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 利玖は、明け方に目を覚ました。  起きた後も、頭の芯に凝り固まったような気だるさがしつこくとどまって、ふらついてあちこちに体をぶつけずに動き回れるようになるまでには時間がかかった。  髪を結んだまま眠っていたので、頭皮がぴりぴりと痛くなっている。ヘアゴムを外すと、温泉に置いてあった洗髪剤の匂いがふうっと生乾き気味に立ちのぼった。  まだ水気が残っている事はわかっていたけれど、あまり待たせても申し訳ないと思って、途中でドライヤーを止めてしまったのだ。一定時間が過ぎるごとに十円玉を投入しなければならない方式が、懐に痛かったという理由もある。  せっかくだからと洗面台下の収納をあさって、茉莉花からもらったのを放り込んだままにしてあった試供品を引っ張り出した。たくさんの種類がある中から、さっぱりとしたオレンジの香りがついたシャンプーとコンディショナーを選んで、丁寧に髪を洗った。  柑橘類の匂いを嗅ぐと、利玖は熱い茶が飲みたくなる。  タオルで髪の水気を拭いながら、それは紅茶にレモンの薄切りを浮かべるのに似ているのかもしれない、と思う。  キッチンに行くと、昨日の夜に史岐が沸かしていった茶が、まだ薬缶に残っていた。火にかけて温める時に、渋みが出ないように菜箸でティーバッグを取り出そうとして、利玖は、自分が史岐の顔を思い出せる事に気づき、驚愕した。 (そういえば、どこまで記憶を消すつもりなのか訊いておくのを忘れました)  記憶処理を施された事を覚えている、というのはひどい矛盾のような気がしたが、肝心の処理の内容を覚えていないのでは悩んだ所で手の打ちようもない。もし、この焦燥感さえ熊野史岐の計算の内なのだとしたら、効果は覿面てきめんと言える。自分が何を忘れてしまったのか、忘れた後で思い出そうとするのは、ほぼ不可能だ。  物思いをしている間にしゅんしゅんと湯気を噴き始めた薬缶を火から下ろして、マグカップに茶を注ぎ、部屋に戻った。  起きた時、部屋の明かりは点いていなかった。史岐が帰る時に気を利かせて消していったのだろう。カーテンの隙間からこぼれた虹色の光の欠片が、そこかしこで揺れている。  机の前に座ると、利玖は、リュックサックから自分の学生手帳を取り出した。  史岐が使っていた物と同じように、後ろの方に、罫線が引かれただけの白いページが続いている部分があり、メモ用紙として使う事が出来る。  そこに、『五十六番』についての覚え書きが残されていた。  ページを無駄にしない為に、持っている中で一番細いボールペンで余白のぎりぎりまで書き込んだ考察を、利玖は、熱い茶を飲みながらじっくりと読んだ。  うっかり他人に見られても言い逃れが出来るように、図説は残していない。  利玖は目を閉じて、『五十六番』と出会った夜に見た、淡く光っていた毛玉の姿を思い出そうとした。だが、全体が光っていて輪郭がはっきりとしなかったせいか、それとも、その部分の記憶を消されているのか、おおまかな大きさぐらいしか思い出せない。  自分は『五十六番』が人体に及ぼす影響にばかり気を取られていたが、それは二次的な産物に過ぎないのだから、生物学的な考察をしたかったのならば彼らの生態──例えば「く」とは具体的にどのような状況を指すのか、繁殖行動は取るのか、変態は行うのか、などを訊いておくべきだったのだ。  あるいは、今、こうやって後悔しているという事は、過去の自分も同じ事を思いついたのかもしれない。そして、答えだけが、記憶から消去された。 「……『もし、本当にそんな状況になったとすれば、詰めが甘いと言わざるを得ないが、そもそも無関係の一般人を巻き込んでいる時点で詰めようも何もあったものではないので、十分にあり得る話である』って……。ひどい事を書くね」  読んでいた文章がすぐ後ろから音声で聞こえたので、利玖は跳び上がりそうになった。 「なっ……、何してるんですか、こんな所で!」 