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最終話 残された名

ー/ー



朝は、静かに来た。

白い家のような、耳の痛くなる静けさではない。

誰かが起きて、水を汲み、火を起こし、眠そうに咳払いをして、それでもまだ寝ていたい者が毛布の中でもぞもぞ動くような、そういう静けさだ。

セシアは目を開けたあともしばらく動かなかった。

古い家の天井は低く、ところどころ板が浮いている。壁は乾いていて、町の隠れ家よりも風の通りがよかった。窓は小さいが、朝の光はちゃんと入る。昨夜は暗すぎて分からなかったが、ここは思っていたよりずっと“家”の形をしていた。

土間の方から、小さく音がする。

起き上がって様子を見ると、ミナが桶を抱えて井戸へ行こうとしているところだった。まだ眠そうな顔をしているのに、足取りだけは妙に慎重だ。物音を立てないようにしているのが分かる。

「……おはようございます」

セシアが声をかけると、ミナはびくりと肩を揺らした。
けれど次の瞬間、ほっとしたように小さく息を吐く。

「……おはよう」

その返事に、セシアも少しだけ息を抜いた。

名前を呼ばれ、声が返ってくる。
たったそれだけのことが、まだ胸の奥で静かに響く。

「井戸、危なくないですか」

「近いから……だいじょうぶ」

水をくむ


ミナはそう言って桶を持ち直す。
白い家の下にいた頃より、声はまだ細い。

「一緒に行きます」

セシアが立ち上がると、ミナは少し迷ったあと、素直に頷いた。

外へ出ると、朝の空気はひんやりしていた。
家の裏手には小さな井戸があり、その向こうに荒れた畑が広がっている。
雑草は多いが、完全に死んだ土地には見えなかった。

手を入れれば、何か育つかもしれない。そう思えるくらいには、ここは終わっていない場所だった。

ミナが桶を下ろし、滑車へ手をかける。
まだ力が足りないらしく、途中で腕が止まった。セシアがそっと手を添える。

水桶が井戸へ落ちる音。
冷たい水が満ちる音。
それだけで、どうしようもなく普通の朝に思えた。

「……寒くないですか」

ミナが唐突に聞いた。

セシアは少し驚いてから首を振る。

「大丈夫です」

「そう」

それきり、ミナはまた桶を見た。

白い家でも、こんなふうに朝のことを話したことはなかったのだろう。何を話していいのか、まだ分からない感じがした。

水を汲んで家へ戻ると、土間ではリゼが火を起こしていた。
起きたばかりに見えるのに、動きに迷いがない。枯れ枝を組み、鍋を置き、水を移す。その横でルイが薪を抱えて立っている。昨日より少しだけ顔色がよくなっていた。

