第三話:不完全な封印と、紅い執着の芽生え(後編)
ー/ー「いいよ」
ヒカルは微笑んだまま、もう一度言った。声は小さく、洞窟の闇に溶けるように掠れていたが、その言葉だけは——紛れもなく、真っ直ぐだった。
「僕を助けてくれた時のレヴィアは、すごく綺麗だった」
レヴィアの唇が、わなないた。
「……その君が困るなら、僕の記憶なんていらない」
ヒカルの声が少しずつ遠くなっていく。意識がもう保てないのだろう。瞼が重たげに下がり、焦点が揺らぐ。それでも——言葉を紡ぐことをやめなかった。
「君がずっと……笑っていられるなら……」
最後に、ヒカルは精一杯の力で笑みを作った。
「僕は、全部忘れてもいい」
レヴィアは息を呑んだ。喉の奥が焼けるように熱い。
——自分の保身のために。この子の心にある「自分」を、奪おうとしている。
その罪悪感が、胸を深く抉った。「やめて」と叫びたかった。今すぐフレアの手を払い除け、ヒカルを連れて逃げ出したかった。けれど——言えなかった。言えば、この子の命が危うくなる。
爪が掌に食い込む。血が滲んでいることにすら気づかない。
「……くそっ」
フレアが忌々しげに舌打ちした。額にかざした手が微かに震えている。
「我は精神操作系の魔法は苦手なのだ……こういう搦め手は、アクア様のところの、あのシエルとかいう小生意気な候補生に任せたいものだ」
ぼやきながらも、魔力の集中を乱すまいと眉間に深い皺を刻む。
「本当にここにあやつがいなくて助かった……あいつに見られれば、十日は理屈を並べ立てて嘲笑われるだろうからな……」
フレアの不器用な愚痴を、レヴィアは黙って聞いていた。唇を噛み、涙を堪えながら。
——シエル。水の国の、あのアクアお姉様の家庭教師。
後に自分の副官となるフレアと、その妻となる軍師シエルの名を、レヴィアはこの夜、初めて明確に刻みつけた。
「……また、いつか会えるかな。レヴィア」
意識が遠のく中で、ヒカルが最後に紡いだ言葉。その声はもう、雨音より小さかった。
レヴィアは答えられなかった。喉に言葉が詰まって、何も出てこない。
ただ——膝をつき、横たわるヒカルの頬にそっと手を添えた。冷えかけた肌に、自分の掌の熱を移すように。
「……ん」
ヒカルの瞼が静かに落ちた。口元にはまだ、微かな笑みの残像があった。
封印の術が放たれる。フレアの掌から淡い光が溢れ、ヒカルの額を包み込んだ。少年の表情から、一つずつ何かが剥がれ落ちていくように——穏やかに、残酷に、記憶が消えていく。
不器用なフレアの魔法は、ヒカルの「記録」を奪った。
けれど——レヴィアに向けられた「感情」までは、消し去ることができなかった。
「……ヒカル」
レヴィアはヒカルの傍らに膝をついたまま、小さく呟いた。
「我は、忘れないわ」
声が震える。黄金の瞳から、一筋だけ——雫がこぼれた。
「貴方が我を救ってくれたこと。……絶対に」
レヴィアはゆっくりと立ち上がり、右腕に巻かれた紅い布に視線を落とした。ヒカルが自分の服を裂いて作ってくれた、即席の包帯。泥と雨水に汚れ、ほつれかけたその布を、左手でそっと包むように握り締めた。
指先に残る、あの温もりの名残。
解くことなく——自分の腕に固く巻き直す。結び目を、二度、三度と念入りに押さえた。もう二度と解けないように。もう二度と、失くさないように。
それは後に、彼女がヒカルを見つけ出すための探知魔法を刻む「執着の楔」となる。
「姫様。参りましょう」
フレアが静かに促した。レヴィアは一度だけ振り返り、洞窟の闇に横たわるヒカルの小さな寝顔を目に焼きつけた。
——また、いつか会えるかな。
その声が、耳の奥でまだ響いている。
レヴィアはフレアに抱えられ、雨雲の切れ間から覗く星空へと舞い上がった。紅蓮の竜姫を乗せた騎士の翼が、湿った夜風を切って高度を上げていく。眼下の森が暗い海のように遠ざかり、やがて——あの洞窟の灯りも、木々の闇に呑まれて見えなくなった。
結界を越える瞬間、ぴりりと肌を刺す魔力の膜。来る時は勢いに任せて突き破ったそれが、帰り道では妙に重たく感じた。
離宮の白い壁が、月明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。たった一晩で、それは見慣れた故郷ではなく——檻の壁に見えた。
最上階の私室に降り立った途端、フレアの声が背後から降ってきた。
「姫様。改めて申し上げます」
レヴィアは振り返らなかった。寝台の傍らに立ち、右腕の紅い布をそっと撫でている。
「今宵の件、陛下には私から『結界の魔力揺動は自然現象であった』と報告いたします。ですが——」
「分かっているわ」
「いいえ、分かっておられません」
フレアの声が、一段低くなった。
「姫様は今夜、三つの禁を犯されました。結界の無断突破。人間界への侵入。そして、人間との接触。いずれも竜族の律令では極刑に値する罪です。私が隠蔽するのは、姫様への忠義ゆえ——ですが、同じ過ちを二度繰り返されるならば」
「……繰り返さないわ」
レヴィアは遮るように言った。だが、その声には覇気がなかった。寝台の縁に腰を下ろし、膝の上で両手を組む。右腕の紅い布が、月光に照らされて微かに光った。
「……フレア。一つだけ聞いても良いかしら」
「何でしょう」
「あの子は……ヒカルは、目覚めた時、怖い思いをしないかしら。知らない場所で、一人で。何も覚えていない状態で」
