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Mission.2 謎の死を遂げた人物の素性を確かめよ

ー/ー



 昔から豊橋は東西を行き交う者の中継地点として栄えてきたそうだが、僕には関係の無い話。特設ブースでコミカルなダンスを演じる市のマスコットキャラクターの着ぐるみも、土産物店で売っている弁当や菓子も、興味の対象とはなり得ない。全て、ありのまま、記憶に刻み込むだけ。

 豊橋駅の改札を出た直後の広いスペースは、平日の昼間だというのに妙に空虚だった。人はいるが、いないのと何も変わらない。

 誰も他人を目を配らない。

 誰も他人に興味を示さない。

 この国はそういう場所だ。なればこそ、僕らのような存在が活動できる。そういった意味では、この国の連中の無関心さは救いだ。僕にとっては。

 「……」

 ベンチに腰掛けながら、僕は向かいに座る女を観察していた。紺色のジャケット。白いシャツ。チェックのスカート。典型的な女子大生の服装だ。化粧は薄い。爪も長い。武器を扱ったことのある指ではない。

 完全な一般人だ。

 考えれば考えるほどに首を傾げたくなるが、僕は無駄なことには体力を使わない主義だ。ゆえに、率直に尋ねた。

 「年齢は?」

 女は即答した。

 「二年生」

 僕は嘆息を()いた。

 「学年ではない。年齢だ」

 「二十歳」

 その答えを聞いて、僕はゆっくりと背後の上官を今一度睨んだ。

 「何の冗談だ?」

 上官は、いつもの穏やかな顔で笑った。

 「私が冗談を言わないことは君が一番よく知っているはずだ」

 その通りだった。この男は狂っているが、冗談は言わない。いや、狂っているからこそ、本当のことしか言わないのか。

 何にせよ、組織に入って二年の間、ずっと汚れ仕事を働かされてきた僕が確信を抱くには十分な反応だった――目の前の女が、本物のエージェントであることを。

 僕は舌打ちを鳴らした。

 戦術的情報安全保障特別監理室(TISO:Tactical Intelligence Security Office)。この国では表向き存在しないことになっている、決して表には出せない事柄を扱う極秘情報機関だ。ここに属する人間は例外なく専門技能保持者だ。

 元自衛官。

 プログラマー。

 物理学者。

 数学者。

 殺し屋。

 そういう連中だ。現役女子大生など、前例が無い。

 「何故に民間人を?」

 僕は訊いた。上官は明るい声を返した。

 「機密だ。私も知らん」

 僕は内心で理解した。この男は現場責任者だ。しかしながら、司令官ではない。つまり、知らされていないということだ。上の命令は絶対。それがこの組織の掟であった。

 僕は止めた。

 「つまり、僕の次の任務はこいつの教育か」

 「ああ」

 単純な命令だった。この女を一人前にしろ。それだけだ。僕は頷いた。命令だからだ。それ以上の理由はない。

 「それじゃあ、行こうか。君は掛川で次の仕事が待っているだろう」

 「言われなくてもそうするつもりだ」

 「あははっ。まるで小学生だな。『宿題しなさい』と言われて『今やろうと思ってた』と返す、みたいな」

 僕は何も言わずに立ち上がり、歩き出した。後ろからついてくる二人を土産物店のショーウィンドウのガラスで確認したところ、上官も女も笑顔だった。後者はさておき、前者は昔から不相応な振る舞いが多い。コードネーム、弾正(だんじょう)。往々にして花の名前が付けられる僕らとは違い、彼だけが封建時代の武家官位だ。一風変わっているのは名前だけではなく、行動も然り。本当に国家機関に属する部隊長かと(わら)ってしまいたくなるようなことばかりをやっている。僕自身、二年前に出会ってから何度呆れたか分からない。

 今回は何を押し付けられるのやら。今後を憂いながら、僕は改札口を通って上りの新幹線へと乗り込んだ。

 列車の旅は嫌いだ。足元を通して車輪の駆動が繊細に伝わってくるからだ。TISOに在籍してこの方、仕事で私心に依る言葉を漏らしたことは無い。されど、受け付けないものは受け付けない。ゆえに、僕は周囲の状況を確認しながらも、何とか自分を落ち着かせようと頭を回していた。

 乗車して指定席に座った直後、定刻通りに出発した新幹線の車内は静かだった。弾正は楽しそうに喋っていた。

 「彼ほど仕事ができる人間はいない。今までに難しい仕事を山ほど与えたが、いずれも涼しい顔でこなしてくれた。アラブで王子様から門外不出の情報を引き出したり、バルカン半島で窮地に陥った客人を助けたり、南米でダム決壊を阻止したり。挙げればきりがないよ」

 ふざけるな。僕は心の中で思った。暇を潰すにしても、新人とコミュニケーションを取って打ち解けようと試みるにも、迂闊すぎるだろう。

 ただ、口に出したのは別の言語だった。

 「Sa sega ni dua na lialia me tukuna na veika vuni ni isoqosoqo ena vanua raraba.(組織の機密を公共の場で喋る馬鹿がいるか)」

 フィジー語だ。そんな僕に弾正はすぐに返した。

 「E leai se atunuu e pei o Iapani e le popole ai tagata i isi.(大丈夫だよ。誰一人、他者のことなんか気にしてもいない)」

