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第二話:不完全な封印と、紅い執着の芽生え(前編)

ー/ー



 深い森の洞窟。天井から雫が滴り、水たまりに小さな波紋を刻んでいる。外ではまだ雨が木の葉を叩いていたが、洞窟の奥まで吹き込む風はもう弱まり、ヒカルが集めてきた枯れ枝の焚き火が、岩壁に二つの影を揺らしていた。

 その温もりに——あるいは、寄り添う小さな肩の体温に、レヴィアの震えはいつしか止まっていた。

「……ふん、案外器用なのね、貴様」

 レヴィアは、ヒカルが自分の服を裂いて巻いてくれた紅い布をまじまじと見つめた。指先でそっと触れる。痛みはまだある。けれど、さっきまでの焼けるような熱は嘘のように引いていた。

「我の傷、もう熱を持っていないわ」
「よかった」

 ヒカルは心底安堵した顔で息をついた。焚き火の薪を突きながら、照れくさそうに頭を掻く。

「僕はまだ修行中の身だから、これくらいしかできないけど」

 そこでヒカルはふと手を止め、焚き火越しにレヴィアを見た。炎に照らされた紅蓮の髪と黄金の瞳。雨に濡れたドレスは泥だらけだったが、それでも——いや、だからこそ、少年の目にはどうしようもなく眩しく映った。

「……でも、レヴィアは本当にお伽話のお姫様みたいだね。髪も瞳も宝石みたいで、すごく……可愛いよ」

 言葉が洞窟の空気に溶けた。一拍の沈黙。

「——っ!?」

 レヴィアの黄金の瞳が限界まで見開かれた。次の瞬間、首筋から耳の先まで、火を吹くように紅く染まる。

「な、な、何を言っているのよ!」

 竜の国では「美しい」と褒められるのは儀礼的な日常だった。家臣が畏まった顔で述べる定型句。だが——年下の少年に焚き火の向こうから真っ直ぐ見つめられ、あまつさえ「可愛い」などと言われたのは生まれて初めてだった。心臓がうるさい。その理由が分からないことが、余計に腹立たしい。

「良いこと、ヒカル!」

 レヴィアは膝を立て、人差し指をヒカルの鼻先に突きつけた。

「我は貴様より二つも年上なのよ? 年上のお姉様に対して、レディに対して、そのような……その、馴れ馴れしい態度は感心しないのだわ! もっと我を敬いなさい!」
「あはは、ごめんね」

 ヒカルは悪びれもせず笑った。屈託のないその笑顔が、レヴィアの胸をまた妙な具合に突く。

「でも、レヴィアが僕を助けてくれた時の火花、格好良かったよ」
「当然だわ……」

 視線を逸らす。突きつけていた指がそっと引っ込んだ。

「……ねえ、僕もお姉さんみたいな強い魔法使いになれるかな?」

 ヒカルの声が、少しだけ真剣になった。膝を抱え、焚き火を見つめる横顔に、幼いなりの決意が滲んでいた。

「もしなれたら、今度は僕が君を守れるかもしれない」

 守る。その言葉に、レヴィアの心臓がひときわ大きく跳ねた。

「も、もちろんだわ!」

 立ち上がろうとして、傷が痛んだ。それを悟られまいと膝に力を込め、胸を張る。

「我が見込んだ男なのだから、貴様も精進しなさい」

 偉そうに腕を組む。けれど、その声はすぐに小さくなった。

「……でも、守るだなんて、百年早いのよ」

 視線が、焚き火の炎に落ちる。

「困ったことがあったら、この我がいつでも助けてあげる……」

 必死にお姉さんぶって言い切った。しかし、その繋いだままの左手を——レヴィアは自分からは離そうとしなかった。

 ヒカルの手は小さくて、骨ばっていて、薪を割るときにできた豆がごつごつしていた。それでも、その掌から伝わる温もりが、レヴィアの中に奇妙な、そして強烈な自覚を芽生えさせていく。「守られる側」ではなく——「守る側」としての。

 お互いの素性は知らない。けれど、二人の間には名前以上の「何か」が、焚き火の揺らめきのように確かに灯り始めていた。



 しかし、その平穏は——長くは続かなかった。

 地鳴りのような魔力の波動が洞窟を揺らし、天井から砂礫がぱらぱらと落ちてくる。焚き火が一瞬で圧し潰されたように消え、二人の間に闇が滑り込んだ。

「——レヴィア様ッ!!」

 洞窟の入り口。逆光を背負い、抜剣した姿で立つ影。十五歳の騎士フレアだった。鎧の各所に泥がこびりつき、マントは枝に引き裂かれてぼろぼろになっている。眠らずに森を駆け回り続けたのだろう。焦燥と安堵と、そして怒りがない交ぜになった双眸が、洞窟の闇を射抜いた。

