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煤けたアジトにて

ー/ー



 ネリのアジトは、放棄された自動工場の資材搬入路の奥にある、コンクリートの小部屋だった。
 『ベスタ』の住人たちが「家」と呼ぶものは、たいてい雨風を凌ぐだけの檻に過ぎない。ここも例外ではなく、剥き出しの鉄骨と、絶えず低く唸る換気扇の音が、居住空間というよりは「兵器庫」のような冷たさを醸し出している。

 部屋の中央、古びたポータブルストーブが、赤い火を小さく揺らしていた。
 ネリは濡れた上着を乱暴に脱ぎ捨てると、アッピスに背を向けたまま、棚から泥のついた瓶を取り出した。中身は、この街で流通している質の悪いアルコールだ。

 「……飲め。少しは体温が戻る」

 投げ渡されたグラスを、アッピスは両手で包むようにして受け取った。
 彼は部屋の隅、積み上げられた弾薬箱の上に、場違いなほど優雅な仕草で腰を下ろしている。濡れた銀髪がストーブの火を反射して、この汚れた部屋にだけ、別の世界の光が紛れ込んだかのような錯覚をネリに与えた。

 「ありがとう、ネリ。君の選ぶものは、いつも……どこか懐かしい匂いがする」

 「黙れ。……お前に『懐かしい』なんて言葉を使わせるために、外へやったんじゃない」

 ネリは自分のグラスを煽り、喉を焼くような不快な熱さに顔を(しか)めた。
 視界の端で、アッピスがゆっくりとグラスに口をつける。彼は眉一つ動かさず、毒のような酒を飲み干した。外の世界で「聖者」として、最上のワインや香草茶を啜っていたはずの男が、ベスタの泥水を拒まない。その事実が、ネリの苛立ちを募らせた。

 「10年だ。アッピス」

 ネリは壁に背を預け、ようやく彼を正面から見据えた。

 「お前を逃がすために、私はこの街の半分を敵に回した。お前の指一本、この泥に触れさせないために、私は人を殺し、魂を削って、お前を『光』の向こう側へ放り投げた。……なのに、なぜだ」

 彼女の声は、低く、重い。

 「外の世界はどうだった。お前のいた『聖域』は、そんなに居心地が悪かったのか」

 アッピスはグラスを置き、膝の上で指を組んだ。
 その指先は、今も驚くほど白く、そして僅かに震えている。

 「……あたたかかったよ、ネリ。空は本当の青色で、風には花の香りが混じっていた。人々は僕を敬い、僕が言葉を発するだけで、涙を流して膝をつく。僕が望めば、明日をも知れぬ命なんて一つもなかった」

 彼は一度言葉を切り、悲しげな微笑を浮かべた。

 「でも、そこには『君』がいなかった。君の流す血も、君が吐き出す呪いも、君が僕を抱きしめる時の……あの鉄錆の匂いも、どこにもなかった」

 「……っ、そんなことのために、全てを捨てたというのか」

 「全てじゃない。僕は、僕の『心』を迎えに来たんだ。……ネリ、君が僕と一緒に外へ逃がしたはずの、君自身の心を」

 アッピスが立ち上がり、音もなくネリに近づく。
 ストーブの火が二人の影を壁に長く、歪に引き伸ばした。
 彼は、10年前に預けられた『花の化石』を、テーブルの上に静かに置いた。石化した花弁が、鈍い音を立てて転がる。

 「外の世界で僕は、死んだように生きていた。君に『幸せになれ』と呪いをかけられたまま、幸福という名の拷問を受けていたんだ。……ねえ、ネリ。もう、いいだろう?」

 アッピスが、ネリの頬に触れようと手を伸ばす。
 その掌は、雨の冷たさを失い、熱に浮かされたように熱い。

 「僕を、君の泥の中に沈めてよ。今度こそ、二度と光なんて見えない場所まで」

 アッピスの指先がネリの頬に触れようとした、その瞬間だった。
 アジトの薄い鉄扉が、獣の咆哮のような衝撃音と共に歪んだ。

 「――っ!」

 ネリの反応は、思考よりも速かった。
 アッピスの手を無造作に振り払い、同時に腰のホルスターから愛用の短器官銃を抜き放つ。彼女の瞳から先ほどまでの動揺が消え、冷徹な「用心棒」の光が宿る。

 「……嗅ぎつけやがったな、ハイエナども」

 扉の向こうから、下卑た笑い声が漏れ聞こえる。
 『ベスタ』において、外の世界の絹を纏った人間は、それだけで一財産に等しい。コンテナから這い出した「上質な獲物」をネリが囲い込んだという噂は、雨音よりも速く廃墟の街を駆け巡ったのだ。

 ドゴォッ、と二度目の衝撃。
 ボルトが弾け飛び、火花を散らして扉が崩落する。
 暗がりから踏み込んできたのは、防ガスマスクを歪に改造し、錆びた鉄パイプや鉈(なた)を握った三人の略奪者だった。