「置くとこ、そこ?」

リゼが言う。

ルイは無言で頷き、薪を火の近くへ並べた。
少しばらついていたので、エナが背後から手を伸ばして揃え直す。

「それだと崩れる」

「……ごめん」

「いいよ」

短いやりとりだった。
でも、そこにあったのは白い家の下の静けさではない。言葉が少なくても、ちゃんと人の会話だった。

トマは一番最後に起きてきた。

昨夜ミナが言っていた通り、朝は苦手らしい。髪が寝癖のまま、寝台の端へ座ってしばらく動かない。目もまだ半分閉じているようで、ぼんやりと土間の火を見つめていた。


リゼと子供


「トマ」

セシアが呼ぶ。

少し間があいてから、トマが顔を上げる。

「……はい」

その返事に、ルイがほんの少しだけ笑った。
エナも気づいたらしいが、何も言わずに鍋の方を見る。ミナだけが、毛布を畳む手を止めて一瞬だけトマを見た。

名前で呼ばれたら返事をする。

それが今は、ちゃんとここにある。

鍋の中身は薄いスープだった。
具も少ない。塩気も弱い。
それでも全員で囲んで食べると、それだけで昨日までとは違う味がした。

リゼが先に口を開く。

「ここ、しばらくは使えると思う」

誰もすぐには返事をしなかった。
しばらくという言い方が、逆に現実的だったからだ。

「町からは外れてるし、北の連中がすぐにここまで来る可能性は低い。水もある。畑は死んでるけど、掘り返せば何か植えられる」

ミナが小さく聞く。

「……住むの」

リゼは肩をすくめる。

「今のとこはね」

その言い方に、エナが少しだけ目を伏せた。

今のところに怯えているのかもしれない。

セシアはそれを見て、静かに言った。

「今のところ、でもいいです」

四人が顔を上げる。

「昨日まで、ここに朝が来るなんて思っていなかったので」

それだけで十分だった。

派手な約束はできない。
もう大丈夫だと、簡単に言い切ることもできない。
それでも、今ここにいることは本当だ。

スープを飲み終えたあと、リゼは古い家の中をひと通り見て回った。
壊れた棚を直し、土間の隅を片づけ、裏口の戸の軋みを確かめる。

ルイは後ろをついて歩き、言われた通りに薪や箱を運ぶ。
エナは布を洗って干す場所を探し、
ミナは井戸の周りの草を抜きはじめる。
トマはまだ本調子ではないのか、土間の端に座ってその様子を見ていた。

