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前編

ー/ー



 山内冬也は眠い目を擦りながら駅に入った。定期券を改札に通し、構内に入る。その時、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。慌てて乗り場へと続く階段を駆け上がっていく。スーツを着た男性を追い抜き、杖を付いて階段を下る老人の横をゆっくりと通りながら乗り口へと辿り着いた。待機列に並ぶ上坂菜穂が冬也の姿に気づくと、安堵の表情を浮かべた。
「よかった。今日はもう来ないんじゃないかと思ったよ」
「なんとか間に合った。寝坊しちゃった」
「ギリギリセーフだったね」菜穂は線路の先へ指を向ける。電車がブレーキ音を響かせ、ゆっくりと滑り込んでくるところだった。
「今日で一ヶ月だからな。なんとしても間に合いたくて、自転車を走らせたよ」
「もう一ヶ月か。早いねえ」菜穂はしみじみと目を細めた。
 一ヶ月というのは、部活の朝練である。冬也は中学に引き続いて、陸上部へ入部した。そして高校から、朝練に通うことにしたのだ。
「だろ」冬也は得意げに胸を張る。そして上擦った声で言った。「そりゃしんどかったけど、続けられたのは菜穂のお陰だよ」
「はいはい。そりゃどうも」
 電車のドアが開き、菜穂が先に乗り込んだ。冗談だと思ったのか、あしらわれてしまった。冬也は肩を落としながら乗り込んだ。素直に伝えたつもりなのに。
 座席は横一列に伸びているタイプの車両だった。ひとまず菜穂の隣に腰を下ろす。
 乗客はサラリーマンが数人と、閑散としていた。学生の姿は見受けられない。ラッシュに巻き込まれずに、悠々と座れるのは朝が早い者の特権だった。優雅な気分に浸っていると、菜穂が訊いてきた。
「どう?一ヶ月早起きしてみて。続けられそう?」
「最初は朝起きるのが辛かったよ。今はもう、身体が勝手に目覚めるようになった」
「『このままだと間に合わないぞ』って?」
 菜穂の裏声に、冬也は噴き出した。
「なんだそれ」
「習慣付くと、そんな感じになるでしょ」
「いや、まあそうだけどさ、いきなりボケ始めるから」
 茶化してみると、菜穂は唇を尖らせた。 
「よく言うよ。今日は寝坊したくせに」
 出発のアナウンスと共に、電車が動き出した。田園と住宅の風景が横に流れていく。冬也は未だに信じられなかった。あの上坂菜穂と冗談を交えて話せていることに。
 菜穂は小学生の頃からの同級生だった。小中学生の頃はクラスメイト程度の関係性で、話すことは少なかった。きっかけは高校生になってからである。陸上部の朝練のために、駅のホームで待っていると、菜穂がやって来たのだ。
「山内……なんでいるの?」
「なんでって、朝練に行くためだけど」
 その日以来、共に通学するようになったのだ。当時の驚いた表情を思い返していると、菜穂は眉を潜めた。
「なんでニヤついてるの」
「えっ」いつの間にか頬が緩んでいたらしい。慌てて表情を引き締め、拳を突き上げた。「きょ、今日の朝練も頑張るぞー」
「お?おー」
 菜穂は戸惑いながらも、拳を突き上げた。意外とノリが良いらしい。誤魔化したこちらが困惑するという奇妙な状況に陥ってしまった。咳払いをしながら、訊ねてみる。
「さ、最近の部活はどうなの?」
 菜穂は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「この間先輩から褒められたんだ。上手になったねって」
「おお。よかったじゃん」
 自分ごとのように嬉しくなり、冬也は身を乗り出した。
「ずっと、頑張ってきたもんな」
「うん」
 満面の笑みで頷いた。その表情を見ているだけで、胸の奥が満たされていく。苦手だった早起きも、菜穂に会うためとなれば苦にはならなかった。部活の練習で挫けそうになる時、彼女の笑顔がいつも浮かぶ。たかが一ヶ月、されど一ヶ月。彼女への想いが膨らんでいくのには十分な時間だった。電車に揺られるこの時間が、いつまでも続いて欲しいと冬也は思っていた。
 
