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第二話 青年

ー/ー



 エジプト太守プトレマイオスがキュプロスの海を渡り、アンティゴノスの領する中東の地に侵入してきた。
その報を受けたアンティゴノスが命令を発する前に、デメトリオスがたちあがって主張した。
「父上、ここはどうかこのデメトリオスにお任せください」
目を爛々と輝かせるデメトリオスはこの時二十二歳の青年となっていた。
「プトレマイオスを侮るな。 あれは謂わゆる“王の友人達”の中では、中々の手練れだぞ」
プトレマイオスは大王とともに首都ペラの士官学校で学んだため「王の友人達」と呼ばれる集団に分類される。
その中でも首尾よくエジプトを掌握、大王の亡骸を奪取して我こそは後継者ならんと宣言するプトレマイオスは、目立つ存在であった。
「アレクサンドロス大王は私の歳の頃には既に戦場に出て、ギリシアやペルシアの各都市を次々と攻略していたというではありませんか」
我が身と大王とを重ねて考えるこの自信家の息子に、アンティゴノスは兵を与えることとした。
決戦はパレスティナ、ガザの地で行われた。
プトレマイオスは左翼に偏重したデメトリオスの軍を見ると、その特徴的な大きな鼻を撫でながら、文字通り鼻で笑った。
「アンティゴノス自身が来るべきであったな」
プトレマイオスは直ちに布陣を右翼偏重に切り替え、投石兵と弓兵を右翼に回した。
デメトリオスの狙いは左翼の強力な騎兵をもって敵の右翼をまず倒し、そこから敵側面を包囲するという謂わゆる鉄床戦術であった。
投石兵と弓兵の猛射によって思うように右翼を駆逐できなかった時点で、まずデメトリオスの補佐につけられていた古参の部将ペイトンが蒼ざめた。
「若様、これはまずい。 完全に読まれています。 撤退すべきです」
しかし、デメトリオスはといえば赤くなっていた。
「少しばかり目論見が狂ったところでなんだというのだ。 戦象を投入せよッ」
戦象はアレクサンドロス大王が導入して以来、盛んに使われた軍用動物である。
インド人の象使いと共にインドから輸入され、防御陣地を突破するためにしばしば投入された。
プトレマイオスは砂塵を巻きあげて迫ってくる戦象に対しても落ち着きはらっていた。
「若造め、話にならん。 象の弱点も知らんと見える」
プトレマイオスが合図をすると鎖で繋がれた撒菱が象の足元へと投げつけられた。
象の弱点、それは過敏すぎる足の裏である。
撒菱を踏んだ象は暴れ出し、味方のデメトリオス軍を蹴散らして戦線から離脱した。
こうなると、あとは一方的な殺戮となった。
「まだだ、まだ戦える。 ここでおめおめと引き退るなど」
わめくデメトリオスの顔を平手が打った。
部将ペイトンだった。
「いい加減になされませ。 命があればいくらでもやり返すことは出来ます。 ここは退きますぞ」
デメトリオスは遂に敗軍をまとめて戦線を離脱した。
窮地を脱すると、傍らに座り込んだペイトンの背中にデメトリオスは手をかけた。
「ペイトン、すまなかった。 お前のおかげで目を覚ますことが……」
そこまで言ってデメトリオスは絶句した。
デメトリオスの手にねばついた液体が、ペイトンの鮮血がこびりついていた。
「それならば命の甲斐があったというもの。 若様、今後のご武運を祈ります」
ペイトンはぐらりと傾いて、そのまま倒れた。
戦死者を五千人、捕虜は八千人という大敗北であった。
「君たち父子と違って、私は名誉と統治のために戦っている。 なりふり構わずに戦っているわけではないのだ」
プトレマイオスの嫌味な書状とともに高位の捕虜や女性が帰ってきたが、デメトリオスは天を仰いでこう言ったのみだった。
「いつまでも恩に着せられているつもりはない。 すぐに返礼する」
ペイトンの死もあってか、デメトリオスは計画の初めに失敗して拗ねる子供の顔ではなく、情勢の変化を経験した重々しい将軍の顔になっていた。
デメトリオスは兵を徴募し、軍馬を養い、返礼の時に着々と備えていった。


 アンティゴノスはデメトリオスからの敗北と、態勢を立て直しつつあること、再戦を求めることについての簡潔な報告を読むと、息子の変化を感じ取った。
「プトレマイオスが破ったのは髭のない青年だったが、今度闘う相手は壮年だ」
アンティゴノスの近臣たちは、今度はアンティゴノス自身が出陣するということかとざわめいたが、この発言はプラトンが運動競技の上達を少年、青年そして壮年と喩えたことに依拠するものであった。
アンティゴノスは独力で再戦をしたいという息子の願いを聞き入れた。
再戦の機会はすぐにやってきた。
プトレマイオスの部将キルレースがシリア全土を奪うために華々しい軍勢を引き連れて襲来したのである。
しかし、その軍勢が威力を発揮する前にデメトリオスは電光石火の奇襲攻撃をかけた。
キルレースの本陣まで騎兵が蹂躙し、軍旗を奪い、七千人の捕虜を得た。
デメトリオスはこの勝利をたいそう喜んだが、それは奪ったものが多かったからではなく、返礼ができるからであった。
しかし、そうする前にデメトリオスは父にそのことを諮った。
アンティゴノスは汝のやりたいようにせよ、と返答したので、デメトリオスは捕虜に土産まで持たせてプトレマイオスに送り返した。


