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古道

ー/ー



 窓から差し込む朝の光が、遠慮がちに床を照らしている。
鳥の声が、朝が来たことを告げていた。



 クロードはベッドにうつ伏せのまま、うっすらと瞼を開けた。

 この宿のベッドは硬い。
 そのせいか、妙な夢を見た気がした。

 ゆっくりと身を起こし、ひとつ伸びをする。
肩を揉みながら部屋を見回したが、自分の荷物以外には何もない。

 色あせた床をしばらくぼんやり眺め、それから立ち上がった。
 荷物の中からタオルと着替えを取り出す。

「風呂を借りる」
「はい、どうぞ」

 受付カウンターで声をかけると、鍵と石鹸を渡された。

 風呂場の大きな木桶の蓋を開ける。
 湯気がふわりと立ちのぼった。

 安宿にしては、きちんと湯を沸かしてある。
ベッドの寝心地は悪かったが、風呂はいい。

 クロードは手桶で湯をすくい、頭からかぶった。
薬草の匂いのする石鹸で身体を洗い、たっぷりの湯で流す。

 ふと、視線が胸元へ落ちた。



 神道痕。



 神世言(かみよのことば)で描かれた、五重の円。
 胸に刻まれたそれを、クロードは黙って見下ろす。

 これが起動するところを、まだ見たことはない。

 ━━あの日から、一度も。

 力なく横たわる細い身体が、脳裏をかすめた。
 どうか戻ってきてくれと、抱きしめた亡骸。

「……なぜ」

 ぽつりとこぼれた声に、クロードは我に返る。

 タオルを絞り、濡れた髪を雑に拭った。

 脱衣室の椅子に掛けていた服を着る。
最後に教会の銀のペンダントを手に取った。
しばらく見つめてから首にかけ、服の中へしまう。

 部屋へ戻り、リュックの中身をひとつずつ確かめる。
 足りない物を紙に書き留めた。

 しばらくはこの駐屯都市に滞在する予定だが、次の旅の準備も進めておかなければならない。

 クロードは腰のベルトにポーチを通した。
 くたびれた外套をまとい、フラップキャップをまぶかにかぶる。

 カウンターに鍵を預け、ぽつぽつと店が開きはじめた商店街へ向かった。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 商店街は、ちょうど目を覚ましはじめたところだった。

 建物の店では看板が表へ出され、戸口の前が手早く掃かれている。
 露店では木箱が開かれ、布が広げられ、鍋からは白い湯気が立ちのぼっていた。

 焼きたてのパンや、香辛料のきいた煮込みの匂いが、朝の空気に混じって流れてくる。
その中を、クロードは急ぐでもなく歩いた。

 視線は自然に、店先の商品、客の入り、兵士の立つ場所へ滑っていく。

 賑わいはまだ薄い。
 それでも、この街はもう今日を動かしはじめていた。

 屋台の一つに立ち寄り、串焼きとパンを買う。
「まいど」

 焼けたソーセージを齧り、パンを食べていると、店主が「一番客だから、サービスな」と茶を差し出した。
湯気が、朝の冷えた空気に白くほどける。

「ありがとう」

 クロードは茶をひと口すすり、そのまま朝食を手早く腹におさめた。

 いくつかの店や露店を回り、必要な物を買い足していく。

 その途中、クロードは雑貨屋の露店の前でふと足を止めた。

 店先には、女が好みそうな可愛らしい雑貨に混じって、石が並べられていた。

 その中のひとつ━━手のひらほどの石に、見覚えのある文字が刻まれている。

「店主、これは?」
「ああ、ここの近くの遺跡で採れたものだ。たまに学者さんなんかが買っていくんだよ」

 クロードは自分の胸を、軽く拳で押さえた。



神世言だ。



「この街にも、遺跡の偉い学者さんがいるんだ。足が悪くて滅多に来ないけど」

 店主の言葉を聞き流しながら、クロードは石の文字から目を離せずにいた。

 値段を見て、わずかにためらう。
 だが、胸のざわめきは消えなかった。

 クロードはその石を手に取った。

「これをくれ」

 宿に戻ると、クロードは手早く荷物をまとめた。

 カウンターへ鍵を戻し、男に尋ねる。
「ここの近くに遺跡はあるか?」
「ああ。西の街道を行けば、途中にある。兄さんの足なら半日ほどだ」
「そうか」

 短く答え、クロードはそのまま宿を後にした。

 街道を歩いていく。

 道には旅人や行商人、冒険者、兵士の姿が絶えなかった。
 駐屯都市へ向かう者、そこから離れる者━━行き交う人の流れは途切れず、街道には朝から活気がある。

 林の脇を抜けると、視界がひらけた。
 風が草の匂いを含んで、心地よく吹き抜けていく。

 再び歩き出す。
 しばらく行くと、道が二つに分かれ、その脇に道標が立っていた。

「遺跡はこっちか」

 クロードは右へ折れた。

 日差しが昼を過ぎた頃、遠くの地平に、崩れた遺跡らしき影が見えてきた。

「あれか」

 クロードは目を細め、そのまま歩を進めた。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 遺跡に残る太い石柱の間を進むと、地下へ続く階段が口を開けていた。

