは逃げ出すしかなかった。
デメトリオスはこうして軍の殆どを失い、息子とも逸れてしまった。
逃走を続ける中で、妻のフィラーがぽつりと言った。
「もう終わりですわね。 お暇乞いをさせていただきます。 捕虜になる貴方なんて見たくない」
ぼんやりしていたデメトリオスは、妻が小瓶を手にしているのに気がつくのが、一瞬遅れた。
「よせッ」
間に合わなかった。
正妻フィラーは毒をあおって死んでしまった。


 その後はどうしてこうなったのか、デメトリオス自身にもよく思い出せない。
誰と結んで勢力の回復を図ろうとしたのか、誰が味方で、誰が敵だったのか、もはやよくわからない。
確かなのは、がむしゃらに頑張ったものの最終的にセレウコスの捕虜になった、ということだけだ。
僻地の屋敷に軟禁状態であり、狩りをするくらいの自由はあるが、はっきり言えば虚無そのものの生活だった。
救いと言えば、身の回りの世話をする下女としてついた老婆が誰あろう行方不明になっていた愛妾のラミアであったこと、そして息子アンティゴノスが無事に逃げ延びた、という事くらいである。
デメトリオスは逃亡先の息子に対して手紙を書いた。

自分は死んだものと思いなさい。
復讐や大それた戦争など考えず、今保持しているわずかな領土を堅実に治めなさい。

書きながら、デメトリオスはふっと笑みをもらした。
その様子を見て、ラミアが文机を覗き込んできた。
ラミアは手紙を一読するとしわがれた声で笑った。
「どの口が言っているのだか」
「ははは、私もそう思って笑っていたのさ」

攻囲王デメトリオスは五十四歳で死んだ。
デメトリオスの入った棺を、息子アンティゴノスがセレウコスに乞うて迎え入れた。
棺に身を伏せて泣くアンティゴノスの姿は、人々に深い憐れみと悲しみの心を起こさせた。


 デメトリオスの息子アンティゴノスは、再び荒廃したマケドニアに介入、エピロス王ピュロスを撃退し、王位に就いた。
彼の開いた王朝が、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトと並び、ヘレニズム三国と呼ばれる、アンティゴノス朝マケドニアである。
これら三国がローマに滅ぼされるまで繁栄を誇ったことは、よく知られるところである。


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セレウコスとリュシマコスは馬が合わず、二人の同盟はすぐに決裂した
トラキア王リュシマコスはプトレマイオスと結んだが、敵対するセレウコスが次にどのような手を打つものかと、苛々してのしのしと自室を意味もなく歩いている。
「陛下、ケルネーソスの港が襲撃されているとの報あり!」
駆け込んできた兵士を見て、リュシマコスは怒鳴る。
「セレウコスか!」
「違います、デメトリオスです」
それは海賊に身を堕としたデメトリオスの仕業だった。
どこの港からも閉め出されるなら合法的な手段で補給する必要はない、とデメトリオスは判断したのである。
突如誕生した大海賊団に後継者たちは頭を悩ませ、ついでこれをどうにか利用できないかと考えるようになった。
はじめに目をつけたのはシリア王、イプソスの戦いでニカトール、勝利王という景気のいいあだ名を手に入れたセレウコスであった。
デメトリオスは勢力を回復することを優先事項と考え、父の仇であるセレウコスの申し出に乗った。
それは、娘のストラトニケーをセレウコスの嫁として差し出し、引き換えに支援をうけるというものであった。
娘を政略結婚に用いてデメトリオスは勢力を盛り返すことに成功した。

 デメトリオスの再浮上と相前後して、マケドニア本国が荒れていた。
陰険で冷酷ながらも確かな政治手腕をもったカッサンドロスが、全身がむくんでしまう恐ろしい奇病によって死去したのである。
カッサンドロスの三人の息子の内、長子フィリッポスが跡をついだ。
しかし、カッサンドロスの三人の息子の中で唯一まともな人格をもったこの長子は、即位して間も無く病死してしまった。
人々は次男と三男のどちらが犯人だろうと噂しあった。
それというのも、カッサンドロスの次男アンディパトロスと三男アレクサンドロスはどちらも父であるカッサンドロスに似て歪んだ性格の持ち主だったからである。
次男と三男はお互いに王位を主張して激しくいがみあったので、母親テッサロニケーが摂政となり、兄弟どちらもが王となってマケドニアを分割することになった。
すると、領土の配分に納得のいかない次男アンティパトロスが、母后テッサロニケーを捕らえ、命乞いをする母親を処刑するというとんでもない暴挙に出た。
単独の王を主張する次男アンディパトロスのもとに急使が告げる。
「弟君が、テッサロニケー様の仇討ちを口実にエピロス王ピュロスと結んだそうです」
エピロス王ピュロスといえば名将との噂が高く、イプソスの戦いでは負けたアンティゴノス陣営にいたにも関わらず何人もの敵将を討ち取って武名を上げた人物である。
「それと、もう一人」
「なんだと、ピュロスだけではないと言うか」
「デメトリオス、攻囲王デメトリオスも招聘した、とのことです」