 アンティゴノスはプトレマイオスとカッサンドロスの両者が共同で支配しているギリシア諸都市にもその侵攻の手を伸ばさんとした。
「父上、戦いには大義が必要です。 いっそのこと、奪った都市は自由にしてしまうというのはどうでしょうか」
ギリシアの諸都市を自由にするための戦い、デメトリオスの主張したこの立派な大義名分をアンティゴノスは採用した。
理由は二つあって、一つ目はカッサンドロスの敷いたギリシア諸都市の寡頭政治が過酷で評判の悪いことから自由を旗印にすれば民衆から歓迎され得ること、二つ目は実際に自由を回復してやっても解放者たる自分に好意的な政権が立つのが予想されることであった。
デメトリオスはこの頃にはシナイ半島でのナバテア人との戦いや、バビロンでのセレウコスの配下との戦いに勝利してその腕を磨いており、父アンティゴノスは今度はお目付け役などつけることなく息子デメトリオスを送り出した。
かくしてデメトリオスは二百五十隻もの大艦隊を率いてアテナイに侵攻した。
アテナイにはカッサンドロスの代官とその守備隊がいたのだが、プトレマイオスとの同盟が成ってすぐのことだったために、向かってくる船団をプトレマイオスのものと誤認し、港を開放して迎え入れてしまう始末であった。
上陸されてから慌てて抵抗を開始したが後の祭であり、アテナイはあっさり占領された。
「アテナイ市民よ。カッサンドロスの代官はどこか」
デメトリオスが問うと、縛り上げられた代官がデメトリオスのもとに放り出された。
兵士達に小突かれて名を名乗るように迫られると、代官は言った。
「アテナイ知事のデメトリオスです」
知事でない方のデメトリオスは笑って言った。
「奇しくも同じ名か。 アテナイ市民の皆さん、このデメトリオスはアテナイに圧政をもたらしたかもしれないが、アンティゴノスの子デメトリオスは自由をもたらしに来た」
そう言って、デメトリオスはやおら剣を抜くと、振り下ろした。
斬られたのはアテナイ知事デメトリオスではなく、彼を縛っている縄であった。
「口先だけでないことを証するために、まずはこの男を解放する。 この男に罪があるならば、アテナイの父祖伝来の民主的手続きをもって訴追されるべきである」
喝采がデメトリオスを包んだ。
アテナイ市民はあらゆる阿諛追従をもってデメトリオスとその父アンティゴノスを顕彰した。
その有様といえば、デメトリオスとアンティゴノスは救いの神と奉られる、デメトリオスが上陸した地点には祭壇が設けられる、アテナイ十部族にアンティゴノス一族とデメトリオス一族が加えられて十二部族とされる等、アンティゴノスとデメトリオスは同じ一族ではという指摘が憚られるほどの持ち上げぶりであった。
デメトリオスはこれらの賛辞を全て間に受ける程のお人好しではなかったが、浮かれる程度にはお調子者だった。
美女と名高いある婦人がデメトリオスへ面会を求めているとの報せが入ると、彼は人払いをしてうきうきしながら彼女の到来を待った。
しかし、現れたのは美女ではなく覆面をした暴漢であった。
女好きとの噂のあったデメトリオスを仕留めるため、何者かが仕掛けた罠だったのである。
デメトリオスは武芸にも秀でていたので危うく難を逃れたが、もう少しで後世の物笑いの種になるところであった。


 アンティゴノスはセレウコスやリュシマコスとも敵対したが、これら後継者を煽動して半ば操っているのがプトレマイオスであった。
キュプロス島の領有を巡ってプトレマイオスと再び一触即発となったアンティゴノスは、息子デメトリオスをキュプロス近海に呼び寄せた。
デメトリオスはシキュオーンとコリントスの二都市を攻めているところだったので、父の命令に従いつつもこれらの都市の攻略に未練を残していた。
プトレマイオスは自らの艦隊百五十隻を率いてキュプロス近海に到着すると、全軍が集まらない内に撤退するのが賢い選択だ、などとデメトリオスを威嚇した。
デメトリオスはデメトリオスでシキュオーンとコリントスの守備隊を引き揚げるなら考えてやらんでもないとやりかえした。
お互いが譲らず、キュプロス近海のサラミス沖で両艦隊は激突することとなった。
プトレマイオス艦隊は百五十隻、デメトリオス艦隊は百九十隻と数の上でやや劣勢であったプトレマイオスは弟のメネラオスに六十隻の艦艇を与えてサラミス水道を経由して背後を突かせようと試みた。
その動きを察知したデメトリオスは泰然として言った。
「ポリレムスを出せ。十隻で構わん」
サラミス水道を通って進んできたメネラオスは目の前の光景に腰を抜かした。
「なんだ、あれは。 あれは船、なのか」
サラミス水道が完全に封鎖されていたのである。
それも、たった十隻の船によって。
過去のサラミスの海戦で活躍した三段櫂船や、アレクサンドロス大王の時代に一般化してきた五段櫂船、それらを遥かにしのぐ巨大な十六段櫂船がそこにいた。
ポリレムスとは「多くの櫂を持つもの」という意味で、デメトリオスの設計したこの巨大な船を指し、後のヘレニズム世界では巨大戦艦の総称となった。
デメトリオスが他の群雄と比して飛び抜けていた才能があるとすれば、それは兵器の設計の才能である。
この戦いはデメトリオスがその才能を発揮した最初の戦いであった。
背後をつくはずの援軍が来なかったプトレマイオス艦隊は、数の劣勢を覆せず、プトレマイオスの乗った旗艦を含む八隻のみが離脱できたものの、殆どが沈められ、七十隻が拿捕された。
デメトリオスは拿捕した船から聴こえる笛の音に誘われ、甲板に降り立った。
甲板には一人の女が立っていて、デメトリオスの姿を見ると笛をそっと降ろした。
「良い音色だった。私はデメトリオスという。君の名は」
「ラミア」
デメトリオスはその名を聞いて女がヘタイラと呼ばれるような娼婦であることに気がついた。
ヘタイラは性的な奉仕を提供するだけでなく、話術や楽器の演奏なども身につけた高級娼婦であり、一見して貴族の女性と見分けがつかないほど洗練されている。
彼女達はしかし、ヒキガエルやらヘビといった意味の醜い意味の名前を名乗る慣習となっていて、名前を呼ばれるとそれとわかってしまうのである。
デメトリオスは多くの女性と結婚したが、生涯に渡って夢中になっていたと言えるのは、この、女妖怪ラミアの名を名乗る年齢不詳の娼婦だけなのであった。