 クロードは足元と周囲に目を配りながら、慎重に下りていく。
 途中、壁には何かの絵とも記号ともつかないものが彫られていた。

 それに指を伸ばしかけた時、階下から女の声が飛んできた。

「触らないで!!」

 まだ少女と呼べそうな童顔の娘が、腰に手を当ててクロードを睨んでいた。

「あなた、だれ?」
「……クロードという」

 娘はクロードのそばまで来ると、値踏みするようにじろじろと見た。

「名乗るってことは、盗掘屋じゃなさそうね」
「……旅の途中だ。遺跡があると聞いて、見に来た」

 娘は両脇で結んだ金髪をいじりながら、「ふうん」と言った。

「入ってもいいか?」
「……いいわ。壁とか、あまり触らないでね。崩れやすいから」
「分かった」

 娘が先に階段を下りていく。
 クロードはその後ろに続いた。

「でも、こんな朽ちた遺跡、よく見に来ようと思ったわね」
「お前さんは、なぜここに?」

 そう尋ねると、娘は床に置いていたバッグから紙を取り出した。

「ギルドで依頼を受けたの。冒険者をやっていくにも、お金が必要だからね」

 依頼書がクロードの目の前に差し出される。

「神代文字の写し」
「そう。その依頼主、足の悪い学者のおじいちゃんなの。自分ではもう遺跡まで来られないから、こうしてギルドに依頼を出してるの。私のお得意様よ」

 神代文字━━それが、神世言の一般的な呼び名らしい。
そう呼ぶということは、この依頼主の学者は教会側の人間ではなさそうだった。

「昔はここにも、いろいろ残ってたの。だから盗掘屋がよく来てたわ。でも目ぼしい物がなくなってからは、今度は神代文字の刻まれた壁まで壊して持っていく奴が出てきてね」
「……そうか」
「ま、最近じゃそれも減ったけど。もう実入りが悪いんでしょうね」
 娘はスケッチブックを取り出し、壁に刻まれた神代文字を写し始めた。



 クロードは小さな部屋の壁を見て回る。

 そこには、絵とも記号とも文字ともつかないものが、壁のあちこちに刻まれていた。

 見覚えのある文字もあれば、初めて見るものもある。

 クロードはポーチから小さな手帳を取り出し、自分の胸にある神世言の写しへ目を落とした。

 この文字は、まだ誰にも解き明かされていない。
失われた文明のものか、それとも神のものか━━それすら分かっていない。

「ねぇ、これってなんだと思う?」

 部屋の端の床に、そこだけ他と敷き方の違う石があった。

「さぁな。この遺跡には詳しいんだろう?」
「あなたよりはね」

 娘がその上に足を乗せ、ぐっと体重をかけてみる。
 だが、何も起こらない。

「なんだ。こういうのって、大体なにか仕掛けがあるものなのになぁ」
 娘はつまらなそうに呟いた。

「重さが足りないのかも。あなた、乗ってみて」

 外套を引っぱられ、クロードは仕方なくその石の上に乗った。
 それでも、何も起こらなかった。

「やっぱり、部屋はここまでみたいね」
「そのようだな」

 娘はスケッチブックをバッグへしまいこんだ。

「街への乗合馬車が来る時間だから、そろそろ帰るわ。あなたは?」
「俺はまだいる」
「そう。じゃあね。夜は盗掘屋が来ることもあるから、気をつけて」
「ああ。分かった」

