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目が覚めると工事現場だった

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 目が覚めると工事現場だった。  コンクリ打ち放しの壁、床は青のビニールシートが敷かれ、窓は緑のウレタンシートで養生されている。あたりには煙草をふかしていたり、おにぎりを食べていたりする者がいた。僕はその者たちに加わって煙草を吸おうとする。ポケットに煙草はなかった。がっちりとした体格の男に「働くのか」と質される。うなずくと男は床の缶ピースを指差した。煙草を吸っているとおにぎりを顎でしゃくり「食え」といわれた。その通りにした。 「仕事は工事だ。工事とひと言にいっても種類は多い。警備員はゲートの前で立っていたり、通行の整理をしたりする。難しいやつ、例えば片側交互誘導はお前にはまだ無理だ。鳶工は高所作業、クレーンやダンプは、それぞれの免許が必要だ。危険な仕事には技術や免許がいる。  舗装補修からダム建設まで、規模も異なれば仕事内容も異なる。たいてい割に合わない。きついからな。そうだ、きつければきついほど貰えるおにぎりと煙草の数が増える。サボると煙草は抜きだ。おにぎりだけになる。これはルールだ。かといって、おにぎりや煙草のためにいきなりきつい作業をすることはできない。これもルールだ。というより無茶だからだ」  僕はまず測量から始めた。といっても三脚に設置したレンズをのぞくトランシットじゃなく、スタッフ係だ。三角測量の原理は伊能忠敬の時代とさしたる違いはない。目盛棒を持って立って、移動し、立って、五人乗りトラックで移動し、また立って、一日が過ぎた。通行人や車両も皆無で、運よく初仕事を終えた。  おにぎりを食べて煙草を吸っていると眠くなる。目覚めるとまた別な工事現場だった。僕はおにぎりを食べ、煙草を吸い、警備員の制服に着替える。車の通る気配すらない道路で、黄色い旗を振り続けた。太陽がさんさんと照り付ける。二度ほど意識が遠のきかけたが、どうにか立ったまま道路に覆工板が被せられるのを見届ける。おにぎりと煙草が多かった。意識が遠のく。  眠るたびに違う場所で起き、おにぎりと煙草が与えられ、工事現場での仕事ぶりでおにぎりと煙草が増える。今日で何日が経ったのだろう。どうして毎日、こうも仕事にありつけるのだろう。僕は職安に通いながらも、本当は仕事なんてしたくなかったのだ。自分にしか出来ない仕事がある、でもそれが見つからない、と。自分に合った職場でないと続かないだろう。そんな僕がいっぱしの大人たちのように働き、食べている。  何なのだろう、この世界は。現場だけ、仕事だけだった。工事に携わる人間以外、通行人のひとりたりとていなかった。ともあれ、僕は仕事があり、働いている。サボると貰えるのはおにぎりだけになるのは本当だった。それに肉体労働も思いのほかしんどい。でも、これも慣れだなと実感した。ここ最近、体が筋肉質になっているように感じられる。目ざめも軽快だ。目が覚めると別の現場、おにぎり、煙草。仕事が始まり、仕事が終わるとおにぎり、煙草、そして眠る。僕は無職ではないし、五月病でもなければ落伍者でもない。  いままでの自分が嘘のようだ。農協に就職が決まった恋人には三行半を突き付けられた。院試に落ち、押し出されるように大学を卒業し、新卒でありながらも一向に声もかからず、つまり、ただの無職。僕は何もできなかった。いや、しなかったのだ。最近ではいろいろ考えた結果、フォークリフトの免許を取るべきだと思っている。  だが時々、あの、ええと、何だっけ、吉野家。そう、吉野家、あの牛丼が食べたくなることがある。吉野家だけじゃない。ジョリパ、ツタヤ、ファミマ、ワンルームのアパート。それらをふと思い出すと、僕はまるで揚力を得たかのような(体が浮くような)、奇妙な感覚に見舞われる。作業中に牛丼を思い出す。すると立ち眩みのように僕は、身も心もふわ、と現場から離れそうになるのだ。 「馬鹿、危ない。集中しろ」  僕はだんだん、この「危ない」の意図を理解しはじめていた。牛丼屋、コンビニ、そういった店を思い出すと工事から集中力が離れてしまう。  思うにこの世界はすべてが工事である。交通整理をしていても、車の一台、猫の子一匹も通らない。この世界は工事のために作られたのだ。工事の否定は世界への全否定となる。僕がこの世界を拒めば拒むほど、前の――牛丼屋もコンビニもある――世界に近づく。それは僕という労働力を一人、失うことになる。この世界はその欠員を徹底的に嫌う。作業員全員、一丸となって「危ない」と警句を発するのだ。  だから、前の世界への「浮気心」を抱けば墜落事故につながるだけでなく、この世界がほころびを見せる穴を空けてしまうことになるのだ。 