 普段は帰りの電車が一緒になることはないのだが、その日は珍しく菜穂と鉢合わせをした。降りる駅に着いたため、前方の車両に移動したところ、ドアの前に立つ彼女を発見したのだ。
「よっ」
 背後から声をかけると、菜穂は身体をこわばらせてこちらを見た。冬也であることに気づくと、安堵したように息を吐いた。
「冬也……びっくりした」
 その姿が可笑しくて、冬也はお腹を抱えてしまう。
「もう。何で笑ってるのよ。こっちは急に声を掛けられてびっくりしたんだから」
 ごめんごめんと、目尻の涙を拭う。
「猫みたいだなと思ってさ」
「猫?」
 彼女を宥めながら冬也は説明した。まるで物音に驚き、全身の毛を逆立てる猫のようだったと。
「まったく」
 菜穂は呆れたように眉を潜めた。
「冬也ってさ、人をおちょくるのが好きだよね」
「だからごめんって」
「そういうことされるの、好きじゃない」
 虫の居所が悪かったのか、菜穂に顔を背けられ、冬也は唸った。どうしたものか、と。
 駅の外に出ると、送迎に来た車がロータリーに列を成していた。菜穂はロータリーには向かわずに歩き出す。駅の近くに自宅があるため、徒歩で帰宅しているのだ。冬也は去っていく背中を呼び止めた。
「菜穂、ちょっと時間ある?」
 きょとんとした表情で菜穂は振り返った。冬也は街灯が照らす先にあるコンビニエンスストアに指を向けた後で、手を合わせた。
「さっきは驚かせてごめん。何か奢るよ」
 提案に、菜穂はこくりと頷いた。
「うん。行く」
 自転車を入り口の脇に停め、店内に入る。菜穂は悩むそぶりを見せることなくお菓子売り場へ向かい、チョコレートを手に取った。
「チョコ好きなの?」
「うん。大好き」
 菜穂はチョコレートについて話し始めた。聞いたことのない横文字のメーカーを羅列しているが、知っているところは一つくらいしかなかった。目が生き生きと輝いている。初めて知る、彼女の一面だった。
 部活を終えたばかりの冬也は、お茶に加えて、レジ脇の骨なしチキンを購入した。外へ出ると菜穂は頭を下げた。
「さっきはつまらない事で怒っちゃってごめん」
 菜穂は耳にかかる髪をかき上げた。
「ぶ、部活で疲れてたのかも。それと、お金出してくれてありがと」
「いいよ別に。さっきのは茶化した俺が悪かったし」
 チキンにかじりつくと、熱い肉汁が口内に溢れた。火傷しそうになる。部活で酷使された身体は肉を欲していた。思うがままに、再びかじりつく。奥底からの歓喜と、多幸感に包まれた。
「お腹空いてたんだねえ」
「そりゃあね」
「そういえばさ」と菜穂は口を開く。銀紙に包まれたチョコレートをパキパキと割っている。
「クラスの子に聞かれたんだけど」
 割ったチョコレートを食べながら言った。
「冬也って、彼女いるの?」
 突然の質問に冬也は咳き込んだ。急いでお茶を喉に流し込み、呼吸を整える。
「なんだよ急に」
「クラスの子に聞いてみてって言われたんだもん」
 菜穂は不服なのか唇を尖らせている。
「……いないよ」
 冬也は頭を抱えたくなる。自分の発言に、情けなくなってきた。
「やっぱりね」
「やっぱり?」
「ちなみに友達には、『分かんない。でも部活に夢中だから興味がないと思う』って言っておいたから」
 冬也は唸りながら腕を組む。
「まあ、そうだけどさ」
 勝手に決めつけられるのも愉快ではなかった。いや、待てよ、と冬也は頭に浮かんだことを口にする。
「もしかして、モテ期ってやつ?」
 人生には三度モテ期が来ると聞いたことがある。その一つではないのだろうか。菜穂は呆れるようにため息をついた。
「さあ。知らない」
 顔を背けられ、またかと思ったが、頭によぎるものがあった。さっきまで不機嫌だったのは……
「でも、よかった。本人の口から聞けて」
「え?それって」