「フレア!」

 レヴィアは思わず叫んだ。身体が勝手に動き、立ち上がって駆け寄ろうとする——その足が、止まった。

 フレアの放つ殺気が、ヒカルに向けられていた。

 空気が凍りついた。焚き火の残り火すら、怯えたように明滅する。

「そこを退いてください、レヴィア様」

 フレアの声は低く、静かだった。静かであるがゆえに、その底にある激情が際立つ。

「その人間は——我が主の恥辱を知る者として、ここで斬らねばなりません」

 剣先が、真っ直ぐにヒカルの胸元へ向けられた。

 八歳のヒカルは、竜の騎士が放つ凄まじい威圧感に全身を貫かれていた。足が震え、顔から血の気が引いていく。呼吸すら忘れたように身体が硬直した。洞窟の岩壁が迫ってくるような圧迫感。逃げ場はない。

 それでも——ヒカルの茶色の瞳は、フレアから逸れなかった。

「……ダメだ」

 声が震えていた。膝が笑っていた。それでも、ヒカルは一歩前へ踏み出した。

「下がって、レヴィア!」

 小さな背中がレヴィアの前に立ちはだかる。両腕を広げ、壁になるように。

 フレアの目が僅かに細まった。

「なんだ、その目は!?」

 剣を構えたまま、値踏みするようにヒカルを見据える。

「人間の子供よ。お前は自分が誰を相手にしているか、分かっているのか」
「知らないよ!」

 ヒカルは叫んだ。声は裏返り、涙声に近かった。それでも叫んだ。

「君が誰だって関係ない! レヴィアは怪我をしてるんだ! やっと……やっと眠れたところなんだ!」

 腰の護身用の短剣を抜く。刃渡りは掌ほどしかない。フレアの長剣と並べれば、玩具のようなものだった。それを両手で握り締め、ヒカルは歯を食いしばって騎士を睨み上げた。

「乱暴するなら——僕が相手だ!」

 大人と子供。竜の騎士と人間の少年。勝負にすらならない。命を差し出すに等しい行為だと、ヒカル自身が一番よく分かっている。握った短剣がかちかちと鳴っているのは、刃が古いからではない。

 ——それでも引かない。

 その瞳に、フレアは一瞬、たじろいだ。剣先が、ほんの僅かに揺れる。

「待ちなさい、フレア!」

 レヴィアがヒカルの横をすり抜け、フレアの剣腕にしがみついた。全体重をかけて、引き下ろす。

「この者は我の恩人だわ! 剣を収めなさい!」
「姫様、しかし——」
「収めなさいと言っているのよ!」

 声が洞窟に反響した。レヴィアは必死にフレアの腕に縋りつきながら、けれどその目は潤んでいた。厳格な騎士としての忠義も、妹のように慕ってくれていたことも分かっている。自分を見失うほど探し回ってくれたことも。だからこそ——。

「……お願い、フレア」

 声が急にしぼんだ。肩が震える。

「この子だけは……」

 フレアの剣を握る手から、ゆっくりと力が抜けていった。長い沈黙の後、鍔鳴りの音とともに剣が鞘に収まる。

「……今回だけです」

 フレアはレヴィアから視線を外し、壁を睨んだ。苦々しげに奥歯を噛む。

「ですが姫様、一つだけ約束していただきます。人間界に足を踏み入れたことは——墓場まで他言無用です。良いですね?」
「わ、分かっているわよ……そんなこと……」

 レヴィアは俯いたまま、小さく頷いた。繋いでいたヒカルの手を——まだ離せずにいた。

 剣は収まった。けれど、フレアの瞳に宿る厳しさは消えていなかった。

「姫様。お分かりですね」

 フレアは腕を組み、洞窟の壁に背を預けた。視線はヒカルに注がれたまま——いや、正確には、レヴィアとヒカルの繋がれた手に。

「この少年を生かすということは、竜族の秘密を人間に握られるということです。姫様が結界を破って人間界に出たこと。墜落して傷を負い、人間の子供に助けられたこと。これが陛下の耳に入れば——」
「わ、分かっているわよ!」

