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願わくば私の言葉が、『あいつ』の足枷になりますように

ー/ー



 大嫌いな『あいつ』がこの春、転勤になることが決まった。

 『あいつ』とは三年間、同じ部署で働いていた。

 私より五つ歳上の『あいつ』は、仕事が出来る・先輩後輩問わず人望がある・温厚で人当たりがいい、といういわゆる「デキる奴」の要素をこれでもかと詰め込んだような人間だ。

 今回の転勤も恐らくは栄転なのだろう。

 新卒入社の私もご多分に漏れず『あいつ』に憧れたりなんかしていた。今思えば忌々しい記憶だけど。

 けれど、容姿も性格も人並み以上でも以下でもない、特筆すべきことが何一つない平凡な私なんかが『あいつ』とお近づきになれるわけもなく、ただただ遠くから眺めているだけの日々だった。

 そんなある日、私に転機が訪れる。

 凡人らしくいつものように社食の片隅で一人昼食をとっていると、『あいつ』が私の隣に腰掛けた。

 そしてあろうことか凡人の私に声を掛けてきたのだ。

「ねぇ、岩崎くるみさん……だよね?」
「へぁっ!?」

 あまりに突然すぎておかしな声が出た。しかし『あいつ』は得意の穏やかな笑顔で私に微笑みかけると、こう言ってのけた。

「俺、ずっと岩崎さんと話してみたかったんだよね。ほら、君っていつもコツコツ真面目に仕事頑張ってるじゃん。君の仕事ぶりに助けられることも多いからさ、すごく感謝してて。いつもありがとうね」
「へぁ……」
「……でさ、どんな子なんだろうって気になってたんだ。いきなり話し掛けてごめんね」

 その瞬間、恋に落ちた。

 それはもうあっさりと落ちた。

 鼓動は早くなり、頬が赤らんでいくのを感じる。

 これまではただの憧れの人だった『あいつ』が、急に王子様みたいに輝き出して見えた。



 ――恋に落ちてからの私は、生活が一変する。

 全ての背景に薔薇が咲き乱れて見えるくらいに、人生が薔薇色だった。

 今まで買ったことのない高級スキンケアやコスメを買い漁り、雑誌で流行りのメイクを勉強する。

 髪型や服装も『あいつ』好みの清楚系ファッションに変えた。

 そんな私を見て、『あいつ』はたびたび声を掛けてくるようになる。

「岩崎さん、何か変わった? 最近かわいいね」

「ねぇねぇ岩崎さん、今度の金曜って暇? よかったら仕事終わりに飲み行かない?」

 そこから私たちは不自然なくらいにトントン拍子で付き合うことになった。

 よくよく考えれば平々凡々な私がちょっとお洒落をするようになったくらいで、部署のエースの先輩と付き合えるわけがなかったのだ。

 もっと早くにその事実に気付いていればよかったのだと思う。

 しかし、後悔先に立たず。

 付き合い始めてからの私は、それまで以上に『あいつ』にのめり込んでしまう。

 『あいつ』からの連絡を気にしてスマホが手放せなくなり、連絡のないときは何をしているのかと不安になった。

 社内で『あいつ』が他の女性と話していると、嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。

 私は徐々に精神のバランスがおかしくなっていくのを感じていた。

 それでも週に一回は必ずデートをしてくれるし、会っているときの『あいつ』はとても優しくて大事にされているのだと信じ込んでいた。

 しかし、この恋の盲信も長くは続かなかった。



 『あいつ』と食事をしたあとにホテルへ泊まった、ある金曜の夜。

 『あいつ』がシャワーを浴びているあいだ、『あいつ』のスマホが鳴った。

 何気なく画面に目を移すと、メッセージアプリの通知が視界に入った。

 そこには『土曜』という宛名から来たメッセージが表示されていた。

『お疲れ〜! ねぇねぇ、明日のデートどこに行く? 私、ずっと気になってたカフェが』

 メッセージは途中までしか表示されていなかったが、私にはそれがどういう意味なのかすぐにわかった。

 嫌な予感で心臓が押し潰されそうになる。冷や汗がじっとりと背中を濡らしていく。

 ――この人、浮気をしている。

 そんな確信にも似た予感に、私は証拠を集めようと『あいつ』のスマホに手を伸ばした。

 ロックの暗証番号は、『あいつ』の誕生日。浮気をしているくせに、なんて安直で愚かなんだろう。

 ロックを解除し、すぐさまメッセージアプリの通知欄をタップする。

 『土曜』からのメッセージを開くと、そこには見るに耐えない甘いメッセージのやり取りが繰り広げられていた。

 吐き気をもよおしながらも、自身のスマホでそのメッセージたちの写真を撮る。

 ――ここで一つの疑問が浮かんだ。

 どうしてこの女の名前は『土曜』なのだろう?

