Mission.3 TISO本部に帰還せよ
ー/ー 掛川駅の改札口は、妙に静かだった。
夕刻の光がガラス越しに差し込んで、床に長い影を引いている。人の流れはある。スーツの男も、旅行客らしき家族連れも、確かにそこにいる。だが、音が強すぎる。足音も、会話も、どこか背中をぞくぞくとさせる。
幽界に似ている。
そんな連想が、無意識に浮かんでしまう。
未熟な考えを打ち消すように、僕は息を漏らすように唸ってみる。仕事の後遺症だ。組織に入ってから順調にキャリアを重ね続けてきた僕だが、慣れないものは慣れない。あの世界を見た直後ばかりは、どうしても現実の輪郭が曖昧になる。
ただ、そういった雑味を抜きにすれば、この改札は嫌いじゃなかった。美しいとさえ思う。理由は分からない。単なる構造の問題か、それとも光の斜度か。あるいは、生者の体のままでは出逢えぬ何かが沈殿しているのかもしれない。
尤も、考えても仕方がないから、僕は視線を横へ逸らす。隣にいる女――新人エージェント候補生は、ずっと俯いたままだった。
「おい」
声をかけても、反応が遅い。数秒の間を置いて、ようやく小さく肩が動いた。
「……う、うん」
か細い声。
幽界に入る前とは別人みたいだ。
先刻のミッションが相当に堪えた模様。弾正は笑顔で実地見学を命じた。しかしながら、今の彼女の姿を見ていると、僕は上官に対して只ならぬ不満をぶつけたくなってしまう。不可思議だ。あまりにも不可思議だった。
初めての幽体離脱の経験。
普通は、恐怖する。死者と会話し、死という現象の本質を知らされ、現実でないような現実が押し寄せる感覚に、精神が追いつかない。
だが、この女の顔は違った。戦慄ではない。落胆。恐怖ではない。悲嘆。謂うなれば期待を裏切られたような表情をしていた。こんなはずじゃなかった――そう叫んでいるように見えた。
何に期待していたというのだ。
諜報の世界に華やかさなど無い。組織の命令を淡々とこなし、割に合わぬ報酬を受け取るだけ。
少女の時分にブラウン管で観たフィクションの光景が忘れられなかったか、あるいは初回だから易しい任務を見学することになるとでも思っていたか。前者を信じていたなら馬鹿という形容詞が非常に似合うし、後者なら精神性に問題があると云わざるを得ない。
ただ、それらをこの場で指摘したところですぐに改善できるわけでもない。ましてやここは一般人が行き交う駅舎。誰かに聞かれる可能性がある環境で何の臆面もなく仕事の話を繰り広げるほど、僕は愚かではない。
ひとまず声をかけてみる。
「おい。大丈夫か」
「……大丈夫」
返事まで二秒ほどの間が生じた。ああ、これは大丈夫ではないな。幸いにも、このような状況に陥った新人エージェントを元に戻す術を僕は心得ていた。さらに都合の良いことに、この駅舎にはコンビニが備え付けられている。それも今佇んでいる場所から数メートルほどの地点に。
「ちょっと待ってろ」
そこで僕はミネラルウォーターを買ってやった。昔から炭酸やジュースを選ぶタイプではないし、茶や珈琲は嫌いだ。スポーツドリンクという選択肢もあったが、最終的に無難な答えに行き着いたのは僕の根本的な思考軸が為した業か。
個人的な物思いはさておき、早いところ対策を打つとしよう。
「とりあえず、飲め」
僕はペットボトルを差し出した。彼女は受け取ると、礼を言って、ほとんど一息で飲み干した。見事な飲みっぷりだ。五百ミリリットルは入っていたというのに。
喉が鳴る音が、妙に生々しかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
会話が終わる。
空気が苦しい。
僕は女が苦手だ。そもそもとして、関わる気が無い。二度と関わりたくないと思って生きてきた。できる限り、必要最低限で済ませたい。それなのに今は、その「必要」が長すぎる。
教育係。
ふざけた任務だ。
僕は人に何かを教えるような性格じゃないし、ましてや女子大生の面倒を見る趣味も持ち合わせてはいない。
任務だから請け負う。
それだけだ。
「歩けるか」
「うん……」
相変わらずのタメ口。駅前のカラオケ店から、ずっと。訂正しようとは思わない。些末事だ。
僕らはホームへ出た。
外気は思ったより冷たく、空は薄く曇っている。線路の向こうに、街の明かりがぼやけて見えた。
僕は、ふと周囲の視線を気にした。
スーツ姿の男と、若い女。
しかも、距離が近い。
どう見える。
歳の差カップルか。夜の店への同伴出勤か。どちらにしても、冷ややかな反応を抱かれることは避けられまい。
「……なあ」
「なに?」
「どうして手を繋ぐんだ」
「え? ああ、ごめん。ちょっと強すぎた」
「いや、そういう問題じゃない。周りに変な目で見られる」
「気にしすぎでしょ」
即答だった。そして、握る力が少し強くなる。
