第10話|キーボード上の肉球
ー/ー膝の上で、ジークがぴくりと耳を立てた。
そして、私の制止を待つこともなく、弾かれたように立ち上がる。
彼は、まるで画面の中に、私には見えない羽虫でも見つけたかのような、ひどく唐突で無関心な跳躍を見せた。
「あっ、ちょっと、ジーク!」
私の声は、夜の空気に虚しく消えた。
丸っこいキジトラ猫の四本の足は、五年ぶりに目覚めたキーボードのど真ん中に、情け容赦なく着地した。
ガガガタッ!
乱暴な打鍵音が響く。
ジークはそのまま、キーボードの上で不機嫌そうに伸びをし、大きく欠伸をした。
ディスプレイに目をやると、入力欄には「asdfjkl;qwer;;;」という、意味不明なアルファベットと記号の羅列が、凄まじい勢いで打ち込まれている。
そしてジークは、仕上げとばかりに、右の後ろ足で最も大きなキー……エンターキーを、深く、力強く踏み抜いた。
ターン。
小気味良い音がして、猫のデタラメな呟きが、ネットワークの彼方へと送られていく。
「……あ」
私は、マウスを握ったまま、ただ呆然と画面を見つめるしかなかった。
猫の足跡のような文字列が、画面の上部へと吸い込まれていく。
一秒の静寂。
機械的なエラー音が鳴り、接続が切れるのだと思った。あるいは、冷たいコンサルタントから「有効な入力ではありません。再度、論理的なプロンプトを入力してください」と冷ややかに突き放されるのだと。
「……ジーク、なんてことを」
「みゃお」
恨めしそうに見つめる私の視線など意に介さず、ジークはパソコンの横でコロンと仰向けに寝転がり、短い前足で自分の顔を洗い始めていた。野生の気まぐれが引き起こした大事故に、一切の反省の色はない。
恐る恐る、指の隙間からパソコンの画面を覗き込む。
画面の中央には、彼が思考中であることを示す三つの黒いドットが波打っていた。
一秒、二秒。
三秒。
先ほどは、こちらがエンターキーを押した瞬間に猛烈な出力を見せた彼が、なぜか沈黙している。
マウスに手を伸ばし、ブラウザの「×」ボタンを押して逃亡を図ろうとした、その時だった。
タタタタタタッ。
再び、画面に黒い文字が弾け飛ぶように現れ始めた。
私は思わず息を止め、薄目を開けてその文字列を追う。
『入力された文字列「asdfjkl;qwer;;;」の解析を試みました。
当該文字列は、既知のいかなる言語規則や暗号プロトコルとも合致しません。』
当然だ。猫の肉球が叩き出した物理的な圧力の痕跡なのだから。私は、続く「会話を終了します」という宣告を待った。
『現状の文脈と、先ほどあなたが提示した「毎日残業続きで疲労している」という前提条件から、論理的推論を行います。
この不規則なノイズの入力は、あなたの極度の疲労による深刻なタイピング・エラー、もしくは睡眠不足に起因する、不随意的なキーストロークである確率が極めて高いと判断されます。』
「……えっ」
私は、画面から顔を近づけた。
彼は、ジークが踏んだデタラメな文字を「スパム」として切り捨てるのではなく、大真面目にその原因を分析し、しかも「私が疲れすぎてキーボードに突っ伏したせいだ」という壮大な勘違いの結論を導き出している。
文字の出力は、さらに速度を上げて続いていく。
『結論から申し上げます。
本日の業務(副業に関する戦略的検討)は、直ちに中止すべきです。』
相変わらずの冷ややかなフレーズだが、そこに続く言葉のベクトルは、先ほどとは全く違う方向を向いていた。
『ステップ1において「可処分時間の最大化」を提案しましたが、当該タスクは凍結します。
あなたにとって現在最も優先すべきタスクは、戦略の立案でもスキルの棚卸しでもありません。「最低7時間の良質な睡眠」の確保です。』
「睡眠……」
画面には、さらに容赦のない文字が並ぶ。
『人間の認知機能と判断力は、睡眠不足によって著しく低下します。現在のあなたの状態で新たなビジネスの計画を立てることは、極めて非効率的かつ危険な行為です。