セシアは祈祷書を開いた。

頁の中に並ぶ名前を見る。

ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。

その下に、まだ少し余白がある。
本舎の中で落ちてきた声を思えば、その余白は決して小さくない。
ここへ書けなかった名が、まだどこかに残っている。

世界の底にある白い流れは、たぶん今も続いている。

白い家はなくなっていない。
北舎も、本舎も、まだどこかで白いまま立っている。
自分ひとりであの仕組みを変えられなかったことは、もう分かっている。

悔しさがないわけではない。

むしろ、その悔しさはこれからも消えないのだろう。

でも、それとは別に、ここにあるものも確かだった。

土間の方から、ルイの声がした。

「リゼ、これ、どこ置く」

「そこじゃ濡れる。窓のない方」

「……こっち?」

「そう」

続いて、エナの声。

「ミナ、水、重いなら半分でいい」

「……できる」

「できても、今日は半分」

少しして、トマが小さく言う。

「……おなかすいた」

その一言に、ミナが思わず振り向き、ルイが声を殺して笑い、エナが「さっき食べた」と返した。

リゼだけが鍋を見て、「残りあるよ」と淡々と言う。

セシアはそのやりとりを聞きながら、祈祷書の頁へもう一度目を落とした。

名前がある。
呼ばれれば返事がある。
それは本来、こんなに特別なことじゃないはずなのに。

昼が少し過ぎたころ、ミナが外から戻ってきて、土のついた手のまま言った。

「……畑、まだやわらかいとこある」

リゼが顔を上げる。

「ほんとに?」

「うん」

「じゃあ春になったら何か植えようか」

その何気ない言葉に、エナが小さく息を呑んだ。
ルイは外を見る。
トマはまだ眠そうなまま、でも確かに耳を傾けていた。

春。

その季節までここにいる前提の言葉だった。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。

セシアは祈祷書を閉じた。

ここは、まだ何も確かな場所ではない。
いつかまた追手が来るかもしれない。

白い流れは、この小さな家の外で今も続いている。

でも少なくともここには、番号で呼ばれる者はいない。

夕方、火を落とす前に、セシアは四人の名を呼んだ。

「ミナ」

「……はい」

「エナ」

「います」

「ルイ」

「うん」

「トマ」

少し間があってから、

「……はい」

小さな返事が返る。

それだけでよかった。

世界の根幹は変えられなかった。

けれど、少なくともここには、白い流れの外へ連れ出した名前が四つある。


エルナの声からすべてが始まった。

彼女のように忘れ去られようとした子たちがいた。

でも、その子たちは名前があり、帰る場所もある。

それは当たり前のようで当たり前じゃない。とてもかけがえのないもの。

この生活がいつまで続くかわからないけど、

いまは。

いまだけは。


最終話


                           ―― END ――


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朝は、静かに来た。
白い家のような、耳の痛くなる静けさではない。
誰かが起きて、水を汲み、火を起こし、眠そうに咳払いをして、それでもまだ寝ていたい者が毛布の中でもぞもぞ動くような、そういう静けさだ。
セシアは目を開けたあともしばらく動かなかった。
古い家の天井は低く、ところどころ板が浮いている。壁は乾いていて、町の隠れ家よりも風の通りがよかった。窓は小さいが、朝の光はちゃんと入る。昨夜は暗すぎて分からなかったが、ここは思っていたよりずっと“家”の形をしていた。
土間の方から、小さく音がする。
起き上がって様子を見ると、ミナが桶を抱えて井戸へ行こうとしているところだった。まだ眠そうな顔をしているのに、足取りだけは妙に慎重だ。物音を立てないようにしているのが分かる。
「……おはようございます」
セシアが声をかけると、ミナはびくりと肩を揺らした。
けれど次の瞬間、ほっとしたように小さく息を吐く。
「……おはよう」
その返事に、セシアも少しだけ息を抜いた。
名前を呼ばれ、声が返ってくる。
たったそれだけのことが、まだ胸の奥で静かに響く。
「井戸、危なくないですか」
「近いから……だいじょうぶ」
ミナはそう言って桶を持ち直す。
白い家の下にいた頃より、声はまだ細い。
「一緒に行きます」
セシアが立ち上がると、ミナは少し迷ったあと、素直に頷いた。
外へ出ると、朝の空気はひんやりしていた。
家の裏手には小さな井戸があり、その向こうに荒れた畑が広がっている。
雑草は多いが、完全に死んだ土地には見えなかった。
手を入れれば、何か育つかもしれない。そう思えるくらいには、ここは終わっていない場所だった。
ミナが桶を下ろし、滑車へ手をかける。
まだ力が足りないらしく、途中で腕が止まった。セシアがそっと手を添える。
水桶が井戸へ落ちる音。
冷たい水が満ちる音。
それだけで、どうしようもなく普通の朝に思えた。
「……寒くないですか」
ミナが唐突に聞いた。
セシアは少し驚いてから首を振る。
「大丈夫です」
「そう」
それきり、ミナはまた桶を見た。
白い家でも、こんなふうに朝のことを話したことはなかったのだろう。何を話していいのか、まだ分からない感じがした。
