第10話 教師・医師・警官の無力

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 千葉レディースクリニックでの美代子の検査と、マリアによる「きついお小言」から数日が過ぎた。

 放課後の生物準備室。西日が差し込む部屋で、美咲は美代子と向かい合っていた。ペニシリンの筋肉注射と内服薬のおかげで、美代子の太ももの発疹は嘘のように引き始め、怯えきっていた表情にも少しだけ落ち着きが戻っていた。

 美咲はカブトガニの模型を指でそっと撫でながら、意を決して優しく切り出した。

「伊達さん……先生に、どうしても教えて欲しいことがあるとよ」

 美代子がビクッと肩を揺らす。

「あなたのパパ活の仲間……副生徒会長の佐藤美穂さん以外の、他のグループのみんな。その名前を、教えてくれんね? 先生、みんなを助けたいと。あなたみたいに一人で震えて苦しむ子を、これ以上増やしたくなか」

「……先生、でも、みんなに私がチクったってバレたら……」

 美代子は目を伏せ、制服のスカートをぎゅっと握りしめて唇を噛んだ。かつての親友たちから村八分にされる恐怖が、彼女の口を重くさせる。

「私があなたを守る。絶対に名前は出さん。でもね、みんなの名前を知って、なんとかして検査を受けさせる方法を考えたいの。このままじゃ、あの子たちも、あの子たちと関わる人も、みんな病気になってしまう」

 美咲の真剣な、祈るような眼差しに、美代子はポロポロと涙をこぼした。自分が持ち込んでしまったかもしれない病魔の輪。その罪悪感に背中を押されるように、震える声で明かした。

「……高橋彩花、田中梨乃、林優奈、森本葵です……」

 美咲は静かに手帳にその名前を書き留め、深く頷いた。これでグループの全貌が掴めた。美穂を入れて、全部で六人。

 昨夜のマリアからの暗号のような電話で、彩花が性器ヘルペス、優奈がクラミジアと淋菌に感染していることはすでに分かっている。美代子の梅毒と合わせ、六人中三人が、すでに何らかの性病に感染しているのだ。感染率、実に五十パーセント。

 残る美穂、梨乃、葵は未検査だが、無事である保証などどこにもない。

(どうやって、美穂さんたちに残りの検査を受けさせる? 私が直接『パパ活やっとるやろ』と問い詰めるのはリスクが大きすぎる。証拠を消されて逃げられるか、最悪の場合、学校に居られなくなって完全に裏社会に落ちてしまう……。匿名で保健所から通知を出す? いや、そんなシステムはない……)

 美咲は頭を抱え、深いため息をついた。



 その夜。船橋駅近くの、少し騒がしい大衆居酒屋の奥にある個室。

 壁を隔てた外からはサラリーマンたちの楽しげな笑い声が聞こえてくるが、この個室の空気だけはひどく冷たく、淀んでいた。

「はじめまして。安納沙織です。義妹の有栖から崎山先生のことは伺っています。今日は非番なので、お気兼ねなく」

 そう言って名刺を差し出したのは、27歳という若さで警視庁の警部を務めるキャリアウーマン、安納沙織だった。細身のスーツを着こなし、知的な銀縁眼鏡の奥の瞳は鋭く、現場を仕切る警察官特有の隙のなさを漂わせている。

「わざわざ遠くまで、ありがとうございますばい。こっちは千葉レディースクリニックの院長、曽根崎マリア先生です」

 美咲の紹介で、マリアと沙織が軽くグラスを合わせた。テーブルの上には、結露した生ビールのジョッキと、手付かずの焼き鳥が冷めかけている。

 マリアがジョッキを置き、真っ赤なルージュの口元を歪めて本題を切り出した。

「単刀直入に言うわね。崎山先生の高校のパパ活グループ、六人中三人がすでに陽性よ。梅毒、ヘルペス、クラミジアに淋菌。まるで性病の総合商社ね。残り三人が無傷だなんて、到底思えないわ」

