ものごころ
ー/ー
福田未海は、自分に『ものごころ』がついたのはいつだっただろうか、と人生を振り返っていた。
窓の外では冬が去り際にこぼした雫のような雨が降り、子供が走り回って騒ぐ声や六分置きに発着を繰り返す電車の音に反応してしまう未海の耳をそっと覆っている。
こんな日にしか考えられないことがきっとあるはずだ。
目を閉じ、静かに記憶の海へと沈む。
たどり着いた海底で砂を撫でるように丁寧に記憶をさらうと、現れたのは初恋の記憶だった。
伝聞ではなく初めて未海だけがわかる形で自覚した感情は、頬が火照るほどの気恥ずかしさやときめきを携えた幸せな感情だった。
保育園に通っていた頃、未海は給食が大の苦手だった。
両親は共働きで食と子育てには頓着しない性格だったため、未海が好んで食べるクロワッサンや菓子パンの類、スナック菓子を大量に買い込んでは彼女の手が届くところに置き、すきに食べることを咎めなかった。
そんな食生活だからこそ、彼女が園で目にする食材のほとんどは初めて見るものばかりだった。
園の都合で決められた時間に宛がわれる緑や橙、果ては紫色の食材に驚きそのどれにも未海は口をつけることができなかった。
「いつまでも食べない子は、食べ終わって元気に遊ぶ子たちの邪魔です」
そんな言葉をぶつけられることもしょっちゅうだった。
今考えると幼児に対する物言いではないと腹の底から怒りが湧くが、当時の未海は本当に申し訳ないという気持ちと得体のしれないものを迷わず口にする同級生や先生が宇宙人のように見えた恐怖から、時計の針が十二時四十五分を指すと同時に、食べ残しがのったおぼんを持って特別教室へと向かった。
給食が食べきれない子供はそこで食べきるか、時間いっぱいまで抵抗を行えば解放されるというルールだった。
未海がどちらを選んでいたかなどは言うまでもない。
彼女は一人、先生が「もう良いですよ」と声を掛けにきてくれるまでただじっとしていた。
その日常が唐突に破られたのは、日を追うごとに日ざしが強くなる七月のことだった。
いつものように特別教室に向かうと、そこには鈴木雄太が先客としていた。
未海はなぜ雄太がこの教室にいるのか理解できなかった。
雄太は同学年の中では成長が早く、背の順では毎回一番後ろにいるような男の子だったのだ。
一人で過ごすはずだった空間に雄太が鎮座していることに未海はパニックを起こし入り口で立ち止まった。
すると雄太が待ちきれないといった様子で未海にずいと近づき、その手からおぼんを奪い取って、
「お前、食えないんだろ。今日からは僕が助けてやるから」
と言った。未海の目ではなく、おぼんを見つめながら。
今ならわかる。彼にとって給食は一人に配給される量では足りなかったのだ。
おかわりにも限度はある。いつも物足りないお昼を過ごしていた雄太にとって、ほとんど口がつけられていない食料を持って歩く未海は絶好の獲物に映ったのだろう。
「いただきます」
お行儀よく手を合わせてから、それが嘘だったかのように色とりどりの意味不明な食材を獰猛に食らう雄太の姿に恐怖しながらも、これまで自分を苦しめていたものがどんどんと消えていく光景に未海は安堵で涙を流した。
雄太はぎょっとして一旦皿を置き、力加減がわからないままゴリゴリと未海の頭を撫でながら言った。
「お前ができないこと、泣きたくなることがあったら、いつでも僕に言え。全部食ってやる」
未海はその日、初めて他人の顔を認識したと思った。
これまでは両親や先生、同級生の父母に至るまでを色や匂い、輪郭だけで区別をしていたのだとその瞬間に理解したのだ。
未海が食べられないものをこの園内で最も食べているのは雄太であり、それは理論上雄太がエイリアンの親玉的な存在だということだったが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
未海は恋に落ちた。
その瞬間、自重に耐えきれなくなったリンゴが落ちてきたかのように未海にものごころが降ってきたのだ。
雄太は目からも何かを食べるのではないかというほどに強い目をしていた。
インプリントではないがそれから未海が「いいな」と思う男性は皆、強い目力を有した男だった気が、しないでもなかった。
両親には未海がよく話に出すのですぐに雄太のことが伝わり、私たちはあっという間に幼馴染になった。
未海が彼を家に招けばおままごとを強要し、雄太が彼女を家に招けば虫かごを持たせ、捕まえたカブトムシやアブラゼミなどを抱えさせた。
あの日以来同級生や先生をエイリアン扱いすることはなくなったが、かごの中のそれらを見ながら未海は(少し前まではこの虫たちとクラスメイトを別物だと理解する脳がなかったのだ)と思い、その事実にぞっとしていた。
雄太と未海は小学校卒業までを同じ学び舎で過ごした。
小学五年生まで未海は健気に手作りのチョコレートをバレンタインデーに準備し帰り道に雄太へ手渡していたが、雄太は五年生の夏、東京から転校してきた駒鳥ひなという嘘みたいな名前の女の子に一瞬にしてかっさらわれた。
彼の目の色が変わったのを隣の席で目の当たりにした未海は(こいつにもやっとものごころが付いたのかな)とやけに冷静に思ったのだった。