 娘が階段を上がり、足音が遠のいていく。

 一人残ったクロードは、再び壁に刻まれた文字へ目を向けた。

 手帳の写しと重なる形もある。だが、それはあまりにまばらで、並びにも規則が見えない。
そもそも、これは本当に文字なのか。それとも、ただの記号なのか。

 壁を見て回るうちに、遺跡の中は少しずつ暗くなっていった。
手元の文字も、次第に見えづらくなる。
階段から下りてくる空気も、ひやりと冷たかった。

 かなり長い時間が経ったようだ。

 クロードはリュックから小さなランタンを取り出し、底のつまみを回した。

 中に組まれた術式が淡く光り、その上の透明な石がオレンジ色の灯をともす。

 薄暗かった部屋の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がった。

 壁にもたれて腰を下ろし、街で買った携帯食をかじった。

 ふと、娘が気にしていた、部屋の隅の石へ目を向ける。
 よく見ると、表面は崩れかけていたが、わずかにへこんだ形が残っていた。

 クロードは何気なく、その石のへこみの上に手を当ててみた。

 ごぅん、と重い音がして、足元が揺れる。

「なにっ」

 石がせり上がり、クロードの腰ほどの高さにまで持ち上がった。
それと同時に、横の壁の一部がずれ、奥の部屋へ続く入口が現れた。

「…………」

 クロードはランタンで奥の部屋を照らした。

 階段下の部屋よりひと回り広く、奥には祭壇めいたものが見える。

 しばらく様子をうかがってから、慎重に足を踏み入れた。
 部屋の床は、手前の部屋よりも風化が少なく、なめらかだった。

 一歩、また一歩と進んだところで、クロードは足を止める。
 そこだけ、色の違う石が敷かれていた。

 仕掛けかもしれない。
 クロードはその石を避けて進んだ。

 しかし、祭壇の手前から奥は、すべて色の違う石が敷き詰められていた。
 まるで、そこから先だけ別の道になっているようだった。

 クロードは足を止める。
 警戒しながら周囲を見たが、祭壇へ行くにはその石の上を進むしかない。

 わずかに息を詰め、色の違う石へ足を乗せた。

 足元から低い震えが伝わる。

 続いて、石の両脇に刻まれていた神世言が青白く光った。
それは床を走り、壁を駆け上がり、天井へ届く。
無数の文字が一息に連なり、クロードを囲む門のように立ち上がった。

「……っ」

 クロードはその場に立ち尽くした。

 光る文字が、自分を閉じ込めるでもなく、押し返すでもなく、ただ静かに囲んでいる。

 服の下で、胸の神道痕がじわりと熱を持った。

 クロードは眉をひそめる。
 この光は、自分に反応したのか。

 青白い門は音もなく揺らめき、その向こうにある祭壇を静かに照らしていた。

 石の祭壇は、人間がひとり横たわれるだけの広さを持っていた。
豪奢な飾りはどこにもない。

 祈りのためというより、何かを置くため、あるいは寝かせるためだけに造られたような、簡素な台だった。

 クロードはその奥の壁へ視線を上げる。

 神世言で円が描かれている。
 幾重にも連なる文字の輪は、ひとところだけ欠けていた。

 ちょうど、手のひらほどの大きさだ。

 ふと、街の雑貨屋で買った石を思い出す。

 クロードはリュックから石を取り出した。
 灯りの下で向きを変え、壁の欠けた部分と見比べる。



 ぴたりと合致した。



 クロードはしばらくそれを見つめ、それから静かに、欠けた場所へとはめ込んだ。

 次の瞬間だった。

 壁に描かれた神世言で作られた円が、音もなく淡い光を帯びた。

 それはただ光るのではない。
 眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ましていくようだった。
 ひとつひとつの文字が青白く脈打ち、輪をなす神世言が、静かに、わずかずつ位置を変えていく。

 円が回っているのか。
 文字そのものが流れているのか。
 クロードの目には、もう判然としなかった。

 やがて、空白だった円の中心に、細い光の筋が浮かび上がる。

 ひと筆、またひと筆と、見えない指先でなぞられるように、それは空中へ術式を描き出していった。

 青白い線は絡み合い、重なり合い、複雑な紋様となって宙に咲く。
 花のようでもあり、凍りついた焔のようでもある。それは、どこか生き物めいた気配があり、クロードを圧倒した。

