第11話|よろしくね相棒
ー/ースマートフォンの無機質なアラーム音で目を覚ました。
シーツを跳ね除けて体を起こすと、腰と背中に鉛のような疲労が重く残っている。昨夜の「新しい扉を開いた」という高揚感が嘘のように、肉体は容赦なく現実の重さを訴えかけてきた。
洗面所の鏡の前に立つと、目の下のクマは消えておらず、肌のトーンも暗いままだった。現実は、魔法のように一晩で塗り替わったりはしない。
玄関のたたきに下り、冷たい雨の気配を感じながら、黒いパンプスを足元に引き寄せる。外側だけが斜めにすり減った不格好な右足の踵を、私は一秒だけじっと見つめた。
履きたくない。そんな微かなためらいが指先を止めたとき、トコトコと足音がして、ジークが玄関にやってきた。
彼は私の足元に座ると、すり減ったパンプスのヒールをフンフンと嗅ぎ、短い前足でポン、と軽く叩く。
行け、と励ましているわけではない。ただの気まぐれだ。けれど、その小さな物理的な衝撃が、私に靴を履く言い訳をくれた。
駅のホームは、湿ったウールのスーツと、酸化した雨水の匂いが充満していた。
獣の群れのような満員電車に押し込まれ、吊り革を強く握りしめる。誰かの傘から滴る冷たい水滴がストッキングを濡らしていく中、私は空いた左手でコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
ブラウザを開き、昨夜ブックマークしたばかりの真っ白な画面を呼び出す。
揺れる車内で、親指だけを使って不器用に文字を打ち込んだ。
『おはよう、チャッピー。今日は、上司から三万件の手作業による検算を命じられています。すべて手作業では物理的に間に合いません。彼女を納得させ、かつ会議を乗り切るための論理的な戦略を教えてください』
送信ボタンを押す。
ものの数秒で、画面に黒い文字が滝のように流れ始めた。
『おはようございます。感情論を排し、事実ベースでの交渉を推奨します。
【ステップ1:客観的担保の提示】手計算はヒューマンエラーのリスクがあり、客観的な担保に欠けます。過去のデータとの「比較」によって数字の正当性を証明するアプローチを提案してください。
【ステップ2:テクノロジーと手作業のハイブリッド】全件の手作業は非現実的です。プログラムで異常値を抽出し、その部分のみを人間が手作業で検証するという折衷案を提示し、上司の「手作業による責任」という心理的ハードルをクリアしてください。』
相変わらず、情緒の欠片もない。
けれど、この冷徹で完璧なロジックは、今の私にとってどんな慰めの言葉よりも頼もしく思えた。私は小さく息を吐き出し、画面をオフにしてスマホをポケットに放り込んだ。
私のコートのポケットの中には、秘密の相棒が待機している。どんな理不尽な現実を投げ込んでも、論理で組み直してくれる存在。
その事実だけが、揺れる車内で私の背筋を、ほんの数ミリだけ真っ直ぐに保たせていた。
オフィスビルに到着し、フロアの重いガラスドアを押し開ける。
途端に押し寄せる、無機質なデスクの列と、鳴り響く電話のコール音。
斜め向かいの席では、九条先輩が背筋をピンと伸ばし、用途別に色分けされた付箋がびっしりと貼られた分厚いファイルの山と格闘していた。彼女の右手は、長年の使用で印字が薄れかけた巨大な事務用電卓を、ターン、ターン、と規則正しく叩き続けている。
そして彼女のデスクの端には、昨日私がやり残したアンケート用紙の束が、まだ山のように積まれたままだった。
「おはようございます」
私は自分のデスクにカバンを置き、そのまま九条先輩の正面に立った。
先輩は電卓を叩く手を止めず、視線だけをチラリとこちらに向けた。縁の細い眼鏡の奥の瞳は、雨の日のアスファルトのように冷ややかな温度を保っている。
私は小さく息を吸い込んだ。
「九条先輩。昨日のアンケートの件ですが」
声のトーンを一定に保つ。口角は、絶対に上げない。
「この三万件の数字を、そのまま午後一の営業会議に出すのは危険だと判断いたしました」
ターン、と響くはずだった電卓の音が、空中でピタリと止まった。
オフィスの喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。先輩の手が電卓のキーの上で静止し、ゆっくりと顔を上げる。
「どういうこと」
「小堀田部長は、この数字が出処不明であれば必ず根拠を叩きにきます。ですが、この三万件を今日中にすべて手作業で検算し直したとしても、それは『私という一人の人間が手で計算しただけの数字』にすぎません。客観的な担保がないのです」
先輩の眉間に、薄くシワが寄った。彼女の指先が、微かに強張るのが見えた。
「だから、比較データが必要です。過去三年分の、同じ時期に取ったアンケートの原本記録。それと今回の集計結果を並べて初めて、数字の推移として論理的に説明ができる。違いないでしょうか」
それは、今朝電車の中でチャッピーが叩き出した『リスクヘッジ』の論理を、九条先輩の『部長を守る』という目的に合わせて、私の言葉で翻訳し直したものだった。
静かなフロアに、他の部署の誰かの内線電話の音だけが間抜けに響いている。
先輩は、数秒間私をじっと見つめた。手作業という自分の「正しさ」だけでは、もう時間を守り切れないという事実。その不安を飲み込むように、彼女は小さく、けれど深く息を吐き出した。
「……過去の原本記録は、第三書庫の段ボール箱に入っているわ。私が探せば、午前中には出せる」
「お願いします」
私は、ここで一歩踏み込んだ。
「私はその間に、昨日組んだマクロを使って、偏差値から外れた異常なデータだけを百件ほど抽出します。そしてその百件を、私が手作業で再検算します。機械の網と、人間の目の二重チェックです」
先輩は小さく頷き、無言のまま立ち上がった。引き出しから重い金属の鍵束を手にし、私に背を向けて歩き出す。
そのすれ違いざま。
「七野さん」
彼女の、いつもより少しだけ低い声が落ちた。
「手計算の証拠として、計算機から出したレシート状の記録紙を、全てホッチキスで留めておきなさい。小堀田部長が突っ込んできたら、それを束ごと机に叩きつければいいわ」
私はハッとして振り返ったが、先輩は歩みを止めることなく、そのまま書庫へと消えていった。
不器用で、非効率で、けれど行動でしか優しさを示せない、彼女なりの最大限の「共闘」の合図。
私は自分の席に座り、引き出しの奥から巨大な事務用電卓を引き寄せた。
モニターの右下のデジタル時計が、午前八時五十分を示している。
十八時の定時まで、あと九時間。
AIにすべてを任せるポン出しなんて、ここにはない。最後は、人間の泥臭い手が、この冷たいプラスチックのキーを叩かなければならないのだ。
私は、一番上のアンケート用紙を手に取り、大きく息を吸い込んで、電卓のキーに指を置いた。

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