 「よお、ネリ。独り占めは良くねえなぁ。その綺麗なガキ、俺たちに……」

 男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
 ネリの指がトリガーを引き絞る。
 狭い室内で、乾いた銃声が鼓膜を震わせた。

 一発目は、先頭の男の膝を砕き。
 二発目は、崩れ落ちるその眉間を正確に貫いた。

 どさりと重い肉塊が転がる音が、静寂を上書きする。
 残りの二人が恐怖に顔を歪める暇さえ、ネリは与えない。彼女はストーブの火を蹴り飛ばし、一瞬の暗闇を作り出すと、影のように踏み込んだ。
 抜き放ったナイフが、雨に濡れた男の喉笛を、一切の抵抗を許さず裂く。

 鮮血が噴き出し、煤けた壁を赤く塗り潰した。

 ネリは返り血を浴びた顔を拭いもせず、最後の一人の胸に銃口を押し当てる。
 「……死にたい奴から、一歩前へ出ろと言ったはずだ」

 引き金が引かれ、三つ目の死体が床に転がった。

 硝煙と、焦げた肉の匂い、そして鉄錆の香りが部屋に充満する。
 ネリは肩で息をしながら、背後で沈黙を守るアッピスを振り返った。

 怯えているだろうか。
 自分の救った「光」が、こんなにも無慈悲に命を散らす姿を見て、絶望しているだろうか。
 そう思ったネリの期待は、音もなく崩れ去る。

 アッピスは、膝をついたまま、恍惚とした表情で彼女を見上げていた。
 彼の白い頬には、ネリが殺した男の返り血が一筋、紅(べに)を引いたように付着している。

 「……ああ、綺麗だ、ネリ」

 アッピスは震える手で、自分の顔についた血を指先でなぞり、それをゆっくりと唇で舐めとった。

 「外の世界のどんな祈りよりも、今の君の銃声の方が、僕の魂を清めてくれる。……ねえ、もっと見せてよ。君が僕のために、この世界を汚していく姿を」

 その瞳には、恐怖など微塵もなかった。
 あるのは、自分を守るために「悪」を厭わないネリへの、狂信的なまでの崇拝。

 ネリは戦慄した。
 彼女が守ろうとしていた「アッピスの無垢」は、すでに変質していた。
 彼女が血に汚れれば汚れるほど、この青年は深く、深く満たされていくのだ。

 「……お前、本当に、狂ってるな」

 ネリは銃を握り直し、毒づくように笑った。
 ベスタの夜はまだ始まったばかりだ。


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 ネリのアジトは、放棄された自動工場の資材搬入路の奥にある、コンクリートの小部屋だった。
 『ベスタ』の住人たちが「家」と呼ぶものは、たいてい雨風を凌ぐだけの檻に過ぎない。ここも例外ではなく、剥き出しの鉄骨と、絶えず低く唸る換気扇の音が、居住空間というよりは「兵器庫」のような冷たさを醸し出している。
 部屋の中央、古びたポータブルストーブが、赤い火を小さく揺らしていた。
 ネリは濡れた上着を乱暴に脱ぎ捨てると、アッピスに背を向けたまま、棚から泥のついた瓶を取り出した。中身は、この街で流通している質の悪いアルコールだ。
 「……飲め。少しは体温が戻る」
 投げ渡されたグラスを、アッピスは両手で包むようにして受け取った。
 彼は部屋の隅、積み上げられた弾薬箱の上に、場違いなほど優雅な仕草で腰を下ろしている。濡れた銀髪がストーブの火を反射して、この汚れた部屋にだけ、別の世界の光が紛れ込んだかのような錯覚をネリに与えた。
 「ありがとう、ネリ。君の選ぶものは、いつも……どこか懐かしい匂いがする」
 「黙れ。……お前に『懐かしい』なんて言葉を使わせるために、外へやったんじゃない」
 ネリは自分のグラスを煽り、喉を焼くような不快な熱さに顔を|顰《しか》めた。
 視界の端で、アッピスがゆっくりとグラスに口をつける。彼は眉一つ動かさず、毒のような酒を飲み干した。外の世界で「聖者」として、最上のワインや香草茶を啜っていたはずの男が、ベスタの泥水を拒まない。その事実が、ネリの苛立ちを募らせた。
 「10年だ。アッピス」
 ネリは壁に背を預け、ようやく彼を正面から見据えた。
 「お前を逃がすために、私はこの街の半分を敵に回した。お前の指一本、この泥に触れさせないために、私は人を殺し、魂を削って、お前を『光』の向こう側へ放り投げた。……なのに、なぜだ」
 彼女の声は、低く、重い。
 「外の世界はどうだった。お前のいた『聖域』は、そんなに居心地が悪かったのか」
 アッピスはグラスを置き、膝の上で指を組んだ。
 その指先は、今も驚くほど白く、そして僅かに震えている。