 どうやら二人は明日デートをするみたいだけど……明日は土曜。

 ……そういえば、私がいつも『あいつ』とデートをするのは必ず金曜。

 土日に会おうと言っても、それらしい言い訳をされてデートしてくれたことは一度もなかった。

 まさか。嘘でしょ。

 震える指で、画面をスワイプする。

 表示されたメッセージの一覧の中に『金曜』の宛先を見つける。

 呼吸が浅くなる。目眩がしそうだ。見たくない、そう思ったがもう後戻りはできない。

 『金曜』をタップすると、そこには私とのこれまでのやり取りが並んでいた。

 鈍器で殴られたような衝撃が胸に走る。頭が真っ白になり、何も考えられない。

 涙で滲む画面を再びスワイプし、メッセージ一覧に戻る。

 一覧には月曜から日曜まで、全ての曜日の宛先が並んでいた。

 月曜をタップする。

『次の月曜さ、うちで飲もうよ! 観たい映画がやっと配信されてさ〜。あ、そのままお泊りしてっても平気だよ!』

 火曜をタップする。

『先週行ったホテル、また行きたいなぁ。テーマパークみたいですごい楽しかったし、あの日のエッチすごく燃えた♡』

 水曜をタップする。

『ねぇねぇ、今何してるのぉ? 声聞きたいなぁ……』

 木曜を……。

「くるみちゃん?」

 不意に背後から掛けられた声に、私は全身で跳ね上がる。

 そっと後ろを振り返ると、不気味なくらい穏やかに微笑む『あいつ』が立っていた。

「どうかした?」

 私の手に握られたスマホを見ても、顔色一つ変えずに歩み寄ってくる。

 私はメッセージアプリの画面を見せながら、これはどういうことかと詰問した。

 しかし『あいつ』は悪びれる様子もなく、にこやかに説明し始めた。

「あぁ、それね。どの子と何曜に会うかわからなくなるから、宛名で管理してるんだ。え? 浮気してるんだろって? まぁそう言うと聞こえは悪いけどさ……俺のこと好きだって言ってくれる子は全員幸せにしたいじゃん。でもダブルブッキングしたら失礼だから、こうやって曜日ごとに管理してるんだよ」

 突っ込みどころしかないその言い訳に、私は脱力した。

「でもさ、俺きちんとくるみちゃんのこと大事にしてるでしょ? 毎週欠かさず会って、好きなもの食べさせてあげて、こうして気持ちよくしてあげてるじゃん」

 そう言いながら『あいつ』は私の乳房に手を伸ばしてきた。

 その瞬間、とてつもない嫌悪感が全身を駆け巡り、気付けば『あいつ』を突き飛ばしていた。

「いったぁ……。どうしたの、くるみちゃん。俺に彼女が何人いようと、くるみちゃんは大切な彼女の一人だよ。信じてよ」

 私に言い聞かせるように語りかけてくるその姿に、恐怖心すら湧いてくる。

 こいつ、自分で何言ってるかわかってんのか?