 プトレマイオスを打ち破った事で、アンティゴノスとデメトリオスの父子は後継者戦争の中で名実共に最強の者となった。
アンティゴノスは歓呼の声の中で自身を王と号し、戴冠式を執り行った。
デメトリオスも父アンティゴノスより王冠を与えられ、父子で王を名乗ることとなった。
一方、失意の中でエジプトに帰国したプトレマイオスも、民衆から王の名で呼ばれて驚いた。
プトレマイオスは本拠地エジプトでは善政を敷いていたので、人々は敗北に気を落としていないことを示し、プトレマイオスを勇気づけようとしたのである。
こうなると、我も我もとリュシマコスやセレウコスも王を名乗り、王冠をかぶるようになった。
これらの事は単に衣装や儀式を改めさせただけにとどまらず、役者が役に影響を受けてしまうように、彼らの心を蝕んだ。
すなわち、王を名乗ることにより、彼らの心に尊大さや、傲慢が芽吹いたのである。
外交においても、戦後の処置においても、この事は後継者戦争を激化させる一つの要因となった。


 アンティゴノスは隻眼であったことからモノフタルモス、つまり隻眼王と呼ばれるようになったが、デメトリオスにもやがて二つ名がつくこととなった。
デメトリオスが進軍すると、敵でも味方でもないもの達が大勢その周囲をうろちょろする。
それはヘレポリス、都市を捕えるもの、という意味の巨大な攻城塔を見るためにやってきた野次馬であった。
軍勢の中ににょきにょき生えているそれら移動式の攻城塔は多くが現代の尺で言うと二十米ほどであったが、一際目を引くのが高さ四十米、幅二十米、重さ百六十屯という怪獣のような代物である。
これが接近してくるのだから、城壁に詰める敵兵達はたまったものではない。
「ひょえええ、城壁よりそもそも高ぇじゃねえか」
「馬鹿、驚いてる場合か……」
ヘレポリスの窓が開き、中から雨霰のように矢や槍、投石が降り注ぐ。
塔に内蔵されたはね橋がかかり、城内に兵士が雪崩れ込む。
このような手口で次々と都市を攻略していったデメトリオスは、いつしかポリオルケテス、
攻囲王デメトリオスと呼ばれるようになった。


 デメトリオスが攻略できなかった都市が一つだけある。
それがロドス島である。
プトレマイオスとの関係を切らなかったロドス島に、アンティゴノスは懲罰的な軍事行動を起こした。
アンティゴノスの命を受けたデメトリオスは、はじめ六隻の巨大戦艦ポリレムスに攻城塔ヘレポリスを乗せて接近したが、嵐のために失敗した。
ついで、二回目の侵攻では島の海岸から城壁までのわずかな陸地部分に四十米の化け物ヘレポリスを上陸させることに成功した。
ロドス島内は恐慌状態に陥った。
なす術の思いつかないロドス島民は、島在住の建築家ディオグネトスに助けを求めた。
ディオグネトスは家に訪れた使者達を待たせると、柄杓に肥を汲んでもどってきた。
「糞食らえとでも言うおつもりですか。 そこをなんとか、協力していただけませんか」
「馬鹿モン、これが儂の秘策じゃい」
ロドス島民は、ディオグネトスの指示するとおり自分たちで内側から城壁に穴を開け、そこから糞尿を垂れ流した。
翌朝。、城壁に近づいていく化け物ヘレポリスを見ながら、デメトリオスは違和感に気づいた。
「なんか、臭くないか。……駄目だッ戻れ戻れッ、地面をよく見ろッ」
時既に遅く、即席の泥濘地にはまった化け物ヘレポリスは機能を発揮する前に停止してしまった。
なんとか船で牽引して立て直しを図っている最中に、再建されたプトレマイオスの艦隊がロドス救援のために到来した。
プトレマイオスはこの一件からソーテール、救済王プトレマイオスと呼ばれるようになった。
慌てて逃げ出したデメトリオスは、自慢のヘレポリスも置いていかざるを得なかった。
多大な功績を挙げた建築家ディオグネトスは、報酬としてヘレポリスそのものを所望した。
訝しむ市民達をよそにディオグネトスは引き上げ、何ヶ月かすると大量の青銅を神殿に奉納した。
「ヘレポリスの構造を調べつくして満足したわい。 青銅の部品がいっぱいあったので、好きに再利用してけろ」
この青銅を使って作られたのが、世界七不思議の一つ、ロドス島の青銅巨人像だと言われている。


 大会戦が迫っていた。
エジプト王プトレマイオスが裏から手を回し、トラキア王リュシマコスとシリア王セレウコスの反アンティゴノス同盟が成った。
これにはマケドニア王となったカッサンドロスも資金援助をしていた。
出陣前夜の宴会の席でデメトリオスの愛妾ラミアの吹く笛の音が響く。

「あの女のこと、どう思う」

デメトリオスが小姓のデーモーに囁くと、デーモーは申し訳なさそうに答える。

「お婆さんだと思います」

美少年の辛辣な意見にデメトリオスの、こめかみがぴくりと動く。
デメトリオスとラミアが出逢った時、デメトリオスは若者でラミアは中年だった。
デメトリオスが中年になった今、ラミアが老けてきたのは仕方のないことである。
デメトリオスは久々に深酒を煽って、倒れるように寝てしまった。
デメトリオスの目の前に、華々しい武具を身につけた男が立っていた。
アレクサンドロス大王であった。
「やあ、明日の戦ではどういう合言葉を使うんだい」
デメトリオスは問われて素直に返す。
「勝利とゼウス、です」
アレクサンドロス大王は笑った。
「では、私はセレウコス達の方へ行くよ。あっちでは私を迎えてくれるそうだから」
そこで、目が覚めた。


