第11話 ウインドウピリオドの罠

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 船橋駅前の居酒屋で、教師、医師、警察官という三人の大人が己の無力さを噛み締めた夜から、数週間が過ぎていた。

 千葉レディースクリニックの院長室で、曽根崎マリアは冷めたコーヒーを口に運びながら、重いため息をついた。

 あの日以来、美咲からパパ活グループの残りのメンバー(佐藤美穂、田中梨乃、森本葵)についての進展はない。安納沙織警部も、警察のデータベースから該当しそうな補導歴などを洗ってくれているはずだが、法に触れていない「合法JK」の裏垢を特定し、強制的に検査を受けさせることなど土台無理な話だ。

(私たち大人は、水際で指をくわえて見ていることしかできないのか……)

 マリアはカルテの山を見つめながら、じわじわと広がる見えない病魔の恐怖に、焦燥感ばかりを募らせていた。

 そんなある日の、診療時間終了間際のことだった。

 待合室のドアが勢いよく開き、息を切らした二人の女子高生が転がり込んできた。以前、ヘルペスとクラミジア・淋菌の治療にやって来た、高橋彩花と林優奈だった。

「先生っ! ちょっと、どういうこと!?」

 診察室に駆け込むなり、彩花が悲鳴のような声を上げた。彼女はギャルメイクも崩れ、ひどく取り乱している。優奈もその後ろで、青ざめた顔でガタガタと震えていた。

「落ち着きなさい、高橋さん。どうしたの?」

 マリアは冷静にパイプ椅子を勧め、二人の顔を交互に見た。

 彩花は椅子に座るなり、スカートを少し捲り上げ、さらにブレザーの袖を乱暴に捲って腕と手のひらをマリアに突きつけた。

「これ! なにこれ! 最初は汗疹かと思ったけど、体中ブツブツだらけじゃん! 手のひらにも足の裏にもできてるし、熱も下がんないし! 髪の毛もなんか抜けてきてる気がするし!」

 マリアは目を細め、彩花の皮膚に現れた薄紅色の斑点を静かに観察した。痛痒さのない、特徴的な赤い発疹。

(……バラ疹。梅毒の第2期症状ね。林さんも、きっと同じでしょう)

 マリアが視線を向けると、優奈も泣きそうな顔で首を縦に振った。

「私、デリケートゾーンに変なしこりみたいなのができてて……痛くはないんですけど、ずっと消えなくて……それに、一昨日から微熱と、体中がだるくて……」

「先生、おかしいじゃん!」

 彩花が涙目でマリアを睨みつけた。彼女は恐怖を通り越し、自分の責任を他人に転嫁することで自我を保とうとしていた。

「数週間前、ここで検査した時、先生は『梅毒もエイズも陰性』って言ったよね!? ヘルペスの薬もちゃんと飲んで、痛みも引いたのに! なんで急に梅毒の症状が出てんの!? 先生、ヤブなんじゃないの! 誤診でしょ!?」

 その剣幕に、優奈も縋るようにマリアを見た。

「そうですよ……私たち、梅毒じゃないって言われたから安心してたのに……」

 マリアは怒ることも、カルテを叩きつけることもなかった。ただ、深く静かなため息を一つ吐き、まるで聞き分けのない子供を諭すように、極めて冷静で平板な声で口を開いた。

「私の誤診ではありません。純粋に、医学的な時間差の問題よ」
「時間差……?」
「あなたたち、あの時の私の説明を、自分に都合のいいところだけ切り取って聞いていたようね」

 マリアは手元のカルテを開き、二人に真っ直ぐ視線を向けた。

「あの時、私は確かに『現在の数値では梅毒もHIVも陰性です』と伝えたわ。でも、その直後に必ずこう付け加えたはずよ。『ただし、梅毒やHIVには、感染してから血液検査で抗体が反応するまでに、約三週間から一ヶ月程度の空白期間――ウインドウピリオドがあります。だから、今日陰性だったからといって絶対に安心しないで。一ヶ月後に必ず再検査に来ること。それまでは、絶対に性行為は控えてください』ってね」

 彩花と優奈の息が止まった。

 二人の脳裏に、数週間前の記憶がフラッシュバックする。

『なんだ、梅毒やエイズじゃなくてよかったー!』

 その安堵と、「薬を飲めばまた稼げる」という金銭欲で頭がいっぱいになっていた二人の耳には、マリアの最も重要な警告が、単なる医者の退屈な小言として完全にスルーされていたのだ。