「大丈夫。逃げないから」
「先ほどの台詞を返す。そういう問題じゃない」
「じゃあ、何の問題?」
説明できない。
「……」
僕は口を閉じた。
こいつは、距離感がおかしい。
初対面に近い相手に対して、躊躇がない。普通なら用心すべき場面だ。僕は男。こいつは女。それなのに――まあ、この躊躇の無さは組織の人間として非常に適性があると云えるが。
そんなことを考えているうちに、新幹線が滑り込んできた。
風圧が頬を撫で、僕の無駄に長ったらしく伸びた前髪を揺らす。白い車体が、規則正しい音を立てて減速する。
ちょうど僕らの前でドアが止まった。
「乗るぞ」
「うん」
彼女の手を引いたまま、車内に入る。
組織が用意した指定席。何の気なしに窓側に彼女を座らせ、僕は通路側に腰を下ろした。
発車のベルが鳴った途端、ゆっくりと列車が動き出す。
その瞬間だった。
隣で、小さな嗚咽が漏れた。
「……っ」
泣いている。今まで堪えていた感情の波が、限界を超えたらしい。肩が震えている。面倒だ。非常に面倒だが、放置するわけにもいかない。
「おい。泣くなとは言わないが」
「……うん」
「声は抑えろ」
「そ、そこ?」
「そこだ」
彼女は少しだけ笑った。涙は止まっていないが、表情が緩む。よし。これでひとまず、会話は成立する。
「気にするな。お前は初めてだ」
「……うん」
「大抵は、ああなる」
「あなたは?」
「僕か」
「うん」
僕は首を横に振って「何も感じなかった」と答える。そんな俺に女は怪訝な目をした。
「嘘」
「本当だ」
「絶対嘘」
早い反応だった。しかも、少し強い口調で。
「……どうしてそう思う?」
「だって、さっきの顔」
「どんな顔だ?」
「なんか、楽しんでるみたいだった」
「……」
僕は視線を窓の外へ逃がした。変わりゆく景色。夜に沈みかけた街並み。
「……気のせいだ」
「ふーん」
納得していない声。だが、それ以上は踏み込んでこない。賢いな。きっと上官に言われたことを守っているのであろう。
「なあ」
「なに?」
「お前、名前は」
「教えたら駄目って言われてる」
「だろうな。確認のために訊いた」
「でも、ヒントならいいよ」
「要らない。無駄なことは喋るな」
「うん。冗談」
くすくすと笑う気配が伝わってきた。まったく、余計なことをするようではエージェントとして仕事はできないぞ。まあ、ここに至るまで己のことを何ひとつ自分から口にしていない点は評価に値するが。
「じゃあ、あなたのことは何で呼べば良い?」
俺は周囲を確認する。左側のボックスに乗客はいない。背後にも人の気配は無い。前方もまた、然り。
「雛菊。それがコードネームだ」
「じゃあ、私は?」
「まだ無い」
「えー、ひどくない?」
「これからだ」
「なんかドキドキする」
声に、少しだけ元気が戻っている。やりやすくなった。泣き続けられるよりは、よほどいい。
「ねぇ、さっきの仕事だけどさ。思ったより、普通だね」
「普通?」
「もっと怖いと思ってた。すれ違ったそういう人も、普通の人って感じだった」
「まあな。全員、我々と同じ、人だからな」
「じゃあ、あなたも人間なんだね」
「そりゃそうだ」
「仕事ができる人って言われても、いまいちピンとこない。普通の人の顔をしている」
僕は答えなかった。軽くあしらっても良い台詞であったのに。
記憶。
過去。
自己認識。
いや、どうだっていい。エージェントとなった以上は、僕は雛菊だ。
「ねぇ」
「なんだ」
「また行くの?」
「任務があればな」
「そっか」
少しの沈黙が僕たちを包んだ。そしてまた女は口を開く。
「じゃあ、頑張る」
「何をだ」
「お仕事を」
「……」
「ちゃんと、頑張るから」
その言い方は――どこかで聞いた気がした。頭の奥で、何かが軋む。古い感情が、静かに再生される音がする。
「……勝手にしろ」
そう言って、僕は目を閉じた。眠るためではない。思い出さないためだ。新幹線は、宵闇の中を走り続ける。
幽界と生界の境みたく、曖昧な速度で。
されど、思ったほど長時間ではなかった。ふと気付けば、車内アナウンスが東京到着を告げていた。抑揚の無い声が、やけに現実的に聞こえる。さっきまでの会話や沈黙が、全部どこかへ押し戻されてゆくようだった。
「着いた」
僕は瞼を開けた。時間の感覚が乱れている。
窓の外には、無機質な照明に照らされたホームが広がっている。整然としていて、隙が無い。掛川の曖昧さとは対照的だ。ここには輪郭の揺らぎが存在しない。代わりに、徹底された管理だけがある。
隣を見る。女は、移動疲れを催したのか、少しだけぼんやりした顔で外を見ていた。
「降りるぞ」
「うん」
立ち上がる動作がぎこちない。だが、足は動く。問題は無さそうだ。
ドアが開き、人の流れが一斉に動き出す。僕はその中に紛れるように歩き出した。女もついてくる。手は――いつの間にか、離れていた。