 サモア語だった。彼は続ける。

 「E te iloa foi lena.(君も分かっているはずだ)」

 確かに否定はしない。事実、車内の誰一人として、僕らを見ていなかった。それが答えだった。

 二十五分後。

 僕は掛川駅で降りた。まったく不本意ながら、女子大生と思しき女を連れて。弾正はそのまま乗車を続けて東京本部へ戻るらしい。別れ際、軽い口調で言われた。

 「まずは、うちのお家芸を体験させてやれ」

 腹が立った。

 「もちろん実戦でな」

 感情を発露させるほど俺は未熟な男ではない。されども別任務も既に与えられていた。

 数日前に掛川市内で発見された外国人変死体。この人物がテロリストかどうかを確認すること――これに新人を同伴させるなど馬鹿げている。俺は教育に興味は無い。だが、それ以上に任務の難易度が跳ね上がることが鬱陶しい。

 「んじゃ、抜かりなく頼むよ。雛菊(ひなぎく)

 馬鹿が。万が一の可能性を考えないのか。

 「駅前の花屋にあれば買って帰る」

 淡々と吐き捨て、僕は列車を降りた。後ろからは、例の女がすまし顔でついてきていた。何か面白い状況にありつけそうで楽しみだと言わんばかりの調子で。

 掛川駅に着いた後は足早に改札を通り抜け、駅ビルから最も近い場所にある雑居ビルへと向かう。その辺りは前もって調べてある。目当ては建物の五階。カラオケボックスだ。

 エレベーターを降りて店に入ると女が言った。

 「いや、おっさんとカラオケとか絶対変でしょ」

 豊橋を出発してから、今まで僕相手には口を聞かなかったというのに。ようやく飛ばしてきた言葉が、それが。僕は前を向いたまま返す。

 「まだ二十六歳だからおっさんではない」

 そして続けた。

 「そもそも年齢の印象というのは認知心理学上の錯覚に過ぎん。第一に……」

 そこへ説明を付け加えてやった。当初こそ興味深そうに耳を傾けていた女だが、途中で聞き飽きた顔になった。

 賢明だ。店員が現れるまでの時間を潰すには良い雑談だ。

 「あなた、モテないでしょ」

 「興味も無い」

 「ふーん」

 それから二分ほどで店員が現れると、素早く手続きを済ませて個室に入る。ドアを閉める。

 僕は言った。

 「良いか。黙って見ていろ」

 アタッシュケースをテーブルの上に載せる。

 「決して邪魔をするな」

 中を開ける。

 「邪魔をしたら殺す」

 スイッチを入れる。

 「尤も、死に意味など無いがな」

 女はぽかんとしていた。理解していない。当然だ。

 人工(じんこう)幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)装置(そうち)。簡単に云えば、可逆式の自殺装置だ。

 本体とケーブルで繋がった二つの電極パッドを取り出し、俺はワイシャツのボタンを数か所外してはだけ、心臓付近に貼る。こめかみにも貼る。

 女が言った。

 「AEDみたいだ」

 「QEDだ。似て非なる機械だ」

 僕は続けた。

 「名前の字面こそ似ているが、最大の相違点は、こちらは蘇生ではなく停止させるためにあるということだ」

 無駄話にかまけている暇は無い。俺は女に「さあ、お前もこれを付けろ」と促した。装置からは他にあと二つ、すなわち一人分のパッドが伸びている。一つで二人分の幽体化を行える仕様になっているのである。

 「ええっと……こう?」

 「心臓の真上に貼れ。もう片方は額の横あたりで良い」

 「あ、うん」

 初めてにしては手際が良い。女は俺が言ったことを即座に理解し、正しい部位にパッドを貼り付けた。優しくしてやるつもりは毛頭ないが、敢えて訊ねた。

 「覚悟は良いか?」

 「まあ、仕事だし」

 「その意気や良し。深呼吸をしていろ」

 「はーい」

 俺は女を個室内のソファに座らせた。そうして自分自身も向かい側の位置に座り、呼吸を整える。

 「……」

 息を吸って、吐く。

 息を吐いて、吸う。

 吸って、吐く。

 吐いて、吸う。

 「……」

 俺はスイッチを押した。刹那、世界が反転した。電流が走る感覚はない。ただ、輪郭がずれる。肉体という枠が、わずかに緩む。

 意識が途切れた。

 だが、次の瞬間。

 意識は戻る。僕は立っていた。ソファに座り込んで、目を閉じ、呼吸だけを繰り返す、抜け殻となった自分を見下ろす姿勢で。視界は鮮明だ。音もある。ただ、どこか寒い。シャツを着込み、ネクタイを締め、ジャケットまで羽織っているのに。さながら裸でいる感覚だ。