 沙織は眼鏡を中指で押し上げ、真剣な顔で手元のウーロンハイを見つめた。

「女子高生のパパ活ネットワーク……。警察の立場から正直に申し上げますと、非常に歯がゆい状況です。対象が18歳の高校三年生、あるいは誕生日を迎えた『合法JK』であれば、売春防止法では手が出せません。大人が力ずくで強要したわけでもなく、SNSの裏垢を使った当事者同士の自由恋愛だと言い張られれば、立件は不可能です」

「青少年保護育成条例違反には問えないの?」とマリア。
「対象が18歳未満なら動けますが、アプリの年齢を偽証していたり、金銭の授受が『ただのお小遣い』と処理されたりすると、現行犯でもない限り警察は動きにくいんです。何より、被害届を出す『被害者』がいませんから」

 沙織は悔しそうにジョッキを煽った。法を守るための警察が、法の抜け穴を利用する女子高生たちを前に立ちすくんでいる。

 美咲は重いため息をつき、おしぼりで顔を覆った。

「教師も同じですばい……。学校の名誉が何より優先される閉鎖空間で、もし私が校長にこの事実を報告すれば、生徒たちは『学校のガン』として即座に退学か自主退学に追い込まれます。親にバレれば家庭崩壊。彼女たちから教育の機会を奪い、パパ活しか生きる道がない底辺に突き落とすことになってしまう。教師としての守秘義務と、生徒を守りたいという思いが、逆に私を縛り付けとるんです。……無力です」

 マリアも深く頷き、冷めた焼き鳥の串を指で弄んだ。

「医師も同じよ。梅毒は五類感染症だから保健所に発生届は出すけれど、それはあくまで国の統計目的。個人の実名が公表されて『この子に近づくな』と警告できるわけじゃない。目の前に来た患者の治療はできるけれど、患者のプライバシーを守る義務がある以上、私から学校に連絡して『あの子たちを連れてきなさい』なんて指示はできないわ。私たちは、感染の広がりを水際で止める『権限』を持たされていないのよ」

 三人は顔を見合わせ、重い沈黙が落ちた。

 若者を導くはずの【教師】。
 命と健康を救うはずの【医師】。
 社会の秩序を守るはずの【警察】。

 国家資格を持ち、社会的に強い立場にあるはずの三人の大人の女性が、女子高生たちの歪んだ欲望と、狡猾な大人たちが作ったシステムの前で、完全に手足を縛られていた。全員が、無力だった。

 美咲はジョッキの残りを一気に飲み干し、ドン、とテーブルにジョッキを置いた。

「それでも……! 残りの三人、特に元凶である佐藤美穂、そして田中梨乃、森本葵に、どうにかして検査を受けさせんばいかんとです。私が直接言うのはリスクが大きすぎる。匿名で保健所から通知を出すような裏技はなかですか?」

 沙織は冷静に首を振った。

「それは無理ですね。私がサイバー犯罪対策課に頼んで、裏垢の『#P活船橋』の投稿を監視して補導の口実を作ることは物理的には可能ですが、令状なしのプライバシー侵害でこちらが懲戒処分になります」

 マリアも腕を組んで天を仰いだ。

「うちのクリニックのホームページから、彼女たちのスマホにターゲティング広告を出して誘導する? いや、強制力はないし、スルーされたら終わりね……」

 ああでもない、こうでもないと、三人は必死にアイデアを絞り出した。しかし、法とルールの壁は厚く、現実的で有効な打開策はどうしても浮かばない。

 時計の針が夜の十一時を回り、テーブルの上のジョッキがすべて空になる頃、個室には深い無力感と疲労だけが沈殿していた。

「……今日は、ここまでにするしかないようね」マリアがため息混じりに財布を取り出した時、美咲がギリッと奥歯を噛み締めた。
「……なんとかせんば。私が、私があの子たちに直接ぶつかるしか……」