少しだけ、ほっとする。
ホームは人で溢れていた。スーツ、制服、私服。あらゆる生活が交差している。だが僕には、それらが全部同じ記号にしか見えない。
生きている人間。それ以上でも以下でもない。
「ねぇ」
「何だ?」
「ここ、すごいね」
「東京駅だ」
「知ってるけどさ」
辺りを見回しながら、彼女は小さく笑った。
「なんか、ちゃんと現実って感じ」
さっきと同じことを思っていたらしい。
「幽霊の世界に行った後だと、安心する」
「そうか」
「あなたは?」
「別に、何も思わん」
「ほんとに?」
「本当だ」
短く答えると、彼女は「ふーん」とだけ言った。
信用していない声だった。
構わない。
僕は人混みを嫌うように進み、決められた出口へ向かう。改札を抜け、地下へ降り、さらに人の少ない通路へ入る。
一般利用者はほとんど来ない場所だ。
そこに、黒い車が停まっていた。無駄のないセダン。ナンバーは一般登録だが、細部が違う。ドアの質感、窓の色、車体の重心。知っている人間が見れば分かる。
組織の車だ。
運転席の男が、こちらに軽く座礼をしていた。顔はサングラスで詳細は認識できない。認識する必要もない。
「乗れ」
俺は後部座席のドアを開ける。
「わ、すご……」
女は小さく声を漏らしながら、素直に乗り込んだ。
その隣に僕も座る。
ドアが閉まると同時に、外界の音が遮断された。
静寂の中で車が滑るように発進すると、窓の外で東京の夜景が流れてゆく。光の粒が、規則正しく並び、都市という巨大な回路を形成している。
「ねえ」
「何だ」
「これ、どこ行くの?」
「そのうち分かる」
「えー、教えてよ」
「教えない」
「ケチ」
「任務だ」
すると女は笑った。
「それ便利な言葉だね」
「そうだな」
彼女は少し笑った。先刻よりも、声に芯がある。回復が早い。適応しているのか。
「じゃあさ」
「なんだ」
「秘密って、どこまで守ればいいの?」
「全部だ」
「え、それ無理じゃない?」
「無理でもやれ。それがエージェントだ」
「……」
彼女は少しだけ黙った。数秒後、窓に映る自分の顔を見ながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、私はもう半分くらい駄目かも」
「どういう意味だ」
「だって、もう色々知っちゃったし」
「それは問題ない」
「そうなの?」
「知ることと、話すことは違う」
「……ああ」
理解したような、していないような返事。だが、それで良い。全部を理解する必要はない。むしろ、全てを丸ごと理解しようとしない方が組織の人間としては大いに生きやすい。
「ねぇ、朝顔」
「何だ」
「さっきの外人さんと話してる時さ」
その単語で、空気が少し変わる。
「……ああ」
「めっちゃ優しい顔してたよね。あなた」
僕は「お前がそう思っただけだ」としか応えなかった。視線を前に固定する。
フロントガラス越しに、赤信号が見える。車が止まる。またしても静寂の時が訪れる。
時間が、一瞬だけ伸びていた。
「まあ、褒め言葉として受け取っておく」
それだけ言った。
「そっか」
彼女は、それ以上聞かなかった。やはり賢い。踏み込むべきでない場所を、本能で理解している。
信号が青に変わり、車が再び動き出す。街の光が減ってゆく。高層ビルの並びが途切れ、無機質な建造物が増える。人工的に整えられた区画。一般の地図には載っていない領域。
「……着くぞ」
「どこに?」
「本部だ」
「本部?」
彼女の声に、わずかな緊張が混じる。
当然だ。
ここから先は、もう引き返せない。
やがて車は止まった。見るからに異質な施設の前で。高い外壁に無骨な門扉。そして、その上に設置された高射砲。さらに奥にはヘリパッド。駐車場には装甲車が並んでいる。
ここが極秘情報機関「戦術的情報安全保障特別監理室(TISO:Tactical Intelligence Security Office)」総本部。
二年前に外務省からの転属命令を受けて以来、僕の家となっている場所だ。あの時の僕に理由は知らされなかった。拒否権も無かった。本名とそれまでの経歴を捨てることを強いられようと、文句ひとつ言えなかった。それは今も変わらない。
ただ、心の中は違う。僕は吐き捨てた―——存在自体が極秘の国家機関が、何故、こんなにも堂々と要塞を構えているのか。未だに理解できない。理解する気も無いが。
車はゲートを通過し、内部へ入った。厳重なチェックをいくつも抜け、建物のエントランス前で停止する。それから運転手が降りて後部座席へ回り込み、無言でドアを開ける。
僕は隣の女子大生に指示した。
「降りろ」
「……うん」
彼女は一度だけ深呼吸をしてから、外へ出た。その背中を見ながら、僕は思う――こいつは、どこまで持つ。
そして。
僕は、いつになったら見つけられるんだ……?