「いやあ、薬を盛った責任もあるし、一応ちゃんと目が覚めるのを見届けてから帰ろうと思って」  一睡もしていなさそうな顔色の史岐が、ひょいと利玖の手から学生手帳を取った。 「あ……」 「どこかしらにバックアップは取っているだろうと思っていたけど、まさか手書きとはね。君の学科ってアナログびいきなの?」  利玖は乱暴に手帳を奪い返して、史岐を睨んだ。 「コンピュータに関してはあなたの方が有利でしょう。不利な局面での勝負はしない主義です」 「ああ……、なるほど」  史岐は力なく笑った。 「確かに、君が記憶処理に対抗する為に残した『五十六番』に関する記録を抹消したいのなら、間違いなくパソコンは調べるだろうね。その上で、他の場所にも記録を残しているかもしれないと気づいても、学生手帳を調べようだなんて、まず思わない。今時、それを手帳として使っている学生の方が少ないし、書き込める量もたかが知れているからね。だけど、常に携行していても怪しまれないし、僕はすでに一度それを見ているから警戒も怠りがちになる……。うん、これは、いい策だ」 「……手帳を奪わないのですか?」 「うん。そもそも、昨日君に飲ませたのだって、ただの眠り薬だし」  史岐は煙草に火をけようとして、はたと手を止めた。  大方、今までは一服する為にベランダにでも出ていたのだろう。起きてすぐに姿が見えなかったのも、それで説明がつく。  利玖は、ため息をついて、キッチンの戸棚からアルミ製の灰皿を出してきた。 「お気になさらず。兄もヘビィ・スモーカーですので」 「そう? 悪いね」  史岐は灰皿を受け取ると、うつむいて煙草に火をつけた。  カチッという小さな音とともに、彼の頬と鼻先がつかの間白く浮かび上がって、すぐにまた灰色に沈む。史岐は、深々と煙を吸い込むと、窓の方に向かってふうっと息を吐いた。  あまり嗅いだ事のない匂いだった。いつか、母がれてくれた、もう名前を思い出す事も出来ない茶葉の香りに似ている。記憶の深い所をそっとさするような、胸の中心で揺れ続けているものを静かに止めるような、不思議な匂い……。  珍しい銘柄を愛用しているのだな、と妙に落ち着いた心で思う。  部屋の暗がりに体を浸して、そんな匂いのする煙をくゆらせている史岐は、恐ろしくなるほどに退廃的で、利玖が見てきたどんな彼の姿よりも強い引力を伴っていた。彼のいる一画だけがあまりに異質で、利玖は、ここが自分の部屋だという事を忘れてしまいそうになる。  史岐は、やがて、煙草を口にくわえると、ジーンズのポケットから試験管に似た細いがら瓶を取り出して、利玖に握らせた。  コルクの栓がされている、その瓶には、ホタルの幼虫によく似た虫が一匹入っていた。  体色は薄い墨色。頭の部分だけが赤いので、ヘルメットを被っているようにも見える。  体長は利玖の小指ほどで、瓶の中に張り巡らされた細い糸に体をあずけたまま、眠っているように動かなかった。 「君の声を変容させた物だよ。それが見たかったんでしょ?」 「『五十六番』……」  利玖は、うわ言のように呟いた。──実際、それはうわ言と呼んで差しつかえのない物だった。 「ちょっと気が変わってね。君は他人の家の秘密を握ってどうこうするって事にも興味がなさそうだし、僕じゃ思いつかないような事を次々にひらめいてくれる。もう少しの間、仲良くしておいても面白いかなって思ったんだ」 「……これが、わたしの喉に」  鼓動が、耳の奥で、こめかみの内側で、眼球の裏側で。  あちこちでぶつかり合って、衝撃波を放ちながら反響している。 「そいつ、今はそんな見た目をしているけど、宿主の外に出たら餌をおびき寄せる為に全然違う姿になるんだよ。光る毛玉みたいな……。でも、その瓶の中にいる間は本来の姿に戻るし、宿主の体内では白い糸状の姿をしていると言われている。可逆的に姿が変わるって面白いよね」  史岐が語ったのは、利玖が欲しくてたまらなかった情報だったが、彼女の意識は「毛玉」という単語を聞いて、すなわちこのくすんだ色の多足類が少なからず自分の体内にいた期間がある、と理解した瞬間、急速に薄れていった。