 敵陣ではリュシマコスは苛々しながらのしのしと歩き回っていた。
「遅いッ、セレウコスのやつは何をやっておるか」
リュシマコスはごきごきと拳を鳴らす。
リュシマコスはアレクサンドロス大王の不興を買って獅子の餌にされかかったが、獅子を絞め殺したために驚嘆した大王に許され、じ後は重く用いられたという武辺一辺倒の将軍である。
ここイプソスの地で行われる戦いは、リュシマコスとセレウコスの連合軍をプトレマイオスとカッサンドロスが資金援助する、という反アンティゴノス陣営が結束して仕掛けた戦争であった。
その時、遠くから地響きのような音が近づいてきた。
砂塵を巻きあげ近づいてくるそれを見て、豪胆なリュシマコスも流石に驚いた。
「可愛い我が娘と引き換えに、揃えも揃えたり戦象四百頭。四百頭だぞ。大事な事なので二回言っておく」
セレウコス自身も戦象に乗っている。
セレウコスは大王の東方遠征に従ったが、その頃には特段の功績もなかった。
しかし、それは家柄がいまひとつであった彼が、後の雄飛のためにもっぱら東方での人脈の形成に注力していたからであった。
そしてその努力はいま結実した。
セレウコスはインドのチャンドラグプタ王に娘を嫁がせて、大量の戦象を工面してもらったのである。
「恩着せがましいッ、大体、同盟相手とはいえ合言葉を言わんか。間違えて殺されても知らんぞ」
「じゃあ、お先にどうぞ」
リュシマコスは声を張り上げて、合言葉を叫ぶ。
「勝利ッ」
セレウコスが返す。
「アレクサンドロス」


 デメトリオスとアンティゴノスの軍勢は歩兵七万、騎兵一万、象七十五頭。
リュシマコスとセレウコスの軍勢は歩兵六万四千、騎兵一万と五百、戦車百二十、象四百頭であった。
戦象を除くほかは概ね互角だったが、四百頭もの象は実態以上に強力無比な印象を与えた。
デメトリオスはそれでも気圧されなかったが、父アンティゴノスは城壁のような象の軍団を見て言葉を失った。。
アンティゴノスは出陣の際に天幕の杭につまづき、無様に転んでしまうほどに動揺していた。
父上も老いた、とデメトリオスは悲しくなった。
御歳八十歳なのだから無理もないが、唯我独尊といわんばかりのぎらぎらした父親がもう過去のことだと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
会敵すると、セレウコスの子アンティオコスが騎馬隊を率いていた。
アンティオコスは指を指して笑った。
「なんだか眩しいと思ったら親の七光が出てきたぞ」
「二世はお前も同じことだろう」
デメトリオスは剣を抜いた。
アンティオコスも度々戦場に出てはいるが、彼はその父セレウコスには遠く及ばない凡将というのが、内外の意見の一致するところであった。
デメトリオスが練り上げた自慢の騎兵隊をぶつけると、アンティオコスの騎兵隊はひとたまりもなく砕け散り、アンティオコスは踵をめぐらしてすぐに逃げ出した。
追いかけるデメトリオスに、客将ピュロスが追いすがる。
ピュロスはエピロスという都市国家の王であったが、反乱により国を追われ、傭兵隊長として頭角をあらわした若者だった。
「怪しい。デメトリオス殿、深追いめされるな」
「なに、すぐに討ち取ってくるさ」
ピュロスが止めるのも聞かず、デメトリオスはアンティオコスを追って、敵陣深く斬り込んでいった。
視線を巡らせるとセレウコスの乗る戦象が砦のように鎮座している。
悪寒が背筋を走る。
他の象は何処へ行った。
「アンティオコスよ、お前にしてはよくやった」
セレウコスは息子アンティオコスに笑いかけた。
しまった、振り返ると背後に象が整列しつつあった。
象達は互いに身を寄せ合い、隙間のない長大な壁のようになっている。
父上と分断された、デメトリオスは愕然とする。


 「あれは、リュシマコスか。 青二歳が小癪にもッ」
リュシマコス率いる軽騎兵が猛烈な勢いで接近していた。
兜のみを被り、短い投げ槍だけを獲物に持っている。
「デメトリオスは何をしておる」
アンティゴノスが周囲に問う。
護衛兵が叫ぶように答える。
「アンティオコスを追って、敵陣深くに消えました」
そのやりとりをしている間にも、リュシマコス率いる軽騎兵は距離を縮めてくる。
「狙いは、陛下やも知れません。お退きください」
護衛の焦った声にアンティゴノスは返す。
「私以外に誰を狙うと言うのだッ。退かぬ、デメトリオスは必ず戻ってくる」
リュシマコスはさらに肉薄してきた。
「アンティゴノス、その首貰い受ける」
リュシマコスの投じた投げ槍は、アンティゴノスの心の臓を貫いた。
続いて軽騎兵が投じた投げ槍が、十数本、いずれもアンティゴノスの顔といい、手足といい、腹といい、ありとあらゆる箇所に命中して針の山のようになった。
これが後継者の中で「最強の者」と呼ばれた隻眼王アンティゴノスの最期であった。


 デメトリオスは敵軍の歓声で父アンティゴノスが死んだことを知った。
目の前が真っ暗になったが、それは一時の事だった。
この戦場を脱さねば、父の仇を討つことも叶うまい。
戦勝の気分が漂って弛緩した包囲網を抜き、デメトリオスは自身の艦隊が接収される前に軍船に逃げ込むことに成功した。
頼るあてを探し、以前に解放したアテナイへ入港して急場をしのごうとしたが、アテナイの人々は掌を返した。
「以前とは、状況が違いますからなぁ。プトレマイオスやセレウコスに睨まれてはかなわない」
「入港はご遠慮いただきたい。あ、アテナイに住んでいたあなたの妻子はお返ししますよ。どうぞ、ご家族を連れてどこへなりと行ってください」
アテナイの恩知らずな対応に腹を立てたデメトリオスだが、報復する手立てもない。
久しぶりに会う家族。
今まで家庭を省みることは一度もなかった。
正妻フィラーは別人のように老け込み、息子は青年になっていた。
「父上、このアンティゴノスも父上をお支えします」
息子の名前は、そうだった。
この子の名前は、父と同じアンティゴノスだった。
「父上、父上、私がしくじったばかりに父上が……」
家族の前で、デメトリオスは崩れ落ちた。
哭泣するデメトリオスの肩に、息子アンティゴノス二世が手を添えた。


