「お父さまに訊きたいことがあるの。……いま構わない?」
父の帰宅を待ち構えて、リビングで捉まえた。
「いいよ、なんだい?」
勇気を振り絞って切り出した藍の言葉を、父は笑みを浮かべて承諾してくれる。
「あの、私はお父さまとお母さまの子、よね?」
「何を当たり前のこと……」
当惑しているらしい父に、思い切って続けた。
「戸籍を見たから、それが事実なのは知ってるの。でも、どうしても気になることがあって」
不穏な内容に眉を|顰《ひそ》めた父に、藍は構わず問い掛けてみる。
「お母さまは、私のことどう思ってたの?」
「? どう、って?」
「だからね。……本当は私なんて要らなかったんじゃないか、とか──」
「藍!」
父の鋭い声に、藍は口を噤んだ。
「冗談でもそんなことは言うんじゃない。亡くなった人を侮辱してるんだぞ!? ……お母さまに冷たくされた覚えでもあるのか?」
「ない。……ない、わ。でも、でも──」
父の言葉が頭の中を回り始める。
両親が仲睦まじかったかどうかは、正直記憶になかった。
父は常に忙しく、家にいる時は藍を優先してくれていたからだ。そして、親の気持ちがわかる年頃になる前、藍が小学校を卒業してすぐに、母はこの世を去った。
しかし、仲が悪かった、冷え切っていたという感想もまた、藍の中に存在しないのも事実だ。
父にも母にも、確かに藍は愛されていたのだと思う。その愛情を疑ったことなどなかった。あの夢を見て、記憶の扉が開くまで。
己を取り巻くすべてに対する自信が、大きく揺らぐまで。
「……『母ちゃん』って。私が小さい頃、そう呼んでた人が居たのを思い出したの。絶対にお母さまじゃないわ。何故、他の人をそんな風に……」
限界まで黙っていたことをやむなく言葉にした藍に、父がはっとしたように口を開いた。
「それは|楓《かえで》さんじゃないか?」
「楓、さん?」
何を言われているのかさえ理解できずに首を傾げた藍に、父が丁寧に説明してくれる。
「お手伝いさん、というかベビーシッターさんだよ。|桂子《けいこ》さんだけじゃ、赤ちゃんの世話まで行き届かないだろうから頼んだんだ」
桂子は家政婦の名だ。藍が生まれる前、どころか父母の結婚の遥か前からこの家に長く勤めてくれている。
藍にとっては、謂わば『ばあや』的な存在だった。
「保母さんの免状を持っていて人柄もいいからって紹介してもらってね。当時三十代半ばで、独身でお子さんもいなくて住み込みできるってことだったから。藍が生まれてから三年くらい居てもらったかな」
「ベビーシッター……」
まったく想定外の単語に|鸚鵡《おうむ》返しした藍だが、父は話しながら徐々に思い出して来たらしい。
「そうそう。『かえでちゃん』じゃ言いにくいから『かえちゃん』だよ、って彼女は藍に接してくれてたな。けど、藍はまだ舌が回らなくて『かーちゃん』って呼んでたよ」
「……かーちゃん」
かえでちゃん。かえちゃん。……まったく覚えていない。ただ一つわかったのは『母ちゃん』ではなかった、ということだけ。
「とりあえず部屋に戻っていなさい。あとで行くから」
未だ混乱の真っ只中に居る藍に、父が静かに言い渡した。
「藍。本当は結婚式の前に渡そうと思っていたんだけど」
部屋を訪ねてきた父が、そっと差し出したのは、……背の厚みが三~四センチはある、古びた頑丈そうなファイル。
「お父さま、これ何?」
見当もつかないままに尋ねた藍に、父の返答は想定外もいいところだった。
「育児日記、って言うのかな。お母さまが、藍が生まれた時から何やら細々書いてたのを纏めたものだ」
遠くを見るような父の目。藍が幼かったころに思いを馳せているのだろうか。あるいは、母との時間に?
「藍が小学生の頃、写真も沢山貼り付けて作っていたんだよ。結婚するときに渡すんだって言ってた。……何をそんな十年以上先の話、って笑って見てたけど。いま思えば早く用意していてよかった、んだな」
「お母さま、が……?」
母がそんな手作業をするところを、藍はまったく思い描くことができない。ましてや『育児日記』など。
藍が言えることではないが、生まれながらのお嬢さまで何でも周りがしてくれるのが当然で生きてきた筈の、母が。
何か言いたげな藍を見てか、父が言葉を付け足す。
「実際の藍の世話は楓さんもしてくれてたけど、昔の乳母みたいに何もかも任せきりじゃなかったからね。実は最初の方を少し|捲《めく》ってみただけで、全部詳しくは見られてないんだ。……なかなか辛くて、というのは言い訳だな」
思考停止状態で受け取って、何気なく開いた最初のページには写真が貼られていた。
ただ、藍ではなく若い頃の両親が笑顔で並んだ写真なのはどうしてなのか。
不思議に思いながらも、藍は写真の下の母の文字を目で追う。
『二人家族の最後の写真。お母さまのお腹の中に藍ちゃんがいます』
ごく短い文章が、あっという間に滲んで読めなくなった。
溢れた涙が、瞳の淵から零れ落ちる。
そして気づいた。
お洒落だった母らしくない野暮ったい服装は、単に時代だけではなくマタニティウェアだからだろうか。少なくとも写真で見る限り、特に体形が変わっているようには感じないのだが。
「藍、これが証拠──本当は証拠なんて必要ないと思っているけど。お母さまは藍を心から愛していたよ。まだ十二の君を置いて行くことを、最期まで気に掛けていた」
父の優しい声に、藍は言葉も発せないまま何度も何度も頷いた。
政略結婚が事実だったとしても、それが母の不幸に即繋がるわけではないのだ。
藍と貴幸も、傍からは政略結婚にしか見えないかもしれないが、二人の真意は別にある。
周りに強制され流されただけだとは限らない。自分たちのように。
──何故、その程度のことに思い至らなかったのだろう。
藍を、我が子の誕生を望んでいなかった女性が、妊娠中に愛してもいない夫の横で、あれほど穏やかな優しい表情を浮かべるとは思えない。
きっと母は幸せだった。万が一、結婚の切っ掛けが不幸だったとしても、結果的には幸せだったと信じていよう。
早く貴幸に会いたい。母の話を聞いて欲しい。大切な、伴侶となる人に。
この『日記』に込められた想いを受け取って、藍もまた幸せになる。彼女の遺志を継ぐように。
~END~