 到底理解の及ばない『あいつ』の態度と発言で、もう自分たちは終わりなのだと瞬時に判断した。

 私は即座に立ち上がり光の速さで着替えると、鞄をひったくるように掴んでホテルから逃げ帰った。

 その後『あいつ』から何度か連絡が来ていたが、全て無視をした。無視を続けるうちに一週間ほどで連絡もなくなり、私たちの関係はあっけなく解消された。

 それから職場で『あいつ』と言葉を交わすことは一度もなかった。

 けれど、私の心の中には今でもずっとわだかまりが残っている。

 もちろん好きだという感情はとうにない。

 しかし、どうしてあの時もっと言い返してやらなかったのかとか、顔の一つでもぶん殴っておけばよかったとか、そんなことばかりが頭の中で渦巻いていた。

 職場でだって、なんてことないって顔をして振る舞わなければならない。

 私の尊厳や心はこれほどまでに傷付いたというのに、傷付いた顔もできない。

 それなのに『あいつ』はすでに新しい『金曜』の女を見つけて楽しく過ごしているんだろう。

 そう思うと、悔しくて悲しくてたまらなかった。そんな自分自身が無価値のようにも思えて辛かった。

 浮気発覚の場面でハッキリ言えない自分の性格にも嫌気がする。

 本当にどうしようもない奴だ、私は。

 ハァ……と特大のため息をつく。それと同時に同僚の女の子が声を掛けてきた。

「岩崎さん、今いいかな?」

 やばい、ため息ついたの聞かれちゃったかな。

 内心ではドキドキしながらも、冷静を装いコクコクと頷く。

「この色紙書いてほしいんだ。今月いっぱいで異動とか辞めちゃう人たちのやつ。何枚かあるんだけど、全部お願いできるかな」

 三枚の色紙を受け取り、全てに目を通すとやはり『あいつ』への色紙もあった。

 色紙はすでに半分以上埋まっており、『いなくなるの寂しいです』とか『絶対また飲みに行こう』とか、ヤツの人望の厚さが伺い知れる寄せ書きばかりだった。



 ――さて、何を書こうか。

 私も皆と同じように当たり障りのないことを書いておくべき?