 されどもこれは成功だ。概念構築も上手く完了している。まったく。嫌だな。何度繰り返しても、気分の良いものではない。

 さて。もうひとつの仕事は――視線を向けようとした直後だった。

 「きゃあああああああああ!」

 悲鳴が響き渡る。

 女もまた、立っていた。俺と同様に、自分の身体の前に。されど、こちらは全裸だった。俺と違い、衣服を生成できなかったからだ。

 「な、なにこれ!? なんで!? え!? なんで!?」

 パニック状態だ。両手で胸を隠し、しゃがみ込む。隠しきれていない。隠せるわけがない。

 僕は一瞬だけ視線の向き先に困った。面倒だ。

 ひとまず声をかけた。

 「落ち着け」

 「無理! 無理無理無理!! 何これ!? え!? 私!? え!?」

 「見れば分かるだろ、自分だ」

 「そういうことじゃなくて!」

 「初回だからだ」

 「初回関係ある!?」

 「大いにある」

 僕はため息を吐いた。

 「幽体離脱で投射されるのは『自分そのもの』だ」

 「だから!?」

 「服は『自分』じゃない。道具だ。だから出ない」

 「いや、意味わかんないんだけど!」

 顔が赤くなる。幽体のくせに、きちんと反応が出るあたりが面白い。

 「経験者は離脱と同時に服を構築する。だから裸にはならない」

 「先に言ってよ!」

 「言ったらどうにかできたのか」

 「……無理だけど! 心の準備が!」

 「同じことだ」

 僕は一歩近づく。女はびくっと肩を震わせた。

 「見るな!」

 「見てない」

 「絶対見てた!」

 「見てない」

 本当のことを言えば、見てしまった。だが、些末事だ。

 「まあ、聞け」

 裸の女を前にしている状況は個人的心情としても不愉快だが、その前にやるべきことがある。僕は声を少し低くして、続けた。

 「今のお前は幽霊だ」

 なおも恥ずかしそうに両手で乳房を覆いながら、女は首を傾げた。

 「幽霊?」

 信じていない。だから、僕は壁を指差した。

 「歩いてみろ」

 「……え?」

 「歩いてみろと言った。大丈夫だ。誰もお前に気付きはしない。今のお前は幽体離脱の真っ只中にある。ソファにもたれかかる自分自身の姿を見ているのが何よりの証だ」

 俺の言葉に何を思ったか、恐る恐るといった動作で女は立ち上がり、歩き出した。ぎこちなく、乳房と陰部を右手と左手で、それぞれ隠しながら。

 可憐な身体は壁を通過した。

 止まった。

 振り返った。

 また歩いた。

 不思議な体験を前に困惑が拭いきれないらしい。半信半疑といった顔で佇む女に、俺はさらに言った。

 「ソファの上に立って飛び跳ねてみろ」

 女は黙って言われたとおりにする。彼女は天井を抜けた。

 浮いた。

 戻ってきた。

 理解したようだ。女は笑った。

 「すごい!」

 興奮していた。自分が全裸である事実に伴う精神的動揺は軽減されたようだ。狙い通りだ。内心、僕は安堵していた。初回から、あれに変貌されては困る――さりとて、いつまでも裸にさせておくわけにはいかない。

 「さあ、そろそろ作戦を開始する」

 僕は頭の中でイメージを働かせ、女の衣服を生成した。目の前のテーブルに並んだのは大学生らしい服。女は「えっ!」と驚きながらも、瞬間的に現れた服を手に取って目線の高さまで掲げて見る。

 「ど、どうやったの?」

 「後で説明してやる。とりあえず、さっさと着ろ」

 女は目を丸くしながらも一枚ずつ身に着けてゆく。しかし。

 「ちょっと、これ。ブラのサイズ合ってない」

 文句が飛び出した。

 「スカートも長いじゃん」

 俺は無視した。

 「これ好みじゃない」

 「黙れ」

 僕は言った。そして今度は拳銃を生成した。護身用である。

 女は首を傾げた。

 「幽霊なのに拳銃?」

 僕は説明した。

 「幽霊は死なないが、物理的に攻撃されれば痛みを感じる。そうならないための道具だ」

 幽体とは意識だ。意識は設計図になる。想像は構造になる。信じたものは存在する。知らないものは作れない。

 要するに。

 「今、お前が飛び込もうとしている世界では想像が武器になるということだ。とりあえず、それだけ覚えておけ」

 着替えを終えた女は真剣に聞いていた。理解はしていない。だが、覚えようとしている。

 それで良い。

 俺は小さく頷くと、生成した通信端末のスイッチを押して暗号無線をかける。相手は弾正。きっとイヤホンで聞いていることだろう――呟くように、言った。

 「コードネーム、雛菊(ひなぎく)。作戦を開始する」

 女と共に個室を出る。すれ違う店員や他の客が自分の姿を認識しない事実に、彼女は改めて興奮を示していた。

 「うっわー、本当に透けてる!」

 「黙ってついてこい」

 幽体化した状態で生者に声が聞こえることは基本的に無いが、幾つかの例外は存在する。それに、遭遇する者が総じて生者とは限らない。ゆえにこそ、俺たちエージェントは作戦時に拳銃携行が義務付けられているのであるが。

 「すごいっ! 人がすり抜けちゃう!」

 俺は舌打ちを鳴らしたくなる。だが、初めてならば仕方あるまいと自分に言い聞かせて堪えた。

 「ほら、さっさとエレベーターに乗るぞ。タイムリミットは一時間なんだ。無駄な時間を使いたくない。さっさとしろ」

 「はーい」

 「それから、生きている人間に迂闊にちょっかいを出すな。体をすり抜けさせる遊びもするな。物をすり抜けるにも体力を使うんだ」

 「でも、死なないんでしょ?」

 「この世界は何があるか分からない。何があっても対応できるよう、作戦行動中に無駄な体力を使うなという話だ」

 「分かった」

 「良いか。これから何があっても喋るな。お前は俺の恋人という設定だ。俺が『良いぞ』というまで、その設定と役柄を維持しろ。分かったな」

 「了解」

 物分かりは良いようだ。そんな彼女を連れ、俺は一階に降りてビルを出る。標的の居所に予想は付いている。その雑居ビルに程近い、路地裏だ。

 「……対象発見」

 不慮の形で命を落とした人間は、その殆どが理由を探ろうとする。幽体となる前の最期の記憶に残る場所、あるいは死体が発見された場所へと向かう傾向にある。今回も例に漏れず。俺の予想は当たっていた。