 レヴィアが遮った。声が尖る。だが、その鋭さは怒りではなく、恐怖を押し殺すためのものだった。父王の怒り。それが何を意味するか、十歳の少女にも想像はついた。

「だから……だから、どうすればいいの、フレア」

 フレアは長い息を吐いた。組んでいた腕を解き、右手をゆっくりとヒカルへ向ける。

「方法は一つだけあります」

 その指先に、淡い光が灯った。焚き火とも炎ともちがう、冷たく青白い燐光。

「記憶の封印。この少年の中から、今夜の記録を——姫様に関する全ての記憶を消し去ります」

 レヴィアの息が止まった。

 記憶を消す。つまり——ヒカルの中にいる「自分」を、殺すということだ。

 雨の中で駆け寄ってくれたこと。「大丈夫?」と言ってくれたこと。上着を裂いて包帯を作ってくれたこと。お伽話のお姫様みたいだと笑ってくれたこと。守ると——言ってくれたこと。

 その全てが、消える。

「……他に、方法はないの」
「ありません」

 フレアの声は、静かだが揺るぎなかった。

「これが——最善の情けです。命を奪う代わりに、記憶だけを」

 レヴィアは唇を噛んだ。視線がヒカルに向かう。フレアとの対峙で気力を使い果たしたのか、少年は岩壁にもたれて荒い呼吸を繰り返していた。それでも——その茶色の瞳だけは、真っ直ぐにレヴィアを見つめていた。