 息を呑み、わずかに後ずさる。
 その時、服の下で胸が熱くなった。

「……っ」



神道痕だ。



 服越しにも分かるほど、胸の奥がじわじわと灼けるように熱い。

 鼓動に合わせるように、神道痕が脈を打つ。

 まるで壁の術式に呼び起こされたように、胸の内で眠っていた何かが応えはじめていた。

 熱は次第に強くなる。

 皮膚の上だけではない。
 胸の奥、骨の内側まで火が入り込んでくるようだった。

 クロードは顔をしかめ、一歩退こうとした。
 だが、足がうまく動かない。

 青白い術式が揺らめく。
 それに呼応するように、服の下で神道痕もまた明滅した。

 熱い。
 息がうまく吸えない。

 クロードはたまらず壁へ手をついた。

 触れた瞬間━━術式の光が、ぴたりと脈を揃えた。

 どくん、と胸の奥で大きく何かが打つ。

 壁に浮かぶ術式が脈打つ。
 胸の神道痕が脈打つ。

 どちらが先かも分からない。
 まるで離れた場所にある同じものが、互いを見つけて呼び合っているようだった。

 青白い光が壁から走る。
 指先から腕へ、肩へ、胸へ━━いや、そうではない。
 もとからそこにあった見えない道を、光がなぞっているのだと、なぜか分かった。

「……ぁ……」

 声にならない息が漏れる。

 視界の端で、神世言がほどけるように流れた。

 文字のはずなのに、雪のようでもあり、羽虫の群れのようでもあり、あるいは夜の水面に砕ける月光のようにも見える。

 術式はなおも中心で咲き続けている。
 その奥から、何かが来る。

 音ではない。
 言葉でもない。

 けれど意味だけが、光の濁流となって頭の奥へ流れ込んでくる気配がした。

 クロードは耐えきれず、膝をついた。

 胸が焼ける。
 頭の芯が軋む。

 目の前の光景が、ひどく遠く、ひどく近い。

 壁に触れた手から力が抜けていく。

 糸が切れたように、唐突に。

 クロードの意識は、青白い光の底へ沈んだ。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



 遠くに、懐かしい後ろ姿があった。

 黒とも紫ともつかない、光沢のあるベール。
それが長い栗色の髪とともに、風に揺れている。

 幼い頃から、いつも一緒だった。
 山を駆け、森で遊び、同じ里で育った。

「ローザ……」

 呼び声に気づいたように、懐かしいその背がゆっくりと振り返った。

 けれど、逆光の中にある顔は見えない。
 ただ、陽の光の中で髪とベールだけが揺れていた。

「クロード……」

 たしかに呼ばれたはずなのに、その声は風の中にほどけてしまう。
 近くで囁かれたようでもあり、ひどく遠くから響いたようでもあった。

「……おいで……ローザ」
 クロードは両手を広げる。

 彼女が笑った気がした。

 その刹那、光が差した。
 薄い衣のように、祝福のように、あるいは攫うための手のように━━静かに彼女を包み込んでいく。

「やめろ!! 連れて行くな!!」

 クロードは走り出した。
 だが、足は前へ出るのに、景色だけが遠ざかる。
 どれだけ手を伸ばしても、光の中の彼女には届かない。

「ローザ……!! ロザリア……!!」

「クロード……ごめんね……」

「いやだ!! ロザリア!!」

 光は彼女の姿を溶かし、のみこみ、やがて大きな人の形を結んだ。

「……っ」

 ”それ”が顔を上げた時、クロードはたしかに見られたと感じた。

 全身の皮膚が粟立つ。

「……神……なのか……?」

 その時、低く重い鐘の音が響いた。

 どこから鳴ったのか分からない。
 ただ、その音は光の満ちた世界そのものを震わせた。

 次の瞬間、その姿は空へ散る霧のようにほどけていく。
白い光だけが残り、世界の輪郭を塗り潰した。

 クロードの視界は、ただ光に覆われた。



━━━━━ * * * * * ━━━━━



「ちょっと!! ちょっと大丈夫!?」

 肩を揺さぶられ、クロードは重い瞼を開けた。

 白く霞んでいた視界が、少しずつ形を取り戻していく。
 目の前にいたのは、昨日この遺跡で出会った娘だった。

「……ここ……は」
「呆れた。もしかして寝てただけ?」

 クロードはゆっくりと辺りを見回した。
 階段下の小部屋が、薄暗いままそこにある。

「誰かに襲われて倒れてるのかと思ったじゃない」

 頭を振りながら、クロードは身を起こした。
「……っつ」
 途端に身体のあちこちが痛み、思わず顔をしかめる。

 それを見た娘は、呆れたように腰へ手を当てた。
「こんな石の遺跡なんかで寝てるからよ」
「……そうだな」
「もしかして、いつもうつ伏せで寝てるの?」
「ああ。癖でな」
「ふふ、子供みたい」

