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後編

ー/ー



 菜穂はどんな返事をしたのだろう。
 自転車を漕ぎながら、頭の中に浮かんでいるのは昨日の告白のことだった。もしかしたら、お付き合いすることに……
 泡のように浮かんでは消えていく考えを振り切るように、坂道を登っていく。そして一息に降る。額の汗が風で冷えていくのが気持ちよかった。
 それにしても今日は風が強い。考えごとをしていたのもあり、道路にはみ出しかけて、クラクションを鳴らされた。
 駅に着くといつものベンチに菜穂は座っていた。軽い会話をする上では普段と変わった様子は見受けられない。何より変わっているのは冬也自身だった。返事が上の空になってしまい、菜穂に怪訝な顔を浮かべられてしまった。
「なにかあった?」
 胸がチクリと痛む。どう考えても野次馬根性で跡を着けた自分が悪い。彼女に落ち度はなかった。冬也は上擦った声で訊ねた。
「ど、どうして?」
「この前は珍しく寝坊してたじゃん。今日は浮かない顔してるしさ。もしかして、部活が上手くいってなかったりする?その時、私が部活で褒められたって話したけど、負担になってたらごめん」
「部活は順調だよ。だから菜穂の話も負担になってるわけじゃない。ただ、ちょっと疲れてて……」
「本当?無理しないでね」
 菜穂の目は純粋そのものだった。掛け値のない心配は、罪悪感を増幅させる。疑われ、詰められるよりも、よっぽど堪えるということを冬也は痛感した。
 電車が到着し、冬也は逃げるように一足先に乗り込んだ。揺られて十五分。何とか誤魔化せないものかと考える。菜穂も遅れて乗り込み、隣に腰を下ろす。
「ちょっと、大丈夫?顔色悪いけど」
「えーと、その……」
「いいよ。ゆっくり話して」
 菜穂の言葉に合わせたわけではないだろうが、アナウンスが流れた。どうやら強風のため、速度を落としての走行になるらしい。となると所要時間が倍以上になることが確定してしまった。誤魔化しようがない。冬也は懺悔するように口を開く。
「見たんだ」
「何を?」
「昨日、菜穂が告白されているところを」
「えっ」
 菜穂は目を見開いた。冬也は慌てて付け加える。
「その、違うんだ。偶然、菜穂が校舎裏に行くのを見かけて、どうしたんだろ、と不思議に思って着いて行ったんだ。ほら、その、クラスの奴が菜穂は人気者だって言うから、まさか、と思ってさ」
 純粋から一転、軽蔑を含んだ眼差しで見つめてくる。冬也は追い立てられるように、口を開く。絞り出した声が震えてしまう。
「そしたら、本当に告白だったんだ……正確に言えば、告白された現場を見ただけで、菜穂の返事は聞いてないんだ。その前にその場を離れたから」
 菜穂は無言だった。目には明らかに非難する色が浮かんでいる。冬也は頭を下げた。
「……ごめん。最低なことをした」
 菜穂は顎に手を当てて考え込んでいる。沈黙の時間が重苦しい。外を見ると景色がゆっくりと流れていた。
「私、言ったよね。茶化されたりするの嫌いだって」
 静かで、低い声だった。冷たい手で、首筋を掴まれるような気分だった。冬也は俯き、唇を噛み締める。でも、と菜穂が呟いた。
「言ってることは信じるよ」
 弾かれるように顔を上げた。
「ほ、本当?」
「思い返してみたら、急に物音が聞こえて、二人とも驚いたタイミングがあったんだ。あれは冬也だったんだね」
 こくんと冬也は頷くと、呆れた、と菜穂はため息をつく。心配して損した。
「だから朝から様子がおかしかったのね。人の告白の現場に聞き耳を立てるって、何考えてるのよ」
「ごめん」