 いや、それは心情的にしたくない。

 かと言って、これまでの恨みつらみをこんなところにしたためるわけにもいかないだろう。

 うーん、と首をひねる。そのまま数十秒考え込んだのち、色紙の隅にペンを走らせた。

 無価値でどうしようもない私の、最後の小さな小さな反撃だ。

 転勤先でもきっと『あいつ』は仕事もプライベートもうまくやるんだろう。

 それでも私は、私だけは絶対に『あいつ』の幸せなんて祈ってやらない。

 読まれるかもわからない、こんな一言がもしも『あいつ』の目に留まることがあったら。

 願わくば私の言葉が『あいつ』の新生活の足枷になりますように。




「新天地でのご活躍をお祈りいたしません」


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 大嫌いな『あいつ』がこの春、転勤になることが決まった。
 『あいつ』とは三年間、同じ部署で働いていた。
 私より五つ歳上の『あいつ』は、仕事が出来る・先輩後輩問わず人望がある・温厚で人当たりがいい、といういわゆる「デキる奴」の要素をこれでもかと詰め込んだような人間だ。
 今回の転勤も恐らくは栄転なのだろう。
 新卒入社の私もご多分に漏れず『あいつ』に憧れたりなんかしていた。今思えば忌々しい記憶だけど。
 けれど、容姿も性格も人並み以上でも以下でもない、特筆すべきことが何一つない平凡な私なんかが『あいつ』とお近づきになれるわけもなく、ただただ遠くから眺めているだけの日々だった。
 そんなある日、私に転機が訪れる。
 凡人らしくいつものように社食の片隅で一人昼食をとっていると、『あいつ』が私の隣に腰掛けた。
 そしてあろうことか凡人の私に声を掛けてきたのだ。
「ねぇ、岩崎くるみさん……だよね?」
「へぁっ!?」
 あまりに突然すぎておかしな声が出た。しかし『あいつ』は得意の穏やかな笑顔で私に微笑みかけると、こう言ってのけた。
「俺、ずっと岩崎さんと話してみたかったんだよね。ほら、君っていつもコツコツ真面目に仕事頑張ってるじゃん。君の仕事ぶりに助けられることも多いからさ、すごく感謝してて。いつもありがとうね」
「へぁ……」
「……でさ、どんな子なんだろうって気になってたんだ。いきなり話し掛けてごめんね」
 その瞬間、恋に落ちた。
 それはもうあっさりと落ちた。
 鼓動は早くなり、頬が赤らんでいくのを感じる。
 これまではただの憧れの人だった『あいつ』が、急に王子様みたいに輝き出して見えた。
 ――恋に落ちてからの私は、生活が一変する。
 全ての背景に薔薇が咲き乱れて見えるくらいに、人生が薔薇色だった。
 今まで買ったことのない高級スキンケアやコスメを買い漁り、雑誌で流行りのメイクを勉強する。
 髪型や服装も『あいつ』好みの清楚系ファッションに変えた。
 そんな私を見て、『あいつ』はたびたび声を掛けてくるようになる。
「岩崎さん、何か変わった? 最近かわいいね」
「ねぇねぇ岩崎さん、今度の金曜って暇? よかったら仕事終わりに飲み行かない?」
 そこから私たちは不自然なくらいにトントン拍子で付き合うことになった。
 よくよく考えれば平々凡々な私がちょっとお洒落をするようになったくらいで、部署のエースの先輩と付き合えるわけがなかったのだ。
 もっと早くにその事実に気付いていればよかったのだと思う。
 しかし、後悔先に立たず。
 付き合い始めてからの私は、それまで以上に『あいつ』にのめり込んでしまう。
 『あいつ』からの連絡を気にしてスマホが手放せなくなり、連絡のないときは何をしているのかと不安になった。
 社内で『あいつ』が他の女性と話していると、嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。
 私は徐々に精神のバランスがおかしくなっていくのを感じていた。
 それでも週に一回は必ずデートをしてくれるし、会っているときの『あいつ』はとても優しくて大事にされているのだと信じ込んでいた。
 しかし、この恋の盲信も長くは続かなかった。
 『あいつ』と食事をしたあとにホテルへ泊まった、ある金曜の夜。
 『あいつ』がシャワーを浴びているあいだ、『あいつ』のスマホが鳴った。
 何気なく画面に目を移すと、メッセージアプリの通知が視界に入った。
 そこには『土曜』という宛名から来たメッセージが表示されていた。
『お疲れ〜! ねぇねぇ、明日のデートどこに行く? 私、ずっと気になってたカフェが』
 メッセージは途中までしか表示されていなかったが、私にはそれがどういう意味なのかすぐにわかった。
 嫌な予感で心臓が押し潰されそうになる。冷や汗がじっとりと背中を濡らしていく。
 ――この人、浮気をしている。
 そんな確信にも似た予感に、私は証拠を集めようと『あいつ』のスマホに手を伸ばした。
 ロックの暗証番号は、『あいつ』の誕生日。浮気をしているくせに、なんて安直で愚かなんだろう。
 ロックを解除し、すぐさまメッセージアプリの通知欄をタップする。
 『土曜』からのメッセージを開くと、そこには見るに耐えない甘いメッセージのやり取りが繰り広げられていた。
 吐き気をもよおしながらも、自身のスマホでそのメッセージたちの写真を撮る。
 ――ここで一つの疑問が浮かんだ。
 どうしてこの女の名前は『土曜』なのだろう?