 今回の標的――白人男性の幽体は混乱していた。自分の死を理解していない。典型例だ。

 僕は役を演じた。

 「あの、もしかして、ですけど。死んじゃった……とかですか?」

 男は狼狽したまま俺に応じた。

 「そ、そうみたいなんです! 何が何だか分からなくて!」

 パニック状態に陥りながらも言葉は饒舌な日本語を維持している。語学および精神訓練を受けたテロリストか、否か。

 「大丈夫です。大丈夫ですよ」

 「もしかして!? もしかして!? アナタ、もしかしてワタシのことが分かるんですか!? 分かるんですか!?」

 「ええ。ご覧の通り」

 笑顔で首肯すると、俺は彼の両肩に手を当てる。異様なまでの冷たさに内心で眉を顰めながら。

 「大丈夫です。あなたは一人じゃない」

 死人の先輩。優しい口調。穏やかな態度。心理誘導の始まりである。

 「僕たちは死んだようです」

 母国語で「嘘だ!」と帰ってきた。当然だ。

 「ええ、嘘だと思いたくなりますよね。でも、ほら」

 段階的受容へと仕向ける誘導。死んだという証拠を提示してやり、たまたま近くを幽体が歩いていたから教えてやる。この世界において、死とは何か。人は死んだら、どうなるか――それらの疑問の答えをまさしく身をもって体現しているのが現在(いま)であることを。

 「……アナタの言っていることは正しいみたいですね」

 上手く受容してくれた。

 僕と女が恋人同士という設定を演じたことが功を奏したようだ。数年想い合った末の心中なるストーリーを付け加えたことも成功理由の一つであった。

 女は完璧だった。初心者とは思えぬほどに、死にたての死人を見事に演じてくれた。一言も余計なことを言わなかった。

 彼女は僕の腕に触れていた。震えていたが、僕の腕を離さなかった。どうやら耐久性はあるようだ。何よりだ。

 安堵した僕は作戦の第二段階に入る。

 「良い背広を着てらっしゃいますね。この近くで働いていらしたんですか?」

 「ええ、そうなんです……どうしてあんなことになったのか、分かりません……」

 「あんなこと、と仰いますと?」

 「……話を聞いてくれますか。死んじゃった今となってはどうしようもないですけど」

 「もちろん」

 結論として男はテロリストではなかった。情報通り、掛川市内の企業で働いていたエンジニアだった。同僚数人と街のバーで飲んだ挙句に口論となり、泥酔した末に衝動的な自殺をはかってしまったらしい。

 任務完了。

 傍らで震えている女の頭を撫でながら、俺は標的に別れを告げた。適当に「これから彼女の実家の様子を見に行かねばならないんです」と伝えると、男は納得してくれた。ここで泣き喚かれるようなら面倒な手順を踏まねばならなかったが、そうせずに済んだのは良いことである。

 標的と別れた後、俺は女に囁いた。

 「上出来だ。帰るぞ」

 「……うん」

 震えが止まっていない。それは俺が手を握って、先ほどのカラオケボックスに戻った後も続いた。

 「……」

 「幽体離脱を解除する。そこでくたばってる自分の体の額に手を触れろ」

 女は言われた通り、ソファで眠っている自分自身に手を伸ばした。

 だが、その指先が皮膚に触れる直前。

 女が吐いた。

 同時に、激しく泣いた。子供のように、獣のように。体の震えは痙攣と呼べる域にまで達していた。

 初めて死者と接触した反応だ。実に正常である。

 「っ……ううっ……」

 嗚咽が混じり、声にならない声を上げる女。その腕を俺は掴むと、元の体に触れさせて幽体化を解いてやる。解除せねばならない一時間というタイムリミットが近づいていたのである。

 「はあっ! はあっ!」

 我に返り、肩で大きく息をする女。吐瀉物は消えている。死者から生者へ戻り、こちらの世界へ戻ってきたのである。あちらの世界に行っていた痕跡が残ってしまうことになるが、一定時間が経てば消滅するから置き去っても問題は無い。