「ウインドウピリオド……」優奈がうわ言のように呟いた。
「そう。あなたたちが前回うちに来た時は、感染してすぐの、ウイルスが検査をすり抜ける期間だったのよ。だから、今回は採血するまでもなく、視診だけで確定診断が出せるわ。高橋さんは梅毒の第2期。林さんは、初期硬結が出ているから第1期の終わりから第2期への移行期ね」

 マリアの残酷なほど冷静な宣告に、彩花はわなわなと唇を震わせた。

「そ、そんなの……聞いてない……! だったら、あの時もっと強く言ってくれればよかったじゃん!」
「私は医師として、事実とリスクを正確に伝えたわ。それをどう受け止め、どう行動するかは患者自身の責任よ。……で?」

 マリアの眼鏡の奥の目が、スッと細められ、鋭い光を放った。

「あの検査の後、痛みや症状が引いたからといって、あなたたち……またパパ活をやったんでしょう?」

 図星を突かれ、二人はビクッと肩を揺らした。

「……何人とやったの?」

 マリアの静かな問い詰めに、彩花は顔面から血の気を引かせ、ガタガタと震えながら答えた。

「……わかんない。ケンさんとか……他にも、三人……いや、四人くらい……」
「林さんは?」
「わ、私も……いつものパパと、新しい人、二人……」
「もちろん、ゴムはつけずに、生やオーラルでやったんでしょうね」

 二人はもう、言い返す気力もなく、ただ力なく頷き、その場に泣き崩れた。
 自分たちが「陰性証明」という勝手な免罪符を盾にして、体内でおびただしい数の梅毒トレポネーマを増殖させながら、複数の男性と粘膜を接触させていたという事実。

 彼女たちは気づいてしまったのだ。自分たちが被害者ではなく、この数週間でウイルスをばら撒きまくった【無自覚な加害者(最強のスプレッダー)】になってしまったことに。

「……高橋さん、林さん。あなたたちは今日から、ペニシリンの筋肉注射と内服薬で徹底的に治療します。でもね、あなたたちがうつしてしまったかもしれない相手の男たちは、今この瞬間も、自分が梅毒に感染していることに気づかず、家に帰って奥さんや恋人にうつしているかもしれないのよ」

 マリアの言葉が、重い楔(くさび)のように二人の心に打ち込まれた。診察室には、少女たちの絶望的な嗚咽だけが響き渡った。



 二人に筋肉注射を打ち、薬を処方して帰らせた後。

 誰もいなくなった暗いクリニックの院長室で、マリアはスマートフォンを耳に当てていた。発信先は、美咲と沙織の三人のグループ通話だ。

『……もしもし、マリア先生?どうかしたとですか?』
『こちら安納。こんな夜遅くに、何か動きが?』

 電話の向こうの二人の声に対し、マリアは震える声で、ひび割れたような口調で話し始めた。

「崎山先生、沙織警部……大変なことになったわ。最悪の事態よ」
『え……? 何かあったんですか?』

「高橋さんと林さんの二人よ。あの子たち、私の警告を無視して、ウインドウピリオドの間に複数のパパと生で行為を繰り返していたわ。今日、梅毒の第2期症状が出て駆け込んできた。……あの子たち、この数週間の間に、少なくとも計六、七人の男性に濃厚接触してる」
『なっ……!』
『六、七人……!?』

 電話の向こうで、美咲と沙織が息を呑む気配が伝わってきた。

「いい? よく聞いて。ケンさんとかいう常連の男だけじゃない。あの子たちがばら撒いた相手は、千葉や船橋のどこかに住む、ごく普通のサラリーマンや経営者よ。その男たちには、妻がいるかもしれない。出産を控えた妊婦の奥さんがいるかもしれないのよ!」

 マリアの声が、恐怖で上ずっていた。医師としての冷静さを保てないほど、事態は完全にコントロールを失っていた。

「輪はもう、あなたの学校の中だけの問題じゃないわ……! 船橋のP活グループを起点にして、見知らぬ大人たちへ、その家族へ、そしてまだ生まれてもいない赤ん坊へと、ネズミ算式に感染が拡大しているのよ! 今すぐ、元凶であるあのグループを解体して、パパたちにも検査を受けさせないと……千葉中の人間が、梅毒に沈むわよ!」