 こうして、デメトリオスはカッサンドロスの三男アレクサンドロスの招聘を受け、マケドニアにやってくることとなった。
しかし、デメトリオスが来ると状況は変わっていた。
迎えの使者も、道ゆく人々も、そして招いたアレクサンドロス本人まで余所余所しい。
息子アンティゴノスが耳打ちする。
「どうもエピロス王ピュロスのせいらしいです」
エピロス王ピュロスは、アンティパトロスとは戦わずアレクサンドロスの領土を占領してしまった。
ピュロスが危険な隣人となったことで、遅れてやってきたデメトリオスも警戒されるようになったのである。
砂を噛むような感覚を抱えたまま、ぎこちない宴が続く。
「急用が出来ました。私は帰ります。ご縁があれば、また会うこともあるでしょう」
立ち上がったデメトリオスを、アレクサンドロスは睨め付けるように見る。
「それはそれは。残念です。港までお送りしますよ」
「結構です。王に御足労願うまでもない」
デメトリオスは出て行く時にまだ視線を感じたので、扉のところで待っていた護衛の兵に耳元で囁いた。
「後をつけてくる者がいたら、誰であれ殺せ」
果たして、後をつけてくる者はいた。
なんと、アレクサンドロス本人が短剣片手に後をつけてきて、あっさりと護衛兵に殺されてしまった。
王の一人が客将として招いたデメトリオスに殺されてしまったので、マケドニア王国は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
毒を食らわば皿まで、という。
デメトリオスは覚悟を決めた。
「私は、カッサンドロス即位以来のマケドニア王国の混乱をおさめに来た。 私はかのカッサンドロス王家を否定し、亡きアレクサンドロス大王の威徳を継ぐ。 今日より、このデメトリオスがマケドニアの王である」
この宣言にマケドニアの国民は歓呼の声で答えた。
カッサンドロスの息子達が繰り広げる血生臭い政争に、人々はうんざりしていたのである。
また、こんな声もあった。
「今度の王は、もう壮年ではあるけれど、なんだか華やかでいいよな」
「そうだな、カッサンドロス王やその息子達と違って、明るいというか。 あれだ。 どことなくアレクサンドロス大王に似ているよ」
人々の支持を背景に、もう一人の王、カッサンドロスの次男アンティパトロスも追放し、デメトリオスは単独のマケドニア王となった。

 ヘレポリスが軋み、遂に横倒しになった。
多くの兵士がその重さに潰され、踏まれた蛙のように無惨に死んだ。
かつての盟友ピュロスとの戦いは、まるで上手くいかなかった。
ピュロスは常にデメトリオスの軍略の上を行き、若さも勇気も優っていた。
まるで戦場を見通しているかのように全体を総覧しながら、時には自ら敵陣に突入し、一騎打ちまでやってのけるのである。
「何をやっているか、早く立て直せ」
倒れたヘレポリスを前にデメトリオスは言い放つ。
「父上、どうして必要もないのに、この人々の命をむざむざと費やすのです」
デメトリオスは息子アンティゴノスの諫言に、怒声で返した。
「戦いに犠牲はつきものだ。
戦死者の定員を決めろとでも言うのか」
拳を振り上げてわめくデメトリオスの首を、弩の矢が貫いた。
重傷だった。
デメトリオスはやむを得ずピュロスとの講和を結んだ。