 そんなことより、今は為すべきことがある。僕は言った。

 「この世界に天国も地獄も無い」

 女は泣いていた。なおも、激しく。打ちひしがれるように。だが、俺は止めることができない。

 「死ってのは肉体の消滅に過ぎん。肉体が滅び、精神だけが外へ放出されるんだ。無論、意識は保ったままだ」

 さらに続けた。

 「成仏なんてのは人が創り出した幻想でしかない。固定観念を捨てろ。あるがままを受け入れるんだ」

 空虚な真実であることは僕自身も理解していた。女は何も言わなかった。ただ、泣いていた。

 僕は思い出していた。初任務の日の自分を。同じだった。涙を溢れさせるどころか、むしろ静かな笑みに頬を緩めていた点を抜きにすれば。

 だが、今は違う。

 何も感じない。


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 昔から豊橋は東西を行き交う者の中継地点として栄えてきたそうだが、僕には関係の無い話。特設ブースでコミカルなダンスを演じる市のマスコットキャラクターの着ぐるみも、土産物店で売っている弁当や菓子も、興味の対象とはなり得ない。全て、ありのまま、記憶に刻み込むだけ。
 豊橋駅の改札を出た直後の広いスペースは、平日の昼間だというのに妙に空虚だった。人はいるが、いないのと何も変わらない。
 誰も他人を目を配らない。
 誰も他人に興味を示さない。
 この国はそういう場所だ。なればこそ、僕らのような存在が活動できる。そういった意味では、この国の連中の無関心さは救いだ。僕にとっては。
 「……」
 ベンチに腰掛けながら、僕は向かいに座る女を観察していた。紺色のジャケット。白いシャツ。チェックのスカート。典型的な女子大生の服装だ。化粧は薄い。爪も長い。武器を扱ったことのある指ではない。
 完全な一般人だ。
 考えれば考えるほどに首を傾げたくなるが、僕は無駄なことには体力を使わない主義だ。ゆえに、率直に尋ねた。
 「年齢は?」
 女は即答した。
 「二年生」
 僕は嘆息を吐《つ》いた。
 「学年ではない。年齢だ」
 「二十歳」
 その答えを聞いて、僕はゆっくりと背後の上官を今一度睨んだ。
 「何の冗談だ?」
 上官は、いつもの穏やかな顔で笑った。
 「私が冗談を言わないことは君が一番よく知っているはずだ」
 その通りだった。この男は狂っているが、冗談は言わない。いや、狂っているからこそ、本当のことしか言わないのか。
 何にせよ、組織に入って二年の間、ずっと汚れ仕事を働かされてきた僕が確信を抱くには十分な反応だった――目の前の女が、本物のエージェントであることを。
 僕は舌打ちを鳴らした。
 戦術的情報安全保障特別監理室(TISO:Tactical Intelligence Security Office)。この国では表向き存在しないことになっている、決して表には出せない事柄を扱う極秘情報機関だ。ここに属する人間は例外なく専門技能保持者だ。
 元自衛官。
 プログラマー。
 物理学者。
 数学者。
 殺し屋。
 そういう連中だ。現役女子大生など、前例が無い。
 「何故に民間人を?」
 僕は訊いた。上官は明るい声を返した。
 「機密だ。私も知らん」
 僕は内心で理解した。この男は現場責任者だ。しかしながら、司令官ではない。つまり、知らされていないということだ。上の命令は絶対。それがこの組織の掟であった。
 僕は止めた。
 「つまり、僕の次の任務はこいつの教育か」
 「ああ」
 単純な命令だった。この女を一人前にしろ。それだけだ。僕は頷いた。命令だからだ。それ以上の理由はない。
 「それじゃあ、行こうか。君は掛川で次の仕事が待っているだろう」
 「言われなくてもそうするつもりだ」
 「あははっ。まるで小学生だな。『宿題しなさい』と言われて『今やろうと思ってた』と返す、みたいな」
 僕は何も言わずに立ち上がり、歩き出した。後ろからついてくる二人を土産物店のショーウィンドウのガラスで確認したところ、上官も女も笑顔だった。後者はさておき、前者は昔から不相応な振る舞いが多い。コードネーム、弾正《だんじょう》。往々にして花の名前が付けられる僕らとは違い、彼だけが封建時代の武家官位だ。一風変わっているのは名前だけではなく、行動も然り。本当に国家機関に属する部隊長かと嗤《わら》ってしまいたくなるようなことばかりをやっている。僕自身、二年前に出会ってから何度呆れたか分からない。
 今回は何を押し付けられるのやら。今後を憂いながら、僕は改札口を通って上りの新幹線へと乗り込んだ。
 列車の旅は嫌いだ。足元を通して車輪の駆動が繊細に伝わってくるからだ。TISOに在籍してこの方、仕事で私心に依る言葉を漏らしたことは無い。されど、受け付けないものは受け付けない。ゆえに、僕は周囲の状況を確認しながらも、何とか自分を落ち着かせようと頭を回していた。
 乗車して指定席に座った直後、定刻通りに出発した新幹線の車内は静かだった。弾正は楽しそうに喋っていた。
 「彼ほど仕事ができる人間はいない。今までに難しい仕事を山ほど与えたが、いずれも涼しい顔でこなしてくれた。アラブで王子様から門外不出の情報を引き出したり、バルカン半島で窮地に陥った客人を助けたり、南米でダム決壊を阻止したり。挙げればきりがないよ」