 立つ瀬がないとはこのことだ。一切の反論や言い訳も許さない空気が流れている。電車の駆動音だけが車内に響く。やがて声を落とし、菜穂は言った。
「初めてだったよ。告白されるの。すごく、緊張した顔をしてた。一体、どれだけの勇気を振り絞ったんだろう」
 淡々と語る菜穂の姿に、聞き入ることしかできなかった。
「知ってる?本当に緊張する時って、足が震えるんだよ」
 冬也は首を振った。競技前に緊張することはあったが、足が震えるほどの経験はない。
「その姿を見ていたら、いい加減な気持ちでは応えられないなって思って、断ったんだ」
 冬也はまじまじと菜穂を見た。
「相手のことは時々見かける程度で、全然会話もしたことがない人だったんだよね。『友達からでも』って提案されたけど、断ったよ」
 菜穂は思い出しているのか、申し訳なさそうに俯いた。
「そしたら一瞬悔しそうな顔をした後で、今にも泣き出しそうな顔で、笑ったんだ」
 言葉を切り、顔を上げる。その視線は、ゆっくりと流れる景色に注がれていた。見守っていると、菜穂は息を吐いた。
「人と向き合うって、こんなにエネルギーが必要なことなんだね」
 冬也は想像する。緊張による足の震えは経験したことはないが、その悔しさには覚えがあった。菜穂は続ける。
「とりあえず付き合ってみる、って人も周りにはいるけどさ、そんないい加減な気持ちで、私は付き合えない」
 言った後で、自嘲気味に笑った。
「私が、おかしいんだよね。真面目すぎるのかも」
 頭に血が昇るのを感じ、冬也はようやく口を開いた。
「おかしくなんかない。菜穂は、しっかり向き合ってるよ。それに、真面目で何が悪いんだ」 
 菜穂は目を見開き、小さく笑った。「ありがとう」
 冬也は腕を組みながら、ふん、と鼻を鳴らす。菜穂は目を細めた。
「その人のね、押し殺すような表情を見ていたら思い出したんだ。中学最後の陸上大会。あの時の冬也と」
 話の流れが急に自分に向いてきて、冬也はたじろいだ。 
「あの時、見に来てたの?」
「うん。その日は部活が休みでね。友達から応援したい人がいるって誘われて、行ってたんだ」
「そうだったのか」
「ちなみに、友達の応援してた人が、村瀬君」
 菜穂が推し量るように、見つめてくる。村瀬——その名前を反芻する。
「そっか」自嘲気味に笑い、両手で顔を覆った。「そっかあ……」
「悔しかったよね」
「あぁ。あの日のことは、忘れたくても忘れられない」
 村瀬は、部活に熱心なタイプではなかった。基礎練習の走り込みなどで、後続で談笑しダラダラと走るような。つまり手を抜くタイプだった。体格に恵まれ、運動神経も良い村瀬。その姿勢に腹立たしさを感じることが幾度もあった。どのスポーツもそつなくこなす実力を持っているのに勿体無い。きっと陸上も、と。
 一度だけ、ちゃんと走れよと伝えたことがある。実力があるんだから、と。すると彼は薄ら笑いを浮かべ、言い放った。
「やだよ。疲れるし。つーか真面目にやるのが阿呆らしい」
 絶句し、空いた口が塞がらなかった。冬也は根本的に価値観が合わない人間だとみなし、内心で見下し続けていた。
 そして大会の日。奇しくも組が被り、レーンも隣同士となったのだ。負けるはずがない。そう思っていた。初めは冬也がリードしていたが、中盤を過ぎた辺りで負けじと迫る彼の姿が横目に見えた。初めて見る、必死な表情だった。
 練習時点では冬也が勝っていたが、最後の大会という場面で奮起されたのか、彼は冬也の身体一つ分追い抜き、ゴールした。
 息を切らしながら目の前に立つ村瀬と目が合った時の表情は、今も胸に刻み込まれている。掌を握り締め、ガッツポーズを作った直後だった。冬也に一瞬、目を向けた後で、申し訳なさが詰まったような表情を浮かべたのだ。まるで悪事を見咎められた子供のようだった。
