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再見

ー/ー



 空を覆うのは、(すす)けた鉄の色をした厚い雲だ。
 監獄都市『ベスタ』。その地に溢れるのは外の世界で不要と見なされたゴミ――使い古された機械、禁忌の兵器、そして社会から弾き出された罪人たちが投棄される巨大な掃き溜め。
 ここには太陽の光など届かない。ただ、腐食を早めるような鈍色の雨が、今日も絶え間なく降り注いでいた。

 路地の隅、打ち捨てられた巨大な掘削機の影で、ネリは息を潜めていた。
 跳ね上げた泥が頬にこびりついているが、拭う気にもなれない。彼女の指先は、愛用の短器官銃(サブマシンガン)のトリガーに、冷徹にかけられていた。

「……また、外のゴミか」

 ネリは低く呟き、視線の先にある巨大な投棄コンテナを睨みつけた。
 今日の仕事は、この『ベスタ』を支配するジャンク屋の元締めから請け負った「回収」だ。外の世界から落とされるコンテナには、時折、ベスタでは手に入らない貴重な電子部品や、高純度のエネルギーセルが紛れている。それを他のハイエナどもに奪われる前に確保する。それが用心棒であるネリの日常だった。

 ガラン、と。
 重い金属音が、雨音を切り裂いた。
 通常、投棄コンテナは衝撃で歪み、中身を無造作にぶちまけるものだ。だが、目の前のそれは違った。内側から、誰かが「開けた」のだ。

 ネリの背筋を、名状しがたい嫌な予感が駆け抜ける。
 銃口を向けたまま、彼女はじりじりと間合いを詰めた。
 コンテナの隙間から溢れ出したのは、機械のオイルの匂いではない。微かに、だが決定的にこの場所には不釣り合いな――清浄な香ばしい匂いだ。

 ズルリ、と手が伸びた。
 泥濘(ぬかるみ)に膝をつき、這い出してきた一人の男。
 鉄錆と血の匂いが充満するこの『ベスタ』において、その白さはあまりに異様だった。纏っている布地は、外の世界でも高貴な身分しか許されないであろう上質な絹。そして何より、雨に打たれるその指先が、透き通るほどに白かった。

「……動くな。それ以上動けば、頭を吹き飛ばす」

 ネリの声が、自分でも驚くほど震えていた。
 男はゆっくりと顔を上げた。濡れた銀髪の隙間から覗く、深い紺色の瞳。
 ネリは息を呑んだ。心臓が、肋骨の内側を激しく叩きつける。

「……は? 何故、そこにいる」

 記憶の奥底に封印したはずの面影が、眼前の青年と重なる。
 10年前。自分の手で、この地獄から「光」の下へと無理やり押し出した、あの少年。
 
「……久しぶりだね。ネリ」

 青年の唇が、微かに弧を描いた。
 10年という歳月は、少年の幼さを残酷なまでに削ぎ落とし、芸術品のように整った貌へと変えていた。だが、その瞳に宿る光だけは、あの日ネリを絶望させた「純粋すぎる執着」のままだった。

「な、何故だ……。お前は、外の世界で……。逃がしてやったはずだろう! 二度とここには戻らないと、そう約束して!」

 ネリの怒声が、雨に掻き消される。
 彼女はこの10年、彼がどこか温かな場所で、誰かに愛され、真っ当な人間として生きていることだけを糧に、この泥水を啜ってきたのだ。彼を逃がしたあの日、ネリは自分の「心」も一緒に外へ逃がしたつもりでいた。彼が幸せである限り、自分の手はどれほど血に汚れようとも構わないと。

 だが、アッピスは静かに首を振った。
 彼は懐から、紐のついた小さな塊を取り出した。
 それは、宝石でもなければ、高価な部品でもない。ただの、石化した花の塊。
 10年前、別れ際にネリが「幸せのお守りに」と手渡した、『決して枯れない花の化石』だった。