 娘はそう言って、ハンカチを差し出した。

「顔に砂ついてるよ」
「……すまん」

 クロードは顔を拭い、付いた砂を軽く払ってからハンカチを返した。

「ありがと」

 娘はそれを受け取ると、さっさとスケッチブックを取り出し、壁の神代文字を写し始めた。

 朝の光が階段の上から細く差し込み、昨日と変わらぬ小部屋の壁を照らしている。

 クロードは黙って立ち上がり、壁際へ目をやった。

 奥の間へ続いていたはずの入口はない。
 祭壇も、円を描く神世言も、青白い光も━━何ひとつ残っていなかった。

 夢だったのか、と一瞬思う。

 だが、部屋の隅を見た時、クロードは足を止めた。

 そこにあったはずの、敷き方の違う石が消えている。

 娘は気づかない。
 何事もなかったように頁をめくり、鉛筆を走らせていた。

 クロードはしばらく、その床を見つめた。

 神道ではないのかもしれない。

 もっと古い、神の時代の名残。

 かつて神自身が渡ってきた道━━そんなものが、この遺跡の奥に眠っていたのかもしれない。

 ━━古道。

 胸の奥で、その言葉だけが静かに沈んだ。

「どうしたの?」
「……いや」

 クロードは短く答え、服の下に残るわずかな熱を意識しながら、もう一度だけ小部屋を見回した。
 そこにはただ、崩れかけた遺跡の一室があるだけだった。

 それでも、確かに何かはあった。

 娘の鉛筆が紙を擦る音だけが、静かな小部屋に響いていた。


━ 終 ━




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 窓から差し込む朝の光が、遠慮がちに床を照らしている。
鳥の声が、朝が来たことを告げていた。
 クロードはベッドにうつ伏せのまま、うっすらと瞼を開けた。
 この宿のベッドは硬い。
 そのせいか、妙な夢を見た気がした。
 ゆっくりと身を起こし、ひとつ伸びをする。
肩を揉みながら部屋を見回したが、自分の荷物以外には何もない。
 色あせた床をしばらくぼんやり眺め、それから立ち上がった。
 荷物の中からタオルと着替えを取り出す。
「風呂を借りる」
「はい、どうぞ」
 受付カウンターで声をかけると、鍵と石鹸を渡された。
 風呂場の大きな木桶の蓋を開ける。
 湯気がふわりと立ちのぼった。
 安宿にしては、きちんと湯を沸かしてある。
ベッドの寝心地は悪かったが、風呂はいい。
 クロードは手桶で湯をすくい、頭からかぶった。
薬草の匂いのする石鹸で身体を洗い、たっぷりの湯で流す。
 ふと、視線が胸元へ落ちた。
 神道痕。
 神世言(かみよのことば)で描かれた、五重の円。
 胸に刻まれたそれを、クロードは黙って見下ろす。
 これが起動するところを、まだ見たことはない。
 ━━あの日から、一度も。
 力なく横たわる細い身体が、脳裏をかすめた。
 どうか戻ってきてくれと、抱きしめた亡骸。
「……なぜ」
 ぽつりとこぼれた声に、クロードは我に返る。
 タオルを絞り、濡れた髪を雑に拭った。
 脱衣室の椅子に掛けていた服を着る。
最後に教会の銀のペンダントを手に取った。
しばらく見つめてから首にかけ、服の中へしまう。
 部屋へ戻り、リュックの中身をひとつずつ確かめる。
 足りない物を紙に書き留めた。
 しばらくはこの駐屯都市に滞在する予定だが、次の旅の準備も進めておかなければならない。
 クロードは腰のベルトにポーチを通した。
 くたびれた外套をまとい、フラップキャップをまぶかにかぶる。
 カウンターに鍵を預け、ぽつぽつと店が開きはじめた商店街へ向かった。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 商店街は、ちょうど目を覚ましはじめたところだった。
 建物の店では看板が表へ出され、戸口の前が手早く掃かれている。
 露店では木箱が開かれ、布が広げられ、鍋からは白い湯気が立ちのぼっていた。
 焼きたてのパンや、香辛料のきいた煮込みの匂いが、朝の空気に混じって流れてくる。
その中を、クロードは急ぐでもなく歩いた。
 視線は自然に、店先の商品、客の入り、兵士の立つ場所へ滑っていく。
 賑わいはまだ薄い。
 それでも、この街はもう今日を動かしはじめていた。
 屋台の一つに立ち寄り、串焼きとパンを買う。
「まいど」
 焼けたソーセージを齧り、パンを食べていると、店主が「一番客だから、サービスな」と茶を差し出した。
湯気が、朝の冷えた空気に白くほどける。
「ありがとう」
 クロードは茶をひと口すすり、そのまま朝食を手早く腹におさめた。
 いくつかの店や露店を回り、必要な物を買い足していく。
 その途中、クロードは雑貨屋の露店の前でふと足を止めた。
 店先には、女が好みそうな可愛らしい雑貨に混じって、石が並べられていた。
 その中のひとつ━━手のひらほどの石に、見覚えのある文字が刻まれている。
「店主、これは?」
「ああ、ここの近くの遺跡で採れたものだ。たまに学者さんなんかが買っていくんだよ」