 労いの言葉ひとつ掛けられないほど、余裕を失っていた。何も考えたくなかった。認めたくなかった。逃げるようにその場を去り、無心で更衣室のシャワーを捻る。汗と共に、湧き上がる黒々とした感情を洗い流す。一度嗚咽したら、涙が止まらなかった。流し終えた後に残ったのは、自分自身への不甲斐なさだった。
 菜穂は口を挟まずに、真剣な表情で耳を傾けていた。話し終えた冬也は自嘲気味に笑いかける。
「情けない話だろ?結果を出すどころか、見下していた相手に負けたんだから」
「情けなくないよ」
 菜穂は声に切実だった。
「すごいなって思ったよ。あんなに悔しそうな表情を浮かべられるくらい、自分は部活に打ち込めたかなって」
 よく言うよと冬也は苦笑する。
「菜穂は充分打ち込んでるだろ。俺、見たぞ。中学の頃から朝練してたの」
 菜穂は目を瞬かせた。
「見られてたんだ。誰にも知られないようにしてたのに」
「早めに学校に行ったら、トロンボーンの音が聞こえてたよ」
 中学の頃だった。当時、友人の思いつきで登校時間を早めて学校に行ったのだ。一番乗りだ、と教室に入った時点で、机にはバックが置かれていた。菜穂の机だった。んだよ、先に来てる奴が居たのかよと友人は呟くと教室を去っていく。
「どこ行くの?」
「トイレ」
 その時、楽器の音が廊下に響いた。冬也はバックが置かれた机に目を向ける。まさか。鳴り響いている音に導かれるかのように、廊下を歩いていく。
 音楽室の前に辿り着き、中を覗き込む。そこには真剣な目で楽器を演奏する菜穂の姿があった。差し込んだ陽が彼女を照らしている。冬也はその姿に息を呑んだ。
 自身のパート練習だろうか。音を切り、首を傾げた後で再びトロンボーンに息を吹き込んでいる。その姿は補助輪を外して自転車に乗ろうとする子供のようだった。頑張れ。冬也は胸の内でつぶやいた。いつの間にか時間が飛んでいたらしい。気がつくと一曲分の演奏を聴き終えていた。
 すごい。などと声をかけてもよかっただろう。しかし冬也は小心者だった。関係の薄いクラスメイトに話し掛けることは、勇気のいることだった。聴き終えた後のことは今でも鮮明に覚えている。物音を立ててしまい、慌ててその場を去ったのだ。内心で自嘲する。立ち去ってばかりの中学時代だったな、と。
 菜穂は柔らかな笑みを浮かべた。
「実は私もね。音楽室から見てたんだ。冬也が毎日、必死に走ってるところを」
 冬也は小さく笑う。いつの間にか全身がこわばっていたらしい。胸の内が温かい感情でで満たされていく。
「お互いがお互いのこと、見てたんだな」
 冬也は今だ、と思った。今なら伝わると。
「俺は、こうして陸上を続けられて、朝練にも通えるようになったのは菜穂のお陰だと思ってる。ありがとう」
 菜穂は目を見開いた。そしてゆっくりと首を振る。
「ううん。こちらこそ。私も冬也のお陰で頑張れたんだよ」
 あのさ、と放った声が、上擦ってしまう。逃げるのはもう終わりだ。顔を上げて、菜穂を見る。ちっぽけな勇気を搾り出す。
「来月、初めての大会があるんだ。その……菜穂に、見に来て欲しいんだ」
 その時、通常運転に戻るというアナウンスが鳴り響いた。
 高まっていく心拍を、どこか遠くで聞いている気分に陥った。冬也は決意する。大会で結果を残せたら、この気持ちを伝えようと。呼応するかのように、景色の流れる速度が早まっていた。
 
 遂にこの日がやってきた。冬也は高ぶる気持ちを抑えるように深呼吸をする。高校初の大会である。プログラム表を部員の間で回し合っていると、自身の出場競技とメンバーの欄に釘付けになった。ごくりと生唾を呑む。