「おい、危ないぞ、さっきから。しっかりしろ」  僕という一個人を、この工事現場の世界がなんらかの力で引き留めている。この世界に牛丼などは存在しない。あるのは煙草とおにぎり、工事。ここでは工事関係者しか見たことがない。そしてこの世界は、僕を引き離そうとしない意図があるのだ。しかし、それは前の世界――吉野家やスパゲティのある世界を思いだすことで弱まる。その証拠に、前の世界を意図的に思い出したことがある。僕の、この工事の世界にある意識の割合が減り、前の世界が鮮やかに想起されるのだ。僕はやろうと思えば、いくらでも前の世界のことを思い出せた。だが、工事の世界から離れるのは不都合だと思った。  それは、職責だ。  僕は現場から、そして僕自身からも作業の責任を果たすように求められている。確かに今は、今でこそ現場があるからそれに順応しているだけなのかもしれない。とはいえ、現場への責任は必然的に発生する。責任――端的にいえば、自分が現場から離れた時の穴埋めを心配することもそうだ。前の世界(つまり、牛丼のある方)では、僕は状況が先に整わない限り自分から仕事に就けないままでいただろう。  今は工事現場で汗を流す生活が当たり前になっているから、それを進んで受け入れている。進んで適応しようとしている。着実に、工事の世界がしごく当たり前の生活だと思うようになった。おにぎりや煙草のためだけでない、もっと大きな現場に関わりたいとすら思っていた。そんな思いも前の僕に戻ったら持てないだろう。あの頃は職安通いの日々のなかで、どの求人票もつまらなく見えていた。肉体労働を除外し、屋外作業を排し、フレックスタイムを導入した、四週八休以上の厚遇だけに的を絞っていた。求人の品定めだけがうまくなっていた、ただのニートだった。 「起きたか、おはよう」 僕はでっぷりと肥えた、なまっちろい肌の若者に声をかける。こいつもおそらくニートか、ひきこもりか。「あんた、働くんか?」若者はきょろきょろ見渡しながらうなずく。「食ったらええよ」僕はビニールシートのおにぎりを指す。  その日の仕事を終える。新人は疲れた様子だったが、素直で飲み込みも早く、体重はかなりオーバー気味なものの段取りや時間配分に秀で、期待も抱けそうだった。  目覚めたら工事現場でありますように。そう祈りながらおにぎりをかみしめて食べた。煙草を吸っていると意識が遠のく。



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 目が覚めると工事現場だった。  コンクリ打ち放しの壁、床は青のビニールシートが敷かれ、窓は緑のウレタンシートで養生されている。あたりには煙草をふかしていたり、おにぎりを食べていたりする者がいた。僕はその者たちに加わって煙草を吸おうとする。ポケットに煙草はなかった。がっちりとした体格の男に「働くのか」と質される。うなずくと男は床の缶ピースを指差した。煙草を吸っているとおにぎりを顎でしゃくり「食え」といわれた。その通りにした。 「仕事は工事だ。工事とひと言にいっても種類は多い。警備員はゲートの前で立っていたり、通行の整理をしたりする。難しいやつ、例えば片側交互誘導はお前にはまだ無理だ。鳶工は高所作業、クレーンやダンプは、それぞれの免許が必要だ。危険な仕事には技術や免許がいる。  舗装補修からダム建設まで、規模も異なれば仕事内容も異なる。たいてい割に合わない。きついからな。そうだ、きつければきついほど貰えるおにぎりと煙草の数が増える。サボると煙草は抜きだ。おにぎりだけになる。これはルールだ。かといって、おにぎりや煙草のためにいきなりきつい作業をすることはできない。これもルールだ。というより無茶だからだ」  僕はまず測量から始めた。といっても三脚に設置したレンズをのぞくトランシットじゃなく、スタッフ係だ。三角測量の原理は伊能忠敬の時代とさしたる違いはない。目盛棒を持って立って、移動し、立って、五人乗りトラックで移動し、また立って、一日が過ぎた。通行人や車両も皆無で、運よく初仕事を終えた。  おにぎりを食べて煙草を吸っていると眠くなる。目覚めるとまた別な工事現場だった。僕はおにぎりを食べ、煙草を吸い、警備員の制服に着替える。車の通る気配すらない道路で、黄色い旗を振り続けた。太陽がさんさんと照り付ける。二度ほど意識が遠のきかけたが、どうにか立ったまま道路に覆工板が被せられるのを見届ける。おにぎりと煙草が多かった。意識が遠のく。  眠るたびに違う場所で起き、おにぎりと煙草が与えられ、工事現場での仕事ぶりでおにぎりと煙草が増える。今日で何日が経ったのだろう。どうして毎日、こうも仕事にありつけるのだろう。僕は職安に通いながらも、本当は仕事なんてしたくなかったのだ。