「外の世界の空気は、僕には薄すぎたんだよ、ネリ」

 アッピスは一歩、また一歩と、泥を厭わずにネリへと歩み寄る。
 ネリの銃口が彼の胸を捉えているというのに、彼はまるで愛しい者に会いに行くような、うっとりとした表情を浮かべていた。

「君のいない場所で手に入れた名声も、聖者の椅子も、僕にとってはただの重荷でしかなかった。あの日、君がくれたこの『枯れない花』だけが、僕に呼吸を許してくれたんだ」

 彼はネリの目の前で立ち止まり、その化石を、血に汚れた彼女の手にそっと重ねた。

「約束通り……君の腕の中で、死にに来たよ」

 * 

 ネリの指先が、トリガーの上で凍りついていた。
 銃口の先、わずか数十センチの距離に、アッピスの胸がある。上質な絹の向こう側で、彼の鼓動が静かに、だが確かに脈打っているのが伝わってくるようだった。

 雨は、容赦なく二人を叩き続ける。
 ベスタの雨は煤混じりで、触れるものすべてを汚していく。それなのに、アッピスの頬を伝い落ちる雫だけが、真珠のように白く透き通って見えるのはなぜか。

「……何を、言っている」

 ネリの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 脳が拒絶している。10年前、自分の全存在を賭けて、地獄の縁から突き飛ばすようにして逃がした少年。彼が歩むべきだったのは、光の差す大通りであり、清らかな水が流れる庭園だったはずだ。

 だが、目の前の現実はあまりに無慈悲だった。
 アッピスは、泥濘に膝をついたまま、ネリの血に汚れた手をそっと包み込む。その(てのひら)は、驚くほど熱かった。

「君が渡してくれたこの石だけが、僕の10年を支えていたんだ」

 彼が差し出した『花の化石』。
 それは、10年前の別れ際、ネリが「せめてこれだけは」と、彼に持たせた唯一の愛だった。いつか枯れる花ではなく、石となって形を留めたそれ。彼女は、彼が外の世界でこの石を見るたびに、ベスタの汚れを忘れ、自分という存在すら忘れて、幸せになることを願っていた。

 それなのに。
 
「君がいない場所で、僕は『聖者』になんてなりたくなかった」

 アッピスの言葉が、鋭利なナイフとなってネリの胸を抉る。
 彼にとって、この化石は「救い」ではなく「楔」だったのだ。外の世界で手に入れた栄光も、名声も、すべてはネリがいないという欠落を埋めるための砂細工に過ぎなかった。

 ネリは、彼を突き飛ばすべきだった。
 「今すぐコンテナに戻れ」と、あるいは「そのまま死ね」と突き放すべきだった。
 だが、彼女の体は、10年間の孤独が叫び出すのを止められなかった。

 彼女の指が、銃から離れる。
 代わりに、アッピスが差し出した冷たい化石を、痛いほどに握りしめた。

 ――ああ、そうだ。
 
 ネリは、この10年、彼を救ったつもりで、自分自身をベスタの底に置き去りにしていたのだ。彼が「白く」あり続けることだけを支えに、自分はどこまでも「黒く」染まって。
 その歪な均衡が、今、アッピスの帰還という暴力によって、音を立てて崩れ去っていく。

 二人の周囲には、依然として鉄錆と死の匂いが立ち込めている。
 遠くで、コンテナの回収を狙うハイエナたちの足音が、雨音に混じって近づいてくる。さらにその背後からは、アッピスを追ってきたであろう、秩序の足音。

 だが、今のネリには、そのすべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
 
 視界にあるのは、降りしきる雨の中で、狂おしいほどに美しく微笑むアッピスだけ。
 10年前、彼女が彼に与えたはずの「自由」は、巡り巡って、二人を永遠に繋ぎ止める「呪い」となって帰ってきたのだ。

「……馬鹿な、奴だ」

 ネリは、初めて泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうな、奇妙に歪んだ貌で彼を見つめた。
 雨は止まない。
 ベスタの夜が、二つの影を妖しく包み込もうとしていた。