 何かを言おうとするように、小さな唇が動く。

「レヴィア——」

 その声を最後まで聞くことを、レヴィアは恐れた。聞いてしまえば、もう決断できなくなる。

「……やって、フレア」

 絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。

 フレアが頷き、ヒカルの前に片膝をつく。青白い光を纏った手が、少年の額へとゆっくり伸びていく。

 ——その時。

「待って」

 ヒカルが、最後の力を振り絞るように顔を上げた。

 フレアの手ではなく、その背後に立つレヴィアを見ていた。泥だらけの頬。雨と汗で貼りついた茶色の髪。それでもその瞳は——出会った時と変わらず、驚くほど澄んでいた。

「記憶を消せば——レヴィアは、叱られずに済むの?」

 洞窟が、静まり返った。

 雫が水たまりに落ちる音だけが、永遠のように長い沈黙を刻んでいた。

 レヴィアは答えられなかった。頷くことも、首を振ることもできなかった。ただ、両手の拳を握り締めた。爪が掌に食い込み、じわりと熱いものが滲む。

 ヒカルは——微笑んだ。

 口元が震えていた。目尻に光るものがあった。それでも、笑った。

「……いいよ」




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 その温もりに——あるいは、寄り添う小さな肩の体温に、レヴィアの震えはいつしか止まっていた。
「……ふん、案外器用なのね、貴様」
 レヴィアは、ヒカルが自分の服を裂いて巻いてくれた紅い布をまじまじと見つめた。指先でそっと触れる。痛みはまだある。けれど、さっきまでの焼けるような熱は嘘のように引いていた。
「我の傷、もう熱を持っていないわ」
「よかった」
 ヒカルは心底安堵した顔で息をついた。焚き火の薪を突きながら、照れくさそうに頭を掻く。
「僕はまだ修行中の身だから、これくらいしかできないけど」
 そこでヒカルはふと手を止め、焚き火越しにレヴィアを見た。炎に照らされた紅蓮の髪と黄金の瞳。雨に濡れたドレスは泥だらけだったが、それでも——いや、だからこそ、少年の目にはどうしようもなく眩しく映った。
「……でも、レヴィアは本当にお伽話のお姫様みたいだね。髪も瞳も宝石みたいで、すごく……可愛いよ」
 言葉が洞窟の空気に溶けた。一拍の沈黙。
「——っ!?」
 レヴィアの黄金の瞳が限界まで見開かれた。次の瞬間、首筋から耳の先まで、火を吹くように紅く染まる。
「な、な、何を言っているのよ!」
 竜の国では「美しい」と褒められるのは儀礼的な日常だった。家臣が畏まった顔で述べる定型句。だが——年下の少年に焚き火の向こうから真っ直ぐ見つめられ、あまつさえ「可愛い」などと言われたのは生まれて初めてだった。心臓がうるさい。その理由が分からないことが、余計に腹立たしい。
「良いこと、ヒカル!」
 レヴィアは膝を立て、人差し指をヒカルの鼻先に突きつけた。
「我は貴様より二つも年上なのよ? 年上のお姉様に対して、レディに対して、そのような……その、馴れ馴れしい態度は感心しないのだわ! もっと我を敬いなさい!」
「あはは、ごめんね」
 ヒカルは悪びれもせず笑った。屈託のないその笑顔が、レヴィアの胸をまた妙な具合に突く。
「でも、レヴィアが僕を助けてくれた時の火花、格好良かったよ」
「当然だわ……」
 視線を逸らす。突きつけていた指がそっと引っ込んだ。
「……ねえ、僕もお姉さんみたいな強い魔法使いになれるかな?」
 ヒカルの声が、少しだけ真剣になった。膝を抱え、焚き火を見つめる横顔に、幼いなりの決意が滲んでいた。
「もしなれたら、今度は僕が君を守れるかもしれない」
 守る。その言葉に、レヴィアの心臓がひときわ大きく跳ねた。
「も、もちろんだわ!」
 立ち上がろうとして、傷が痛んだ。それを悟られまいと膝に力を込め、胸を張る。
「我が見込んだ男なのだから、貴様も精進しなさい」
 偉そうに腕を組む。けれど、その声はすぐに小さくなった。
「……でも、守るだなんて、百年早いのよ」
 視線が、焚き火の炎に落ちる。
「困ったことがあったら、この我がいつでも助けてあげる……」
 必死にお姉さんぶって言い切った。しかし、その繋いだままの左手を——レヴィアは自分からは離そうとしなかった。
 ヒカルの手は小さくて、骨ばっていて、薪を割るときにできた豆がごつごつしていた。それでも、その掌から伝わる温もりが、レヴィアの中に奇妙な、そして強烈な自覚を芽生えさせていく。「守られる側」ではなく——「守る側」としての。
 お互いの素性は知らない。けれど、二人の間には名前以上の「何か」が、焚き火の揺らめきのように確かに灯り始めていた。
 しかし、その平穏は——長くは続かなかった。
 地鳴りのような魔力の波動が洞窟を揺らし、天井から砂礫がぱらぱらと落ちてくる。焚き火が一瞬で圧し潰されたように消え、二人の間に闇が滑り込んだ。
「——レヴィア様ッ!!」
 洞窟の入り口。逆光を背負い、抜剣した姿で立つ影。十五歳の騎士フレアだった。鎧の各所に泥がこびりつき、マントは枝に引き裂かれてぼろぼろになっている。眠らずに森を駆け回り続けたのだろう。焦燥と安堵と、そして怒りがない交ぜになった双眸が、洞窟の闇を射抜いた。
「フレア!」
 レヴィアは思わず叫んだ。身体が勝手に動き、立ち上がって駆け寄ろうとする——その足が、止まった。
 フレアの放つ殺気が、ヒカルに向けられていた。
 空気が凍りついた。焚き火の残り火すら、怯えたように明滅する。
「そこを退いてください、レヴィア様」
 フレアの声は低く、静かだった。静かであるがゆえに、その底にある激情が際立つ。
「その人間は——我が主の恥辱を知る者として、ここで斬らねばなりません」