自分にしか出来ない仕事がある、でもそれが見つからない、と。自分に合った職場でないと続かないだろう。そんな僕がいっぱしの大人たちのように働き、食べている。  何なのだろう、この世界は。現場だけ、仕事だけだった。工事に携わる人間以外、通行人のひとりたりとていなかった。ともあれ、僕は仕事があり、働いている。サボると貰えるのはおにぎりだけになるのは本当だった。それに肉体労働も思いのほかしんどい。でも、これも慣れだなと実感した。ここ最近、体が筋肉質になっているように感じられる。目ざめも軽快だ。目が覚めると別の現場、おにぎり、煙草。仕事が始まり、仕事が終わるとおにぎり、煙草、そして眠る。僕は無職ではないし、五月病でもなければ落伍者でもない。  いままでの自分が嘘のようだ。農協に就職が決まった恋人には三行半を突き付けられた。院試に落ち、押し出されるように大学を卒業し、新卒でありながらも一向に声もかからず、つまり、ただの無職。僕は何もできなかった。いや、しなかったのだ。最近ではいろいろ考えた結果、フォークリフトの免許を取るべきだと思っている。  だが時々、あの、ええと、何だっけ、吉野家。そう、吉野家、あの牛丼が食べたくなることがある。吉野家だけじゃない。ジョリパ、ツタヤ、ファミマ、ワンルームのアパート。それらをふと思い出すと、僕はまるで揚力を得たかのような(体が浮くような)、奇妙な感覚に見舞われる。作業中に牛丼を思い出す。すると立ち眩みのように僕は、身も心もふわ、と現場から離れそうになるのだ。 「馬鹿、危ない。集中しろ」  僕はだんだん、この「危ない」の意図を理解しはじめていた。牛丼屋、コンビニ、そういった店を思い出すと工事から集中力が離れてしまう。  思うにこの世界はすべてが工事である。交通整理をしていても、車の一台、猫の子一匹も通らない。この世界は工事のために作られたのだ。工事の否定は世界への全否定となる。僕がこの世界を拒めば拒むほど、前の――牛丼屋もコンビニもある――世界に近づく。それは僕という労働力を一人、失うことになる。この世界はその欠員を徹底的に嫌う。作業員全員、一丸となって「危ない」と警句を発するのだ。  だから、前の世界への「浮気心」を抱けば墜落事故につながるだけでなく、この世界がほころびを見せる穴を空けてしまうことになるのだ。 「おい、危ないぞ、さっきから。しっかりしろ」  僕という一個人を、この工事現場の世界がなんらかの力で引き留めている。この世界に牛丼などは存在しない。あるのは煙草とおにぎり、工事。ここでは工事関係者しか見たことがない。そしてこの世界は、僕を引き離そうとしない意図があるのだ。しかし、それは前の世界――吉野家やスパゲティのある世界を思いだすことで弱まる。その証拠に、前の世界を意図的に思い出したことがある。僕の、この工事の世界にある意識の割合が減り、前の世界が鮮やかに想起されるのだ。僕はやろうと思えば、いくらでも前の世界のことを思い出せた。だが、工事の世界から離れるのは不都合だと思った。  それは、職責だ。  僕は現場から、そして僕自身からも作業の責任を果たすように求められている。確かに今は、今でこそ現場があるからそれに順応しているだけなのかもしれない。とはいえ、現場への責任は必然的に発生する。責任――端的にいえば、自分が現場から離れた時の穴埋めを心配することもそうだ。前の世界(つまり、牛丼のある方)では、僕は状況が先に整わない限り自分から仕事に就けないままでいただろう。  今は工事現場で汗を流す生活が当たり前になっているから、それを進んで受け入れている。進んで適応しようとしている。着実に、工事の世界がしごく当たり前の生活だと思うようになった。おにぎりや煙草のためだけでない、もっと大きな現場に関わりたいとすら思っていた。そんな思いも前の僕に戻ったら持てないだろう。あの頃は職安通いの日々のなかで、どの求人票もつまらなく見えていた。肉体労働を除外し、屋外作業を排し、フレックスタイムを導入した、四週八休以上の厚遇だけに的を絞っていた。求人の品定めだけがうまくなっていた、ただのニートだった。 「起きたか、おはよう」 僕はでっぷりと肥えた、なまっちろい肌の若者に声をかける。こいつもおそらくニートか、ひきこもりか。「あんた、働くんか?」若者はきょろきょろ見渡しながらうなずく。「食ったらええよ」僕はビニールシートのおにぎりを指す。  その日の仕事を終える。新人は疲れた様子だったが、素直で飲み込みも早く、体重はかなりオーバー気味なものの段取りや時間配分に秀で、期待も抱けそうだった。  目覚めたら工事現場でありますように。そう祈りながらおにぎりをかみしめて食べた。煙草を吸っていると意識が遠のく。



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