 大人たちが手詰まりに苦しみ、焦燥感を募らせているその瞬間も。

 冷たい夜の街のラブホテルで、あるいは薄暗い旧音楽室で。

 少女たちの無知と欲望を養分にして、病魔の輪は静かに、そして確実に広がり続けていたのだった。


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 千葉レディースクリニックでの美代子の検査と、マリアによる「きついお小言」から数日が過ぎた。
 放課後の生物準備室。西日が差し込む部屋で、美咲は美代子と向かい合っていた。ペニシリンの筋肉注射と内服薬のおかげで、美代子の太ももの発疹は嘘のように引き始め、怯えきっていた表情にも少しだけ落ち着きが戻っていた。
 美咲はカブトガニの模型を指でそっと撫でながら、意を決して優しく切り出した。
「伊達さん……先生に、どうしても教えて欲しいことがあるとよ」
 美代子がビクッと肩を揺らす。
「あなたのパパ活の仲間……副生徒会長の佐藤美穂さん以外の、他のグループのみんな。その名前を、教えてくれんね? 先生、みんなを助けたいと。あなたみたいに一人で震えて苦しむ子を、これ以上増やしたくなか」
「……先生、でも、みんなに私がチクったってバレたら……」
 美代子は目を伏せ、制服のスカートをぎゅっと握りしめて唇を噛んだ。かつての親友たちから村八分にされる恐怖が、彼女の口を重くさせる。
「私があなたを守る。絶対に名前は出さん。でもね、みんなの名前を知って、なんとかして検査を受けさせる方法を考えたいの。このままじゃ、あの子たちも、あの子たちと関わる人も、みんな病気になってしまう」
 美咲の真剣な、祈るような眼差しに、美代子はポロポロと涙をこぼした。自分が持ち込んでしまったかもしれない病魔の輪。その罪悪感に背中を押されるように、震える声で明かした。
「……高橋彩花、田中梨乃、林優奈、森本葵です……」
 美咲は静かに手帳にその名前を書き留め、深く頷いた。これでグループの全貌が掴めた。美穂を入れて、全部で六人。
 昨夜のマリアからの暗号のような電話で、彩花が性器ヘルペス、優奈がクラミジアと淋菌に感染していることはすでに分かっている。美代子の梅毒と合わせ、六人中三人が、すでに何らかの性病に感染しているのだ。感染率、実に五十パーセント。
 残る美穂、梨乃、葵は未検査だが、無事である保証などどこにもない。
(どうやって、美穂さんたちに残りの検査を受けさせる? 私が直接『パパ活やっとるやろ』と問い詰めるのはリスクが大きすぎる。証拠を消されて逃げられるか、最悪の場合、学校に居られなくなって完全に裏社会に落ちてしまう……。匿名で保健所から通知を出す? いや、そんなシステムはない……)
 美咲は頭を抱え、深いため息をついた。
《《居酒屋での密談》》
 その夜。船橋駅近くの、少し騒がしい大衆居酒屋の奥にある個室。
 壁を隔てた外からはサラリーマンたちの楽しげな笑い声が聞こえてくるが、この個室の空気だけはひどく冷たく、淀んでいた。
「はじめまして。安納沙織です。義妹の有栖から崎山先生のことは伺っています。今日は非番なので、お気兼ねなく」
 そう言って名刺を差し出したのは、27歳という若さで警視庁の警部を務めるキャリアウーマン、安納沙織だった。細身のスーツを着こなし、知的な銀縁眼鏡の奥の瞳は鋭く、現場を仕切る警察官特有の隙のなさを漂わせている。
「わざわざ遠くまで、ありがとうございますばい。こっちは千葉レディースクリニックの院長、曽根崎マリア先生です」
 美咲の紹介で、マリアと沙織が軽くグラスを合わせた。テーブルの上には、結露した生ビールのジョッキと、手付かずの焼き鳥が冷めかけている。
 マリアがジョッキを置き、真っ赤なルージュの口元を歪めて本題を切り出した。
「単刀直入に言うわね。崎山先生の高校のパパ活グループ、六人中三人がすでに陽性よ。梅毒、ヘルペス、クラミジアに淋菌。まるで性病の総合商社ね。残り三人が無傷だなんて、到底思えないわ」
