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たなごころ

ー/ー



病室の白はあまりにも白いのに、壁に黄色くケミカルなものが浮き出しているように見える瞬間がある。

それはきっと、薬品の匂いのせいだ。

私の足元には、さっきまで私が入っていた肉体が息を引き取って横たわっていた。

さっきまでといえば走馬灯を見ていたような気がする。

何故だかダメ男に引っかかった過去ばかりをうろうろしていたような気がするが。

病室には、私の危篤を聞きつけて、両親や長らく会っていない親族がずらりと並んでいた。

従弟の幸輝はついこの間まで私でも楽に抱きかかえられる大きさだったのに、もう背丈は叔父の腰あたりまであって、私の身体をおびえながら覗き込んでいた。

中途半端に知っている親族の死なんてものを見せるんじゃないよまったく、と他人事のように思う。

「まだ若いのに。両親をおいて先に死ぬなんて」

「近所であれこれ言われるのは兄貴たちなのに、そんなことも考えつかないなんて」

私と関わりが薄い人たちをこんな場所に呼ぶから世間体の話が出るんだ。

どうして身内が大半を占める場でも『個人』としての死ではなく、親不孝な若者の死として語られてしまうのだろう。

唯一千絵さんだけは誰よりも私の近くに座って手を握ってくれていた。

私が不安な時、千絵さんはいつもこうしてくれた。

今も一人だけ、真剣な面持ちで手を重ねてくれている。

「今最も不安で悲しいのは、新しい環境へと放り出された未海自身だ」とでも言いそうな顔で。

こういう所が、すきだった。

老衰で眠るように世界からの優しい幕引きを受けられる人なんて何割いるのだろうか。

そんな質問を千絵さんにしたことがあった。

「年間死者数の一割くらいらしいよ。意外と多くない?」

「でも別にこれ、全日本国民の一割が老衰を約束されているってわけじゃないですよね」

あら賢い、と千絵さんはからからと笑った。

耳掃除をしてもらうために千絵さんの太ももに頭を預けていた私は、その振動のせいで耳の側面が削られるゴリゴリとした音に驚き千絵さんの手を押し返した。

「怖い怖い怖い! 耳かきが刺さって死んじゃう!」

「死なないわよそんなちっぽけなことで」

私は、どんなちっぽけなことで死んでしまったのだろうか。



「私、そっちにはまだ行かないから」

震える声が、私の耳に入ってくる。

聴覚は最後まで繋がっているというのは本当のようで、私の耳元で囁いた彼女の声は足元でざわつく声の一切をかき消すようにはっきりと、からっぽになったはずの私の中に広がっていく。

それはあの日もらったホットミルクのようだった。

「あんたがいなくなって、どこか清々した。でもね、あんたがいない分、すごく寒いのよ」

彼女の手は、間違いなく私のそれよりも温かいはずなのにひどく震えていた。

「だから、これからも寂しくなったら、私の手を握りに来なさい」

これは契約よ。そう言って、彼女は私の親族の誰にも挨拶をせずに病室を立ち去った。

その一言は、初めて私を『個人』にしてくれたような気がした。

どうしてそう、残酷なことをしていくのだろう。

もう二度と、触れ合えない、語り合えないのに、私の魂を縛ってどうするつもりだろう。

そう思うけれど、元をたどればこれは私が彼女に押し付けた契約が始まりだったのだ。

いつか千絵さんが忘れてくれる日までは、このまま魂を返還したりせず『私』として存在することを許してもらおうと思った。

結んだ契約に期間が設定されていなかったことすら、どうでもよくなってしまうまで。

来世まで追いかけるようなことはしない。

すべてが終われば私の魂は、経験は、次を担う誰かの種になる。

そこで『私個人』の物語は終わりを迎え、また、誰かのこころとなり降り注ぐのだ。


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病室の白はあまりにも白いのに、壁に黄色くケミカルなものが浮き出しているように見える瞬間がある。
それはきっと、薬品の匂いのせいだ。
私の足元には、さっきまで私が入っていた肉体が息を引き取って横たわっていた。
さっきまでといえば走馬灯を見ていたような気がする。
何故だかダメ男に引っかかった過去ばかりをうろうろしていたような気がするが。
病室には、私の危篤を聞きつけて、両親や長らく会っていない親族がずらりと並んでいた。
従弟の幸輝はついこの間まで私でも楽に抱きかかえられる大きさだったのに、もう背丈は叔父の腰あたりまであって、私の身体をおびえながら覗き込んでいた。
中途半端に知っている親族の死なんてものを見せるんじゃないよまったく、と他人事のように思う。
「まだ若いのに。両親をおいて先に死ぬなんて」
「近所であれこれ言われるのは兄貴たちなのに、そんなことも考えつかないなんて」
私と関わりが薄い人たちをこんな場所に呼ぶから世間体の話が出るんだ。
どうして身内が大半を占める場でも『個人』としての死ではなく、親不孝な若者の死として語られてしまうのだろう。
唯一千絵さんだけは誰よりも私の近くに座って手を握ってくれていた。
私が不安な時、千絵さんはいつもこうしてくれた。
今も一人だけ、真剣な面持ちで手を重ねてくれている。
「今最も不安で悲しいのは、新しい環境へと放り出された未海自身だ」とでも言いそうな顔で。
こういう所が、すきだった。
老衰で眠るように世界からの優しい幕引きを受けられる人なんて何割いるのだろうか。
そんな質問を千絵さんにしたことがあった。
「年間死者数の一割くらいらしいよ。意外と多くない?」
「でも別にこれ、全日本国民の一割が老衰を約束されているってわけじゃないですよね」
あら賢い、と千絵さんはからからと笑った。
耳掃除をしてもらうために千絵さんの太ももに頭を預けていた私は、その振動のせいで耳の側面が削られるゴリゴリとした音に驚き千絵さんの手を押し返した。
「怖い怖い怖い! 耳かきが刺さって死んじゃう!」
「死なないわよそんなちっぽけなことで」
私は、どんなちっぽけなことで死んでしまったのだろうか。
「私、そっちにはまだ行かないから」
震える声が、私の耳に入ってくる。
聴覚は最後まで繋がっているというのは本当のようで、私の耳元で囁いた彼女の声は足元でざわつく声の一切をかき消すようにはっきりと、からっぽになったはずの私の中に広がっていく。
それはあの日もらったホットミルクのようだった。
「あんたがいなくなって、どこか清々した。でもね、あんたがいない分、すごく寒いのよ」
彼女の手は、間違いなく私のそれよりも温かいはずなのにひどく震えていた。
「だから、これからも寂しくなったら、私の手を握りに来なさい」
これは契約よ。そう言って、彼女は私の親族の誰にも挨拶をせずに病室を立ち去った。
その一言は、初めて私を『個人』にしてくれたような気がした。
どうしてそう、残酷なことをしていくのだろう。
もう二度と、触れ合えない、語り合えないのに、私の魂を縛ってどうするつもりだろう。
そう思うけれど、元をたどればこれは私が彼女に押し付けた契約が始まりだったのだ。
いつか千絵さんが忘れてくれる日までは、このまま魂を返還したりせず『私』として存在することを許してもらおうと思った。
結んだ契約に期間が設定されていなかったことすら、どうでもよくなってしまうまで。
来世まで追いかけるようなことはしない。
すべてが終われば私の魂は、経験は、次を担う誰かの種になる。
そこで『私個人』の物語は終わりを迎え、また、誰かのこころとなり降り注ぐのだ。