 マリアの悲痛な叫びが、夜のクリニックに虚しく響いた。

 大人たちの無力を嘲笑うかのように、少女たちの無知が引き金となったパンデミックの波は、すでに社会の奥深くへと静かに、そして凶暴に侵食を始めていた。


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 船橋駅前の居酒屋で、教師、医師、警察官という三人の大人が己の無力さを噛み締めた夜から、数週間が過ぎていた。
 千葉レディースクリニックの院長室で、曽根崎マリアは冷めたコーヒーを口に運びながら、重いため息をついた。
 あの日以来、美咲からパパ活グループの残りのメンバー(佐藤美穂、田中梨乃、森本葵)についての進展はない。安納沙織警部も、警察のデータベースから該当しそうな補導歴などを洗ってくれているはずだが、法に触れていない「合法JK」の裏垢を特定し、強制的に検査を受けさせることなど土台無理な話だ。
(私たち大人は、水際で指をくわえて見ていることしかできないのか……)
 マリアはカルテの山を見つめながら、じわじわと広がる見えない病魔の恐怖に、焦燥感ばかりを募らせていた。
 そんなある日の、診療時間終了間際のことだった。
 待合室のドアが勢いよく開き、息を切らした二人の女子高生が転がり込んできた。以前、ヘルペスとクラミジア・淋菌の治療にやって来た、高橋彩花と林優奈だった。
「先生っ! ちょっと、どういうこと!?」
 診察室に駆け込むなり、彩花が悲鳴のような声を上げた。彼女はギャルメイクも崩れ、ひどく取り乱している。優奈もその後ろで、青ざめた顔でガタガタと震えていた。
「落ち着きなさい、高橋さん。どうしたの?」
 マリアは冷静にパイプ椅子を勧め、二人の顔を交互に見た。
 彩花は椅子に座るなり、スカートを少し捲り上げ、さらにブレザーの袖を乱暴に捲って腕と手のひらをマリアに突きつけた。
「これ! なにこれ! 最初は汗疹かと思ったけど、体中ブツブツだらけじゃん! 手のひらにも足の裏にもできてるし、熱も下がんないし! 髪の毛もなんか抜けてきてる気がするし!」
 マリアは目を細め、彩花の皮膚に現れた薄紅色の斑点を静かに観察した。痛痒さのない、特徴的な赤い発疹。
(……バラ疹。梅毒の第2期症状ね。林さんも、きっと同じでしょう)
 マリアが視線を向けると、優奈も泣きそうな顔で首を縦に振った。
「私、デリケートゾーンに変なしこりみたいなのができてて……痛くはないんですけど、ずっと消えなくて……それに、一昨日から微熱と、体中がだるくて……」
「先生、おかしいじゃん!」
 彩花が涙目でマリアを睨みつけた。彼女は恐怖を通り越し、自分の責任を他人に転嫁することで自我を保とうとしていた。
「数週間前、ここで検査した時、先生は『梅毒もエイズも陰性』って言ったよね!? ヘルペスの薬もちゃんと飲んで、痛みも引いたのに! なんで急に梅毒の症状が出てんの!? 先生、ヤブなんじゃないの! 誤診でしょ!?」
 その剣幕に、優奈も縋るようにマリアを見た。
「そうですよ……私たち、梅毒じゃないって言われたから安心してたのに……」
 マリアは怒ることも、カルテを叩きつけることもなかった。ただ、深く静かなため息を一つ吐き、まるで聞き分けのない子供を諭すように、極めて冷静で平板な声で口を開いた。
「私の誤診ではありません。純粋に、医学的な時間差の問題よ」
「時間差……?」
「あなたたち、あの時の私の説明を、自分に都合のいいところだけ切り取って聞いていたようね」
 マリアは手元のカルテを開き、二人に真っ直ぐ視線を向けた。
「あの時、私は確かに『現在の数値では梅毒もHIVも陰性です』と伝えたわ。でも、その直後に必ずこう付け加えたはずよ。『ただし、梅毒やHIVには、感染してから血液検査で抗体が反応するまでに、約三週間から一ヶ月程度の空白期間――ウインドウピリオドがあります。だから、今日陰性だったからといって絶対に安心しないで。一ヶ月後に必ず再検査に来ること。それまでは、絶対に性行為は控えてください』ってね」
 彩花と優奈の息が止まった。
 二人の脳裏に、数週間前の記憶がフラッシュバックする。
『なんだ、梅毒やエイズじゃなくてよかったー!』
 その安堵と、「薬を飲めばまた稼げる」という金銭欲で頭がいっぱいになっていた二人の耳には、マリアの最も重要な警告が、単なる医者の退屈な小言として完全にスルーされていたのだ。