 沙織は眼鏡を中指で押し上げ、真剣な顔で手元のウーロンハイを見つめた。
「女子高生のパパ活ネットワーク……。警察の立場から正直に申し上げますと、非常に歯がゆい状況です。対象が18歳の高校三年生、あるいは誕生日を迎えた『合法JK』であれば、売春防止法では手が出せません。大人が力ずくで強要したわけでもなく、SNSの裏垢を使った当事者同士の自由恋愛だと言い張られれば、立件は不可能です」
「青少年保護育成条例違反には問えないの?」とマリア。
「対象が18歳未満なら動けますが、アプリの年齢を偽証していたり、金銭の授受が『ただのお小遣い』と処理されたりすると、現行犯でもない限り警察は動きにくいんです。何より、被害届を出す『被害者』がいませんから」
 沙織は悔しそうにジョッキを煽った。法を守るための警察が、法の抜け穴を利用する女子高生たちを前に立ちすくんでいる。
 美咲は重いため息をつき、おしぼりで顔を覆った。
「教師も同じですばい……。学校の名誉が何より優先される閉鎖空間で、もし私が校長にこの事実を報告すれば、生徒たちは『学校のガン』として即座に退学か自主退学に追い込まれます。親にバレれば家庭崩壊。彼女たちから教育の機会を奪い、パパ活しか生きる道がない底辺に突き落とすことになってしまう。教師としての守秘義務と、生徒を守りたいという思いが、逆に私を縛り付けとるんです。……無力です」
 マリアも深く頷き、冷めた焼き鳥の串を指で弄んだ。
「医師も同じよ。梅毒は五類感染症だから保健所に発生届は出すけれど、それはあくまで国の統計目的。個人の実名が公表されて『この子に近づくな』と警告できるわけじゃない。目の前に来た患者の治療はできるけれど、患者のプライバシーを守る義務がある以上、私から学校に連絡して『あの子たちを連れてきなさい』なんて指示はできないわ。私たちは、感染の広がりを水際で止める『権限』を持たされていないのよ」
 三人は顔を見合わせ、重い沈黙が落ちた。
 若者を導くはずの【教師】。
 命と健康を救うはずの【医師】。
 社会の秩序を守るはずの【警察】。
 国家資格を持ち、社会的に強い立場にあるはずの三人の大人の女性が、女子高生たちの歪んだ欲望と、狡猾な大人たちが作ったシステムの前で、完全に手足を縛られていた。全員が、無力だった。
 美咲はジョッキの残りを一気に飲み干し、ドン、とテーブルにジョッキを置いた。
「それでも……! 残りの三人、特に元凶である佐藤美穂、そして田中梨乃、森本葵に、どうにかして検査を受けさせんばいかんとです。私が直接言うのはリスクが大きすぎる。匿名で保健所から通知を出すような裏技はなかですか?」
 沙織は冷静に首を振った。
「それは無理ですね。私がサイバー犯罪対策課に頼んで、裏垢の『#P活船橋』の投稿を監視して補導の口実を作ることは物理的には可能ですが、令状なしのプライバシー侵害でこちらが懲戒処分になります」
 マリアも腕を組んで天を仰いだ。
「うちのクリニックのホームページから、彼女たちのスマホにターゲティング広告を出して誘導する? いや、強制力はないし、スルーされたら終わりね……」
 ああでもない、こうでもないと、三人は必死にアイデアを絞り出した。しかし、法とルールの壁は厚く、現実的で有効な打開策はどうしても浮かばない。
 時計の針が夜の十一時を回り、テーブルの上のジョッキがすべて空になる頃、個室には深い無力感と疲労だけが沈殿していた。
「……今日は、ここまでにするしかないようね」マリアがため息混じりに財布を取り出した時、美咲がギリッと奥歯を噛み締めた。
「……なんとかせんば。私が、私があの子たちに直接ぶつかるしか……」
 大人たちが手詰まりに苦しみ、焦燥感を募らせているその瞬間も。
 冷たい夜の街のラブホテルで、あるいは薄暗い旧音楽室で。
 少女たちの無知と欲望を養分にして、病魔の輪は静かに、そして確実に広がり続けていたのだった。