 ふざけるな。僕は心の中で思った。暇を潰すにしても、新人とコミュニケーションを取って打ち解けようと試みるにも、迂闊すぎるだろう。
 ただ、口に出したのは別の言語だった。
 「Sa sega ni dua na lialia me tukuna na veika vuni ni isoqosoqo ena vanua raraba.(組織の機密を公共の場で喋る馬鹿がいるか)」
 フィジー語だ。そんな僕に弾正はすぐに返した。
 「E leai se atunuu e pei o Iapani e le popole ai tagata i isi.(大丈夫だよ。誰一人、他者のことなんか気にしてもいない)」
 サモア語だった。彼は続ける。
 「E te iloa foi lena.(君も分かっているはずだ)」
 確かに否定はしない。事実、車内の誰一人として、僕らを見ていなかった。それが答えだった。
 二十五分後。
 僕は掛川駅で降りた。まったく不本意ながら、女子大生と思しき女を連れて。弾正はそのまま乗車を続けて東京本部へ戻るらしい。別れ際、軽い口調で言われた。
 「まずは、うちのお家芸を体験させてやれ」
 腹が立った。
 「もちろん実戦でな」
 感情を発露させるほど俺は未熟な男ではない。されども別任務も既に与えられていた。
 数日前に掛川市内で発見された外国人変死体。この人物がテロリストかどうかを確認すること――これに新人を同伴させるなど馬鹿げている。俺は教育に興味は無い。だが、それ以上に任務の難易度が跳ね上がることが鬱陶しい。
 「んじゃ、抜かりなく頼むよ。雛菊《ひなぎく》」
 馬鹿が。万が一の可能性を考えないのか。
 「駅前の花屋にあれば買って帰る」
 淡々と吐き捨て、僕は列車を降りた。後ろからは、例の女がすまし顔でついてきていた。何か面白い状況にありつけそうで楽しみだと言わんばかりの調子で。
 掛川駅に着いた後は足早に改札を通り抜け、駅ビルから最も近い場所にある雑居ビルへと向かう。その辺りは前もって調べてある。目当ては建物の五階。カラオケボックスだ。
 エレベーターを降りて店に入ると女が言った。
 「いや、おっさんとカラオケとか絶対変でしょ」
 豊橋を出発してから、今まで僕相手には口を聞かなかったというのに。ようやく飛ばしてきた言葉が、それが。僕は前を向いたまま返す。
 「まだ二十六歳だからおっさんではない」
 そして続けた。
 「そもそも年齢の印象というのは認知心理学上の錯覚に過ぎん。第一に……」
 そこへ説明を付け加えてやった。当初こそ興味深そうに耳を傾けていた女だが、途中で聞き飽きた顔になった。
 賢明だ。店員が現れるまでの時間を潰すには良い雑談だ。
 「あなた、モテないでしょ」
 「興味も無い」
 「ふーん」
 それから二分ほどで店員が現れると、素早く手続きを済ませて個室に入る。ドアを閉める。
 僕は言った。
 「良いか。黙って見ていろ」
 アタッシュケースをテーブルの上に載せる。
 「決して邪魔をするな」
 中を開ける。
 「邪魔をしたら殺す」
 スイッチを入れる。
 「尤も、死に意味など無いがな」
 女はぽかんとしていた。理解していない。当然だ。
 人工《じんこう》幽体《ゆうたい》離脱《りだつ》装置《そうち》。簡単に云えば、可逆式の自殺装置だ。
 本体とケーブルで繋がった二つの電極パッドを取り出し、俺はワイシャツのボタンを数か所外してはだけ、心臓付近に貼る。こめかみにも貼る。
 女が言った。
 「AEDみたいだ」
 「QEDだ。似て非なる機械だ」
 僕は続けた。
 「名前の字面こそ似ているが、最大の相違点は、こちらは蘇生ではなく停止させるためにあるということだ」
 無駄話にかまけている暇は無い。俺は女に「さあ、お前もこれを付けろ」と促した。装置からは他にあと二つ、すなわち一人分のパッドが伸びている。一つで二人分の幽体化を行える仕様になっているのである。
 「ええっと……こう?」
 「心臓の真上に貼れ。もう片方は額の横あたりで良い」
 「あ、うん」
 初めてにしては手際が良い。女は俺が言ったことを即座に理解し、正しい部位にパッドを貼り付けた。優しくしてやるつもりは毛頭ないが、敢えて訊ねた。
 「覚悟は良いか?」
 「まあ、仕事だし」
 「その意気や良し。深呼吸をしていろ」
 「はーい」
 俺は女を個室内のソファに座らせた。そうして自分自身も向かい側の位置に座り、呼吸を整える。
 「……」
 息を吸って、吐く。
 息を吐いて、吸う。
 吸って、吐く。
 吐いて、吸う。
 「……」
 俺はスイッチを押した。刹那、世界が反転した。電流が走る感覚はない。ただ、輪郭がずれる。肉体という枠が、わずかに緩む。
 意識が途切れた。
 だが、次の瞬間。
 意識は戻る。僕は立っていた。ソファに座り込んで、目を閉じ、呼吸だけを繰り返す、抜け殻となった自分を見下ろす姿勢で。視界は鮮明だ。音もある。ただ、どこか寒い。シャツを着込み、ネクタイを締め、ジャケットまで羽織っているのに。さながら裸でいる感覚だ。
 されどもこれは成功だ。概念構築も上手く完了している。まったく。嫌だな。何度繰り返しても、気分の良いものではない。
 さて。もうひとつの仕事は――視線を向けようとした直後だった。