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 利玖は、明け方に目を覚ました。  起きた後も、頭の芯に凝り固まったような気だるさがしつこくとどまって、ふらついてあちこちに体をぶつけずに動き回れるようになるまでには時間がかかった。  髪を結んだまま眠っていたので、頭皮がぴりぴりと痛くなっている。ヘアゴムを外すと、温泉に置いてあった洗髪剤の匂いがふうっと生乾き気味に立ちのぼった。  まだ水気が残っている事はわかっていたけれど、あまり待たせても申し訳ないと思って、途中でドライヤーを止めてしまったのだ。一定時間が過ぎるごとに十円玉を投入しなければならない方式が、懐に痛かったという理由もある。  せっかくだからと洗面台下の収納をあさって、茉莉花からもらったのを放り込んだままにしてあった試供品を引っ張り出した。たくさんの種類がある中から、さっぱりとしたオレンジの香りがついたシャンプーとコンディショナーを選んで、丁寧に髪を洗った。  柑橘類の匂いを嗅ぐと、利玖は熱い茶が飲みたくなる。  タオルで髪の水気を拭いながら、それは紅茶にレモンの薄切りを浮かべるのに似ているのかもしれない、と思う。  キッチンに行くと、昨日の夜に史岐が沸かしていった茶が、まだ薬缶に残っていた。火にかけて温める時に、渋みが出ないように菜箸でティーバッグを取り出そうとして、利玖は、自分が史岐の顔を思い出せる事に気づき、驚愕した。 (そういえば、どこまで記憶を消すつもりなのか訊いておくのを忘れました)  記憶処理を施された事を覚えている、というのはひどい矛盾のような気がしたが、肝心の処理の内容を覚えていないのでは悩んだ所で手の打ちようもない。もし、この焦燥感さえ熊野史岐の計算の内なのだとしたら、効果は覿面てきめんと言える。自分が何を忘れてしまったのか、忘れた後で思い出そうとするのは、ほぼ不可能だ。  物思いをしている間にしゅんしゅんと湯気を噴き始めた薬缶を火から下ろして、マグカップに茶を注ぎ、部屋に戻った。  起きた時、部屋の明かりは点いていなかった。史岐が帰る時に気を利かせて消していったのだろう。カーテンの隙間からこぼれた虹色の光の欠片が、そこかしこで揺れている。  机の前に座ると、利玖は、リュックサックから自分の学生手帳を取り出した。  史岐が使っていた物と同じように、後ろの方に、罫線が引かれただけの白いページが続いている部分があり、メモ用紙として使う事が出来る。  そこに、『五十六番』についての覚え書きが残されていた。  ページを無駄にしない為に、持っている中で一番細いボールペンで余白のぎりぎりまで書き込んだ考察を、利玖は、熱い茶を飲みながらじっくりと読んだ。  うっかり他人に見られても言い逃れが出来るように、図説は残していない。  利玖は目を閉じて、『五十六番』と出会った夜に見た、淡く光っていた毛玉の姿を思い出そうとした。だが、全体が光っていて輪郭がはっきりとしなかったせいか、それとも、その部分の記憶を消されているのか、おおまかな大きさぐらいしか思い出せない。  自分は『五十六番』が人体に及ぼす影響にばかり気を取られていたが、それは二次的な産物に過ぎないのだから、生物学的な考察をしたかったのならば彼らの生態──例えば「く」とは具体的にどのような状況を指すのか、繁殖行動は取るのか、変態は行うのか、などを訊いておくべきだったのだ。  あるいは、今、こうやって後悔しているという事は、過去の自分も同じ事を思いついたのかもしれない。そして、答えだけが、記憶から消去された。 「……『もし、本当にそんな状況になったとすれば、詰めが甘いと言わざるを得ないが、そもそも無関係の一般人を巻き込んでいる時点で詰めようも何もあったものではないので、十分にあり得る話である』って……。ひどい事を書くね」  読んでいた文章がすぐ後ろから音声で聞こえたので、利玖は跳び上がりそうになった。 「なっ……、何してるんですか、こんな所で!」 「いやあ、薬を盛った責任もあるし、一応ちゃんと目が覚めるのを見届けてから帰ろうと思って」  一睡もしていなさそうな顔色の史岐が、ひょいと利玖の手から学生手帳を取った。 