「ウインドウピリオド……」優奈がうわ言のように呟いた。
「そう。あなたたちが前回うちに来た時は、感染してすぐの、ウイルスが検査をすり抜ける期間だったのよ。だから、今回は採血するまでもなく、視診だけで確定診断が出せるわ。高橋さんは梅毒の第2期。林さんは、初期硬結が出ているから第1期の終わりから第2期への移行期ね」
 マリアの残酷なほど冷静な宣告に、彩花はわなわなと唇を震わせた。
「そ、そんなの……聞いてない……! だったら、あの時もっと強く言ってくれればよかったじゃん!」
「私は医師として、事実とリスクを正確に伝えたわ。それをどう受け止め、どう行動するかは患者自身の責任よ。……で?」
 マリアの眼鏡の奥の目が、スッと細められ、鋭い光を放った。
「あの検査の後、痛みや症状が引いたからといって、あなたたち……またパパ活をやったんでしょう?」
 図星を突かれ、二人はビクッと肩を揺らした。
「……何人とやったの?」
 マリアの静かな問い詰めに、彩花は顔面から血の気を引かせ、ガタガタと震えながら答えた。
「……わかんない。ケンさんとか……他にも、三人……いや、四人くらい……」
「林さんは?」
「わ、私も……いつものパパと、新しい人、二人……」
「もちろん、ゴムはつけずに、生やオーラルでやったんでしょうね」
 二人はもう、言い返す気力もなく、ただ力なく頷き、その場に泣き崩れた。
 自分たちが「陰性証明」という勝手な免罪符を盾にして、体内でおびただしい数の梅毒トレポネーマを増殖させながら、複数の男性と粘膜を接触させていたという事実。
 彼女たちは気づいてしまったのだ。自分たちが被害者ではなく、この数週間でウイルスをばら撒きまくった【無自覚な加害者(最強のスプレッダー)】になってしまったことに。
「……高橋さん、林さん。あなたたちは今日から、ペニシリンの筋肉注射と内服薬で徹底的に治療します。でもね、あなたたちがうつしてしまったかもしれない相手の男たちは、今この瞬間も、自分が梅毒に感染していることに気づかず、家に帰って奥さんや恋人にうつしているかもしれないのよ」
 マリアの言葉が、重い楔(くさび)のように二人の心に打ち込まれた。診察室には、少女たちの絶望的な嗚咽だけが響き渡った。
《《その夜》》
 二人に筋肉注射を打ち、薬を処方して帰らせた後。
 誰もいなくなった暗いクリニックの院長室で、マリアはスマートフォンを耳に当てていた。発信先は、美咲と沙織の三人のグループ通話だ。
『……もしもし、マリア先生?どうかしたとですか?』
『こちら安納。こんな夜遅くに、何か動きが?』
 電話の向こうの二人の声に対し、マリアは震える声で、ひび割れたような口調で話し始めた。
「崎山先生、沙織警部……大変なことになったわ。最悪の事態よ」
『え……? 何かあったんですか?』
「高橋さんと林さんの二人よ。あの子たち、私の警告を無視して、ウインドウピリオドの間に複数のパパと生で行為を繰り返していたわ。今日、梅毒の第2期症状が出て駆け込んできた。……あの子たち、この数週間の間に、少なくとも計六、七人の男性に濃厚接触してる」
『なっ……!』
『六、七人……!?』
 電話の向こうで、美咲と沙織が息を呑む気配が伝わってきた。
「いい? よく聞いて。ケンさんとかいう常連の男だけじゃない。あの子たちがばら撒いた相手は、千葉や船橋のどこかに住む、ごく普通のサラリーマンや経営者よ。その男たちには、妻がいるかもしれない。出産を控えた妊婦の奥さんがいるかもしれないのよ!」
 マリアの声が、恐怖で上ずっていた。医師としての冷静さを保てないほど、事態は完全にコントロールを失っていた。
「輪はもう、あなたの学校の中だけの問題じゃないわ……! 船橋のP活グループを起点にして、見知らぬ大人たちへ、その家族へ、そしてまだ生まれてもいない赤ん坊へと、ネズミ算式に感染が拡大しているのよ! 今すぐ、元凶であるあのグループを解体して、パパたちにも検査を受けさせないと……千葉中の人間が、梅毒に沈むわよ!」
 マリアの悲痛な叫びが、夜のクリニックに虚しく響いた。
 大人たちの無力を嘲笑うかのように、少女たちの無知が引き金となったパンデミックの波は、すでに社会の奥深くへと静かに、そして凶暴に侵食を始めていた。