「だって朝練仲間がせっかくできたんだもん。いなくなったら寂しいじゃん」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、菜穂はチョコレートのひとかけらを口に含んだ。
「あ、あー朝練ね」
 思わせ振りな態度に落胆しつつも、月明かりに照らされた彼女の表情に、冬也は見惚れていた。

 思っていたより、悠長な時間はないらしい。冬也は焦っていた。コンビニでの会話から数日後、クラスメイトの熊谷から訊ねられたのだ。上坂さんってどんな男がタイプなの?と。冬也はぶっきらぼうに答えた。
「知らないよ。菜穂……上坂が前に言ってたよ。部活一筋だから、そういうのには興味ないって」
 本人に直接聞いていないが、コンビニエンスストアでの安堵していた表情を見るに、そう解釈していいだろう。冬也は自身に言い聞かせる。嘘は言ってない、と。熊谷はそんなところも魅力的だ、と頷いている。
 よく喋り、チョコレートが大好きな女の子。その一面は、熊谷は知らないだろう。自分だけが知っている彼女の姿。小さな優越感を抱えながら、彼に訊ねた。
「告白するつもりなの?」
 バカ。俺なんかが彼女が振り向いてくれるかよ、と熊谷は顔の前で手を振った。
「高嶺の花は見てるくらいがちょうどいいんだよ」
 
 熊谷の話は眉唾物だとして聞いていたが、どうやら本当だったらしい。放課後、部活へ行くために校庭に出たところ、校舎裏に消えていく菜穂の姿を見たのだ。音楽室ではなく外に出ている時点で違和感があった。当然、脳裏に過ぎったのは熊谷の話である。好奇心が頭をもたげたが、慌てて首を振る。それはダメだろう。でも……
 葛藤している間にも菜穂の背中が遠ざかっていく。やがて好奇心が勝り、跡を着けた。冬也は校舎の壁に隠れ、聞こえてくる声に耳を澄ませた。
「う……上坂さん」
 男の声だった。握っていた手に、汗がにじむ。続く言葉は告白だった。しん、と静寂が辺りを包む。菜穂は返事を躊躇っているのか、声は聞こえなかった。冬也は、小心者だった。次第に胸の内が罪悪感で満たされ始め、その場から逃げるように走り去った。



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 山内冬也は眠い目を擦りながら駅に入った。定期券を改札に通し、構内に入る。その時、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。慌てて乗り場へと続く階段を駆け上がっていく。スーツを着た男性を追い抜き、杖を付いて階段を下る老人の横をゆっくりと通りながら乗り口へと辿り着いた。待機列に並ぶ上坂菜穂が冬也の姿に気づくと、安堵の表情を浮かべた。
「よかった。今日はもう来ないんじゃないかと思ったよ」
「なんとか間に合った。寝坊しちゃった」
「ギリギリセーフだったね」菜穂は線路の先へ指を向ける。電車がブレーキ音を響かせ、ゆっくりと滑り込んでくるところだった。
「今日で一ヶ月だからな。なんとしても間に合いたくて、自転車を走らせたよ」
「もう一ヶ月か。早いねえ」菜穂はしみじみと目を細めた。
 一ヶ月というのは、部活の朝練である。冬也は中学に引き続いて、陸上部へ入部した。そして高校から、朝練に通うことにしたのだ。
「だろ」冬也は得意げに胸を張る。そして上擦った声で言った。「そりゃしんどかったけど、続けられたのは菜穂のお陰だよ」
「はいはい。そりゃどうも」
 電車のドアが開き、菜穂が先に乗り込んだ。冗談だと思ったのか、あしらわれてしまった。冬也は肩を落としながら乗り込んだ。素直に伝えたつもりなのに。
 座席は横一列に伸びているタイプの車両だった。ひとまず菜穂の隣に腰を下ろす。
 乗客はサラリーマンが数人と、閑散としていた。学生の姿は見受けられない。ラッシュに巻き込まれずに、悠々と座れるのは朝が早い者の特権だった。優雅な気分に浸っていると、菜穂が訊いてきた。
「どう?一ヶ月早起きしてみて。続けられそう?」
「最初は朝起きるのが辛かったよ。今はもう、身体が勝手に目覚めるようになった」