 クロードは自分の胸を、軽く拳で押さえた。
神世言だ。
「この街にも、遺跡の偉い学者さんがいるんだ。足が悪くて滅多に来ないけど」
 店主の言葉を聞き流しながら、クロードは石の文字から目を離せずにいた。
 値段を見て、わずかにためらう。
 だが、胸のざわめきは消えなかった。
 クロードはその石を手に取った。
「これをくれ」
 宿に戻ると、クロードは手早く荷物をまとめた。
 カウンターへ鍵を戻し、男に尋ねる。
「ここの近くに遺跡はあるか?」
「ああ。西の街道を行けば、途中にある。兄さんの足なら半日ほどだ」
「そうか」
 短く答え、クロードはそのまま宿を後にした。
 街道を歩いていく。
 道には旅人や行商人、冒険者、兵士の姿が絶えなかった。
 駐屯都市へ向かう者、そこから離れる者━━行き交う人の流れは途切れず、街道には朝から活気がある。
 林の脇を抜けると、視界がひらけた。
 風が草の匂いを含んで、心地よく吹き抜けていく。
 再び歩き出す。
 しばらく行くと、道が二つに分かれ、その脇に道標が立っていた。
「遺跡はこっちか」
 クロードは右へ折れた。
 日差しが昼を過ぎた頃、遠くの地平に、崩れた遺跡らしき影が見えてきた。
「あれか」
 クロードは目を細め、そのまま歩を進めた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 遺跡に残る太い石柱の間を進むと、地下へ続く階段が口を開けていた。
 クロードは足元と周囲に目を配りながら、慎重に下りていく。
 途中、壁には何かの絵とも記号ともつかないものが彫られていた。
 それに指を伸ばしかけた時、階下から女の声が飛んできた。
「触らないで!!」
 まだ少女と呼べそうな童顔の娘が、腰に手を当ててクロードを睨んでいた。
「あなた、だれ?」
「……クロードという」
 娘はクロードのそばまで来ると、値踏みするようにじろじろと見た。
「名乗るってことは、盗掘屋じゃなさそうね」
「……旅の途中だ。遺跡があると聞いて、見に来た」
 娘は両脇で結んだ金髪をいじりながら、「ふうん」と言った。
「入ってもいいか?」
「……いいわ。壁とか、あまり触らないでね。崩れやすいから」
「分かった」
 娘が先に階段を下りていく。
 クロードはその後ろに続いた。
「でも、こんな朽ちた遺跡、よく見に来ようと思ったわね」
「お前さんは、なぜここに?」
 そう尋ねると、娘は床に置いていたバッグから紙を取り出した。
「ギルドで依頼を受けたの。冒険者をやっていくにも、お金が必要だからね」
 依頼書がクロードの目の前に差し出される。
「神代文字の写し」
「そう。その依頼主、足の悪い学者のおじいちゃんなの。自分ではもう遺跡まで来られないから、こうしてギルドに依頼を出してるの。私のお得意様よ」
 神代文字━━それが、神世言の一般的な呼び名らしい。
そう呼ぶということは、この依頼主の学者は教会側の人間ではなさそうだった。
「昔はここにも、いろいろ残ってたの。だから盗掘屋がよく来てたわ。でも目ぼしい物がなくなってからは、今度は神代文字の刻まれた壁まで壊して持っていく奴が出てきてね」
「……そうか」
「ま、最近じゃそれも減ったけど。もう実入りが悪いんでしょうね」
 娘はスケッチブックを取り出し、壁に刻まれた神代文字を写し始めた。
 クロードは小さな部屋の壁を見て回る。
 そこには、絵とも記号とも文字ともつかないものが、壁のあちこちに刻まれていた。
 見覚えのある文字もあれば、初めて見るものもある。
 クロードはポーチから小さな手帳を取り出し、自分の胸にある神世言の写しへ目を落とした。
 この文字は、まだ誰にも解き明かされていない。
失われた文明のものか、それとも神のものか━━それすら分かっていない。
「ねぇ、これってなんだと思う?」
 部屋の端の床に、そこだけ他と敷き方の違う石があった。
「さぁな。この遺跡には詳しいんだろう?」
「あなたよりはね」
 娘がその上に足を乗せ、ぐっと体重をかけてみる。
 だが、何も起こらない。
「なんだ。こういうのって、大体なにか仕掛けがあるものなのになぁ」
 娘はつまらなそうに呟いた。
「重さが足りないのかも。あなた、乗ってみて」
 外套を引っぱられ、クロードは仕方なくその石の上に乗った。
 それでも、何も起こらなかった。
「やっぱり、部屋はここまでみたいね」
「そのようだな」
 娘はスケッチブックをバッグへしまいこんだ。
「街への乗合馬車が来る時間だから、そろそろ帰るわ。あなたは?」
「俺はまだいる」
「そう。じゃあね。夜は盗掘屋が来ることもあるから、気をつけて」
「ああ。分かった」
 娘が階段を上がり、足音が遠のいていく。
 一人残ったクロードは、再び壁に刻まれた文字へ目を向けた。
 手帳の写しと重なる形もある。だが、それはあまりにまばらで、並びにも規則が見えない。
そもそも、これは本当に文字なのか。それとも、ただの記号なのか。
 壁を見て回るうちに、遺跡の中は少しずつ暗くなっていった。