まだ頭から離れない。離れるわけもない。
あの顔。
あの瞳。
あの声。
僕は、一切の続きを思考から切り離した。
ここでは、不要だ。必要なのは、任務だけ。僕は歩き出す。地下の奥、重い扉の向こうへ。
「行くぞ」
その扉は、見た目よりも軽やかな動きをしていた。特殊センサーで僕の顔を認識すると同時に開く。鋼板が内側へ滑るように。
その瞬間、冷たい空気が流れ出てくる。消毒液と、金属と、わずかな焦げた匂い。ここが地上とは切り離された場所であることを嗅覚が先に理解する。否応なしに。
「うわっ……」
隣で、女が小さく声を漏らした。
無理もない。
通路は無機質で、白と灰色だけで構成されている。壁面には配線が埋め込まれ、ところどころに認証パネルが光っている。人の気配は薄いが、監視の気配は濃い。
視線を感じる。カメラだけではない。もっと別の――意識のようなものが、この空間を満たしている。
「こっちだ」
僕は歩き出す。
女はきょろきょろと周囲を見回しながら、素直についてくる。新幹線の中で泣いていたとは思えない。切り替えが早いのか、それとも好奇心が勝っているのか。
「ねぇ、これ全部……」
「喋るな」
「あ、ごめん」
即座に口を閉じる。従順だ。その点は、非常に評価できる。
「黙ってついてこい」
やがて、通路の先、広めのホールに出たところで、足を止めた。
そこに、一人の男が立っていた。
「早かったな。エージェント雛菊」
柔らかい声だった。だが、その奥にあるものは、柔らかくはない。
「予定通りだ。弾正」
男――弾正は、穏やかに微笑んだ。いつ向かい合っても部隊長らしくない男だ。背筋は曲がっており、顔は無精髭だらけ。今頃の時間帯は新橋の飲み屋街で酒瓶を傾けていそうな顔立ちだが、酒は銀座の料亭でしか飲まないというから驚かされる。
その、らしくなさが、逆におどろおどろしく感じられる。
「連れてきたな」
「当然だ」
弾正の視線が、女へ向く。一瞬だけ。たったそれだけで、空気が変わる。
「……改めてだけど、よろしく。あなたのことは、弾正って呼べばいいんだったよね?」
女は、少しだけ緊張した声で言った。
「うむ」
弾正は軽く頷く。
「ここが、君の新しい居場所になる。尤も……」
そこで一拍置いた。
「……表向きには、存在しないがね」
女は黙って聞いている。視線は逸らさない。良い度胸だ。
「君には、大学に通いながら、エージェントとして活動してもらうことになる」
「え、両立、ですか?」
「不可能ではない。むしろ、そうしている者の方が多い」
「……へぇ」
僕の時とは対応が違う。驚きはあるが、拒否は無い。ただ、やはり、どこかおかしい。普通は、ここで嫌な顔をするものである。かつての俺が、そうであったように。
一方、弾正は、わずかに目を細めた。
「さて」
声の調子が、少しだけ変わる。
「一つ、昔話をしよう」
女は瞬きをする。僕は、内心で舌打ちした。
あれか。
「室町の頃、ある武士がいた」
弾正は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「その武士は主君に尋ねられた。『お前は命を賭しても余に仕える忠義者か?』と」
静かな語り口。だが、その内容は凄惨だ。
「すると、武士は『無論にございます』と答えた後、すぐさま腰刀を抜いて自らの喉笛を切って死んだ。何故か。忠誠心を問われた時点で、自らの主君への忠義が足りなかったということだからだ。その武士と同じくらいの覚悟が、国防の砦たる我々には求められている」
そこで、弾正は女を見た。
「さて、君に問おう」
空気が張り詰める。
「これから君は、表には存在しない組織に身を投じることになる」
数秒の間が空く。
「たとえ何があっても絶対に秘密を守れるか?」
さらに、数秒の間が空く。
「どんな命令にも忠実に従えるか? そして、国防という揺ぎるぎなき大義に心身を捧げる覚悟はあるか?」
くだらない――僕は、内心で吐き捨てる。
そんなもの、ここに来た時点で選択肢はない。答えはひとつしかない質問を、わざわざ突きつける意味は何だ。
ただの儀式だ。
「はい」
当然、女は即答した。間も、躊躇も、顔色を変えることも無かった。まるで、最初から決まっていた答えのように。
だろうな。
僕は舌打ちを鳴らした。同時、弾正に言った。
「相変わらず低劣だな。あんたは」
わざと、僕はゆっくりと言う。
「ここへ来た時点で、引き返せはしないのに」
女が、少しだけこちらを見る。弾正は笑った。
「そういう君は相変わらず辛辣だな。雛菊」
「事実だ」
「私も否定はしないよ」
あっさりと弾正は受け流す。
昔と同じだ。外務官僚だった僕が転属を命じられ、ここに来た時も、同じ問いを投げられた。同じように答え、同じように受け入れられた。
あの時点で、すでに終わっていたのに。
「まあ、構わん」
弾正は軽く手を振った。
「感傷に浸る時間はない」
その視線が女へ戻る。
「君には、これから訓練を受けてもらう」
「今からですか?」
「今からだ」
「マジですか」
「時間が無いんだ」
弾正の声が、わずかに硬くなる。
