第2話『奈落の底には、光がいた』
ー/ー 石炭には、等級がある。
深層で稀に採れる『黒ダイヤ』は、一欠片で成人男性が一年食える。
■ 取引
事故から三日後の深夜。炭鉱の外れ、廃棄されたズリ捨て場の陰で、コールは男と向き合っていた。
ドレッグス。名前も素性も知らない。ただ、口が堅く、金払いが良く、余計なことを訊かない——コールが知っているのはそれだけだ。
男はランプも持たず、闇の中で石炭の欠片を指でつまみ、舌の上に乗せた。
「……ほう」
低い声が漏れた。
「こいつは本物の黒ダイヤだ。どこで掘った」
「知らなくていいだろ」
「まあな」
男は懐から革袋を取り出し、コールに放った。
「等級Aだ。言い値で買ってやる」
コールは袋の重みを確かめた。悪くない。
だが、足りない。地上への切符を買うには、まだ遠い。
「もし、だが。等級Sが手に入ったなら、話は変わる」
ドレッグスは欠片をもう一度眺め、静かに言った。
「桁が、変わる」
それだけ言って、男は闇に溶けるように消えた。
「……考えておく」
誰もいない暗がりに向かって、コールは呟いた。
宿舎への帰り道、ふと気づいた。
三日前に亀裂に近づいてから、耳の奥で低い音が鳴り続けている。
煤煙病の症状とは違う。痛みじゃない。まるで、遠い場所から誰かが——
コールは頭を振った。
考えすぎだ。
疲れているだけだ。
■ 異常域
翌日の深夜。コールは再び第42採掘区の奥へ向かっていた。
言い訳は簡単だ。あの亀裂の近くには、黒ダイヤが眠っている。計器が狂うほどの濃いマナの反応——それはつまり、深層級の石炭が近いということだ。
そう、自分に言い聞かせた。
亀裂の前に立つ。三日前と変わらず、暗闇が口を開けている。
コールはランプを掲げ、一歩踏み込んだ。
すぐに、おかしいと気づいた。
ランプの炎が、揺れる方向がおかしい。風は奥から吹いているはずなのに、炎は奥へ向かってなびいている。コールの影が、光源とは逆の方向に伸びていた。
「……なんだ」
思わず足が止まる。
ハチの計器が鳴き始めた。マナ濃度のゲージが振り切れ、方位磁針がくるくると意味もなく回転している。
(……深層ダイヤが近い)
震える手で、コールはそう結論づけた。
他の可能性は、考えないことにした。
進む。
五歩。十歩。二十歩。
坑道の天井が次第に高くなっていく。浅層の採掘区画とは明らかに異なる、手付かずの岩盤が続く。壁面に走る石炭の筋が、深へ行くほど太く、光沢を増していく。
三十歩目で、音が消えた。
正確には——音の届き方が変わった。自分の足音が、一拍遅れて耳に届く。ハチの関節が軋む音が、まるで水の中にいるように低く、遅く聞こえる。
コールの呼吸が浅くなる。
(ここは、おかしい)
当然だ。地図上では、ここはまだ浅層のはず。採掘三年目の新人でも潜れる、安全区画のはずだ。
なのに。
周囲の岩盤が放つマナの密度は、コールが一度だけ覗いたことのある「中層区画」をとうに超えている。まるで地層を無視して、世界樹の「核」に直接繋がっているかのような——
ランプの炎が、消えた。
「……っ」
完全な暗闇。
コールは息を飲んだ。逃げろ、という本能が叫ぶ。だが足が動かない。
暗闇の中で、ハチが熱を持ち始めた。
油圧ではない。電気でもない。コールが今まで感じたことのない種類の「熱」が、装甲の内側からじわじわと伝わってくる。
そして——
■ 光
見えた。
奥の岩盤に、溶け込むように、それはいた。
最初は石炭の塊だと思った。
黒い。光を吸い込むように、黒い。
だが石炭は呼吸しない。
それは、呼吸していた。
微かに、しかし確かに。胸に当たる部分が、ゆっくりと上下している。人間の形をしている。小柄な、子供のような輪郭。黒曜石のような肌が、暗闇の中でかすかな光を帯びている。
コールは息を忘れた。
ハチが、震えていた。
入ってきた時からずっと、装甲が細かく震え続けていた。まるで嵐の前の獣のように。
それが。
コールの指先が黒曜石の肌に触れた瞬間——
凪いだ。
完全に、静まり返った。震えも、熱も、誤作動の音も、何もかもが消えた。
まるで、ずっと探していた何かを、ようやく見つけたように。
(なんだ、これは……)
一歩、近づく。
また一歩。
足元の石炭が、踏みしめるたびに光の粒を散らす。まるで星を踏んでいるようだった。
手を伸ばす。
黒曜石の肌に、指先が触れた——その瞬間。
肺が、痛くなかった。
それだけで、コールは動けなくなった。
物心ついた時から、肺の奥にはいつも「熾火」があった。
息を吸うたびに焼ける感覚。
深く吸えば吸うほど、石炭の粉塵が傷口に染みる感覚。
それが当たり前で、それが普通で、それ以外の呼吸を、コールは知らなかった。
それが、ない。
胸いっぱいに空気を吸っても——痛くない。
熾火が、消えている。
(なんだ……これ)
目が、開いた。
暗闇の中に、二つの光点。
星の色をした、瞳。
コールを見ていた。
いや——コールを、「観測」していた。感情も、驚きも、恐怖も、何もない。ただ、そこに存在するものを確認するような、数億年の静けさを持った眼差し。
コールは後ずさりしようとして——できなかった。
ハチが、動かなかったからじゃない。
その瞳から、目が離せなかったからだ。
暗闇の底で、光がコールを見ていた。
それは石炭じゃない。
それは機械じゃない。
それは——
コールの口が、無意識に動いた。
「……お前、生きてるのか」
返事はなかった。
ただ、その星の色をした瞳が、瞬きを一つした。
それだけだった。
それだけで、コールの胸の奥が——あの「生命の匂い」を嗅いだ時と同じように、締め付けられるように、熱くなった。
少年はまだ知らない。
目の前の「光」が何者なのかを。
数億年という時間の重さを。
この出会いが、自分の「地上への逃走」という夢を、根底から塗り替えていくことを。
ただ。
この暗闇の底で初めて出会った「光」を——
手放したくない、と思った。
それだけは、確かだった。
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