 どうやら二人は明日デートをするみたいだけど……明日は土曜。
 ……そういえば、私がいつも『あいつ』とデートをするのは必ず金曜。
 土日に会おうと言っても、それらしい言い訳をされてデートしてくれたことは一度もなかった。
 まさか。嘘でしょ。
 震える指で、画面をスワイプする。
 表示されたメッセージの一覧の中に『金曜』の宛先を見つける。
 呼吸が浅くなる。目眩がしそうだ。見たくない、そう思ったがもう後戻りはできない。
 『金曜』をタップすると、そこには私とのこれまでのやり取りが並んでいた。
 鈍器で殴られたような衝撃が胸に走る。頭が真っ白になり、何も考えられない。
 涙で滲む画面を再びスワイプし、メッセージ一覧に戻る。
 一覧には月曜から日曜まで、全ての曜日の宛先が並んでいた。
 月曜をタップする。
『次の月曜さ、うちで飲もうよ! 観たい映画がやっと配信されてさ〜。あ、そのままお泊りしてっても平気だよ!』
 火曜をタップする。
『先週行ったホテル、また行きたいなぁ。テーマパークみたいですごい楽しかったし、あの日のエッチすごく燃えた♡』
 水曜をタップする。
『ねぇねぇ、今何してるのぉ? 声聞きたいなぁ……』
 木曜を……。
「くるみちゃん?」
 不意に背後から掛けられた声に、私は全身で跳ね上がる。
 そっと後ろを振り返ると、不気味なくらい穏やかに微笑む『あいつ』が立っていた。
「どうかした?」
 私の手に握られたスマホを見ても、顔色一つ変えずに歩み寄ってくる。
 私はメッセージアプリの画面を見せながら、これはどういうことかと詰問した。
 しかし『あいつ』は悪びれる様子もなく、にこやかに説明し始めた。
「あぁ、それね。どの子と何曜に会うかわからなくなるから、宛名で管理してるんだ。え? 浮気してるんだろって? まぁそう言うと聞こえは悪いけどさ……俺のこと好きだって言ってくれる子は全員幸せにしたいじゃん。でもダブルブッキングしたら失礼だから、こうやって曜日ごとに管理してるんだよ」
 突っ込みどころしかないその言い訳に、私は脱力した。
「でもさ、俺きちんとくるみちゃんのこと大事にしてるでしょ? 毎週欠かさず会って、好きなもの食べさせてあげて、こうして気持ちよくしてあげてるじゃん」
 そう言いながら『あいつ』は私の乳房に手を伸ばしてきた。
 その瞬間、とてつもない嫌悪感が全身を駆け巡り、気付けば『あいつ』を突き飛ばしていた。
「いったぁ……。どうしたの、くるみちゃん。俺に彼女が何人いようと、くるみちゃんは大切な彼女の一人だよ。信じてよ」
 私に言い聞かせるように語りかけてくるその姿に、恐怖心すら湧いてくる。
 こいつ、自分で何言ってるかわかってんのか?
 到底理解の及ばない『あいつ』の態度と発言で、もう自分たちは終わりなのだと瞬時に判断した。
 私は即座に立ち上がり光の速さで着替えると、鞄をひったくるように掴んでホテルから逃げ帰った。
 その後『あいつ』から何度か連絡が来ていたが、全て無視をした。無視を続けるうちに一週間ほどで連絡もなくなり、私たちの関係はあっけなく解消された。
 それから職場で『あいつ』と言葉を交わすことは一度もなかった。
 けれど、私の心の中には今でもずっとわだかまりが残っている。
 もちろん好きだという感情はとうにない。
 しかし、どうしてあの時もっと言い返してやらなかったのかとか、顔の一つでもぶん殴っておけばよかったとか、そんなことばかりが頭の中で渦巻いていた。
 職場でだって、なんてことないって顔をして振る舞わなければならない。
 私の尊厳や心はこれほどまでに傷付いたというのに、傷付いた顔もできない。
 それなのに『あいつ』はすでに新しい『金曜』の女を見つけて楽しく過ごしているんだろう。
 そう思うと、悔しくて悲しくてたまらなかった。そんな自分自身が無価値のようにも思えて辛かった。
 浮気発覚の場面でハッキリ言えない自分の性格にも嫌気がする。
 本当にどうしようもない奴だ、私は。
 ハァ……と特大のため息をつく。それと同時に同僚の女の子が声を掛けてきた。
「岩崎さん、今いいかな?」
 やばい、ため息ついたの聞かれちゃったかな。
 内心ではドキドキしながらも、冷静を装いコクコクと頷く。
「この色紙書いてほしいんだ。今月いっぱいで異動とか辞めちゃう人たちのやつ。何枚かあるんだけど、全部お願いできるかな」
 三枚の色紙を受け取り、全てに目を通すとやはり『あいつ』への色紙もあった。
 色紙はすでに半分以上埋まっており、『いなくなるの寂しいです』とか『絶対また飲みに行こう』とか、ヤツの人望の厚さが伺い知れる寄せ書きばかりだった。
 ――さて、何を書こうか。
 私も皆と同じように当たり障りのないことを書いておくべき?
 いや、それは心情的にしたくない。
 かと言って、これまでの恨みつらみをこんなところにしたためるわけにもいかないだろう。
 うーん、と首をひねる。そのまま数十秒考え込んだのち、色紙の隅にペンを走らせた。
 無価値でどうしようもない私の、最後の小さな小さな反撃だ。
 転勤先でもきっと『あいつ』は仕事もプライベートもうまくやるんだろう。
 それでも私は、私だけは絶対に『あいつ』の幸せなんて祈ってやらない。
 読まれるかもわからない、こんな一言がもしも『あいつ』の目に留まることがあったら。
 願わくば私の言葉が『あいつ』の新生活の足枷になりますように。
「新天地でのご活躍をお祈りいたしません」