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窓の外では冬が去り際にこぼした雫のような雨が降り、子供が走り回って騒ぐ声や六分置きに発着を繰り返す電車の音に反応してしまう未海の耳をそっと覆っている。
こんな日にしか考えられないことがきっとあるはずだ。
目を閉じ、静かに記憶の海へと沈む。
たどり着いた海底で砂を撫でるように丁寧に記憶をさらうと、現れたのは初恋の記憶だった。
伝聞ではなく初めて未海だけがわかる形で自覚した感情は、頬が火照るほどの気恥ずかしさやときめきを携えた幸せな感情だった。
保育園に通っていた頃、未海は給食が大の苦手だった。
両親は共働きで食と子育てには頓着しない性格だったため、未海が好んで食べるクロワッサンや菓子パンの類、スナック菓子を大量に買い込んでは彼女の手が届くところに置き、すきに食べることを咎めなかった。
そんな食生活だからこそ、彼女が園で目にする食材のほとんどは初めて見るものばかりだった。
園の都合で決められた時間に宛がわれる緑や橙、果ては紫色の食材に驚きそのどれにも未海は口をつけることができなかった。
「いつまでも食べない子は、食べ終わって元気に遊ぶ子たちの邪魔です」
そんな言葉をぶつけられることもしょっちゅうだった。
今考えると幼児に対する物言いではないと腹の底から怒りが湧くが、当時の未海は本当に申し訳ないという気持ちと得体のしれないものを迷わず口にする同級生や先生が宇宙人のように見えた恐怖から、時計の針が十二時四十五分を指すと同時に、食べ残しがのったおぼんを持って特別教室へと向かった。
給食が食べきれない子供はそこで食べきるか、時間いっぱいまで抵抗を行えば解放されるというルールだった。
未海がどちらを選んでいたかなどは言うまでもない。
彼女は一人、先生が「もう良いですよ」と声を掛けにきてくれるまでただじっとしていた。
その日常が唐突に破られたのは、日を追うごとに日ざしが強くなる七月のことだった。
いつものように特別教室に向かうと、そこには鈴木雄太が先客としていた。
未海はなぜ雄太がこの教室にいるのか理解できなかった。
雄太は同学年の中では成長が早く、背の順では毎回一番後ろにいるような男の子だったのだ。
一人で過ごすはずだった空間に雄太が鎮座していることに未海はパニックを起こし入り口で立ち止まった。
すると雄太が待ちきれないといった様子で未海にずいと近づき、その手からおぼんを奪い取って、
「お前、食えないんだろ。今日からは僕が助けてやるから」
と言った。未海の目ではなく、おぼんを見つめながら。
今ならわかる。彼にとって給食は一人に配給される量では足りなかったのだ。
おかわりにも限度はある。いつも物足りないお昼を過ごしていた雄太にとって、ほとんど口がつけられていない食料を持って歩く未海は絶好の獲物に映ったのだろう。
「いただきます」
お行儀よく手を合わせてから、それが嘘だったかのように色とりどりの意味不明な食材を獰猛に食らう雄太の姿に恐怖しながらも、これまで自分を苦しめていたものがどんどんと消えていく光景に未海は安堵で涙を流した。
雄太はぎょっとして一旦皿を置き、力加減がわからないままゴリゴリと未海の頭を撫でながら言った。
「お前ができないこと、泣きたくなることがあったら、いつでも僕に言え。全部食ってやる」
未海はその日、初めて他人の顔を認識したと思った。
これまでは両親や先生、同級生の父母に至るまでを色や匂い、輪郭だけで区別をしていたのだとその瞬間に理解したのだ。
未海が食べられないものをこの園内で最も食べているのは雄太であり、それは理論上雄太がエイリアンの親玉的な存在だということだったが、そんなことはもうどうでもよくなっていた。
未海は恋に落ちた。
その瞬間、自重に耐えきれなくなったリンゴが落ちてきたかのように未海にものごころが降ってきたのだ。
雄太は目からも何かを食べるのではないかというほどに強い目をしていた。
インプリントではないがそれから未海が「いいな」と思う男性は皆、強い目力を有した男だった気が、しないでもなかった。
両親には未海がよく話に出すのですぐに雄太のことが伝わり、私たちはあっという間に幼馴染になった。
未海が彼を家に招けばおままごとを強要し、雄太が彼女を家に招けば虫かごを持たせ、捕まえたカブトムシやアブラゼミなどを抱えさせた。
あの日以来同級生や先生をエイリアン扱いすることはなくなったが、かごの中のそれらを見ながら未海は(少し前まではこの虫たちとクラスメイトを別物だと理解する脳がなかったのだ)と思い、その事実にぞっとしていた。
雄太と未海は小学校卒業までを同じ学び舎で過ごした。
小学五年生まで未海は健気に手作りのチョコレートをバレンタインデーに準備し帰り道に雄太へ手渡していたが、雄太は五年生の夏、東京から転校してきた駒鳥ひなという嘘みたいな名前の女の子に一瞬にしてかっさらわれた。
彼の目の色が変わったのを隣の席で目の当たりにした未海は(こいつにもやっとものごころが付いたのかな)とやけに冷静に思ったのだった。