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4-3

ー/ー



 確かにもう、驚くことはないけど。

「……やっぱりいるんだ、和田君」

 楽団の練習日。いつものとおり、いつもの時間に練習室へ顔を出せば、すっかり見慣れた荒井君と高杉君と一緒に、当たり前のように彼の姿もそこにあった。流石にもう驚かないけど、どう考えてもチョロすぎるなウチの団長。

「おはよう、和泉。昨日ぶりだね」
「あはは、そうだね。二人もおはよう」

 リードを咥えながら清々しい笑顔の挨拶をしてくれる荒井君と対象的に、残りの二人は小さく「はよ」「うす」という短い応答をした。四日前に会っているはずなのに、ここ数日荒井君とは毎日会っているから何だか二人とはすごく久しぶりな気持ちになる。

 荒井君がまだリードを咥えている段階のように、他の二人も楽器の準備をしているところだった。高杉君はチェロの弓に松脂(まつやに)を塗っていて、これはヴァイオリニストである私も日頃の準備でやっていることだ。
 弦楽器の弓には馬の尻尾が使われているけど、キューティクルのせいでそのまま使用しても音は出ない。そこで松脂を塗りキューティクルの凹凸に細かいギザギザを作り、そのギザギザで弦を弾いて音を出す仕組みになっているのだ。

 和田君の楽器はファゴットだった。低音から中音部の幅広い音域を担当し、棘のない丸みを帯びた独特な音色の楽器だ。荒井君のクラリネットと同じリード楽器の1つで、別名バスーンとも呼ぶ。
 クラと違ってファゴットのリードは板を二枚組み合わせたダブルリードで、その二枚の板を振動させて音を出している。和田君は楽器を組み立てながら、そのリードを小さな器の中で水に浸して湿らせていた。

「和田君は何の曲で団長をオトしたの?」
「オト……そんなつもりはないんだが。俺は日向に付き合ってもらった、コイツの紹介で入ったからな」

 そうなんだ。いくら上手とはいえ、最近入ったばかりの子が連れた来た人、簡単に入れちゃうんだ団長。

「折角だから和泉にも聴かせてあげなよ、まだ時間あるんだから。僕も聴きたいし」

 荒井君がそう言ってくれたので、私もうんうんと大きく頷いた。すると二人は嫌そうな顔をしていたけれど、しつこくせがむ私たちに渋々合奏の体勢に入った。お互いチューニングを確認し、一瞬空気が止まる。そして同時に大きく息を吸うと、二人のセッションは始まった。

 W.A.モーツァルト作曲『ファゴットとチェロのためのソナタ 変ロ長調K.292』。
 二重奏曲ではあるけれどほぼファゴットが主旋律を担当し、チェロはそれを引き立てる伴奏的な役割で演奏される、ファゴット好きのモーツァルトらしい曲だ。だからファゴットの魅力をたっぷりと感じることができる。

 第三楽章まであるこの楽曲を、二人は第一楽章のみ披露してくれた。演奏が終わると私と荒井君は自然に拍手をした。和田君の滑らかで厚みのある音色に、高杉君の掛け合いのようなサポートがとても心地良いセッションだった。

「へぇ、日向と近江にしては意外な選曲だね」
「うん、すっごく優しい演奏だった!」
「……お前ら、それどうゆう意味だよ」

 すかさず高杉君にツッコまれ、私と荒井君はそっぽを向いて黙った。なんだかすっかり荒井君とは息が合うようになった気がする。

「んなことよりお前らはどうなんだ、特訓はちゃんと進んでるんだろうな」
「そうそう、安芸(コイツ)〝ひ・み・つ〟とか言って状況教えてくれないし」

 どうやら荒井君はシェアハウスで彼らと顔を合わせても、私との特訓の状況を何も話していないみたい。実はこの後、今日から弓を使った射術の訓練を始めることになっていた。ちなみに家には「友達とディナーに行くから遅くなる」と言ってある。
 それ言って良いのかな……と思い荒井君にアイコンタクトを取ると、彼は目を閉じて小さく首を横に振った。ダメってことかな?