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 空を覆うのは、|煤《すす》けた鉄の色をした厚い雲だ。
 監獄都市『ベスタ』。その地に溢れるのは外の世界で不要と見なされたゴミ――使い古された機械、禁忌の兵器、そして社会から弾き出された罪人たちが投棄される巨大な掃き溜め。
 ここには太陽の光など届かない。ただ、腐食を早めるような鈍色の雨が、今日も絶え間なく降り注いでいた。
 路地の隅、打ち捨てられた巨大な掘削機の影で、ネリは息を潜めていた。
 跳ね上げた泥が頬にこびりついているが、拭う気にもなれない。彼女の指先は、愛用の短器官銃(サブマシンガン)のトリガーに、冷徹にかけられていた。
「……また、外のゴミか」
 ネリは低く呟き、視線の先にある巨大な投棄コンテナを睨みつけた。
 今日の仕事は、この『ベスタ』を支配するジャンク屋の元締めから請け負った「回収」だ。外の世界から落とされるコンテナには、時折、ベスタでは手に入らない貴重な電子部品や、高純度のエネルギーセルが紛れている。それを他のハイエナどもに奪われる前に確保する。それが用心棒であるネリの日常だった。
 ガラン、と。
 重い金属音が、雨音を切り裂いた。
 通常、投棄コンテナは衝撃で歪み、中身を無造作にぶちまけるものだ。だが、目の前のそれは違った。内側から、誰かが「開けた」のだ。
 ネリの背筋を、名状しがたい嫌な予感が駆け抜ける。
 銃口を向けたまま、彼女はじりじりと間合いを詰めた。
 コンテナの隙間から溢れ出したのは、機械のオイルの匂いではない。微かに、だが決定的にこの場所には不釣り合いな――清浄な香ばしい匂いだ。
 ズルリ、と手が伸びた。
 |泥濘《ぬかるみ》に膝をつき、這い出してきた一人の男。
 鉄錆と血の匂いが充満するこの『ベスタ』において、その白さはあまりに異様だった。纏っている布地は、外の世界でも高貴な身分しか許されないであろう上質な絹。そして何より、雨に打たれるその指先が、透き通るほどに白かった。
「……動くな。それ以上動けば、頭を吹き飛ばす」
 ネリの声が、自分でも驚くほど震えていた。
 男はゆっくりと顔を上げた。濡れた銀髪の隙間から覗く、深い紺色の瞳。
 ネリは息を呑んだ。心臓が、肋骨の内側を激しく叩きつける。
「……は? 何故、そこにいる」
 記憶の奥底に封印したはずの面影が、眼前の青年と重なる。
 10年前。自分の手で、この地獄から「光」の下へと無理やり押し出した、あの少年。
「……久しぶりだね。ネリ」
 青年の唇が、微かに弧を描いた。
 10年という歳月は、少年の幼さを残酷なまでに削ぎ落とし、芸術品のように整った貌へと変えていた。だが、その瞳に宿る光だけは、あの日ネリを絶望させた「純粋すぎる執着」のままだった。
「な、何故だ……。お前は、外の世界で……。逃がしてやったはずだろう! 二度とここには戻らないと、そう約束して!」
 ネリの怒声が、雨に掻き消される。
 彼女はこの10年、彼がどこか温かな場所で、誰かに愛され、真っ当な人間として生きていることだけを糧に、この泥水を啜ってきたのだ。彼を逃がしたあの日、ネリは自分の「心」も一緒に外へ逃がしたつもりでいた。彼が幸せである限り、自分の手はどれほど血に汚れようとも構わないと。
 だが、アッピスは静かに首を振った。
 彼は懐から、紐のついた小さな塊を取り出した。
 それは、宝石でもなければ、高価な部品でもない。ただの、石化した花の塊。
 10年前、別れ際にネリが「幸せのお守りに」と手渡した、『決して枯れない花の化石』だった。
「外の世界の空気は、僕には薄すぎたんだよ、ネリ」
 アッピスは一歩、また一歩と、泥を厭わずにネリへと歩み寄る。