「君には、あと三時間で一人前のエージェントになってもらわねばならない」
思わず、僕はもう一度舌打ちをした。
「あれはつくづく低俗なプログラムだ……」
「だが、最適解だ」
弾正は淡々と続ける。
「君の意識を拡張し、疑似的な環境下で訓練を行う。人工幽体離脱技術の応用だな」
女は首を傾げる。
「……できるんですか?」
「可能だ」
弾正は即答だった。
「そして、必要だ」
逃げ場は無い。女は、僕を見る。
「……やるしかないの?」
「やるしかない」
「……」
一瞬だけ、迷いが浮かぶ。だが、それはすぐに消えた。
「……分かった」
小さく、息を吐く。
「やる」
その答えに、弾正は満足げに頷いた。
「よろしい」
僕は、女の肩を軽く叩いた。
「覚悟しとけ」
「そんなにやばいの?」
「まあな」
「へー」
わずかに笑う。強いな。あるいは、壊れにくいのかもしれない。何にせよ評価できる。
「行くぞ」
女を連れて、僕は歩き出す。
訓練室へ。
夕刻の光がガラス越しに差し込んで、床に長い影を引いている。人の流れはある。スーツの男も、旅行客らしき家族連れも、確かにそこにいる。だが、音が強すぎる。足音も、会話も、どこか背中をぞくぞくとさせる。
幽界に似ている。
そんな連想が、無意識に浮かんでしまう。
未熟な考えを打ち消すように、僕は息を漏らすように唸ってみる。仕事の後遺症だ。組織に入ってから順調にキャリアを重ね続けてきた僕だが、慣れないものは慣れない。あの世界を見た直後ばかりは、どうしても現実の輪郭が曖昧になる。
ただ、そういった雑味を抜きにすれば、この改札は嫌いじゃなかった。美しいとさえ思う。理由は分からない。単なる構造の問題か、それとも光の斜度か。あるいは、生者の体のままでは出逢えぬ何かが沈殿しているのかもしれない。
尤も、考えても仕方がないから、僕は視線を横へ逸らす。隣にいる女――新人エージェント候補生は、ずっと俯いたままだった。
「おい」
声をかけても、反応が遅い。数秒の間を置いて、ようやく小さく肩が動いた。
「……う、うん」
か細い声。
幽界に入る前とは別人みたいだ。
先刻のミッションが相当に堪えた模様。弾正は笑顔で実地見学を命じた。しかしながら、今の彼女の姿を見ていると、僕は上官に対して只ならぬ不満をぶつけたくなってしまう。不可思議だ。あまりにも不可思議だった。
初めての幽体離脱の経験。
普通は、恐怖する。死者と会話し、死という現象の本質を知らされ、現実でないような現実が押し寄せる感覚に、精神が追いつかない。
だが、この女の顔は違った。戦慄ではない。落胆。恐怖ではない。悲嘆。謂うなれば期待を裏切られたような表情をしていた。こんなはずじゃなかった――そう叫んでいるように見えた。
何に期待していたというのだ。
諜報の世界に華やかさなど無い。組織の命令を淡々とこなし、割に合わぬ報酬を受け取るだけ。
少女の時分にブラウン管で観たフィクションの光景が忘れられなかったか、あるいは初回だから易しい任務を見学することになるとでも思っていたか。前者を信じていたなら馬鹿という形容詞が非常に似合うし、後者なら精神性に問題があると云わざるを得ない。
ただ、それらをこの場で指摘したところですぐに改善できるわけでもない。ましてやここは一般人が行き交う駅舎。誰かに聞かれる可能性がある環境で何の臆面もなく仕事の話を繰り広げるほど、僕は愚かではない。
ひとまず声をかけてみる。
「おい。大丈夫か」
「……大丈夫」
返事まで二秒ほどの間が生じた。ああ、これは大丈夫ではないな。幸いにも、このような状況に陥った新人エージェントを元に戻す術を僕は心得ていた。さらに都合の良いことに、この駅舎にはコンビニが備え付けられている。それも今佇んでいる場所から数メートルほどの地点に。
「ちょっと待ってろ」
そこで僕はミネラルウォーターを買ってやった。昔から炭酸やジュースを選ぶタイプではないし、茶や珈琲は嫌いだ。スポーツドリンクという選択肢もあったが、最終的に無難な答えに行き着いたのは僕の根本的な思考軸が為した業か。
個人的な物思いはさておき、早いところ対策を打つとしよう。
「とりあえず、飲め」
僕はペットボトルを差し出した。彼女は受け取ると、礼を言って、ほとんど一息で飲み干した。見事な飲みっぷりだ。五百ミリリットルは入っていたというのに。
喉が鳴る音が、妙に生々しかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
会話が終わる。
空気が苦しい。
僕は女が苦手だ。そもそもとして、関わる気が無い。二度と関わりたくないと思って生きてきた。できる限り、必要最低限で済ませたい。それなのに今は、その「必要」が長すぎる。
教育係。
ふざけた任務だ。
僕は人に何かを教えるような性格じゃないし、ましてや女子大生の面倒を見る趣味も持ち合わせてはいない。
任務だから請け負う。
それだけだ。
「歩けるか」
「うん……」
相変わらずのタメ口。駅前のカラオケ店から、ずっと。訂正しようとは思わない。些末事だ。
僕らはホームへ出た。