手元の文字も、次第に見えづらくなる。
階段から下りてくる空気も、ひやりと冷たかった。
 かなり長い時間が経ったようだ。
 クロードはリュックから小さなランタンを取り出し、底のつまみを回した。
 中に組まれた術式が淡く光り、その上の透明な石がオレンジ色の灯をともす。
 薄暗かった部屋の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がった。
 壁にもたれて腰を下ろし、街で買った携帯食をかじった。
 ふと、娘が気にしていた、部屋の隅の石へ目を向ける。
 よく見ると、表面は崩れかけていたが、わずかにへこんだ形が残っていた。
 クロードは何気なく、その石のへこみの上に手を当ててみた。
 ごぅん、と重い音がして、足元が揺れる。
「なにっ」
 石がせり上がり、クロードの腰ほどの高さにまで持ち上がった。
それと同時に、横の壁の一部がずれ、奥の部屋へ続く入口が現れた。
「…………」
 クロードはランタンで奥の部屋を照らした。
 階段下の部屋よりひと回り広く、奥には祭壇めいたものが見える。
 しばらく様子をうかがってから、慎重に足を踏み入れた。
 部屋の床は、手前の部屋よりも風化が少なく、なめらかだった。
 一歩、また一歩と進んだところで、クロードは足を止める。
 そこだけ、色の違う石が敷かれていた。
 仕掛けかもしれない。
 クロードはその石を避けて進んだ。
 しかし、祭壇の手前から奥は、すべて色の違う石が敷き詰められていた。
 まるで、そこから先だけ別の道になっているようだった。
 クロードは足を止める。
 警戒しながら周囲を見たが、祭壇へ行くにはその石の上を進むしかない。
 わずかに息を詰め、色の違う石へ足を乗せた。
 足元から低い震えが伝わる。
 続いて、石の両脇に刻まれていた神世言が青白く光った。
それは床を走り、壁を駆け上がり、天井へ届く。
無数の文字が一息に連なり、クロードを囲む門のように立ち上がった。
「……っ」
 クロードはその場に立ち尽くした。
 光る文字が、自分を閉じ込めるでもなく、押し返すでもなく、ただ静かに囲んでいる。
 服の下で、胸の神道痕がじわりと熱を持った。
 クロードは眉をひそめる。
 この光は、自分に反応したのか。
 青白い門は音もなく揺らめき、その向こうにある祭壇を静かに照らしていた。
 石の祭壇は、人間がひとり横たわれるだけの広さを持っていた。
豪奢な飾りはどこにもない。
 祈りのためというより、何かを置くため、あるいは寝かせるためだけに造られたような、簡素な台だった。
 クロードはその奥の壁へ視線を上げる。
 神世言で円が描かれている。
 幾重にも連なる文字の輪は、ひとところだけ欠けていた。
 ちょうど、手のひらほどの大きさだ。
 ふと、街の雑貨屋で買った石を思い出す。
 クロードはリュックから石を取り出した。
 灯りの下で向きを変え、壁の欠けた部分と見比べる。
 ぴたりと合致した。
 クロードはしばらくそれを見つめ、それから静かに、欠けた場所へとはめ込んだ。
 次の瞬間だった。
 壁に描かれた神世言で作られた円が、音もなく淡い光を帯びた。
 それはただ光るのではない。
 眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ましていくようだった。
 ひとつひとつの文字が青白く脈打ち、輪をなす神世言が、静かに、わずかずつ位置を変えていく。
 円が回っているのか。
 文字そのものが流れているのか。
 クロードの目には、もう判然としなかった。
 やがて、空白だった円の中心に、細い光の筋が浮かび上がる。
 ひと筆、またひと筆と、見えない指先でなぞられるように、それは空中へ術式を描き出していった。
 青白い線は絡み合い、重なり合い、複雑な紋様となって宙に咲く。
 花のようでもあり、凍りついた焔のようでもある。それは、どこか生き物めいた気配があり、クロードを圧倒した。
 息を呑み、わずかに後ずさる。
 その時、服の下で胸が熱くなった。
「……っ」
神道痕だ。
 服越しにも分かるほど、胸の奥がじわじわと灼けるように熱い。
 鼓動に合わせるように、神道痕が脈を打つ。
 まるで壁の術式に呼び起こされたように、胸の内で眠っていた何かが応えはじめていた。
 熱は次第に強くなる。
 皮膚の上だけではない。
 胸の奥、骨の内側まで火が入り込んでくるようだった。
 クロードは顔をしかめ、一歩退こうとした。
 だが、足がうまく動かない。
 青白い術式が揺らめく。
 それに呼応するように、服の下で神道痕もまた明滅した。
 熱い。
 息がうまく吸えない。
 クロードはたまらず壁へ手をついた。
 触れた瞬間━━術式の光が、ぴたりと脈を揃えた。
 どくん、と胸の奥で大きく何かが打つ。
 壁に浮かぶ術式が脈打つ。
 胸の神道痕が脈打つ。
 どちらが先かも分からない。
 まるで離れた場所にある同じものが、互いを見つけて呼び合っているようだった。
 青白い光が壁から走る。