フレアは一瞬言葉に詰まった。あの洞窟で主に剣を向けた少年の——震えながらも退かなかった、あの目を思い出す。
「……あの少年は、強い子です。それは認めましょう。独りでも、立てるでしょう」
「そう……ね」
レヴィアは小さく呟いて、右腕の布に視線を落とした。汚れたほつれの一本一本を、指先で丁寧になぞる。ヒカルがこれを裂いた時の、あの躊躇いのない「ビリッ」という音が耳に蘇った。
「姫様。その布は捨てなさい。証拠を残すべきではありません」
「嫌よ!」
即答だった。レヴィアは布を抱えるように右腕を胸に引き寄せ、フレアを睨み上げた。
「これは我のものだわ。誰にも渡さない」
「姫様——」
「これは命令よ、フレア。この布のことは二度と口にするな!」
フレアは口を開きかけ——そして閉じた。主の黄金の瞳に宿る光が、先ほどまでの迷子の少女のそれではなく、王族としての絶対的な意志の色を帯びていることに気づいたからだ。
「……御意」
苦い顔で一礼し、フレアは私室を辞した。重い扉が閉まり、足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
一人になった部屋は、ひどく静かだった。
レヴィアは寝台に横たわり、天蓋の薄絹越しに月を見上げた。白い離宮の白い天井。白い寝台。白い月光。何もかもが白く、冷たい。
右腕の紅い布だけが——この部屋の中で唯一、温度を持っているように感じられた。
それを頬に当てる。もう乾いていて、ヒカルの体温など残っているはずがない。それでも、レヴィアにはまだ温かく思えた。
「……ヒカル」
誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。
「あなたに何かあったとき、我は必ず助けに行くわ。どこにいても、我は必ず、貴方を見つけ出すわ」
黄金の瞳が、暗がりの中で静かに燃えていた。それは幼い恋心と呼ぶにはあまりに苛烈で、執着と呼ぶにはあまりに切実な——名前のつかない炎だった。
十歳の竜姫は、この夜から変わった。鳥籠の退屈を嘆く少女ではなく、鳥籠の外に「取り戻すべきもの」を持つ者へと。
右腕の紅い布を握り締めたまま、レヴィアはいつしか眠りに落ちていた。夢の中でもまだ、あの雨の森にいた。小さな手の温もりを、離すまいとしていた。
朝焼けの光が、森に差し込んでいた。
雨は上がっていた。木の葉に残った雫が、朝日を受けて宝石のように煌めいている。鳥の声が遠くで鳴り、湿った土の匂いが立ち上っている。森は何事もなかったかのように穏やかで——洞窟の中だけが、まだ昨夜の温度を残していた。
ヒカルは、薄明の中で目を覚ました。
「……あれ」
身体を起こす。背中に張り付いた湿った土の冷たさに、小さく身震いした。洞窟の天井から落ちる雫の音が、やけに大きく聞こえる。
「僕は……何をしていたんだっけ」
目の前に、焚き火の跡があった。燃え尽きた灰と、炭になった枝。誰かがここで火を焚いた痕跡。——誰かとここにいた、ような気がする。
頭の中に靄がかかっている。思い出そうとすると、霧の向こうに手を伸ばすように、指先がすり抜けていく。輪郭があるのに、掴めない。ヒカルは額を押さえ、眉間に皺を寄せた。
「……薪を拾いに来て、それで……」
それから先が、ない。ぽっかりと切り取られたように、記憶が欠けている。
ヒカルはふらふらと立ち上がった。足元がおぼつかない。頭の芯がぼんやりと霞んでいる。壁に手をつき、一歩ずつ洞窟の出口へ向かう。
朝の光が目に染みた。
森を見渡す。木々は雨上がりの清涼な空気に包まれ、何の変哲もない朝の風景が広がっている。どこにも、「誰か」がいた痕跡はない。
それなのに——胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような喪失感があった。
誰かと笑っていた。誰かの手を握っていた。温かかった。守ると——言った気がする。
けれど、その「誰か」の顔が、どうしても思い出せない。
ヒカルは自分の右手を見つめた。泥だらけの掌。何も握っていない。なのに、ここに誰かの手があったような感触だけが、消えずに残っている。
「……何だろう、これ」
胸に手を当てる。心臓は普通に動いている。身体のどこも痛くない。なのに、何かを失くした後のような——名前のつかない寂しさだけが、ずっとそこにあった。
「……いけない、急がないと」
頭を振った。曖昧な思考を振り切るように、洞窟を飛び出す。
「教団の訓練所に戻らなきゃ。カインさんにまた怒られる」
朝露に濡れた草を蹴り、森の小道を駆け始めた。自分の上着が一部破けていることにも、右手の掌に残る微かな温もりの正体にも、気づかぬまま。
走りながら、一度だけ振り返った。
森は静かだった。朝霧の中に、洞窟の入り口がぽつんと口を開けている。何かに呼び止められたような気がして立ち止まったが——振り返った先には、誰もいなかった。
「……気のせいか」
ヒカルは前を向き、再び走り出した。
思い出せない空白の胸の奥に、雨の日の紅い残像だけが、疼くような既視感となって刻まれていた。
名前もない。顔もない。それなのに、どうしようもなく——温かい。
二人の運命の和音は、この不完全な忘却から始まったのだ。
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