外気は思ったより冷たく、空は薄く曇っている。線路の向こうに、街の明かりがぼやけて見えた。
僕は、ふと周囲の視線を気にした。
スーツ姿の男と、若い女。
しかも、距離が近い。
どう見える。
歳の差カップルか。夜の店への同伴出勤か。どちらにしても、冷ややかな反応を抱かれることは避けられまい。
「……なあ」
「なに?」
「どうして手を繋ぐんだ」
「え? ああ、ごめん。ちょっと強すぎた」
「いや、そういう問題じゃない。周りに変な目で見られる」
「気にしすぎでしょ」
即答だった。そして、握る力が少し強くなる。
「大丈夫。逃げないから」
「先ほどの台詞を返す。そういう問題じゃない」
「じゃあ、何の問題?」
説明できない。
「……」
僕は口を閉じた。
こいつは、距離感がおかしい。
初対面に近い相手に対して、躊躇がない。普通なら用心すべき場面だ。僕は男。こいつは女。それなのに――まあ、この躊躇の無さは組織の人間として非常に適性があると云えるが。
そんなことを考えているうちに、新幹線が滑り込んできた。
風圧が頬を撫で、僕の無駄に長ったらしく伸びた前髪を揺らす。白い車体が、規則正しい音を立てて減速する。
ちょうど僕らの前でドアが止まった。
「乗るぞ」
「うん」
彼女の手を引いたまま、車内に入る。
組織が用意した指定席。何の気なしに窓側に彼女を座らせ、僕は通路側に腰を下ろした。
発車のベルが鳴った途端、ゆっくりと列車が動き出す。
その瞬間だった。
隣で、小さな嗚咽が漏れた。
「……っ」
泣いている。今まで堪えていた感情の波が、限界を超えたらしい。肩が震えている。面倒だ。非常に面倒だが、放置するわけにもいかない。
「おい。泣くなとは言わないが」
「……うん」
「声は抑えろ」
「そ、そこ?」
「そこだ」
彼女は少しだけ笑った。涙は止まっていないが、表情が緩む。よし。これでひとまず、会話は成立する。
「気にするな。お前は初めてだ」
「……うん」
「大抵は、ああなる」
「あなたは?」
「僕か」
「うん」
僕は首を横に振って「何も感じなかった」と答える。そんな俺に女は怪訝な目をした。
「嘘」
「本当だ」
「絶対嘘」
早い反応だった。しかも、少し強い口調で。
「……どうしてそう思う?」
「だって、さっきの顔」
「どんな顔だ?」
「なんか、楽しんでるみたいだった」
「……」
僕は視線を窓の外へ逃がした。変わりゆく景色。夜に沈みかけた街並み。
「……気のせいだ」
「ふーん」
納得していない声。だが、それ以上は踏み込んでこない。賢いな。きっと上官に言われたことを守っているのであろう。
「なあ」
「なに?」
「お前、名前は」
「教えたら駄目って言われてる」
「だろうな。確認のために訊いた」
「でも、ヒントならいいよ」
「要らない。無駄なことは喋るな」
「うん。冗談」
くすくすと笑う気配が伝わってきた。まったく、余計なことをするようではエージェントとして仕事はできないぞ。まあ、ここに至るまで己のことを何ひとつ自分から口にしていない点は評価に値するが。
「じゃあ、あなたのことは何で呼べば良い?」
俺は周囲を確認する。左側のボックスに乗客はいない。背後にも人の気配は無い。前方もまた、然り。
「雛菊。それがコードネームだ」
「じゃあ、私は?」
「まだ無い」
「えー、ひどくない?」
「これからだ」
「なんかドキドキする」
声に、少しだけ元気が戻っている。やりやすくなった。泣き続けられるよりは、よほどいい。
「ねぇ、さっきの仕事だけどさ。思ったより、普通だね」
「普通?」
「もっと怖いと思ってた。すれ違ったそういう人も、普通の人って感じだった」
「まあな。全員、我々と同じ、人だからな」
「じゃあ、あなたも人間なんだね」
「そりゃそうだ」
「仕事ができる人って言われても、いまいちピンとこない。普通の人の顔をしている」
僕は答えなかった。軽くあしらっても良い台詞であったのに。
記憶。
過去。
自己認識。
いや、どうだっていい。エージェントとなった以上は、僕は雛菊だ。
「ねぇ」
「なんだ」
「また行くの?」
「任務があればな」
「そっか」
少しの沈黙が僕たちを包んだ。そしてまた女は口を開く。
「じゃあ、頑張る」
「何をだ」
「お仕事を」
「……」
「ちゃんと、頑張るから」
その言い方は――どこかで聞いた気がした。頭の奥で、何かが軋む。古い感情が、静かに再生される音がする。
「……勝手にしろ」
そう言って、僕は目を閉じた。眠るためではない。思い出さないためだ。新幹線は、宵闇の中を走り続ける。
幽界と生界の境みたく、曖昧な速度で。
されど、思ったほど長時間ではなかった。ふと気付けば、車内アナウンスが東京到着を告げていた。抑揚の無い声が、やけに現実的に聞こえる。さっきまでの会話や沈黙が、全部どこかへ押し戻されてゆくようだった。
「着いた」
僕は瞼を開けた。時間の感覚が乱れている。
窓の外には、無機質な照明に照らされたホームが広がっている。整然としていて、隙が無い。掛川の曖昧さとは対照的だ。ここには輪郭の揺らぎが存在しない。代わりに、徹底された管理だけがある。
