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神保教授

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 臼内岳の山頂付近は、希少な生態系を守る為に国の自然保護区に指定されているが、一方で、観光地としての側面も持つ。バスターミナルの脇に建つネイチャーセンターでは、付近に生息する野生動物や植生について解説した資料が展示されており、少し歩くと、売店やホテルまである。  バスターミナルから、林の間を通って、清流沿いに山頂を目指す散策路が整備されている。片道一時間ほどの、壮大な雪渓を間近に見ながら原生林の中を歩く事が出来る、風光明媚な一画だった。  環境保全の為に、自家用車で山頂付近に進入する事は禁止されていて、直接散策路の入り口に乗りつけるには、路線バスや提携会社のタクシーを使うか、そうでなければ山の中腹にある駐車場に車を停めて、そこから歩いて来なければならない。例外として、ツアー客を乗せたバスや、公共施設の運営に関わる業者の車などはバスターミナルの駐車場まで入って行けるが、その場合も、進入を認められた車両である事を示す許可証が必要だった。  利玖は、その許可証を持っていた。 「元々、兄が赴く用事があったのですが、ちょっと思いついた事があったので代わってもらいました」  見ると、潟杜大の理学部から発行された物で、代表者の氏名と車両の特徴を記入する欄がある。 「いや、ていうか僕、車種もナンバーも教えてないけど……」 「おや、本当ですね。車両情報も必要でしたか」許可証を持っている史岐の手元を覗き込んで、利玖は事もなげに言った。「兄に頼んだらまるっと手配してくれましたので」 「…………」  もしその人物と顔を合わせる事があっても、絶対に刃向かわないでおこう、と史岐は固く決意した。  山頂の手前に設けられたゲートの係員に許可証を提示して、駐車場まで誘導を受けた二人は、大学関係者である事を示す腕章を付けて車を降りた。  史岐は、段ボールを積んだ台車を引いている。アパートを出た後、利玖と一緒に理学部棟に寄って運び出してきた物で、初めは利玖が自分で運んでいたのだが、小柄な体でようよう動かしているのが見ていられなくなって史岐の方から交代を申し出た。  川の上流に掛かっている吊り橋を渡って、反対側の岸に移ると、足元は踏み均された地面に変わった。雨をよく吸った土が、ふうっと濃く香った。  森の奥に進みながらいくつか起伏を超え、少し息が上がってきた頃、木々に埋もれるようにして建つ小屋が現れた。 「廃墟じゃん」 「失礼な事を言わないで下さい」  利玖が戸口に掛けられた札を指さす。  そこには、ペンキで黒々と「潟杜大学理学部実習施設」と書かれていた。 「……え。もしかして泊まるの? ここに?」 「今日は違います。来週、三十人ほど連れ立ってやって来ますが」 「ああ、実習ってそういう……。君も大変だね」 「国内で、高山の生態系を学ぶのなら、こんなに良い場所はありませんよ。まあ、確かにこのように、準備は大変ですが」  利玖は扉を叩き、おとないを告げた。  とても人が住んでいるようには見えなかったが、しばらくすると重い足音が近づいてきて、がらりと戸を引いて恰幅の良い大男が現れた。団子鼻の下にもじゃもじゃと髭をたくわえている。節くれ立った浅黒い指で、その生え際を掻きながら、 「どちらさんかね」 と言った。 「生物科学科二年生の佐倉川利玖です。佐倉川匠の代理で参りました」  匠の名を聞くと、大男は顔を輝かせた。 「おお、匠君の妹さんか! うちの学科に入ってくれたとは聞いていたが、こりゃあ、遠い所をよく来てくれた」 「こちらこそ、今度の実習ではお世話になります」  利玖が頭を下げると、大男は「ああ、そんなにかしこまらんでいいよ」と言い、台車に目をやった。 「その荷物は、匠君に頼んでいた物かね?」 「はい。所用で、兄が来られなくなりまして。確認をお願いできますか?」  利玖が台車を押そうとすると、大男は慌てて突っ掛けに足を入れて外に転がり出てきた。 「いや、いや。運び入れるのは男どもでやるから、君はそこで待っていなさい」  それから史岐に顔を向け、豪快に歯を見せて笑った。 「わしは、神保じんぼだ。一応、潟杜大学で教授をやらせてもらっとるよ」  史岐は目を見開いた。 (この人が、神保教授……)  国内でも指折りの植物生態学の権威だ。潟杜大を受験する時、ざっと資料を読んだだけでも、何度か名前が目に入ってきたのを覚えている。その時に見た写真では、こんなに髭を伸ばしていなかったので、なんだか七福神にいそうな見た目だな、という程度の印象しかなかったが、目の前にいる神保教授は、まさに山男と呼んでもいい風貌だった。 「熊野史岐です。僕は、生物科学科の学生ではありませんが」 「ほう。所属はどこかね?」 「工学部の情報工学科です」  それを聞くと、神保教授はぎょろっと目をき、腹を揺すって笑い出した。 「そりゃあいい。きっと、ここなら学べる事がたくさんあるだろうさ」  困惑している史岐に、利玖が耳打ちした。 「この小屋、電波が届かないんですよ」