 調整のために競技場の外へ出ると、突風が吹き荒れた。冬也は身を竦めてやり過ごす。プログラム表だろう。青色の用紙が飛んでいた。なんとはなしに目で追っていると、長身の男の前にその紙は流れ着いた。
 紙の行方を追って来た持ち主が男の元へ駆け寄り、頭を下げた。男は人の良さそうな笑みを浮かべ、拾った紙を手渡している。いえいえ、大丈夫ですよ。
 冬也はじっと見つめていた。調整を済ませた後なのだろう。汗の玉が額に浮いていた。男は冬也の姿に気がつくと目を丸くした。
「……陸上、続けてたんだな」
 冬也の言葉に長身の男——村瀬はゆっくりと頷いた。
「最後の大会で、本気で走る楽しさを教えてもらったよ」
「あの時に言えばよかったのに」
「言えるわけないだろ。煽りになるじゃないか」
「それもそうか」
 互いに目を合わせ、苦笑する。
「今回は、俺が勝つからな」
「やってみろよ」
 村瀬は片手を上げ、競技場の中へ姿を消した。ふと、足が震えていることに気づく。一歩踏み出すが、重い。まるで床から這い出した手に掴まれているようだ。村瀬の背中が脳裏によぎる。脇の下に、汗が滲む。
「大丈夫?」
 声をかけられ、振り返る。プログラム表を両手に抱える菜穂の姿がそこにあった。
「ありがとう。来てくれたんだな」
 菜穂はこくりと頷いた。不安げな表情を隠そうともしない。よく見るとプログラム表にはしわが寄っていた。冬也は息を吐く。全身から力が抜けた。
「ったく。俺より緊張してんじゃねえか」
 菜穂ははにかんだ笑みを浮かべた。
「ずっと、見てるからね」
 鼻の奥がつんと熱くなり、前を向く。風が眼前に吹きつけた。
「知ってる」
 冬也は立ち止まらずに、一歩踏み出した。足が軽やかだ。また一歩、踏み出し、駆け出した。足の震えはもう、止まっていた。


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 菜穂はどんな返事をしたのだろう。
 自転車を漕ぎながら、頭の中に浮かんでいるのは昨日の告白のことだった。もしかしたら、お付き合いすることに……
 泡のように浮かんでは消えていく考えを振り切るように、坂道を登っていく。そして一息に降る。額の汗が風で冷えていくのが気持ちよかった。
 それにしても今日は風が強い。考えごとをしていたのもあり、道路にはみ出しかけて、クラクションを鳴らされた。
 駅に着くといつものベンチに菜穂は座っていた。軽い会話をする上では普段と変わった様子は見受けられない。何より変わっているのは冬也自身だった。返事が上の空になってしまい、菜穂に怪訝な顔を浮かべられてしまった。
「なにかあった?」
 胸がチクリと痛む。どう考えても野次馬根性で跡を着けた自分が悪い。彼女に落ち度はなかった。冬也は上擦った声で訊ねた。
「ど、どうして?」
「この前は珍しく寝坊してたじゃん。今日は浮かない顔してるしさ。もしかして、部活が上手くいってなかったりする?その時、私が部活で褒められたって話したけど、負担になってたらごめん」
「部活は順調だよ。だから菜穂の話も負担になってるわけじゃない。ただ、ちょっと疲れてて……」
「本当?無理しないでね」
 菜穂の目は純粋そのものだった。掛け値のない心配は、罪悪感を増幅させる。疑われ、詰められるよりも、よっぽど堪えるということを冬也は痛感した。
 電車が到着し、冬也は逃げるように一足先に乗り込んだ。揺られて十五分。何とか誤魔化せないものかと考える。菜穂も遅れて乗り込み、隣に腰を下ろす。
「ちょっと、大丈夫?顔色悪いけど」
「えーと、その……」
「いいよ。ゆっくり話して」