「君たちに言ったら邪魔されそうだからね、順調だからお構いなく」
「しねぇよ! ……ったく」

 高杉君が大きく溜め息を吐いたところで、練習室の扉を開く音がした。
 そして。

「あれぇ!? 自分らもうそんなに仲良くなったんか! やっぱ同い年(タメ)だと打ち解けるんも早いなぁ~」
「……団長」

 チョロすぎ団長の威勢の良い声が私たちの耳をつんざいた。
 ――もはやこの大声に勝る楽器など、この世にはない。



 今日の合奏が終わり、私と荒井君は予定どおり弓の訓練へと向かった。矢を射るにはいつもの防音ブースでは狭いため場所は違うところだ。いずれは飛距離を伸ばした練習もできるよう、他人に当たる危険性を考慮して私たちは人気の少ない雑木林を選んだ。

「やっぱりちょっと、ひんやりするね」
「まだ春の初めだしねぇ……早速始めて、なるべく早く帰ろうか」

 荒井君はそう言うと2メートルほど離れた場所に、正方形に作られた『巻藁ネット』という道具を木の間に結びつけてくれた。中心の矢が当たる部分は円形に二重でネットが編まれている。弓道の練習でよく見る藁の束で作られた巻藁の簡易版だ。
 私はヴァイオリンを取り出し、変化(ヴァリエ)で弓矢へと姿を変えた。まず試しに弓だけを持って弦を引いてみると、以前に高杉君を助けるために引いた時よりも手応えを感じる。他ならないゴム弓での訓練の賜物だろう。

 今日の練習では矢はキャップのような形をしたゴム矢尻タイプで行う。まずは近距離で矢を射る感覚から掴むのだ。

「矢の番え方はこう。左手の人差し指と中指で挟んで……うん、いいね」

 荒井君は右手の形、矢の羽の向きなどを説明すると、私から距離を取った。

「じゃあ和泉、射てみて」
「……いくよ」

 私はゴム弓で練習してきたとおり、背筋の縦軸、腕の横軸などを意識しながら弦を引いた。そしてゴム矢尻の先にある的の中心を見定め、深呼吸をして精神を整える。
 丹田に力を入れ、意を決して胸を大きく開き弦を放すと、矢は真っ直ぐと飛んで的の中心に当たって落ちた。とりあえず2メートルはクリアだ。