「『このままだと間に合わないぞ』って?」
 菜穂の裏声に、冬也は噴き出した。
「なんだそれ」
「習慣付くと、そんな感じになるでしょ」
「いや、まあそうだけどさ、いきなりボケ始めるから」
 茶化してみると、菜穂は唇を尖らせた。 
「よく言うよ。今日は寝坊したくせに」
 出発のアナウンスと共に、電車が動き出した。田園と住宅の風景が横に流れていく。冬也は未だに信じられなかった。あの上坂菜穂と冗談を交えて話せていることに。
 菜穂は小学生の頃からの同級生だった。小中学生の頃はクラスメイト程度の関係性で、話すことは少なかった。きっかけは高校生になってからである。陸上部の朝練のために、駅のホームで待っていると、菜穂がやって来たのだ。
「山内……なんでいるの?」
「なんでって、朝練に行くためだけど」
 その日以来、共に通学するようになったのだ。当時の驚いた表情を思い返していると、菜穂は眉を潜めた。
「なんでニヤついてるの」
「えっ」いつの間にか頬が緩んでいたらしい。慌てて表情を引き締め、拳を突き上げた。「きょ、今日の朝練も頑張るぞー」
「お?おー」
 菜穂は戸惑いながらも、拳を突き上げた。意外とノリが良いらしい。誤魔化したこちらが困惑するという奇妙な状況に陥ってしまった。咳払いをしながら、訊ねてみる。
「さ、最近の部活はどうなの?」
 菜穂は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「この間先輩から褒められたんだ。上手になったねって」
「おお。よかったじゃん」
 自分ごとのように嬉しくなり、冬也は身を乗り出した。
「ずっと、頑張ってきたもんな」
「うん」
 満面の笑みで頷いた。その表情を見ているだけで、胸の奥が満たされていく。苦手だった早起きも、菜穂に会うためとなれば苦にはならなかった。部活の練習で挫けそうになる時、彼女の笑顔がいつも浮かぶ。たかが一ヶ月、されど一ヶ月。彼女への想いが膨らんでいくのには十分な時間だった。電車に揺られるこの時間が、いつまでも続いて欲しいと冬也は思っていた。
 普段は帰りの電車が一緒になることはないのだが、その日は珍しく菜穂と鉢合わせをした。降りる駅に着いたため、前方の車両に移動したところ、ドアの前に立つ彼女を発見したのだ。
「よっ」
 背後から声をかけると、菜穂は身体をこわばらせてこちらを見た。冬也であることに気づくと、安堵したように息を吐いた。
「冬也……びっくりした」
 その姿が可笑しくて、冬也はお腹を抱えてしまう。
「もう。何で笑ってるのよ。こっちは急に声を掛けられてびっくりしたんだから」
 ごめんごめんと、目尻の涙を拭う。
「猫みたいだなと思ってさ」
「猫?」
 彼女を宥めながら冬也は説明した。まるで物音に驚き、全身の毛を逆立てる猫のようだったと。
「まったく」
 菜穂は呆れたように眉を潜めた。
「冬也ってさ、人をおちょくるのが好きだよね」
「だからごめんって」
「そういうことされるの、好きじゃない」
 虫の居所が悪かったのか、菜穂に顔を背けられ、冬也は唸った。どうしたものか、と。
 駅の外に出ると、送迎に来た車がロータリーに列を成していた。菜穂はロータリーには向かわずに歩き出す。駅の近くに自宅があるため、徒歩で帰宅しているのだ。冬也は去っていく背中を呼び止めた。
「菜穂、ちょっと時間ある?」
 きょとんとした表情で菜穂は振り返った。冬也は街灯が照らす先にあるコンビニエンスストアに指を向けた後で、手を合わせた。
「さっきは驚かせてごめん。何か奢るよ」
 提案に、菜穂はこくりと頷いた。
「うん。行く」
 自転車を入り口の脇に停め、店内に入る。菜穂は悩むそぶりを見せることなくお菓子売り場へ向かい、チョコレートを手に取った。
「チョコ好きなの?」
「うん。大好き」
 菜穂はチョコレートについて話し始めた。聞いたことのない横文字のメーカーを羅列しているが、知っているところは一つくらいしかなかった。目が生き生きと輝いている。初めて知る、彼女の一面だった。