 幸いにもデメトリオスの首の傷は癒えたが、威信の傷は癒えなかった。
宿敵ピュロスが武名を上げる一方で、デメトリオスは虚名を飾り立てた。
宝玉の環を二線めぐらせた縁の広い帽子やら、黄金の縁取りをした紅の衣やらを派手に着込み、足さえもけばけばしく金の刺繍が入った赤いフェルトの逸品で飾っていた。
長い間かけて織らせた外套などは実際大した品で、世界地図と様々な天体の模様が描かれていた。
この外套は、その後に王位についたものは誰も着用しなかった。
それは謙遜によるというよりも、奢侈により民心を失ったデメトリオスと同じ轍を踏むまいと人々が考えたからである。
また、デメトリオスは使者が来るたびにピュロスに送った使者より数が少ないだの贈り物が少ないなどと騒ぎ、人々に失笑された。
巡幸の際になにか陳情をしようとした老婆を「こっちは暇じゃないんだ」と冷たくあしらったこともあった。
「では、王様をやめてしまいなさい。
暇が出来ますよ」
怒った老婆の叫びに、デメトリオスはしばらく行いを改めたが、長続きしなかった。

 デメトリオスは息子アンティゴノスが止めるのも聞かず、民に重税をかけて再び大軍団を編成した。
九万八千の歩兵、一万二千の騎兵、五百隻の艦隊、これらがマケドニアの人々の血と汗を結集して作られた。
セレウコスは怒ってデメトリオスとの同盟を破棄し、リュシマコスとプトレマイオスの二人と結んだ。
それでも、デメトリオスはこの三人を向こうに回しても勝算がある、と信じていた。
しかし、戦場で会敵したのは、なんと講和条約を結んだはずのエピロス王ピュロスであった。
デメトリオスの陣を急襲したピュロスを前に、デメトリオスは狼狽えるばかりであった。
デメトリオスの護衛兵達は盾を投げ捨てた。
降伏の印であった。
「待て、何をやっているお前らッ。 武器を取れ。 私を守らんか」
一人の護衛兵が言った。
「我々は偽りのアレクサンドロス大王に仕えていた。 ピュロス王こそアレクサンドロス大王の再来だ。 アレクサンドロス万歳」
「アレクサンドロス万歳ッ、アレクサンドロス万歳ッ」
護衛兵の反乱の中、デメトリオスは逃げ出すしかなかった。
デメトリオスはこうして軍の殆どを失い、息子とも逸れてしまった。
逃走を続ける中で、妻のフィラーがぽつりと言った。
「もう終わりですわね。 お暇乞いをさせていただきます。 捕虜になる貴方なんて見たくない」
ぼんやりしていたデメトリオスは、妻が小瓶を手にしているのに気がつくのが、一瞬遅れた。
「よせッ」
間に合わなかった。
正妻フィラーは毒をあおって死んでしまった。

 その後はどうしてこうなったのか、デメトリオス自身にもよく思い出せない。
誰と結んで勢力の回復を図ろうとしたのか、誰が味方で、誰が敵だったのか、もはやよくわからない。
確かなのは、がむしゃらに頑張ったものの最終的にセレウコスの捕虜になった、ということだけだ。
僻地の屋敷に軟禁状態であり、狩りをするくらいの自由はあるが、はっきり言えば虚無そのものの生活だった。
救いと言えば、身の回りの世話をする下女としてついた老婆が誰あろう行方不明になっていた愛妾のラミアであったこと、そして息子アンティゴノスが無事に逃げ延びた、という事くらいである。
デメトリオスは逃亡先の息子に対して手紙を書いた。
自分は死んだものと思いなさい。
復讐や大それた戦争など考えず、今保持しているわずかな領土を堅実に治めなさい。
書きながら、デメトリオスはふっと笑みをもらした。
その様子を見て、ラミアが文机を覗き込んできた。
ラミアは手紙を一読するとしわがれた声で笑った。
「どの口が言っているのだか」
「ははは、私もそう思って笑っていたのさ」
攻囲王デメトリオスは五十四歳で死んだ。
デメトリオスの入った棺を、息子アンティゴノスがセレウコスに乞うて迎え入れた。
棺に身を伏せて泣くアンティゴノスの姿は、人々に深い憐れみと悲しみの心を起こさせた。

 デメトリオスの息子アンティゴノスは、再び荒廃したマケドニアに介入、エピロス王ピュロスを撃退し、王位に就いた。
彼の開いた王朝が、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトと並び、ヘレニズム三国と呼ばれる、アンティゴノス朝マケドニアである。
これら三国がローマに滅ぼされるまで繁栄を誇ったことは、よく知られるところである。