隣を見る。女は、移動疲れを催したのか、少しだけぼんやりした顔で外を見ていた。
「降りるぞ」
「うん」
立ち上がる動作がぎこちない。だが、足は動く。問題は無さそうだ。
ドアが開き、人の流れが一斉に動き出す。僕はその中に紛れるように歩き出した。女もついてくる。手は――いつの間にか、離れていた。
少しだけ、ほっとする。
ホームは人で溢れていた。スーツ、制服、私服。あらゆる生活が交差している。だが僕には、それらが全部同じ記号にしか見えない。
生きている人間。それ以上でも以下でもない。
「ねぇ」
「何だ?」
「ここ、すごいね」
「東京駅だ」
「知ってるけどさ」
辺りを見回しながら、彼女は小さく笑った。
「なんか、ちゃんと現実って感じ」
さっきと同じことを思っていたらしい。
「幽霊の世界に行った後だと、安心する」
「そうか」
「あなたは?」
「別に、何も思わん」
「ほんとに?」
「本当だ」
短く答えると、彼女は「ふーん」とだけ言った。
信用していない声だった。
構わない。
僕は人混みを嫌うように進み、決められた出口へ向かう。改札を抜け、地下へ降り、さらに人の少ない通路へ入る。
一般利用者はほとんど来ない場所だ。
そこに、黒い車が停まっていた。無駄のないセダン。ナンバーは一般登録だが、細部が違う。ドアの質感、窓の色、車体の重心。知っている人間が見れば分かる。
組織の車だ。
運転席の男が、こちらに軽く座礼をしていた。顔はサングラスで詳細は認識できない。認識する必要もない。
「乗れ」
俺は後部座席のドアを開ける。
「わ、すご……」
女は小さく声を漏らしながら、素直に乗り込んだ。
その隣に僕も座る。
ドアが閉まると同時に、外界の音が遮断された。
静寂の中で車が滑るように発進すると、窓の外で東京の夜景が流れてゆく。光の粒が、規則正しく並び、都市という巨大な回路を形成している。
「ねえ」
「何だ」
「これ、どこ行くの?」
「そのうち分かる」
「えー、教えてよ」
「教えない」
「ケチ」
「任務だ」
すると女は笑った。
「それ便利な言葉だね」
「そうだな」
彼女は少し笑った。先刻よりも、声に芯がある。回復が早い。適応しているのか。
「じゃあさ」
「なんだ」
「秘密って、どこまで守ればいいの?」
「全部だ」
「え、それ無理じゃない?」
「無理でもやれ。それがエージェントだ」
「……」
彼女は少しだけ黙った。数秒後、窓に映る自分の顔を見ながら、ぽつりと言った。
「じゃあ、私はもう半分くらい駄目かも」
「どういう意味だ」
「だって、もう色々知っちゃったし」
「それは問題ない」
「そうなの?」
「知ることと、話すことは違う」
「……ああ」
理解したような、していないような返事。だが、それで良い。全部を理解する必要はない。むしろ、全てを丸ごと理解しようとしない方が組織の人間としては大いに生きやすい。
「ねぇ、朝顔」
「何だ」
「さっきの外人さんと話してる時さ」
その単語で、空気が少し変わる。
「……ああ」
「めっちゃ優しい顔してたよね。あなた」
僕は「お前がそう思っただけだ」としか応えなかった。視線を前に固定する。
フロントガラス越しに、赤信号が見える。車が止まる。またしても静寂の時が訪れる。
時間が、一瞬だけ伸びていた。
「まあ、褒め言葉として受け取っておく」
それだけ言った。
「そっか」
彼女は、それ以上聞かなかった。やはり賢い。踏み込むべきでない場所を、本能で理解している。
信号が青に変わり、車が再び動き出す。街の光が減ってゆく。高層ビルの並びが途切れ、無機質な建造物が増える。人工的に整えられた区画。一般の地図には載っていない領域。
「……着くぞ」
「どこに?」
「本部だ」
「本部?」
彼女の声に、わずかな緊張が混じる。
当然だ。
ここから先は、もう引き返せない。
やがて車は止まった。見るからに異質な施設の前で。高い外壁に無骨な門扉。そして、その上に設置された高射砲。さらに奥にはヘリパッド。駐車場には装甲車が並んでいる。
ここが極秘情報機関「戦術的情報安全保障特別監理室(TISO:Tactical Intelligence Security Office)」総本部。
二年前に外務省からの転属命令を受けて以来、僕の家となっている場所だ。あの時の僕に理由は知らされなかった。拒否権も無かった。本名とそれまでの経歴を捨てることを強いられようと、文句ひとつ言えなかった。それは今も変わらない。
ただ、心の中は違う。僕は吐き捨てた―——存在自体が極秘の国家機関が、何故、こんなにも堂々と要塞を構えているのか。未だに理解できない。理解する気も無いが。
車はゲートを通過し、内部へ入った。厳重なチェックをいくつも抜け、建物のエントランス前で停止する。それから運転手が降りて後部座席へ回り込み、無言でドアを開ける。
僕は隣の女子大生に指示した。
「降りろ」
「……うん」
彼女は一度だけ深呼吸をしてから、外へ出た。その背中を見ながら、僕は思う――こいつは、どこまで持つ。
そして。
僕は、いつになったら見つけられるんだ……?