 「きゃあああああああああ!」
 悲鳴が響き渡る。
 女もまた、立っていた。俺と同様に、自分の身体の前に。されど、こちらは全裸だった。俺と違い、衣服を生成できなかったからだ。
 「な、なにこれ!? なんで!? え!? なんで!?」
 パニック状態だ。両手で胸を隠し、しゃがみ込む。隠しきれていない。隠せるわけがない。
 僕は一瞬だけ視線の向き先に困った。面倒だ。
 ひとまず声をかけた。
 「落ち着け」
 「無理! 無理無理無理!! 何これ!? え!? 私!? え!?」
 「見れば分かるだろ、自分だ」
 「そういうことじゃなくて!」
 「初回だからだ」
 「初回関係ある!?」
 「大いにある」
 僕はため息を吐いた。
 「幽体離脱で投射されるのは『自分そのもの』だ」
 「だから!?」
 「服は『自分』じゃない。道具だ。だから出ない」
 「いや、意味わかんないんだけど!」
 顔が赤くなる。幽体のくせに、きちんと反応が出るあたりが面白い。
 「経験者は離脱と同時に服を構築する。だから裸にはならない」
 「先に言ってよ!」
 「言ったらどうにかできたのか」
 「……無理だけど! 心の準備が!」
 「同じことだ」
 僕は一歩近づく。女はびくっと肩を震わせた。
 「見るな!」
 「見てない」
 「絶対見てた!」
 「見てない」
 本当のことを言えば、見てしまった。だが、些末事だ。
 「まあ、聞け」
 裸の女を前にしている状況は個人的心情としても不愉快だが、その前にやるべきことがある。僕は声を少し低くして、続けた。
 「今のお前は幽霊だ」
 なおも恥ずかしそうに両手で乳房を覆いながら、女は首を傾げた。
 「幽霊?」
 信じていない。だから、僕は壁を指差した。
 「歩いてみろ」
 「……え?」
 「歩いてみろと言った。大丈夫だ。誰もお前に気付きはしない。今のお前は幽体離脱の真っ只中にある。ソファにもたれかかる自分自身の姿を見ているのが何よりの証だ」
 俺の言葉に何を思ったか、恐る恐るといった動作で女は立ち上がり、歩き出した。ぎこちなく、乳房と陰部を右手と左手で、それぞれ隠しながら。
 可憐な身体は壁を通過した。
 止まった。
 振り返った。
 また歩いた。
 不思議な体験を前に困惑が拭いきれないらしい。半信半疑といった顔で佇む女に、俺はさらに言った。
 「ソファの上に立って飛び跳ねてみろ」
 女は黙って言われたとおりにする。彼女は天井を抜けた。
 浮いた。
 戻ってきた。
 理解したようだ。女は笑った。
 「すごい!」
 興奮していた。自分が全裸である事実に伴う精神的動揺は軽減されたようだ。狙い通りだ。内心、僕は安堵していた。初回から、あれに変貌されては困る――さりとて、いつまでも裸にさせておくわけにはいかない。
 「さあ、そろそろ作戦を開始する」
 僕は頭の中でイメージを働かせ、女の衣服を生成した。目の前のテーブルに並んだのは大学生らしい服。女は「えっ!」と驚きながらも、瞬間的に現れた服を手に取って目線の高さまで掲げて見る。
 「ど、どうやったの?」
 「後で説明してやる。とりあえず、さっさと着ろ」
 女は目を丸くしながらも一枚ずつ身に着けてゆく。しかし。
 「ちょっと、これ。ブラのサイズ合ってない」
 文句が飛び出した。
 「スカートも長いじゃん」
 俺は無視した。
 「これ好みじゃない」
 「黙れ」
 僕は言った。そして今度は拳銃を生成した。護身用である。
 女は首を傾げた。
 「幽霊なのに拳銃?」
 僕は説明した。
 「幽霊は死なないが、物理的に攻撃されれば痛みを感じる。そうならないための道具だ」
 幽体とは意識だ。意識は設計図になる。想像は構造になる。信じたものは存在する。知らないものは作れない。
 要するに。
 「今、お前が飛び込もうとしている世界では想像が武器になるということだ。とりあえず、それだけ覚えておけ」
 着替えを終えた女は真剣に聞いていた。理解はしていない。だが、覚えようとしている。
 それで良い。
 俺は小さく頷くと、生成した通信端末のスイッチを押して暗号無線をかける。相手は弾正。きっとイヤホンで聞いていることだろう――呟くように、言った。
 「コードネーム、雛菊《ひなぎく》。作戦を開始する」
 女と共に個室を出る。すれ違う店員や他の客が自分の姿を認識しない事実に、彼女は改めて興奮を示していた。
 「うっわー、本当に透けてる!」
 「黙ってついてこい」
 幽体化した状態で生者に声が聞こえることは基本的に無いが、幾つかの例外は存在する。それに、遭遇する者が総じて生者とは限らない。ゆえにこそ、俺たちエージェントは作戦時に拳銃携行が義務付けられているのであるが。
 「すごいっ! 人がすり抜けちゃう!」
 俺は舌打ちを鳴らしたくなる。だが、初めてならば仕方あるまいと自分に言い聞かせて堪えた。
 「ほら、さっさとエレベーターに乗るぞ。タイムリミットは一時間なんだ。無駄な時間を使いたくない。さっさとしろ」
 「はーい」
 「それから、生きている人間に迂闊にちょっかいを出すな。体をすり抜けさせる遊びもするな。物をすり抜けるにも体力を使うんだ」
 「でも、死なないんでしょ?」
 「この世界は何があるか分からない。何があっても対応できるよう、作戦行動中に無駄な体力を使うなという話だ」