「あ……」 「どこかしらにバックアップは取っているだろうと思っていたけど、まさか手書きとはね。君の学科ってアナログびいきなの?」  利玖は乱暴に手帳を奪い返して、史岐を睨んだ。 「コンピュータに関してはあなたの方が有利でしょう。不利な局面での勝負はしない主義です」 「ああ……、なるほど」  史岐は力なく笑った。 「確かに、君が記憶処理に対抗する為に残した『五十六番』に関する記録を抹消したいのなら、間違いなくパソコンは調べるだろうね。その上で、他の場所にも記録を残しているかもしれないと気づいても、学生手帳を調べようだなんて、まず思わない。今時、それを手帳として使っている学生の方が少ないし、書き込める量もたかが知れているからね。だけど、常に携行していても怪しまれないし、僕はすでに一度それを見ているから警戒も怠りがちになる……。うん、これは、いい策だ」 「……手帳を奪わないのですか?」 「うん。そもそも、昨日君に飲ませたのだって、ただの眠り薬だし」  史岐は煙草に火をけようとして、はたと手を止めた。  大方、今までは一服する為にベランダにでも出ていたのだろう。起きてすぐに姿が見えなかったのも、それで説明がつく。  利玖は、ため息をついて、キッチンの戸棚からアルミ製の灰皿を出してきた。 「お気になさらず。兄もヘビィ・スモーカーですので」 「そう? 悪いね」  史岐は灰皿を受け取ると、うつむいて煙草に火をつけた。  カチッという小さな音とともに、彼の頬と鼻先がつかの間白く浮かび上がって、すぐにまた灰色に沈む。史岐は、深々と煙を吸い込むと、窓の方に向かってふうっと息を吐いた。  あまり嗅いだ事のない匂いだった。いつか、母がれてくれた、もう名前を思い出す事も出来ない茶葉の香りに似ている。記憶の深い所をそっとさするような、胸の中心で揺れ続けているものを静かに止めるような、不思議な匂い……。  珍しい銘柄を愛用しているのだな、と妙に落ち着いた心で思う。  部屋の暗がりに体を浸して、そんな匂いのする煙をくゆらせている史岐は、恐ろしくなるほどに退廃的で、利玖が見てきたどんな彼の姿よりも強い引力を伴っていた。彼のいる一画だけがあまりに異質で、利玖は、ここが自分の部屋だという事を忘れてしまいそうになる。  史岐は、やがて、煙草を口にくわえると、ジーンズのポケットから試験管に似た細いがら瓶を取り出して、利玖に握らせた。  コルクの栓がされている、その瓶には、ホタルの幼虫によく似た虫が一匹入っていた。  体色は薄い墨色。頭の部分だけが赤いので、ヘルメットを被っているようにも見える。  体長は利玖の小指ほどで、瓶の中に張り巡らされた細い糸に体をあずけたまま、眠っているように動かなかった。 「君の声を変容させた物だよ。それが見たかったんでしょ?」 「『五十六番』……」  利玖は、うわ言のように呟いた。──実際、それはうわ言と呼んで差しつかえのない物だった。 「ちょっと気が変わってね。君は他人の家の秘密を握ってどうこうするって事にも興味がなさそうだし、僕じゃ思いつかないような事を次々にひらめいてくれる。もう少しの間、仲良くしておいても面白いかなって思ったんだ」 「……これが、わたしの喉に」  鼓動が、耳の奥で、こめかみの内側で、眼球の裏側で。  あちこちでぶつかり合って、衝撃波を放ちながら反響している。 「そいつ、今はそんな見た目をしているけど、宿主の外に出たら餌をおびき寄せる為に全然違う姿になるんだよ。光る毛玉みたいな……。でも、その瓶の中にいる間は本来の姿に戻るし、宿主の体内では白い糸状の姿をしていると言われている。可逆的に姿が変わるって面白いよね」  史岐が語ったのは、利玖が欲しくてたまらなかった情報だったが、彼女の意識は「毛玉」という単語を聞いて、すなわちこのくすんだ色の多足類が少なからず自分の体内にいた期間がある、と理解した瞬間、急速に薄れていった。



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