 ネリの銃口が彼の胸を捉えているというのに、彼はまるで愛しい者に会いに行くような、うっとりとした表情を浮かべていた。
「君のいない場所で手に入れた名声も、聖者の椅子も、僕にとってはただの重荷でしかなかった。あの日、君がくれたこの『枯れない花』だけが、僕に呼吸を許してくれたんだ」
 彼はネリの目の前で立ち止まり、その化石を、血に汚れた彼女の手にそっと重ねた。
「約束通り……君の腕の中で、死にに来たよ」
 * 
 ネリの指先が、トリガーの上で凍りついていた。
 銃口の先、わずか数十センチの距離に、アッピスの胸がある。上質な絹の向こう側で、彼の鼓動が静かに、だが確かに脈打っているのが伝わってくるようだった。
 雨は、容赦なく二人を叩き続ける。
 ベスタの雨は煤混じりで、触れるものすべてを汚していく。それなのに、アッピスの頬を伝い落ちる雫だけが、真珠のように白く透き通って見えるのはなぜか。
「……何を、言っている」
 ネリの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 脳が拒絶している。10年前、自分の全存在を賭けて、地獄の縁から突き飛ばすようにして逃がした少年。彼が歩むべきだったのは、光の差す大通りであり、清らかな水が流れる庭園だったはずだ。
 だが、目の前の現実はあまりに無慈悲だった。
 アッピスは、泥濘に膝をついたまま、ネリの血に汚れた手をそっと包み込む。その|掌《てのひら》は、驚くほど熱かった。
「君が渡してくれたこの石だけが、僕の10年を支えていたんだ」
 彼が差し出した『花の化石』。
 それは、10年前の別れ際、ネリが「せめてこれだけは」と、彼に持たせた唯一の愛だった。いつか枯れる花ではなく、石となって形を留めたそれ。彼女は、彼が外の世界でこの石を見るたびに、ベスタの汚れを忘れ、自分という存在すら忘れて、幸せになることを願っていた。
 それなのに。
「君がいない場所で、僕は『聖者』になんてなりたくなかった」
 アッピスの言葉が、鋭利なナイフとなってネリの胸を抉る。
 彼にとって、この化石は「救い」ではなく「楔」だったのだ。外の世界で手に入れた栄光も、名声も、すべてはネリがいないという欠落を埋めるための砂細工に過ぎなかった。
 ネリは、彼を突き飛ばすべきだった。
 「今すぐコンテナに戻れ」と、あるいは「そのまま死ね」と突き放すべきだった。
 だが、彼女の体は、10年間の孤独が叫び出すのを止められなかった。
 彼女の指が、銃から離れる。
 代わりに、アッピスが差し出した冷たい化石を、痛いほどに握りしめた。
 ――ああ、そうだ。
 ネリは、この10年、彼を救ったつもりで、自分自身をベスタの底に置き去りにしていたのだ。彼が「白く」あり続けることだけを支えに、自分はどこまでも「黒く」染まって。
 その歪な均衡が、今、アッピスの帰還という暴力によって、音を立てて崩れ去っていく。
 二人の周囲には、依然として鉄錆と死の匂いが立ち込めている。
 遠くで、コンテナの回収を狙うハイエナたちの足音が、雨音に混じって近づいてくる。さらにその背後からは、アッピスを追ってきたであろう、秩序の足音。
 だが、今のネリには、そのすべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
 視界にあるのは、降りしきる雨の中で、狂おしいほどに美しく微笑むアッピスだけ。
 10年前、彼女が彼に与えたはずの「自由」は、巡り巡って、二人を永遠に繋ぎ止める「呪い」となって帰ってきたのだ。
「……馬鹿な、奴だ」
 ネリは、初めて泣き出しそうな、あるいは笑い出しそうな、奇妙に歪んだ貌で彼を見つめた。
 雨は止まない。
 ベスタの夜が、二つの影を妖しく包み込もうとしていた。