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その中でも首尾よくエジプトを掌握、大王の亡骸を奪取して我こそは後継者ならんと宣言するプトレマイオスは、目立つ存在であった。
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我が身と大王とを重ねて考えるこの自信家の息子に、アンティゴノスは兵を与えることとした。
決戦はパレスティナ、ガザの地で行われた。
プトレマイオスは左翼に偏重したデメトリオスの軍を見ると、その特徴的な大きな鼻を撫でながら、文字通り鼻で笑った。
「アンティゴノス自身が来るべきであったな」
プトレマイオスは直ちに布陣を右翼偏重に切り替え、投石兵と弓兵を右翼に回した。
デメトリオスの狙いは左翼の強力な騎兵をもって敵の右翼をまず倒し、そこから敵側面を包囲するという謂わゆる鉄床戦術であった。
投石兵と弓兵の猛射によって思うように右翼を駆逐できなかった時点で、まずデメトリオスの補佐につけられていた古参の部将ペイトンが蒼ざめた。
「若様、これはまずい。 完全に読まれています。 撤退すべきです」
しかし、デメトリオスはといえば赤くなっていた。
「少しばかり目論見が狂ったところでなんだというのだ。 戦象を投入せよッ」
戦象はアレクサンドロス大王が導入して以来、盛んに使われた軍用動物である。
インド人の象使いと共にインドから輸入され、防御陣地を突破するためにしばしば投入された。
プトレマイオスは砂塵を巻きあげて迫ってくる戦象に対しても落ち着きはらっていた。
「若造め、話にならん。 象の弱点も知らんと見える」
プトレマイオスが合図をすると鎖で繋がれた撒菱が象の足元へと投げつけられた。
象の弱点、それは過敏すぎる足の裏である。
撒菱を踏んだ象は暴れ出し、味方のデメトリオス軍を蹴散らして戦線から離脱した。
こうなると、あとは一方的な殺戮となった。
「まだだ、まだ戦える。 ここでおめおめと引き退るなど」
わめくデメトリオスの顔を平手が打った。
部将ペイトンだった。
「いい加減になされませ。 命があればいくらでもやり返すことは出来ます。 ここは退きますぞ」
デメトリオスは遂に敗軍をまとめて戦線を離脱した。
窮地を脱すると、傍らに座り込んだペイトンの背中にデメトリオスは手をかけた。
「ペイトン、すまなかった。 お前のおかげで目を覚ますことが……」
そこまで言ってデメトリオスは絶句した。
デメトリオスの手にねばついた液体が、ペイトンの鮮血がこびりついていた。
「それならば命の甲斐があったというもの。 若様、今後のご武運を祈ります」
ペイトンはぐらりと傾いて、そのまま倒れた。
戦死者を五千人、捕虜は八千人という大敗北であった。
「君たち父子と違って、私は名誉と統治のために戦っている。 なりふり構わずに戦っているわけではないのだ」
プトレマイオスの嫌味な書状とともに高位の捕虜や女性が帰ってきたが、デメトリオスは天を仰いでこう言ったのみだった。
「いつまでも恩に着せられているつもりはない。 すぐに返礼する」
ペイトンの死もあってか、デメトリオスは計画の初めに失敗して拗ねる子供の顔ではなく、情勢の変化を経験した重々しい将軍の顔になっていた。
デメトリオスは兵を徴募し、軍馬を養い、返礼の時に着々と備えていった。

 アンティゴノスはデメトリオスからの敗北と、態勢を立て直しつつあること、再戦を求めることについての簡潔な報告を読むと、息子の変化を感じ取った。
「プトレマイオスが破ったのは髭のない青年だったが、今度闘う相手は壮年だ」
アンティゴノスの近臣たちは、今度はアンティゴノス自身が出陣するということかとざわめいたが、この発言はプラトンが運動競技の上達を少年、青年そして壮年と喩えたことに依拠するものであった。
アンティゴノスは独力で再戦をしたいという息子の願いを聞き入れた。
再戦の機会はすぐにやってきた。
プトレマイオスの部将キルレースがシリア全土を奪うために華々しい軍勢を引き連れて襲来したのである。
しかし、その軍勢が威力を発揮する前にデメトリオスは電光石火の奇襲攻撃をかけた。
キルレースの本陣まで騎兵が蹂躙し、軍旗を奪い、七千人の捕虜を得た。
デメトリオスはこの勝利をたいそう喜んだが、それは奪ったものが多かったからではなく、返礼ができるからであった。
しかし、そうする前にデメトリオスは父にそのことを諮った。
アンティゴノスは汝のやりたいようにせよ、と返答したので、デメトリオスは捕虜に土産まで持たせてプトレマイオスに送り返した。