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 臼内岳の山頂付近は、希少な生態系を守る為に国の自然保護区に指定されているが、一方で、観光地としての側面も持つ。バスターミナルの脇に建つネイチャーセンターでは、付近に生息する野生動物や植生について解説した資料が展示されており、少し歩くと、売店やホテルまである。  バスターミナルから、林の間を通って、清流沿いに山頂を目指す散策路が整備されている。片道一時間ほどの、壮大な雪渓を間近に見ながら原生林の中を歩く事が出来る、風光明媚な一画だった。  環境保全の為に、自家用車で山頂付近に進入する事は禁止されていて、直接散策路の入り口に乗りつけるには、路線バスや提携会社のタクシーを使うか、そうでなければ山の中腹にある駐車場に車を停めて、そこから歩いて来なければならない。例外として、ツアー客を乗せたバスや、公共施設の運営に関わる業者の車などはバスターミナルの駐車場まで入って行けるが、その場合も、進入を認められた車両である事を示す許可証が必要だった。  利玖は、その許可証を持っていた。 「元々、兄が赴く用事があったのですが、ちょっと思いついた事があったので代わってもらいました」  見ると、潟杜大の理学部から発行された物で、代表者の氏名と車両の特徴を記入する欄がある。 「いや、ていうか僕、車種もナンバーも教えてないけど……」 「おや、本当ですね。車両情報も必要でしたか」許可証を持っている史岐の手元を覗き込んで、利玖は事もなげに言った。「兄に頼んだらまるっと手配してくれましたので」 「…………」  もしその人物と顔を合わせる事があっても、絶対に刃向かわないでおこう、と史岐は固く決意した。  山頂の手前に設けられたゲートの係員に許可証を提示して、駐車場まで誘導を受けた二人は、大学関係者である事を示す腕章を付けて車を降りた。  史岐は、段ボールを積んだ台車を引いている。アパートを出た後、利玖と一緒に理学部棟に寄って運び出してきた物で、初めは利玖が自分で運んでいたのだが、小柄な体でようよう動かしているのが見ていられなくなって史岐の方から交代を申し出た。  川の上流に掛かっている吊り橋を渡って、反対側の岸に移ると、足元は踏み均された地面に変わった。雨をよく吸った土が、ふうっと濃く香った。  森の奥に進みながらいくつか起伏を超え、少し息が上がってきた頃、木々に埋もれるようにして建つ小屋が現れた。 「廃墟じゃん」 「失礼な事を言わないで下さい」  利玖が戸口に掛けられた札を指さす。  そこには、ペンキで黒々と「潟杜大学理学部実習施設」と書かれていた。 「……え。もしかして泊まるの? ここに?」 「今日は違います。来週、三十人ほど連れ立ってやって来ますが」 「ああ、実習ってそういう……。君も大変だね」 「国内で、高山の生態系を学ぶのなら、こんなに良い場所はありませんよ。まあ、確かにこのように、準備は大変ですが」  利玖は扉を叩き、おとないを告げた。  とても人が住んでいるようには見えなかったが、しばらくすると重い足音が近づいてきて、がらりと戸を引いて恰幅の良い大男が現れた。団子鼻の下にもじゃもじゃと髭をたくわえている。節くれ立った浅黒い指で、その生え際を掻きながら、 「どちらさんかね」 と言った。 「生物科学科二年生の佐倉川利玖です。佐倉川匠の代理で参りました」  匠の名を聞くと、大男は顔を輝かせた。 「おお、匠君の妹さんか! うちの学科に入ってくれたとは聞いていたが、こりゃあ、遠い所をよく来てくれた」 「こちらこそ、今度の実習ではお世話になります」  利玖が頭を下げると、大男は「ああ、そんなにかしこまらんでいいよ」と言い、台車に目をやった。 「その荷物は、匠君に頼んでいた物かね?」 「はい。所用で、兄が来られなくなりまして。確認をお願いできますか?」  利玖が台車を押そうとすると、大男は慌てて突っ掛けに足を入れて外に転がり出てきた。 「いや、いや。運び入れるのは男どもでやるから、君はそこで待っていなさい」  それから史岐に顔を向け、豪快に歯を見せて笑った。 「わしは、神保じんぼだ。一応、潟杜大学で教授をやらせてもらっとるよ」  史岐は目を見開いた。 (この人が、神保教授……)  国内でも指折りの植物生態学の権威だ。潟杜大を受験する時、ざっと資料を読んだだけでも、何度か名前が目に入ってきたのを覚えている。その時に見た写真では、こんなに髭を伸ばしていなかったので、なんだか七福神にいそうな見た目だな、という程度の印象しかなかったが、目の前にいる神保教授は、まさに山男と呼んでもいい風貌だった。 「熊野史岐です。僕は、生物科学科の学生ではありませんが」 「ほう。所属はどこかね?」 「工学部の情報工学科です」  それを聞くと、神保教授はぎょろっと目をき、腹を揺すって笑い出した。 「そりゃあいい。きっと、ここなら学べる事がたくさんあるだろうさ」  困惑している史岐に、利玖が耳打ちした。 「この小屋、電波が届かないんですよ」



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