 菜穂の言葉に合わせたわけではないだろうが、アナウンスが流れた。どうやら強風のため、速度を落としての走行になるらしい。となると所要時間が倍以上になることが確定してしまった。誤魔化しようがない。冬也は懺悔するように口を開く。
「見たんだ」
「何を?」
「昨日、菜穂が告白されているところを」
「えっ」
 菜穂は目を見開いた。冬也は慌てて付け加える。
「その、違うんだ。偶然、菜穂が校舎裏に行くのを見かけて、どうしたんだろ、と不思議に思って着いて行ったんだ。ほら、その、クラスの奴が菜穂は人気者だって言うから、まさか、と思ってさ」
 純粋から一転、軽蔑を含んだ眼差しで見つめてくる。冬也は追い立てられるように、口を開く。絞り出した声が震えてしまう。
「そしたら、本当に告白だったんだ……正確に言えば、告白された現場を見ただけで、菜穂の返事は聞いてないんだ。その前にその場を離れたから」
 菜穂は無言だった。目には明らかに非難する色が浮かんでいる。冬也は頭を下げた。
「……ごめん。最低なことをした」
 菜穂は顎に手を当てて考え込んでいる。沈黙の時間が重苦しい。外を見ると景色がゆっくりと流れていた。
「私、言ったよね。茶化されたりするの嫌いだって」
 静かで、低い声だった。冷たい手で、首筋を掴まれるような気分だった。冬也は俯き、唇を噛み締める。でも、と菜穂が呟いた。
「言ってることは信じるよ」
 弾かれるように顔を上げた。
「ほ、本当?」
「思い返してみたら、急に物音が聞こえて、二人とも驚いたタイミングがあったんだ。あれは冬也だったんだね」
 こくんと冬也は頷くと、呆れた、と菜穂はため息をつく。心配して損した。
「だから朝から様子がおかしかったのね。人の告白の現場に聞き耳を立てるって、何考えてるのよ」
「ごめん」
 立つ瀬がないとはこのことだ。一切の反論や言い訳も許さない空気が流れている。電車の駆動音だけが車内に響く。やがて声を落とし、菜穂は言った。
「初めてだったよ。告白されるの。すごく、緊張した顔をしてた。一体、どれだけの勇気を振り絞ったんだろう」
 淡々と語る菜穂の姿に、聞き入ることしかできなかった。
「知ってる?本当に緊張する時って、足が震えるんだよ」
 冬也は首を振った。競技前に緊張することはあったが、足が震えるほどの経験はない。
「その姿を見ていたら、いい加減な気持ちでは応えられないなって思って、断ったんだ」
 冬也はまじまじと菜穂を見た。
「相手のことは時々見かける程度で、全然会話もしたことがない人だったんだよね。『友達からでも』って提案されたけど、断ったよ」
 菜穂は思い出しているのか、申し訳なさそうに俯いた。
「そしたら一瞬悔しそうな顔をした後で、今にも泣き出しそうな顔で、笑ったんだ」
 言葉を切り、顔を上げる。その視線は、ゆっくりと流れる景色に注がれていた。見守っていると、菜穂は息を吐いた。
「人と向き合うって、こんなにエネルギーが必要なことなんだね」
 冬也は想像する。緊張による足の震えは経験したことはないが、その悔しさには覚えがあった。菜穂は続ける。
「とりあえず付き合ってみる、って人も周りにはいるけどさ、そんないい加減な気持ちで、私は付き合えない」
 言った後で、自嘲気味に笑った。
「私が、おかしいんだよね。真面目すぎるのかも」
 頭に血が昇るのを感じ、冬也はようやく口を開いた。
「おかしくなんかない。菜穂は、しっかり向き合ってるよ。それに、真面目で何が悪いんだ」 
 菜穂は目を見開き、小さく笑った。「ありがとう」
 冬也は腕を組みながら、ふん、と鼻を鳴らす。菜穂は目を細めた。
「その人のね、押し殺すような表情を見ていたら思い出したんだ。中学最後の陸上大会。あの時の冬也と」