水を汲んで家へ戻ると、土間ではリゼが火を起こしていた。
起きたばかりに見えるのに、動きに迷いがない。枯れ枝を組み、鍋を置き、水を移す。その横でルイが薪を抱えて立っている。昨日より少しだけ顔色がよくなっていた。
「置くとこ、そこ?」
リゼが言う。
ルイは無言で頷き、薪を火の近くへ並べた。
少しばらついていたので、エナが背後から手を伸ばして揃え直す。
「それだと崩れる」
「……ごめん」
「いいよ」
短いやりとりだった。
でも、そこにあったのは白い家の下の静けさではない。言葉が少なくても、ちゃんと人の会話だった。
トマは一番最後に起きてきた。
昨夜ミナが言っていた通り、朝は苦手らしい。髪が寝癖のまま、寝台の端へ座ってしばらく動かない。目もまだ半分閉じているようで、ぼんやりと土間の火を見つめていた。
「トマ」
セシアが呼ぶ。
少し間があいてから、トマが顔を上げる。
「……はい」
その返事に、ルイがほんの少しだけ笑った。
エナも気づいたらしいが、何も言わずに鍋の方を見る。ミナだけが、毛布を畳む手を止めて一瞬だけトマを見た。
名前で呼ばれたら返事をする。
それが今は、ちゃんとここにある。
鍋の中身は薄いスープだった。
具も少ない。塩気も弱い。
それでも全員で囲んで食べると、それだけで昨日までとは違う味がした。
リゼが先に口を開く。
「ここ、しばらくは使えると思う」
誰もすぐには返事をしなかった。
しばらくという言い方が、逆に現実的だったからだ。
「町からは外れてるし、北の連中がすぐにここまで来る可能性は低い。水もある。畑は死んでるけど、掘り返せば何か植えられる」
ミナが小さく聞く。
「……住むの」
リゼは肩をすくめる。
「今のとこはね」
その言い方に、エナが少しだけ目を伏せた。
今のところに怯えているのかもしれない。
セシアはそれを見て、静かに言った。
「今のところ、でもいいです」
四人が顔を上げる。
「昨日まで、ここに朝が来るなんて思っていなかったので」
それだけで十分だった。
派手な約束はできない。
もう大丈夫だと、簡単に言い切ることもできない。
それでも、今ここにいることは本当だ。
スープを飲み終えたあと、リゼは古い家の中をひと通り見て回った。
壊れた棚を直し、土間の隅を片づけ、裏口の戸の軋みを確かめる。
ルイは後ろをついて歩き、言われた通りに薪や箱を運ぶ。
エナは布を洗って干す場所を探し、
ミナは井戸の周りの草を抜きはじめる。
トマはまだ本調子ではないのか、土間の端に座ってその様子を見ていた。
セシアは祈祷書を開いた。
頁の中に並ぶ名前を見る。
ミナ。
エナ。
ルイ。
トマ。
その下に、まだ少し余白がある。
本舎の中で落ちてきた声を思えば、その余白は決して小さくない。
ここへ書けなかった名が、まだどこかに残っている。
世界の底にある白い流れは、たぶん今も続いている。
白い家はなくなっていない。
北舎も、本舎も、まだどこかで白いまま立っている。
自分ひとりであの仕組みを変えられなかったことは、もう分かっている。
悔しさがないわけではない。
むしろ、その悔しさはこれからも消えないのだろう。
でも、それとは別に、ここにあるものも確かだった。
土間の方から、ルイの声がした。
「リゼ、これ、どこ置く」
「そこじゃ濡れる。窓のない方」
「……こっち?」
「そう」
続いて、エナの声。
「ミナ、水、重いなら半分でいい」
「……できる」
「できても、今日は半分」
少しして、トマが小さく言う。
「……おなかすいた」
その一言に、ミナが思わず振り向き、ルイが声を殺して笑い、エナが「さっき食べた」と返した。
リゼだけが鍋を見て、「残りあるよ」と淡々と言う。
セシアはそのやりとりを聞きながら、祈祷書の頁へもう一度目を落とした。
名前がある。
呼ばれれば返事がある。
それは本来、こんなに特別なことじゃないはずなのに。
昼が少し過ぎたころ、ミナが外から戻ってきて、土のついた手のまま言った。
「……畑、まだやわらかいとこある」
リゼが顔を上げる。
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ春になったら何か植えようか」
その何気ない言葉に、エナが小さく息を呑んだ。
ルイは外を見る。
トマはまだ眠そうなまま、でも確かに耳を傾けていた。
春。
その季節までここにいる前提の言葉だった。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
セシアは祈祷書を閉じた。
ここは、まだ何も確かな場所ではない。
いつかまた追手が来るかもしれない。
白い流れは、この小さな家の外で今も続いている。
でも少なくともここには、番号で呼ばれる者はいない。
夕方、火を落とす前に、セシアは四人の名を呼んだ。
「ミナ」
「……はい」
「エナ」
「います」
「ルイ」
「うん」
「トマ」
少し間があってから、
「……はい」
小さな返事が返る。
それだけでよかった。
世界の根幹は変えられなかった。
けれど、少なくともここには、白い流れの外へ連れ出した名前が四つある。
エルナの声からすべてが始まった。
彼女のように忘れ去られようとした子たちがいた。
でも、その子たちは名前があり、帰る場所もある。
それは当たり前のようで当たり前じゃない。とてもかけがえのないもの。
この生活がいつまで続くかわからないけど、
いまは。
いまだけは。
                           ―― END ――