 「分かった」
 「良いか。これから何があっても喋るな。お前は俺の恋人という設定だ。俺が『良いぞ』というまで、その設定と役柄を維持しろ。分かったな」
 「了解」
 物分かりは良いようだ。そんな彼女を連れ、俺は一階に降りてビルを出る。標的の居所に予想は付いている。その雑居ビルに程近い、路地裏だ。
 「……対象発見」
 不慮の形で命を落とした人間は、その殆どが理由を探ろうとする。幽体となる前の最期の記憶に残る場所、あるいは死体が発見された場所へと向かう傾向にある。今回も例に漏れず。俺の予想は当たっていた。
 今回の標的――白人男性の幽体は混乱していた。自分の死を理解していない。典型例だ。
 僕は役を演じた。
 「あの、もしかして、ですけど。死んじゃった……とかですか?」
 男は狼狽したまま俺に応じた。
 「そ、そうみたいなんです! 何が何だか分からなくて!」
 パニック状態に陥りながらも言葉は饒舌な日本語を維持している。語学および精神訓練を受けたテロリストか、否か。
 「大丈夫です。大丈夫ですよ」
 「もしかして!? もしかして!? アナタ、もしかしてワタシのことが分かるんですか!? 分かるんですか!?」
 「ええ。ご覧の通り」
 笑顔で首肯すると、俺は彼の両肩に手を当てる。異様なまでの冷たさに内心で眉を顰めながら。
 「大丈夫です。あなたは一人じゃない」
 死人の先輩。優しい口調。穏やかな態度。心理誘導の始まりである。
 「僕たちは死んだようです」
 母国語で「嘘だ!」と帰ってきた。当然だ。
 「ええ、嘘だと思いたくなりますよね。でも、ほら」
 段階的受容へと仕向ける誘導。死んだという証拠を提示してやり、たまたま近くを幽体が歩いていたから教えてやる。この世界において、死とは何か。人は死んだら、どうなるか――それらの疑問の答えをまさしく身をもって体現しているのが現在《いま》であることを。
 「……アナタの言っていることは正しいみたいですね」
 上手く受容してくれた。
 僕と女が恋人同士という設定を演じたことが功を奏したようだ。数年想い合った末の心中なるストーリーを付け加えたことも成功理由の一つであった。
 女は完璧だった。初心者とは思えぬほどに、死にたての死人を見事に演じてくれた。一言も余計なことを言わなかった。
 彼女は僕の腕に触れていた。震えていたが、僕の腕を離さなかった。どうやら耐久性はあるようだ。何よりだ。
 安堵した僕は作戦の第二段階に入る。
 「良い背広を着てらっしゃいますね。この近くで働いていらしたんですか?」
 「ええ、そうなんです……どうしてあんなことになったのか、分かりません……」
 「あんなこと、と仰いますと?」
 「……話を聞いてくれますか。死んじゃった今となってはどうしようもないですけど」
 「もちろん」
 結論として男はテロリストではなかった。情報通り、掛川市内の企業で働いていたエンジニアだった。同僚数人と街のバーで飲んだ挙句に口論となり、泥酔した末に衝動的な自殺をはかってしまったらしい。
 任務完了。
 傍らで震えている女の頭を撫でながら、俺は標的に別れを告げた。適当に「これから彼女の実家の様子を見に行かねばならないんです」と伝えると、男は納得してくれた。ここで泣き喚かれるようなら面倒な手順を踏まねばならなかったが、そうせずに済んだのは良いことである。
 標的と別れた後、俺は女に囁いた。
 「上出来だ。帰るぞ」
 「……うん」
 震えが止まっていない。それは俺が手を握って、先ほどのカラオケボックスに戻った後も続いた。
 「……」
 「幽体離脱を解除する。そこでくたばってる自分の体の額に手を触れろ」
 女は言われた通り、ソファで眠っている自分自身に手を伸ばした。
 だが、その指先が皮膚に触れる直前。
 女が吐いた。
 同時に、激しく泣いた。子供のように、獣のように。体の震えは痙攣と呼べる域にまで達していた。
 初めて死者と接触した反応だ。実に正常である。
 「っ……ううっ……」
 嗚咽が混じり、声にならない声を上げる女。その腕を俺は掴むと、元の体に触れさせて幽体化を解いてやる。解除せねばならない一時間というタイムリミットが近づいていたのである。
 「はあっ! はあっ!」
 我に返り、肩で大きく息をする女。吐瀉物は消えている。死者から生者へ戻り、こちらの世界へ戻ってきたのである。あちらの世界に行っていた痕跡が残ってしまうことになるが、一定時間が経てば消滅するから置き去っても問題は無い。
 そんなことより、今は為すべきことがある。僕は言った。
 「この世界に天国も地獄も無い」
 女は泣いていた。なおも、激しく。打ちひしがれるように。だが、俺は止めることができない。
 「死ってのは肉体の消滅に過ぎん。肉体が滅び、精神だけが外へ放出されるんだ。無論、意識は保ったままだ」
 さらに続けた。
 「成仏なんてのは人が創り出した幻想でしかない。固定観念を捨てろ。あるがままを受け入れるんだ」
 空虚な真実であることは僕自身も理解していた。女は何も言わなかった。ただ、泣いていた。
 僕は思い出していた。初任務の日の自分を。同じだった。涙を溢れさせるどころか、むしろ静かな笑みに頬を緩めていた点を抜きにすれば。
 だが、今は違う。
 何も感じない。