 話の流れが急に自分に向いてきて、冬也はたじろいだ。 
「あの時、見に来てたの?」
「うん。その日は部活が休みでね。友達から応援したい人がいるって誘われて、行ってたんだ」
「そうだったのか」
「ちなみに、友達の応援してた人が、村瀬君」
 菜穂が推し量るように、見つめてくる。村瀬——その名前を反芻する。
「そっか」自嘲気味に笑い、両手で顔を覆った。「そっかあ……」
「悔しかったよね」
「あぁ。あの日のことは、忘れたくても忘れられない」
 村瀬は、部活に熱心なタイプではなかった。基礎練習の走り込みなどで、後続で談笑しダラダラと走るような。つまり手を抜くタイプだった。体格に恵まれ、運動神経も良い村瀬。その姿勢に腹立たしさを感じることが幾度もあった。どのスポーツもそつなくこなす実力を持っているのに勿体無い。きっと陸上も、と。
 一度だけ、ちゃんと走れよと伝えたことがある。実力があるんだから、と。すると彼は薄ら笑いを浮かべ、言い放った。
「やだよ。疲れるし。つーか真面目にやるのが阿呆らしい」
 絶句し、空いた口が塞がらなかった。冬也は根本的に価値観が合わない人間だとみなし、内心で見下し続けていた。
 そして大会の日。奇しくも組が被り、レーンも隣同士となったのだ。負けるはずがない。そう思っていた。初めは冬也がリードしていたが、中盤を過ぎた辺りで負けじと迫る彼の姿が横目に見えた。初めて見る、必死な表情だった。
 練習時点では冬也が勝っていたが、最後の大会という場面で奮起されたのか、彼は冬也の身体一つ分追い抜き、ゴールした。
 息を切らしながら目の前に立つ村瀬と目が合った時の表情は、今も胸に刻み込まれている。掌を握り締め、ガッツポーズを作った直後だった。冬也に一瞬、目を向けた後で、申し訳なさが詰まったような表情を浮かべたのだ。まるで悪事を見咎められた子供のようだった。
 労いの言葉ひとつ掛けられないほど、余裕を失っていた。何も考えたくなかった。認めたくなかった。逃げるようにその場を去り、無心で更衣室のシャワーを捻る。汗と共に、湧き上がる黒々とした感情を洗い流す。一度嗚咽したら、涙が止まらなかった。流し終えた後に残ったのは、自分自身への不甲斐なさだった。
 菜穂は口を挟まずに、真剣な表情で耳を傾けていた。話し終えた冬也は自嘲気味に笑いかける。
「情けない話だろ?結果を出すどころか、見下していた相手に負けたんだから」
「情けなくないよ」
 菜穂は声に切実だった。
「すごいなって思ったよ。あんなに悔しそうな表情を浮かべられるくらい、自分は部活に打ち込めたかなって」
 よく言うよと冬也は苦笑する。
「菜穂は充分打ち込んでるだろ。俺、見たぞ。中学の頃から朝練してたの」
 菜穂は目を瞬かせた。
「見られてたんだ。誰にも知られないようにしてたのに」
「早めに学校に行ったら、トロンボーンの音が聞こえてたよ」
 中学の頃だった。当時、友人の思いつきで登校時間を早めて学校に行ったのだ。一番乗りだ、と教室に入った時点で、机にはバックが置かれていた。菜穂の机だった。んだよ、先に来てる奴が居たのかよと友人は呟くと教室を去っていく。
「どこ行くの?」
「トイレ」
 その時、楽器の音が廊下に響いた。冬也はバックが置かれた机に目を向ける。まさか。鳴り響いている音に導かれるかのように、廊下を歩いていく。
 音楽室の前に辿り着き、中を覗き込む。そこには真剣な目で楽器を演奏する菜穂の姿があった。差し込んだ陽が彼女を照らしている。冬也はその姿に息を呑んだ。