 「……あたたかかったよ、ネリ。空は本当の青色で、風には花の香りが混じっていた。人々は僕を敬い、僕が言葉を発するだけで、涙を流して膝をつく。僕が望めば、明日をも知れぬ命なんて一つもなかった」
 彼は一度言葉を切り、悲しげな微笑を浮かべた。
 「でも、そこには『君』がいなかった。君の流す血も、君が吐き出す呪いも、君が僕を抱きしめる時の……あの鉄錆の匂いも、どこにもなかった」
 「……っ、そんなことのために、全てを捨てたというのか」
 「全てじゃない。僕は、僕の『心』を迎えに来たんだ。……ネリ、君が僕と一緒に外へ逃がしたはずの、君自身の心を」
 アッピスが立ち上がり、音もなくネリに近づく。
 ストーブの火が二人の影を壁に長く、歪に引き伸ばした。
 彼は、10年前に預けられた『花の化石』を、テーブルの上に静かに置いた。石化した花弁が、鈍い音を立てて転がる。
 「外の世界で僕は、死んだように生きていた。君に『幸せになれ』と呪いをかけられたまま、幸福という名の拷問を受けていたんだ。……ねえ、ネリ。もう、いいだろう?」
 アッピスが、ネリの頬に触れようと手を伸ばす。
 その掌は、雨の冷たさを失い、熱に浮かされたように熱い。
 「僕を、君の泥の中に沈めてよ。今度こそ、二度と光なんて見えない場所まで」
 アッピスの指先がネリの頬に触れようとした、その瞬間だった。
 アジトの薄い鉄扉が、獣の咆哮のような衝撃音と共に歪んだ。
 「――っ!」
 ネリの反応は、思考よりも速かった。
 アッピスの手を無造作に振り払い、同時に腰のホルスターから愛用の短器官銃を抜き放つ。彼女の瞳から先ほどまでの動揺が消え、冷徹な「用心棒」の光が宿る。
 「……嗅ぎつけやがったな、ハイエナども」
 扉の向こうから、下卑た笑い声が漏れ聞こえる。
 『ベスタ』において、外の世界の絹を纏った人間は、それだけで一財産に等しい。コンテナから這い出した「上質な獲物」をネリが囲い込んだという噂は、雨音よりも速く廃墟の街を駆け巡ったのだ。
 ドゴォッ、と二度目の衝撃。
 ボルトが弾け飛び、火花を散らして扉が崩落する。
 暗がりから踏み込んできたのは、防ガスマスクを歪に改造し、錆びた鉄パイプや鉈(なた)を握った三人の略奪者だった。
 「よお、ネリ。独り占めは良くねえなぁ。その綺麗なガキ、俺たちに……」
 男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
 ネリの指がトリガーを引き絞る。
 狭い室内で、乾いた銃声が鼓膜を震わせた。
 一発目は、先頭の男の膝を砕き。
 二発目は、崩れ落ちるその眉間を正確に貫いた。
 どさりと重い肉塊が転がる音が、静寂を上書きする。
 残りの二人が恐怖に顔を歪める暇さえ、ネリは与えない。彼女はストーブの火を蹴り飛ばし、一瞬の暗闇を作り出すと、影のように踏み込んだ。
 抜き放ったナイフが、雨に濡れた男の喉笛を、一切の抵抗を許さず裂く。
 鮮血が噴き出し、煤けた壁を赤く塗り潰した。
 ネリは返り血を浴びた顔を拭いもせず、最後の一人の胸に銃口を押し当てる。
 「……死にたい奴から、一歩前へ出ろと言ったはずだ」
 引き金が引かれ、三つ目の死体が床に転がった。
 硝煙と、焦げた肉の匂い、そして鉄錆の香りが部屋に充満する。
 ネリは肩で息をしながら、背後で沈黙を守るアッピスを振り返った。
 怯えているだろうか。
 自分の救った「光」が、こんなにも無慈悲に命を散らす姿を見て、絶望しているだろうか。
 そう思ったネリの期待は、音もなく崩れ去る。
 アッピスは、膝をついたまま、恍惚とした表情で彼女を見上げていた。
 彼の白い頬には、ネリが殺した男の返り血が一筋、紅(べに)を引いたように付着している。
 「……ああ、綺麗だ、ネリ」
 アッピスは震える手で、自分の顔についた血を指先でなぞり、それをゆっくりと唇で舐めとった。
 「外の世界のどんな祈りよりも、今の君の銃声の方が、僕の魂を清めてくれる。……ねえ、もっと見せてよ。君が僕のために、この世界を汚していく姿を」
 その瞳には、恐怖など微塵もなかった。
 あるのは、自分を守るために「悪」を厭わないネリへの、狂信的なまでの崇拝。
 ネリは戦慄した。
 彼女が守ろうとしていた「アッピスの無垢」は、すでに変質していた。
 彼女が血に汚れれば汚れるほど、この青年は深く、深く満たされていくのだ。
 「……お前、本当に、狂ってるな」
 ネリは銃を握り直し、毒づくように笑った。
 ベスタの夜はまだ始まったばかりだ。