 アンティゴノスはプトレマイオスとカッサンドロスの両者が共同で支配しているギリシア諸都市にもその侵攻の手を伸ばさんとした。
「父上、戦いには大義が必要です。 いっそのこと、奪った都市は自由にしてしまうというのはどうでしょうか」
ギリシアの諸都市を自由にするための戦い、デメトリオスの主張したこの立派な大義名分をアンティゴノスは採用した。
理由は二つあって、一つ目はカッサンドロスの敷いたギリシア諸都市の寡頭政治が過酷で評判の悪いことから自由を旗印にすれば民衆から歓迎され得ること、二つ目は実際に自由を回復してやっても解放者たる自分に好意的な政権が立つのが予想されることであった。
デメトリオスはこの頃にはシナイ半島でのナバテア人との戦いや、バビロンでのセレウコスの配下との戦いに勝利してその腕を磨いており、父アンティゴノスは今度はお目付け役などつけることなく息子デメトリオスを送り出した。
かくしてデメトリオスは二百五十隻もの大艦隊を率いてアテナイに侵攻した。
アテナイにはカッサンドロスの代官とその守備隊がいたのだが、プトレマイオスとの同盟が成ってすぐのことだったために、向かってくる船団をプトレマイオスのものと誤認し、港を開放して迎え入れてしまう始末であった。
上陸されてから慌てて抵抗を開始したが後の祭であり、アテナイはあっさり占領された。
「アテナイ市民よ。カッサンドロスの代官はどこか」
デメトリオスが問うと、縛り上げられた代官がデメトリオスのもとに放り出された。
兵士達に小突かれて名を名乗るように迫られると、代官は言った。
「アテナイ知事のデメトリオスです」
知事でない方のデメトリオスは笑って言った。
「奇しくも同じ名か。 アテナイ市民の皆さん、このデメトリオスはアテナイに圧政をもたらしたかもしれないが、アンティゴノスの子デメトリオスは自由をもたらしに来た」
そう言って、デメトリオスはやおら剣を抜くと、振り下ろした。
斬られたのはアテナイ知事デメトリオスではなく、彼を縛っている縄であった。
「口先だけでないことを証するために、まずはこの男を解放する。 この男に罪があるならば、アテナイの父祖伝来の民主的手続きをもって訴追されるべきである」
喝采がデメトリオスを包んだ。
アテナイ市民はあらゆる阿諛追従をもってデメトリオスとその父アンティゴノスを顕彰した。
その有様といえば、デメトリオスとアンティゴノスは救いの神と奉られる、デメトリオスが上陸した地点には祭壇が設けられる、アテナイ十部族にアンティゴノス一族とデメトリオス一族が加えられて十二部族とされる等、アンティゴノスとデメトリオスは同じ一族ではという指摘が憚られるほどの持ち上げぶりであった。
デメトリオスはこれらの賛辞を全て間に受ける程のお人好しではなかったが、浮かれる程度にはお調子者だった。
美女と名高いある婦人がデメトリオスへ面会を求めているとの報せが入ると、彼は人払いをしてうきうきしながら彼女の到来を待った。
しかし、現れたのは美女ではなく覆面をした暴漢であった。
女好きとの噂のあったデメトリオスを仕留めるため、何者かが仕掛けた罠だったのである。
デメトリオスは武芸にも秀でていたので危うく難を逃れたが、もう少しで後世の物笑いの種になるところであった。

 アンティゴノスはセレウコスやリュシマコスとも敵対したが、これら後継者を煽動して半ば操っているのがプトレマイオスであった。
キュプロス島の領有を巡ってプトレマイオスと再び一触即発となったアンティゴノスは、息子デメトリオスをキュプロス近海に呼び寄せた。
デメトリオスはシキュオーンとコリントスの二都市を攻めているところだったので、父の命令に従いつつもこれらの都市の攻略に未練を残していた。
プトレマイオスは自らの艦隊百五十隻を率いてキュプロス近海に到着すると、全軍が集まらない内に撤退するのが賢い選択だ、などとデメトリオスを威嚇した。
デメトリオスはデメトリオスでシキュオーンとコリントスの守備隊を引き揚げるなら考えてやらんでもないとやりかえした。
お互いが譲らず、キュプロス近海のサラミス沖で両艦隊は激突することとなった。
プトレマイオス艦隊は百五十隻、デメトリオス艦隊は百九十隻と数の上でやや劣勢であったプトレマイオスは弟のメネラオスに六十隻の艦艇を与えてサラミス水道を経由して背後を突かせようと試みた。
その動きを察知したデメトリオスは泰然として言った。
「ポリレムスを出せ。十隻で構わん」
サラミス水道を通って進んできたメネラオスは目の前の光景に腰を抜かした。
「なんだ、あれは。 あれは船、なのか」
サラミス水道が完全に封鎖されていたのである。
それも、たった十隻の船によって。
過去のサラミスの海戦で活躍した三段櫂船や、アレクサンドロス大王の時代に一般化してきた五段櫂船、それらを遥かにしのぐ巨大な十六段櫂船がそこにいた。
ポリレムスとは「多くの櫂を持つもの」という意味で、デメトリオスの設計したこの巨大な船を指し、後のヘレニズム世界では巨大戦艦の総称となった。
デメトリオスが他の群雄と比して飛び抜けていた才能があるとすれば、それは兵器の設計の才能である。
この戦いはデメトリオスがその才能を発揮した最初の戦いであった。
背後をつくはずの援軍が来なかったプトレマイオス艦隊は、数の劣勢を覆せず、プトレマイオスの乗った旗艦を含む八隻のみが離脱できたものの、殆どが沈められ、七十隻が拿捕された。
デメトリオスは拿捕した船から聴こえる笛の音に誘われ、甲板に降り立った。
甲板には一人の女が立っていて、デメトリオスの姿を見ると笛をそっと降ろした。
「良い音色だった。私はデメトリオスという。君の名は」
「ラミア」
デメトリオスはその名を聞いて女がヘタイラと呼ばれるような娼婦であることに気がついた。
ヘタイラは性的な奉仕を提供するだけでなく、話術や楽器の演奏なども身につけた高級娼婦であり、一見して貴族の女性と見分けがつかないほど洗練されている。
彼女達はしかし、ヒキガエルやらヘビといった意味の醜い意味の名前を名乗る慣習となっていて、名前を呼ばれるとそれとわかってしまうのである。
デメトリオスは多くの女性と結婚したが、生涯に渡って夢中になっていたと言えるのは、この、女妖怪ラミアの名を名乗る年齢不詳の娼婦だけなのであった。