 自身のパート練習だろうか。音を切り、首を傾げた後で再びトロンボーンに息を吹き込んでいる。その姿は補助輪を外して自転車に乗ろうとする子供のようだった。頑張れ。冬也は胸の内でつぶやいた。いつの間にか時間が飛んでいたらしい。気がつくと一曲分の演奏を聴き終えていた。
 すごい。などと声をかけてもよかっただろう。しかし冬也は小心者だった。関係の薄いクラスメイトに話し掛けることは、勇気のいることだった。聴き終えた後のことは今でも鮮明に覚えている。物音を立ててしまい、慌ててその場を去ったのだ。内心で自嘲する。立ち去ってばかりの中学時代だったな、と。
 菜穂は柔らかな笑みを浮かべた。
「実は私もね。音楽室から見てたんだ。冬也が毎日、必死に走ってるところを」
 冬也は小さく笑う。いつの間にか全身がこわばっていたらしい。胸の内が温かい感情でで満たされていく。
「お互いがお互いのこと、見てたんだな」
 冬也は今だ、と思った。今なら伝わると。
「俺は、こうして陸上を続けられて、朝練にも通えるようになったのは菜穂のお陰だと思ってる。ありがとう」
 菜穂は目を見開いた。そしてゆっくりと首を振る。
「ううん。こちらこそ。私も冬也のお陰で頑張れたんだよ」
 あのさ、と放った声が、上擦ってしまう。逃げるのはもう終わりだ。顔を上げて、菜穂を見る。ちっぽけな勇気を搾り出す。
「来月、初めての大会があるんだ。その……菜穂に、見に来て欲しいんだ」
 その時、通常運転に戻るというアナウンスが鳴り響いた。
 高まっていく心拍を、どこか遠くで聞いている気分に陥った。冬也は決意する。大会で結果を残せたら、この気持ちを伝えようと。呼応するかのように、景色の流れる速度が早まっていた。
 遂にこの日がやってきた。冬也は高ぶる気持ちを抑えるように深呼吸をする。高校初の大会である。プログラム表を部員の間で回し合っていると、自身の出場競技とメンバーの欄に釘付けになった。ごくりと生唾を呑む。
 調整のために競技場の外へ出ると、突風が吹き荒れた。冬也は身を竦めてやり過ごす。プログラム表だろう。青色の用紙が飛んでいた。なんとはなしに目で追っていると、長身の男の前にその紙は流れ着いた。
 紙の行方を追って来た持ち主が男の元へ駆け寄り、頭を下げた。男は人の良さそうな笑みを浮かべ、拾った紙を手渡している。いえいえ、大丈夫ですよ。
 冬也はじっと見つめていた。調整を済ませた後なのだろう。汗の玉が額に浮いていた。男は冬也の姿に気がつくと目を丸くした。
「……陸上、続けてたんだな」
 冬也の言葉に長身の男——村瀬はゆっくりと頷いた。
「最後の大会で、本気で走る楽しさを教えてもらったよ」
「あの時に言えばよかったのに」
「言えるわけないだろ。煽りになるじゃないか」
「それもそうか」
 互いに目を合わせ、苦笑する。
「今回は、俺が勝つからな」
「やってみろよ」
 村瀬は片手を上げ、競技場の中へ姿を消した。ふと、足が震えていることに気づく。一歩踏み出すが、重い。まるで床から這い出した手に掴まれているようだ。村瀬の背中が脳裏によぎる。脇の下に、汗が滲む。
「大丈夫?」
 声をかけられ、振り返る。プログラム表を両手に抱える菜穂の姿がそこにあった。
「ありがとう。来てくれたんだな」
 菜穂はこくりと頷いた。不安げな表情を隠そうともしない。よく見るとプログラム表にはしわが寄っていた。冬也は息を吐く。全身から力が抜けた。
「ったく。俺より緊張してんじゃねえか」
 菜穂ははにかんだ笑みを浮かべた。
「ずっと、見てるからね」
 鼻の奥がつんと熱くなり、前を向く。風が眼前に吹きつけた。
「知ってる」
 冬也は立ち止まらずに、一歩踏み出した。足が軽やかだ。また一歩、踏み出し、駆け出した。足の震えはもう、止まっていた。