「オッケー、残り9本を当てたら距離を広げていこう」

 荒井君の指示に私は頷き、次の矢を弓に番えて放つ。すっかり集中モードに入っていた私たちには、ただ矢が空気を切る音しか耳に入っていなかった。

 だから()()にすぐ気づくことができなかった。
 私たち二人に迫る、邪悪な黒い影の気配に。


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 確かにもう、驚くことはないけど。
「……やっぱりいるんだ、和田君」
 楽団の練習日。いつものとおり、いつもの時間に練習室へ顔を出せば、すっかり見慣れた荒井君と高杉君と一緒に、当たり前のように彼の姿もそこにあった。流石にもう驚かないけど、どう考えてもチョロすぎるなウチの団長。
「おはよう、和泉。昨日ぶりだね」
「あはは、そうだね。二人もおはよう」
 リードを咥えながら清々しい笑顔の挨拶をしてくれる荒井君と対象的に、残りの二人は小さく「はよ」「うす」という短い応答をした。四日前に会っているはずなのに、ここ数日荒井君とは毎日会っているから何だか二人とはすごく久しぶりな気持ちになる。
 荒井君がまだリードを咥えている段階のように、他の二人も楽器の準備をしているところだった。高杉君はチェロの弓に|松脂《まつやに》を塗っていて、これはヴァイオリニストである私も日頃の準備でやっていることだ。
 弦楽器の弓には馬の尻尾が使われているけど、キューティクルのせいでそのまま使用しても音は出ない。そこで松脂を塗りキューティクルの凹凸に細かいギザギザを作り、そのギザギザで弦を弾いて音を出す仕組みになっているのだ。
 和田君の楽器はファゴットだった。低音から中音部の幅広い音域を担当し、棘のない丸みを帯びた独特な音色の楽器だ。荒井君のクラリネットと同じリード楽器の1つで、別名バスーンとも呼ぶ。
 クラと違ってファゴットのリードは板を二枚組み合わせたダブルリードで、その二枚の板を振動させて音を出している。和田君は楽器を組み立てながら、そのリードを小さな器の中で水に浸して湿らせていた。
「和田君は何の曲で団長をオトしたの?」
「オト……そんなつもりはないんだが。俺は日向に付き合ってもらった、コイツの紹介で入ったからな」
 そうなんだ。いくら上手とはいえ、最近入ったばかりの子が連れた来た人、簡単に入れちゃうんだ団長。
「折角だから和泉にも聴かせてあげなよ、まだ時間あるんだから。僕も聴きたいし」
 荒井君がそう言ってくれたので、私もうんうんと大きく頷いた。すると二人は嫌そうな顔をしていたけれど、しつこくせがむ私たちに渋々合奏の体勢に入った。お互いチューニングを確認し、一瞬空気が止まる。そして同時に大きく息を吸うと、二人のセッションは始まった。
 W.A.モーツァルト作曲『ファゴットとチェロのためのソナタ 変ロ長調K.292』。
 二重奏曲ではあるけれどほぼファゴットが主旋律を担当し、チェロはそれを引き立てる伴奏的な役割で演奏される、ファゴット好きのモーツァルトらしい曲だ。だからファゴットの魅力をたっぷりと感じることができる。
 第三楽章まであるこの楽曲を、二人は第一楽章のみ披露してくれた。演奏が終わると私と荒井君は自然に拍手をした。和田君の滑らかで厚みのある音色に、高杉君の掛け合いのようなサポートがとても心地良いセッションだった。
「へぇ、日向と近江にしては意外な選曲だね」
「うん、すっごく優しい演奏だった!」
「……お前ら、それどうゆう意味だよ」
 すかさず高杉君にツッコまれ、私と荒井君はそっぽを向いて黙った。なんだかすっかり荒井君とは息が合うようになった気がする。
「んなことよりお前らはどうなんだ、特訓はちゃんと進んでるんだろうな」
「そうそう、|安芸《コイツ》〝ひ・み・つ〟とか言って状況教えてくれないし」
 どうやら荒井君はシェアハウスで彼らと顔を合わせても、私との特訓の状況を何も話していないみたい。実はこの後、今日から弓を使った射術の訓練を始めることになっていた。ちなみに家には「友達とディナーに行くから遅くなる」と言ってある。
 それ言って良いのかな……と思い荒井君にアイコンタクトを取ると、彼は目を閉じて小さく首を横に振った。ダメってことかな?
「君たちに言ったら邪魔されそうだからね、順調だからお構いなく」
「しねぇよ! ……ったく」
 高杉君が大きく溜め息を吐いたところで、練習室の扉を開く音がした。
 そして。
「あれぇ!? 自分らもうそんなに仲良くなったんか! やっぱ|同い年《タメ》だと打ち解けるんも早いなぁ~」
「……団長」
 チョロすぎ団長の威勢の良い声が私たちの耳をつんざいた。
 ――もはやこの大声に勝る楽器など、この世にはない。
 今日の合奏が終わり、私と荒井君は予定どおり弓の訓練へと向かった。矢を射るにはいつもの防音ブースでは狭いため場所は違うところだ。いずれは飛距離を伸ばした練習もできるよう、他人に当たる危険性を考慮して私たちは人気の少ない雑木林を選んだ。
「やっぱりちょっと、ひんやりするね」
「まだ春の初めだしねぇ……早速始めて、なるべく早く帰ろうか」
 荒井君はそう言うと2メートルほど離れた場所に、正方形に作られた『巻藁ネット』という道具を木の間に結びつけてくれた。中心の矢が当たる部分は円形に二重でネットが編まれている。弓道の練習でよく見る藁の束で作られた巻藁の簡易版だ。
 私はヴァイオリンを取り出し、|変化《ヴァリエ》で弓矢へと姿を変えた。まず試しに弓だけを持って弦を引いてみると、以前に高杉君を助けるために引いた時よりも手応えを感じる。他ならないゴム弓での訓練の賜物だろう。
 今日の練習では矢はキャップのような形をしたゴム矢尻タイプで行う。まずは近距離で矢を射る感覚から掴むのだ。
「矢の番え方はこう。左手の人差し指と中指で挟んで……うん、いいね」
 荒井君は右手の形、矢の羽の向きなどを説明すると、私から距離を取った。
「じゃあ和泉、射てみて」
「……いくよ」
 私はゴム弓で練習してきたとおり、背筋の縦軸、腕の横軸などを意識しながら弦を引いた。そしてゴム矢尻の先にある的の中心を見定め、深呼吸をして精神を整える。
 丹田に力を入れ、意を決して胸を大きく開き弦を放すと、矢は真っ直ぐと飛んで的の中心に当たって落ちた。とりあえず2メートルはクリアだ。
「オッケー、残り9本を当てたら距離を広げていこう」
 荒井君の指示に私は頷き、次の矢を弓に番えて放つ。すっかり集中モードに入っていた私たちには、ただ矢が空気を切る音しか耳に入っていなかった。
 だから|そ《・》|れ《・》にすぐ気づくことができなかった。
 私たち二人に迫る、邪悪な黒い影の気配に。