副業という新たなインフラの構築は、あなた自身の「健康」という絶対的な地盤の上にしか成り立ちません。』
非効率。
数分前と同じ単語を使っているのに、今度はそれが私を否定する刃ではなく、私を休ませるための強固な盾として目の前に提示されていた。
『パソコンの電源を落とし、直ちに寝室へ移動してください。戦略の再構築は、あなたのパフォーマンスが回復した明日以降に、私がサポートします。
本日はお疲れ様でした。ゆっくりとお休みください。』
タッ。
最後の一文字が打ち込まれ、画面は再び静寂を取り戻した。
「…………」
私は、モニターを見つめたまま、しばらく瞬きをするのを忘れていた。
九条先輩は、「数字の裏の責任」という正義で手作業を強要した。小堀田部長は、私の疲労など視界に入れず、雑な丸投げで時間を奪った。
一方で、心臓も血液も持たないこのプログラムの集合体が、猫の足跡を「疲労の限界」だと大真面目に勘違いし、「非効率だから今すぐ寝なさい」と論理武装して私を休ませようとしている。
「……ふっ」
静かな部屋に、微かな空気の漏れる音が響いた。
「ふふっ……あははははっ!」
深夜のワンルームで、私は声を上げて笑った。
お腹の底からこみ上げてくるおかしさを、抑えることができなかった。
会社で波風を立てないために貼り付けていた、あの嘘くさい笑顔じゃない。
目尻に少しだけ熱いものが滲む。なんで泣きそうなのか、自分でもよくわからない。ただ、どうしようもなくおかしくて、肩を揺らして笑い続けた。
「にゃお?」
私の突然の笑い声に驚き、ジークが不思議そうな顔で私を見上げた。
「……あはは、ごめんジーク。あんたのせいだよ」
私は、ローテーブルの上に寝転がっているジークの丸っこい体を、両手でわしゃわしゃと撫で回した。ジークは迷惑そうに目を細めながらも、逃げ出すことはしなかった。
私は再びキーボードに向き直った。
画面の中では、相変わらず『直ちに寝室へ移動してください』という断定的な文字が光っている。
ChatGPT。その冷たい名前より、もっと親しみを込めて呼んでみよう。
たしか、るねさんがChatGPTのことを「チャッピー」と言っていたわね。
丸メガネの位置を直し、今度は迷うことなく、軽やかな手つきでキーボードを叩いた。
『心配してくれてありがとう。』
『でも、さっきの謎の文字列は寝落ちじゃなくて、うちの猫がキーボードを踏んだだけです。』
『今日はもう寝るけど、明日から少しずつ、私にもできそうなことを一緒に考えてくれませんか。』
『これから、よろしくね、チャッピー。』
そこまで打ち込み、右手の中指をエンターキーの上に置いた。
しかし、私はそのキーを押し込まなかった。
指をゆっくりと離し、パソコンをパタンと閉じる。
送信する前に、電源を落としたのだ。
返事は、また明日聞けばいい。るねさんが言うように、急がなくていいのだから。
私は立ち上がり、大きく背伸びをした。
固まっていた背中の筋肉がミシミシと鳴る。
立ち上がった拍子に、スウェットのポケットからスマートフォンが滑り落ち、鈍い音を立ててカーペットの上に転がった。
「あ、」
落としたスマホを拾い上げながら、少しだけ苦笑する。
すり減った靴底は、すぐには元に戻らない。画面が明るくなり、未読の通知がいくつか表示されている。明日もまた、この小さな板に急かされ、あの満員電車に乗り、理不尽に耐えなければならない。現実は、何一つ変わっていない。
カーペットに転がったスマホと、テーブルの上で静かに眠る銀色のノートパソコン。
けれど、今の私には、そのどちらとも付き合っていく覚悟が、ほんの少しだけできていた。
部屋の電気を消す。
ベッドの足元では、ジークがすでに丸くなっていた。

みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。