まだ頭から離れない。離れるわけもない。
あの顔。
あの瞳。
あの声。
僕は、一切の続きを思考から切り離した。
ここでは、不要だ。必要なのは、任務だけ。僕は歩き出す。地下の奥、重い扉の向こうへ。
「行くぞ」
その扉は、見た目よりも軽やかな動きをしていた。特殊センサーで僕の顔を認識すると同時に開く。鋼板が内側へ滑るように。
その瞬間、冷たい空気が流れ出てくる。消毒液と、金属と、わずかな焦げた匂い。ここが地上とは切り離された場所であることを嗅覚が先に理解する。否応なしに。
「うわっ……」
隣で、女が小さく声を漏らした。
無理もない。
通路は無機質で、白と灰色だけで構成されている。壁面には配線が埋め込まれ、ところどころに認証パネルが光っている。人の気配は薄いが、監視の気配は濃い。
視線を感じる。カメラだけではない。もっと別の――意識のようなものが、この空間を満たしている。
「こっちだ」
僕は歩き出す。
女はきょろきょろと周囲を見回しながら、素直についてくる。新幹線の中で泣いていたとは思えない。切り替えが早いのか、それとも好奇心が勝っているのか。
「ねぇ、これ全部……」
「喋るな」
「あ、ごめん」
即座に口を閉じる。従順だ。その点は、非常に評価できる。
「黙ってついてこい」
やがて、通路の先、広めのホールに出たところで、足を止めた。
そこに、一人の男が立っていた。
「早かったな。エージェント雛菊」
柔らかい声だった。だが、その奥にあるものは、柔らかくはない。
「予定通りだ。弾正」
男――弾正は、穏やかに微笑んだ。いつ向かい合っても部隊長らしくない男だ。背筋は曲がっており、顔は無精髭だらけ。今頃の時間帯は新橋の飲み屋街で酒瓶を傾けていそうな顔立ちだが、酒は銀座の料亭でしか飲まないというから驚かされる。
その、らしくなさが、逆におどろおどろしく感じられる。
「連れてきたな」
「当然だ」
弾正の視線が、女へ向く。一瞬だけ。たったそれだけで、空気が変わる。
「……改めてだけど、よろしく。あなたのことは、弾正って呼べばいいんだったよね?」
女は、少しだけ緊張した声で言った。
「うむ」
弾正は軽く頷く。
「ここが、君の新しい居場所になる。尤も……」
そこで一拍置いた。
「……表向きには、存在しないがね」
女は黙って聞いている。視線は逸らさない。良い度胸だ。
「君には、大学に通いながら、エージェントとして活動してもらうことになる」
「え、両立、ですか?」
「不可能ではない。むしろ、そうしている者の方が多い」
「……へぇ」
僕の時とは対応が違う。驚きはあるが、拒否は無い。ただ、やはり、どこかおかしい。普通は、ここで嫌な顔をするものである。かつての俺が、そうであったように。
一方、弾正は、わずかに目を細めた。
「さて」
声の調子が、少しだけ変わる。
「一つ、昔話をしよう」
女は瞬きをする。僕は、内心で舌打ちした。
あれか。
「室町の頃、ある武士がいた」
弾正は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「その武士は主君に尋ねられた。『お前は命を賭しても余に仕える忠義者か?』と」
静かな語り口。だが、その内容は凄惨だ。
「すると、武士は『無論にございます』と答えた後、すぐさま腰刀を抜いて自らの喉笛を切って死んだ。何故か。忠誠心を問われた時点で、自らの主君への忠義が足りなかったということだからだ。その武士と同じくらいの覚悟が、国防の砦たる我々には求められている」
そこで、弾正は女を見た。
「さて、君に問おう」
空気が張り詰める。
「これから君は、表には存在しない組織に身を投じることになる」
数秒の間が空く。
「たとえ何があっても絶対に秘密を守れるか?」
さらに、数秒の間が空く。
「どんな命令にも忠実に従えるか? そして、国防という揺ぎるぎなき大義に心身を捧げる覚悟はあるか?」
くだらない――僕は、内心で吐き捨てる。
そんなもの、ここに来た時点で選択肢はない。答えはひとつしかない質問を、わざわざ突きつける意味は何だ。
ただの儀式だ。
「はい」
当然、女は即答した。間も、躊躇も、顔色を変えることも無かった。まるで、最初から決まっていた答えのように。
だろうな。
僕は舌打ちを鳴らした。同時、弾正に言った。
「相変わらず低劣だな。あんたは」
わざと、僕はゆっくりと言う。
「ここへ来た時点で、引き返せはしないのに」
女が、少しだけこちらを見る。弾正は笑った。
「そういう君は相変わらず辛辣だな。雛菊」
「事実だ」
「私も否定はしないよ」
あっさりと弾正は受け流す。
昔と同じだ。外務官僚だった僕が転属を命じられ、ここに来た時も、同じ問いを投げられた。同じように答え、同じように受け入れられた。
あの時点で、すでに終わっていたのに。
「まあ、構わん」
弾正は軽く手を振った。
「感傷に浸る時間はない」
その視線が女へ戻る。
「君には、これから訓練を受けてもらう」
「今からですか?」
「今からだ」
「マジですか」
「時間が無いんだ」
弾正の声が、わずかに硬くなる。
「君には、あと三時間で一人前のエージェントになってもらわねばならない」
思わず、僕はもう一度舌打ちをした。
「あれはつくづく低俗なプログラムだ……」
「だが、最適解だ」
弾正は淡々と続ける。
「君の意識を拡張し、疑似的な環境下で訓練を行う。人工幽体離脱技術の応用だな」
女は首を傾げる。
「……できるんですか?」
「可能だ」
弾正は即答だった。
「そして、必要だ」
逃げ場は無い。女は、僕を見る。
「……やるしかないの?」
「やるしかない」
「……」
一瞬だけ、迷いが浮かぶ。だが、それはすぐに消えた。
「……分かった」
小さく、息を吐く。
「やる」
その答えに、弾正は満足げに頷いた。
「よろしい」
僕は、女の肩を軽く叩いた。
「覚悟しとけ」
「そんなにやばいの?」
「まあな」
「へー」
わずかに笑う。強いな。あるいは、壊れにくいのかもしれない。何にせよ評価できる。
「行くぞ」
女を連れて、僕は歩き出す。
訓練室へ。
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