 プトレマイオスを打ち破った事で、アンティゴノスとデメトリオスの父子は後継者戦争の中で名実共に最強の者となった。
アンティゴノスは歓呼の声の中で自身を王と号し、戴冠式を執り行った。
デメトリオスも父アンティゴノスより王冠を与えられ、父子で王を名乗ることとなった。
一方、失意の中でエジプトに帰国したプトレマイオスも、民衆から王の名で呼ばれて驚いた。
プトレマイオスは本拠地エジプトでは善政を敷いていたので、人々は敗北に気を落としていないことを示し、プトレマイオスを勇気づけようとしたのである。
こうなると、我も我もとリュシマコスやセレウコスも王を名乗り、王冠をかぶるようになった。
これらの事は単に衣装や儀式を改めさせただけにとどまらず、役者が役に影響を受けてしまうように、彼らの心を蝕んだ。
すなわち、王を名乗ることにより、彼らの心に尊大さや、傲慢が芽吹いたのである。
外交においても、戦後の処置においても、この事は後継者戦争を激化させる一つの要因となった。

 アンティゴノスは隻眼であったことからモノフタルモス、つまり隻眼王と呼ばれるようになったが、デメトリオスにもやがて二つ名がつくこととなった。
デメトリオスが進軍すると、敵でも味方でもないもの達が大勢その周囲をうろちょろする。
それはヘレポリス、都市を捕えるもの、という意味の巨大な攻城塔を見るためにやってきた野次馬であった。
軍勢の中ににょきにょき生えているそれら移動式の攻城塔は多くが現代の尺で言うと二十米ほどであったが、一際目を引くのが高さ四十米、幅二十米、重さ百六十屯という怪獣のような代物である。
これが接近してくるのだから、城壁に詰める敵兵達はたまったものではない。
「ひょえええ、城壁よりそもそも高ぇじゃねえか」
「馬鹿、驚いてる場合か……」
ヘレポリスの窓が開き、中から雨霰のように矢や槍、投石が降り注ぐ。
塔に内蔵されたはね橋がかかり、城内に兵士が雪崩れ込む。
このような手口で次々と都市を攻略していったデメトリオスは、いつしかポリオルケテス、
攻囲王デメトリオスと呼ばれるようになった。

 デメトリオスが攻略できなかった都市が一つだけある。
それがロドス島である。
プトレマイオスとの関係を切らなかったロドス島に、アンティゴノスは懲罰的な軍事行動を起こした。
アンティゴノスの命を受けたデメトリオスは、はじめ六隻の巨大戦艦ポリレムスに攻城塔ヘレポリスを乗せて接近したが、嵐のために失敗した。
ついで、二回目の侵攻では島の海岸から城壁までのわずかな陸地部分に四十米の化け物ヘレポリスを上陸させることに成功した。
ロドス島内は恐慌状態に陥った。
なす術の思いつかないロドス島民は、島在住の建築家ディオグネトスに助けを求めた。
ディオグネトスは家に訪れた使者達を待たせると、柄杓に肥を汲んでもどってきた。
「糞食らえとでも言うおつもりですか。 そこをなんとか、協力していただけませんか」
「馬鹿モン、これが儂の秘策じゃい」
ロドス島民は、ディオグネトスの指示するとおり自分たちで内側から城壁に穴を開け、そこから糞尿を垂れ流した。
翌朝。、城壁に近づいていく化け物ヘレポリスを見ながら、デメトリオスは違和感に気づいた。
「なんか、臭くないか。……駄目だッ戻れ戻れッ、地面をよく見ろッ」
時既に遅く、即席の泥濘地にはまった化け物ヘレポリスは機能を発揮する前に停止してしまった。
なんとか船で牽引して立て直しを図っている最中に、再建されたプトレマイオスの艦隊がロドス救援のために到来した。
プトレマイオスはこの一件からソーテール、救済王プトレマイオスと呼ばれるようになった。
慌てて逃げ出したデメトリオスは、自慢のヘレポリスも置いていかざるを得なかった。
多大な功績を挙げた建築家ディオグネトスは、報酬としてヘレポリスそのものを所望した。
訝しむ市民達をよそにディオグネトスは引き上げ、何ヶ月かすると大量の青銅を神殿に奉納した。
「ヘレポリスの構造を調べつくして満足したわい。 青銅の部品がいっぱいあったので、好きに再利用してけろ」
この青銅を使って作られたのが、世界七不思議の一つ、ロドス島の青銅巨人像だと言われている。

 大会戦が迫っていた。
エジプト王プトレマイオスが裏から手を回し、トラキア王リュシマコスとシリア王セレウコスの反アンティゴノス同盟が成った。
これにはマケドニア王となったカッサンドロスも資金援助をしていた。
出陣前夜の宴会の席でデメトリオスの愛妾ラミアの吹く笛の音が響く。
「あの女のこと、どう思う」
デメトリオスが小姓のデーモーに囁くと、デーモーは申し訳なさそうに答える。
「お婆さんだと思います」
美少年の辛辣な意見にデメトリオスの、こめかみがぴくりと動く。
デメトリオスとラミアが出逢った時、デメトリオスは若者でラミアは中年だった。
デメトリオスが中年になった今、ラミアが老けてきたのは仕方のないことである。
デメトリオスは久々に深酒を煽って、倒れるように寝てしまった。
デメトリオスの目の前に、華々しい武具を身につけた男が立っていた。
アレクサンドロス大王であった。
「やあ、明日の戦ではどういう合言葉を使うんだい」
デメトリオスは問われて素直に返す。
「勝利とゼウス、です」
アレクサンドロス大王は笑った。
「では、私はセレウコス達の方へ行くよ。あっちでは私を迎えてくれるそうだから」
そこで、目が覚めた。