 指先から腕へ、肩へ、胸へ━━いや、そうではない。
 もとからそこにあった見えない道を、光がなぞっているのだと、なぜか分かった。
「……ぁ……」
 声にならない息が漏れる。
 視界の端で、神世言がほどけるように流れた。
 文字のはずなのに、雪のようでもあり、羽虫の群れのようでもあり、あるいは夜の水面に砕ける月光のようにも見える。
 術式はなおも中心で咲き続けている。
 その奥から、何かが来る。
 音ではない。
 言葉でもない。
 けれど意味だけが、光の濁流となって頭の奥へ流れ込んでくる気配がした。
 クロードは耐えきれず、膝をついた。
 胸が焼ける。
 頭の芯が軋む。
 目の前の光景が、ひどく遠く、ひどく近い。
 壁に触れた手から力が抜けていく。
 糸が切れたように、唐突に。
 クロードの意識は、青白い光の底へ沈んだ。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
 遠くに、懐かしい後ろ姿があった。
 黒とも紫ともつかない、光沢のあるベール。
それが長い栗色の髪とともに、風に揺れている。
 幼い頃から、いつも一緒だった。
 山を駆け、森で遊び、同じ里で育った。
「ローザ……」
 呼び声に気づいたように、懐かしいその背がゆっくりと振り返った。
 けれど、逆光の中にある顔は見えない。
 ただ、陽の光の中で髪とベールだけが揺れていた。
「クロード……」
 たしかに呼ばれたはずなのに、その声は風の中にほどけてしまう。
 近くで囁かれたようでもあり、ひどく遠くから響いたようでもあった。
「……おいで……ローザ」
 クロードは両手を広げる。
 彼女が笑った気がした。
 その刹那、光が差した。
 薄い衣のように、祝福のように、あるいは攫うための手のように━━静かに彼女を包み込んでいく。
「やめろ!! 連れて行くな!!」
 クロードは走り出した。
 だが、足は前へ出るのに、景色だけが遠ざかる。
 どれだけ手を伸ばしても、光の中の彼女には届かない。
「ローザ……!! ロザリア……!!」
「クロード……ごめんね……」
「いやだ!! ロザリア!!」
 光は彼女の姿を溶かし、のみこみ、やがて大きな人の形を結んだ。
「……っ」
 ”それ”が顔を上げた時、クロードはたしかに見られたと感じた。
 全身の皮膚が粟立つ。
「……神……なのか……?」
 その時、低く重い鐘の音が響いた。
 どこから鳴ったのか分からない。
 ただ、その音は光の満ちた世界そのものを震わせた。
 次の瞬間、その姿は空へ散る霧のようにほどけていく。
白い光だけが残り、世界の輪郭を塗り潰した。
 クロードの視界は、ただ光に覆われた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
「ちょっと!! ちょっと大丈夫!?」
 肩を揺さぶられ、クロードは重い瞼を開けた。
 白く霞んでいた視界が、少しずつ形を取り戻していく。
 目の前にいたのは、昨日この遺跡で出会った娘だった。
「……ここ……は」
「呆れた。もしかして寝てただけ?」
 クロードはゆっくりと辺りを見回した。
 階段下の小部屋が、薄暗いままそこにある。
「誰かに襲われて倒れてるのかと思ったじゃない」
 頭を振りながら、クロードは身を起こした。
「……っつ」
 途端に身体のあちこちが痛み、思わず顔をしかめる。
 それを見た娘は、呆れたように腰へ手を当てた。
「こんな石の遺跡なんかで寝てるからよ」
「……そうだな」
「もしかして、いつもうつ伏せで寝てるの?」
「ああ。癖でな」
「ふふ、子供みたい」
 娘はそう言って、ハンカチを差し出した。
「顔に砂ついてるよ」
「……すまん」
 クロードは顔を拭い、付いた砂を軽く払ってからハンカチを返した。
「ありがと」
 娘はそれを受け取ると、さっさとスケッチブックを取り出し、壁の神代文字を写し始めた。
 朝の光が階段の上から細く差し込み、昨日と変わらぬ小部屋の壁を照らしている。
 クロードは黙って立ち上がり、壁際へ目をやった。
 奥の間へ続いていたはずの入口はない。
 祭壇も、円を描く神世言も、青白い光も━━何ひとつ残っていなかった。
 夢だったのか、と一瞬思う。
 だが、部屋の隅を見た時、クロードは足を止めた。
 そこにあったはずの、敷き方の違う石が消えている。
 娘は気づかない。
 何事もなかったように頁をめくり、鉛筆を走らせていた。
 クロードはしばらく、その床を見つめた。
 神道ではないのかもしれない。
 もっと古い、神の時代の名残。
 かつて神自身が渡ってきた道━━そんなものが、この遺跡の奥に眠っていたのかもしれない。
 ━━古道。
 胸の奥で、その言葉だけが静かに沈んだ。
「どうしたの?」
「……いや」
 クロードは短く答え、服の下に残るわずかな熱を意識しながら、もう一度だけ小部屋を見回した。
 そこにはただ、崩れかけた遺跡の一室があるだけだった。
 それでも、確かに何かはあった。
 娘の鉛筆が紙を擦る音だけが、静かな小部屋に響いていた。
━ 終 ━