 部活を終えたばかりの冬也は、お茶に加えて、レジ脇の骨なしチキンを購入した。外へ出ると菜穂は頭を下げた。
「さっきはつまらない事で怒っちゃってごめん」
 菜穂は耳にかかる髪をかき上げた。
「ぶ、部活で疲れてたのかも。それと、お金出してくれてありがと」
「いいよ別に。さっきのは茶化した俺が悪かったし」
 チキンにかじりつくと、熱い肉汁が口内に溢れた。火傷しそうになる。部活で酷使された身体は肉を欲していた。思うがままに、再びかじりつく。奥底からの歓喜と、多幸感に包まれた。
「お腹空いてたんだねえ」
「そりゃあね」
「そういえばさ」と菜穂は口を開く。銀紙に包まれたチョコレートをパキパキと割っている。
「クラスの子に聞かれたんだけど」
 割ったチョコレートを食べながら言った。
「冬也って、彼女いるの?」
 突然の質問に冬也は咳き込んだ。急いでお茶を喉に流し込み、呼吸を整える。
「なんだよ急に」
「クラスの子に聞いてみてって言われたんだもん」
 菜穂は不服なのか唇を尖らせている。
「……いないよ」
 冬也は頭を抱えたくなる。自分の発言に、情けなくなってきた。
「やっぱりね」
「やっぱり?」
「ちなみに友達には、『分かんない。でも部活に夢中だから興味がないと思う』って言っておいたから」
 冬也は唸りながら腕を組む。
「まあ、そうだけどさ」
 勝手に決めつけられるのも愉快ではなかった。いや、待てよ、と冬也は頭に浮かんだことを口にする。
「もしかして、モテ期ってやつ?」
 人生には三度モテ期が来ると聞いたことがある。その一つではないのだろうか。菜穂は呆れるようにため息をついた。
「さあ。知らない」
 顔を背けられ、またかと思ったが、頭によぎるものがあった。さっきまで不機嫌だったのは……
「でも、よかった。本人の口から聞けて」
「え?それって」
「だって朝練仲間がせっかくできたんだもん。いなくなったら寂しいじゃん」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、菜穂はチョコレートのひとかけらを口に含んだ。
「あ、あー朝練ね」
 思わせ振りな態度に落胆しつつも、月明かりに照らされた彼女の表情に、冬也は見惚れていた。
 思っていたより、悠長な時間はないらしい。冬也は焦っていた。コンビニでの会話から数日後、クラスメイトの熊谷から訊ねられたのだ。上坂さんってどんな男がタイプなの?と。冬也はぶっきらぼうに答えた。
「知らないよ。菜穂……上坂が前に言ってたよ。部活一筋だから、そういうのには興味ないって」
 本人に直接聞いていないが、コンビニエンスストアでの安堵していた表情を見るに、そう解釈していいだろう。冬也は自身に言い聞かせる。嘘は言ってない、と。熊谷はそんなところも魅力的だ、と頷いている。
 よく喋り、チョコレートが大好きな女の子。その一面は、熊谷は知らないだろう。自分だけが知っている彼女の姿。小さな優越感を抱えながら、彼に訊ねた。
「告白するつもりなの?」
 バカ。俺なんかが彼女が振り向いてくれるかよ、と熊谷は顔の前で手を振った。
「高嶺の花は見てるくらいがちょうどいいんだよ」
 熊谷の話は眉唾物だとして聞いていたが、どうやら本当だったらしい。放課後、部活へ行くために校庭に出たところ、校舎裏に消えていく菜穂の姿を見たのだ。音楽室ではなく外に出ている時点で違和感があった。当然、脳裏に過ぎったのは熊谷の話である。好奇心が頭をもたげたが、慌てて首を振る。それはダメだろう。でも……
 葛藤している間にも菜穂の背中が遠ざかっていく。やがて好奇心が勝り、跡を着けた。冬也は校舎の壁に隠れ、聞こえてくる声に耳を澄ませた。
「う……上坂さん」
 男の声だった。握っていた手に、汗がにじむ。続く言葉は告白だった。しん、と静寂が辺りを包む。菜穂は返事を躊躇っているのか、声は聞こえなかった。冬也は、小心者だった。次第に胸の内が罪悪感で満たされ始め、その場から逃げるように走り去った。