 敵陣ではリュシマコスは苛々しながらのしのしと歩き回っていた。
「遅いッ、セレウコスのやつは何をやっておるか」
リュシマコスはごきごきと拳を鳴らす。
リュシマコスはアレクサンドロス大王の不興を買って獅子の餌にされかかったが、獅子を絞め殺したために驚嘆した大王に許され、じ後は重く用いられたという武辺一辺倒の将軍である。
ここイプソスの地で行われる戦いは、リュシマコスとセレウコスの連合軍をプトレマイオスとカッサンドロスが資金援助する、という反アンティゴノス陣営が結束して仕掛けた戦争であった。
その時、遠くから地響きのような音が近づいてきた。
砂塵を巻きあげ近づいてくるそれを見て、豪胆なリュシマコスも流石に驚いた。
「可愛い我が娘と引き換えに、揃えも揃えたり戦象四百頭。四百頭だぞ。大事な事なので二回言っておく」
セレウコス自身も戦象に乗っている。
セレウコスは大王の東方遠征に従ったが、その頃には特段の功績もなかった。
しかし、それは家柄がいまひとつであった彼が、後の雄飛のためにもっぱら東方での人脈の形成に注力していたからであった。
そしてその努力はいま結実した。
セレウコスはインドのチャンドラグプタ王に娘を嫁がせて、大量の戦象を工面してもらったのである。
「恩着せがましいッ、大体、同盟相手とはいえ合言葉を言わんか。間違えて殺されても知らんぞ」
「じゃあ、お先にどうぞ」
リュシマコスは声を張り上げて、合言葉を叫ぶ。
「勝利ッ」
セレウコスが返す。
「アレクサンドロス」

 デメトリオスとアンティゴノスの軍勢は歩兵七万、騎兵一万、象七十五頭。
リュシマコスとセレウコスの軍勢は歩兵六万四千、騎兵一万と五百、戦車百二十、象四百頭であった。
戦象を除くほかは概ね互角だったが、四百頭もの象は実態以上に強力無比な印象を与えた。
デメトリオスはそれでも気圧されなかったが、父アンティゴノスは城壁のような象の軍団を見て言葉を失った。。
アンティゴノスは出陣の際に天幕の杭につまづき、無様に転んでしまうほどに動揺していた。
父上も老いた、とデメトリオスは悲しくなった。
御歳八十歳なのだから無理もないが、唯我独尊といわんばかりのぎらぎらした父親がもう過去のことだと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
会敵すると、セレウコスの子アンティオコスが騎馬隊を率いていた。
アンティオコスは指を指して笑った。
「なんだか眩しいと思ったら親の七光が出てきたぞ」
「二世はお前も同じことだろう」
デメトリオスは剣を抜いた。
アンティオコスも度々戦場に出てはいるが、彼はその父セレウコスには遠く及ばない凡将というのが、内外の意見の一致するところであった。
デメトリオスが練り上げた自慢の騎兵隊をぶつけると、アンティオコスの騎兵隊はひとたまりもなく砕け散り、アンティオコスは踵をめぐらしてすぐに逃げ出した。
追いかけるデメトリオスに、客将ピュロスが追いすがる。
ピュロスはエピロスという都市国家の王であったが、反乱により国を追われ、傭兵隊長として頭角をあらわした若者だった。
「怪しい。デメトリオス殿、深追いめされるな」
「なに、すぐに討ち取ってくるさ」
ピュロスが止めるのも聞かず、デメトリオスはアンティオコスを追って、敵陣深く斬り込んでいった。
視線を巡らせるとセレウコスの乗る戦象が砦のように鎮座している。
悪寒が背筋を走る。
他の象は何処へ行った。
「アンティオコスよ、お前にしてはよくやった」
セレウコスは息子アンティオコスに笑いかけた。
しまった、振り返ると背後に象が整列しつつあった。
象達は互いに身を寄せ合い、隙間のない長大な壁のようになっている。
父上と分断された、デメトリオスは愕然とする。

 「あれは、リュシマコスか。 青二歳が小癪にもッ」
リュシマコス率いる軽騎兵が猛烈な勢いで接近していた。
兜のみを被り、短い投げ槍だけを獲物に持っている。
「デメトリオスは何をしておる」
アンティゴノスが周囲に問う。
護衛兵が叫ぶように答える。
「アンティオコスを追って、敵陣深くに消えました」
そのやりとりをしている間にも、リュシマコス率いる軽騎兵は距離を縮めてくる。
「狙いは、陛下やも知れません。お退きください」
護衛の焦った声にアンティゴノスは返す。
「私以外に誰を狙うと言うのだッ。退かぬ、デメトリオスは必ず戻ってくる」
リュシマコスはさらに肉薄してきた。
「アンティゴノス、その首貰い受ける」
リュシマコスの投じた投げ槍は、アンティゴノスの心の臓を貫いた。
続いて軽騎兵が投じた投げ槍が、十数本、いずれもアンティゴノスの顔といい、手足といい、腹といい、ありとあらゆる箇所に命中して針の山のようになった。
これが後継者の中で「最強の者」と呼ばれた隻眼王アンティゴノスの最期であった。

 デメトリオスは敵軍の歓声で父アンティゴノスが死んだことを知った。
目の前が真っ暗になったが、それは一時の事だった。
この戦場を脱さねば、父の仇を討つことも叶うまい。
戦勝の気分が漂って弛緩した包囲網を抜き、デメトリオスは自身の艦隊が接収される前に軍船に逃げ込むことに成功した。
頼るあてを探し、以前に解放したアテナイへ入港して急場をしのごうとしたが、アテナイの人々は掌を返した。
「以前とは、状況が違いますからなぁ。プトレマイオスやセレウコスに睨まれてはかなわない」
「入港はご遠慮いただきたい。あ、アテナイに住んでいたあなたの妻子はお返ししますよ。どうぞ、ご家族を連れてどこへなりと行ってください」
アテナイの恩知らずな対応に腹を立てたデメトリオスだが、報復する手立てもない。
久しぶりに会う家族。
今まで家庭を省みることは一度もなかった。
正妻フィラーは別人のように老け込み、息子は青年になっていた。
「父上、このアンティゴノスも父上をお支えします」
息子の名前は、そうだった。
この子の名前は、父と同じアンティゴノスだった。
「父上、父上、私がしくじったばかりに父上が……」
家族の前で、デメトリオスは崩れ落ちた。
哭泣するデメトリオスの肩に、息子アンティゴノス二世が手を添えた。