 剣先が、真っ直ぐにヒカルの胸元へ向けられた。
 八歳のヒカルは、竜の騎士が放つ凄まじい威圧感に全身を貫かれていた。足が震え、顔から血の気が引いていく。呼吸すら忘れたように身体が硬直した。洞窟の岩壁が迫ってくるような圧迫感。逃げ場はない。
 それでも——ヒカルの茶色の瞳は、フレアから逸れなかった。
「……ダメだ」
 声が震えていた。膝が笑っていた。それでも、ヒカルは一歩前へ踏み出した。
「下がって、レヴィア!」
 小さな背中がレヴィアの前に立ちはだかる。両腕を広げ、壁になるように。
 フレアの目が僅かに細まった。
「なんだ、その目は!?」
 剣を構えたまま、値踏みするようにヒカルを見据える。
「人間の子供よ。お前は自分が誰を相手にしているか、分かっているのか」
「知らないよ!」
 ヒカルは叫んだ。声は裏返り、涙声に近かった。それでも叫んだ。
「君が誰だって関係ない! レヴィアは怪我をしてるんだ! やっと……やっと眠れたところなんだ!」
 腰の護身用の短剣を抜く。刃渡りは掌ほどしかない。フレアの長剣と並べれば、玩具のようなものだった。それを両手で握り締め、ヒカルは歯を食いしばって騎士を睨み上げた。
「乱暴するなら——僕が相手だ!」
 大人と子供。竜の騎士と人間の少年。勝負にすらならない。命を差し出すに等しい行為だと、ヒカル自身が一番よく分かっている。握った短剣がかちかちと鳴っているのは、刃が古いからではない。
 ——それでも引かない。
 その瞳に、フレアは一瞬、たじろいだ。剣先が、ほんの僅かに揺れる。
「待ちなさい、フレア!」
 レヴィアがヒカルの横をすり抜け、フレアの剣腕にしがみついた。全体重をかけて、引き下ろす。
「この者は我の恩人だわ! 剣を収めなさい!」
「姫様、しかし——」
「収めなさいと言っているのよ!」
 声が洞窟に反響した。レヴィアは必死にフレアの腕に縋りつきながら、けれどその目は潤んでいた。厳格な騎士としての忠義も、妹のように慕ってくれていたことも分かっている。自分を見失うほど探し回ってくれたことも。だからこそ——。
「……お願い、フレア」
 声が急にしぼんだ。肩が震える。
「この子だけは……」
 フレアの剣を握る手から、ゆっくりと力が抜けていった。長い沈黙の後、鍔鳴りの音とともに剣が鞘に収まる。
「……今回だけです」
 フレアはレヴィアから視線を外し、壁を睨んだ。苦々しげに奥歯を噛む。
「ですが姫様、一つだけ約束していただきます。人間界に足を踏み入れたことは——墓場まで他言無用です。良いですね?」
「わ、分かっているわよ……そんなこと……」
 レヴィアは俯いたまま、小さく頷いた。繋いでいたヒカルの手を——まだ離せずにいた。
 剣は収まった。けれど、フレアの瞳に宿る厳しさは消えていなかった。
「姫様。お分かりですね」
 フレアは腕を組み、洞窟の壁に背を預けた。視線はヒカルに注がれたまま——いや、正確には、レヴィアとヒカルの繋がれた手に。
「この少年を生かすということは、竜族の秘密を人間に握られるということです。姫様が結界を破って人間界に出たこと。墜落して傷を負い、人間の子供に助けられたこと。これが陛下の耳に入れば——」
「わ、分かっているわよ!」
 レヴィアが遮った。声が尖る。だが、その鋭さは怒りではなく、恐怖を押し殺すためのものだった。父王の怒り。それが何を意味するか、十歳の少女にも想像はついた。
「だから……だから、どうすればいいの、フレア」
 フレアは長い息を吐いた。組んでいた腕を解き、右手をゆっくりとヒカルへ向ける。
「方法は一つだけあります」
 その指先に、淡い光が灯った。焚き火とも炎ともちがう、冷たく青白い燐光。
「記憶の封印。この少年の中から、今夜の記録を——姫様に関する全ての記憶を消し去ります」
 レヴィアの息が止まった。
 記憶を消す。つまり——ヒカルの中にいる「自分」を、殺すということだ。
 雨の中で駆け寄ってくれたこと。「大丈夫?」と言ってくれたこと。上着を裂いて包帯を作ってくれたこと。お伽話のお姫様みたいだと笑ってくれたこと。守ると——言ってくれたこと。
 その全てが、消える。
「……他に、方法はないの」
「ありません」
 フレアの声は、静かだが揺るぎなかった。
「これが——最善の情けです。命を奪う代わりに、記憶だけを」
 レヴィアは唇を噛んだ。視線がヒカルに向かう。フレアとの対峙で気力を使い果たしたのか、少年は岩壁にもたれて荒い呼吸を繰り返していた。それでも——その茶色の瞳だけは、真っ直ぐにレヴィアを見つめていた。
 何かを言おうとするように、小さな唇が動く。
「レヴィア——」
 その声を最後まで聞くことを、レヴィアは恐れた。聞いてしまえば、もう決断できなくなる。
「……やって、フレア」
 絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
 フレアが頷き、ヒカルの前に片膝をつく。青白い光を纏った手が、少年の額へとゆっくり伸びていく。
 ——その時。
「待って」
 ヒカルが、最後の力を振り絞るように顔を上げた。
 フレアの手ではなく、その背後に立つレヴィアを見ていた。泥だらけの頬。雨と汗で貼りついた茶色の髪。それでもその瞳は——出会った時と変わらず、驚くほど澄んでいた。
「記憶を消せば——レヴィアは、叱られずに済むの?」
 洞窟が、静まり返った。
 雫が水たまりに落ちる音だけが、永遠のように長い沈黙を刻んでいた。
 レヴィアは答えられなかった。頷くことも、首を振ることもできなかった。ただ、両手の拳を握り締めた。爪が掌に食い込み、じわりと熱いものが滲む。
 ヒカルは——微笑んだ。
 口元が震えていた。目尻に光るものがあった。それでも、笑った。
「……いいよ」